蘇我馬子の強大な権力のもと擁立されて、そして暗殺された崇峻天皇。
この記事では、崇峻天皇が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯、蘇我馬子との対立と暗殺の理由などについてわかりやすく紹介します。
崇峻天皇は何をした人?
崇峻天皇の活躍した時代は古墳時代~飛鳥時代の頃です。
崇峻天皇は欽明天皇の皇子として生まれ、皇位継承者となります。
欽明天皇の死後、用明天皇が即位しますが短命に終わり、蘇我馬子に擁立される形で崇峻天皇が即位します。
しかし、即位後は蘇我馬子と対立することになり、蘇我馬子の手先の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されます。
蘇我氏の絶大な権力を象徴する人物として知られています。
崇峻天皇のプロフィール
名前 | 崇峻天皇(すしゅんてんのう) |
別名 | 長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと) |
出身地 | 大和国 |
生年月日 | 553年? |
死亡年月日 | 592年12月12日? |
享年 | 39歳? |
活躍した時代 | 古墳時代~飛鳥時代 |
家族 | 欽明天皇(父)、蘇我稲目(祖父)、蘇我馬子(おじ) |
崇峻天皇のかんたん年表
553年 | 欽明天皇の皇子として生誕 |
587年 | 第32代天皇として即位 |
589年 | 東山道・東海道・北陸道に使者を派遣 |
591年 | 任那復興軍の派遣 |
591年 | 猪を献上された |
592年 | 暗殺により死去 |
【崇峻天皇はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
崇峻天皇は西暦553年頃、欽明天皇の子として生まれました。
母親は蘇我稲目の娘である小姉君です。
崇峻天皇は皇子時代は、泊瀬部(はつせべ)皇子と名乗っていました。
蘇我馬子に擁立され即位
欽明天皇の次は用明天皇が即位しますが、短命に終わります。
用明天皇の後継者としては、蘇我氏が推す泊瀬部皇子(崇峻天皇)と、物部氏の推す穴穂部皇子がいました。
しかし、穴穂部皇子は蘇我氏と物部氏の権力争いに巻き込まれる形で蘇我馬子によって殺害されてしまいます。
その後、蘇我馬子は物部守屋との戦いに勝利し、絶対的な権力を手にすると、自分が推薦する泊瀬部皇子を即位させます。
泊瀬部皇子は第32代の天皇として即位し、崇峻天皇となりました。
蘇我馬子との対立
蘇我馬子に擁立される形で即位した崇峻天皇ですが、即位後は蘇我馬子と対立していきます。
その契機ともいえるのが、崇峻天皇は即位後、これまでの天皇が代々住んでいた場所ではなく、倉梯という山間部に宮を造営しました。
倉梯は現在の奈良県桜井市です。
崇峻天皇が意識的に蘇我馬子と距離を取ろうとしていたのかどうかはわかりませんが、結果的に崇峻天皇と蘇我馬子との間には距離ができていくことになります。
対立の理由
蘇我馬子との対立が深まった理由には、その他にもいくつか理由があるといわれています。
真実はわかりませんが、いくつかの説を紹介します。
1つ目は、崇峻天皇が大伴氏の一族の女性と婚姻関係を結び、皇子が生まれたことです。
自分の一族の娘を天皇に嫁がせて血縁関係をつくるというのが、この時代の権力を確立するパターンですから、蘇我馬子としてはおもしろくなかったでしょう。
2つ目は、崇峻天皇が仏教の受容に賛同していなかったということもいわれています。
崇仏論争として、蘇我馬子の父の蘇我稲目の時代から、物部氏との対立の火種となっていた仏教受容問題。
その仏教受容について、天皇が賛同の姿勢を示さなかったなら、蘇我氏としても困ったと思います。
3つ目は、崇峻天皇が積極的に地方支配を進めようとしたことと言われています。
崇峻天皇は、東山道・東海道・北陸道に使者を派遣し、国境の調査を行いました。
地方支配を推進しようという考えがあったのでしょう。
このことが、蘇我氏のみならず地方豪族の反発も招いたといわれています。
4つ目は、任那復興軍の派遣を行ったことです。
591年、任那に兵を送ろうと、北九州に大軍を集結させました。
任那への派兵は欽明天皇以来の悲願だったともいわれますが、当時の時勢を見ると、中国では隋が国家統一を成し遂げていたりと、朝鮮半島への派兵は時勢に合わなくなっていました。
このことも、蘇我氏をはじめとした豪族たちの反発を招いたといわれています。
暗殺とその後
このようにいくつかのできごとを経て、崇峻天皇と蘇我馬子の対立は深まっていきます。
前項で紹介した崇峻天皇と蘇我馬子の対立が深まった理由を見ると、崇峻天皇は無能であったとかそういうことではなさそうな気がします。
むしろ、蘇我馬子からしたら、何をしでかすかわからない危険人物、自分の思い通りにならない天皇という感じだったのではないでしょうか。
蘇我馬子が崇峻天皇暗殺を決意したのには、あるエピソードがあります。
591年、崇峻天皇のものに猪が献上されました。
崇峻天皇は刀を抜いて猪を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と言いました。
これを聞き伝えられた蘇我馬子は、危機感を覚え、配下である東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺を命じたのでした。
崇峻天皇の死後は、推古天皇が日本史上初の女帝として即位することになりました。
この一連のできごとによって、天皇の命をも左右できる絶大な権力が蘇我馬子にあるということが明白になり、ますます権力を強めていくことになるのです。
崇峻天皇のエピソードや逸話
崇峻天皇は、日本の歴史のなかで、臣下によって暗殺されたと明記されている唯一の天皇です。
絶大な権力を握っていたとしても、臣下である蘇我馬子が天皇を暗殺したということは、王権の存立の根幹に関わる重要な問題であったと思われます。
しかし、そのような異常事態であるにも関わらず、崇峻天皇暗殺後にそれほどの動揺は生じていません。
このことから、崇峻天皇暗殺は、蘇我馬子の個人的な行動ではなく、多くの皇族や豪族の同意を得た上でのクーデターであったという可能性もあるのでした。
崇峻天皇と聖徳太子の関係は?
聖徳太子は崇峻天皇の甥にあたります。
崇峻天皇の異母兄である用明天皇の皇子として生まれたのが聖徳太子です。
崇峻天皇が即位した587年には聖徳太子は14歳。
崇峻天皇が亡くなった592年には聖徳太子は19歳でした。
崇峻天皇と推古天皇の関係は?
推古天皇は崇峻天皇の異母姉にあたります。
2人とも父親は欽明天皇ですが、崇峻天皇の母は蘇我稲目の娘の小姉君であり、推古天皇の母は蘇我稲目の娘の堅塩媛です。
崇峻天皇の死後、推古天皇が即位します。
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おわりに
崇峻天皇について、何をした人なのかということや、どういう人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。