推古天皇は何をした人かわかりやすく紹介!生い立ちから摂政・聖徳太子との関係まで

推古天皇

日本史上初の女性天皇として知られている推古天皇。

この記事では、推古天皇が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯、摂政として推古天皇を支えた聖徳太子との関係などについてわかりやすく紹介します。

目次

推古天皇は何をした人?

推古天皇の活躍した時代は飛鳥時代で、推古天皇は日本で最初の女性天皇です。

推古天皇は摂政の聖徳太子や蘇我馬子とともにさまざまな開明的な政策を実行しました。

そのことによって、飛鳥時代の政治や文化は隆盛をきわめることになります。

推古天皇の生い立ち

推古天皇は西暦554年、第29代天皇の欽明天皇の娘として生まれました。
『日本書紀』では推古天皇のことを「姿色端麗 進止軌制」と表現しています。
現代語に意訳すると、「容姿端麗できちっとしている」というようなニュアンスです。

推古天皇はもともとの名前を額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といいました。
18歳のとき、異母兄にあたる敏達天皇(びだつてんのう)と結婚します。

ちなみに敏達天皇と額田部皇女は16歳差だったといわれています。

額田部皇女は敏達天皇との間に2男5女の7人の子どもをもうけました。

しかし、額田部皇女が34歳のとき、敏達天皇が亡くなってしまいます。

推古天皇として初の女性天皇に

敏達天皇の死後、皇位は用明天皇、崇峻天皇と続きますが、どちらも短命に終わります。

※崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺されました。

当時、政権内で絶大な力を持っていたのは、物部氏との戦いに勝った蘇我氏の蘇我馬子でした。

当時の権力者は、自分と血縁関係がある皇位継承者を天皇として擁立することで、自分の権力の裏付けをして力を確立するというのがパターンです。

そこで蘇我馬子が目をつけたのが、自分と血縁関係にある額田部皇女でした。
(推古天皇は蘇我馬子の姪にあたります)

そういう流れがあり、額田部皇女は推古天皇として即位します。
日本の歴史における初の女帝、女性天皇です。

このとき推古天皇は39歳でした。

ちなみに、推古天皇の即位は、最初は中継ぎの予定だったという説もあります。

推古天皇は自分の子である竹田皇子が天皇として即位することを願っていて、蘇我氏もそれを推していました。

しかし、蘇我氏の反対勢力によって竹田皇子の即位が難しく、反対勢力を押さえ込むまでの中継ぎとして推古天皇が即位したというのです。

しかし、願いもむなしく、竹田皇子は亡くなってしまいます。

結果的に推古天皇は75歳まで長生きし、長期政権として飛鳥時代の政治・文化の隆盛を築くことになるのです。

摂政・聖徳太子との関係は?

推古天皇の治世では、実際の政務は摂政である聖徳太子(厩戸皇子)が行っていました。

推古天皇は即位して早々に勅令を発して、聖徳太子を摂政に任命しています。

このとき聖徳太子は20歳でした。

推古天皇と聖徳太子の関係は、聖徳太子が推古天皇の甥にあたります。

聖徳太子を摂政とする理由のひとつとしては、自分が女性であるということもあったようです。

推古天皇は「朕は女人なり。性、物を解へず。宜しく天下の政は、皆太子(聖徳太子)に附くべし」と言っています。

ざっくりと現代語に意訳すると、「自分は女性であるので、政治や実務には疎い。そのため政務に関しては聖徳太子に一任するので、聖徳太子に従うように」という感じです。

ただ、聖徳太子を摂政とした理由は他にもあり、一番大きな理由としては、蘇我氏との関係が深いことです。

血縁関係の味方で政権を固め、さまざまな画期的な政策を推進する。
推古天皇と聖徳太子と蘇我馬子の政権では、その方式がとてもうまくいったのでした。

推古天皇の治世で行われたこと

推古天皇の治世では、摂政の聖徳太子や蘇我馬子などといった協力者とともに政権をがっちり固め、さまざまな開明的な政策を実行していきました。

たとえば、『冠位十二階』や『十七条の憲法』の制定、暦の使用、『天皇記』『国記』などの史書の編纂事業、遣隋使の派遣などです。

また、この斑鳩に法隆寺を建立するなど、飛鳥文化として、文化も花開いた時期でした。

これらの政策などの提案者・実行者は聖徳太子や蘇我馬子でしたが、推古天皇の権威がなければ、実現は難しかったでしょう。

推古天皇の生涯

聖徳太子や蘇我馬子との協力体制のもと、さまざまな政策を実行し、国力を高めることに成功した推古天皇。

ですが、即位から30年後、摂政の聖徳太子が49歳で亡くなってしまいます。

さらにその4年後、蘇我馬子も亡くなります。

政権の要ともいえる二人を失い、その2年後、即位36年で、推古天皇は75歳で亡くなります。

推古天皇は後継者を指名することはありませんでしたが、死の前日に後継者候補であった田村皇子と山背大兄王を呼び、これからの心構えを説いたといわれています。

(実子である竹田皇子は若くして亡くなってしまったので、後継者候補の2人は推古天皇の子ではありません)

推古天皇の死後、天皇としてあとを継いだのは、田村皇子で即位して舒明天皇(じょめいてんのう)となりました。

まとめ

飛鳥時代に生きた日本史上最初の女性天皇、推古天皇について、何をした人なのかということや、どういう人なのかということについてわかりやすく紹介しました。

最後までお読みくださりありがとうございます。

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