日本史人物解説

蘇我馬子についてわかりやすく解説

このページでは、蘇我馬子(そがのうまこ)について簡潔にわかりやすく解説します。

蘇我馬子について簡単に解説

蘇我馬子について簡単に解説します。
蘇我馬子が活躍した時代は飛鳥時代です。
生誕年についてはわかっていません。
死没したのは626年です。

蘇我稲目の子として生まれ、敏達天皇のもとで大臣になります。
587年、崇仏論争で対立していた排仏派の物部守屋を倒し(丁未の乱)、蘇我氏の権力を確立します。
592年、崇峻天皇を暗殺して推古天皇を擁立。
摂政の聖徳太子(厩戸皇子)とともに政治運営にあたり、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進めました。
また、遣隋使を派遣して隋の文化や学問を輸入しました。

蘇我馬子の事業としては、飛鳥寺の建立や、聖徳太子とともに行ったといわれる『天皇記』『国記』の編纂などがあります。

蘇我馬子の墓は、明日香村にある石舞台古墳であるといわれています。

受験生がおさえておきたいポイント

大学受験で日本史を勉強している受験生へ、おさえておきたいポイントをピックアップします。
受験日本史での「蘇我馬子」の重要度は★★★★★です。(5段階中の5)
崇仏論争の概要や、蘇我氏の権力確立の流れについておさえておくと良いでしょう。
蘇我馬子が建立した飛鳥寺も、飛鳥文化として重要です。

  • 蘇我馬子は大臣(おおおみ)。
  • 物部守屋(物部氏)を倒し、蘇我氏の権力を確立した。
  • 崇峻天皇を暗殺した。暗殺を実行したのは東漢駒(やまとのあやのこま)。
  • 崇峻天皇暗殺後に推古天皇を擁立した。
  • 推古天皇の摂政の聖徳太子(厩戸皇子)とともに国政を担当。
  • 飛鳥寺を建立。
  • 聖徳太子とともに天皇記・国記を編纂。
  • 蘇我馬子の墓は石舞台古墳。

蘇我馬子の簡易年表

572年
敏達天皇のもとで大臣になる
587年
物部守屋と戦い、勝利する
596年
飛鳥寺建立
626年
死去

蘇我馬子のエピソード・逸話

物部守屋と仲が悪かったことが有名です。
敏達天皇が崩御し、葬儀が行われるなか、蘇我馬子と物部守屋はお互いに罵倒しあったといわれています。

物部守屋は、長い刀を差して弔辞を読む小柄な蘇我馬子に対して「まるで矢に射られた雀のようだ」と言い、
蘇我馬子は、緊張で体を震わせながら弔辞を読む物部守屋に対して「鈴を付けたらさぞ面白かろう」と言ったと伝えられています。

蘇我馬子の子孫

子に蘇我蝦夷。
孫に蘇我入鹿がいます。
また、蘇我倉山田石川麻呂も蘇我馬子の孫にあたります。

蘇我馬子の史跡など

奈良県明日香村の石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と伝えられています。

以上、蘇我馬子について解説しました。
最後までお読みいただきありがとうございます!

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