聖徳太子(厩戸皇子)は何をした人かわかりやすく紹介!死因や逸話についても

聖徳太子

飛鳥時代、推古天皇の摂政として様々な改革を行ったことで知られる聖徳太子。

この記事では、聖徳太子が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯、さらに様々な逸話や伝説についてもわかりやすく紹介します。

目次

聖徳太子は何をした人?

聖徳太子の活躍した時代は飛鳥時代です。

聖徳太子は用明天皇(ようめいてんのう)の皇子として生まれ、推古天皇(すいこてんのう)のもとで摂政となります。

聖徳太子は推古朝の摂政として、権力者である蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、冠位十二階の制や十七条の憲法、遣隋使の派遣、仏教の興隆など、様々な開明的な政策を行いました。

聖徳太子は仏教を日本に広めた聖人として、信仰の対象にもなっていることから、様々な伝説や逸話も残されています。

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聖徳太子のプロフィール

名前聖徳太子(しょうとくたいし)
別名厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、豊聡耳(とよさとみみ)
出身地大和国
生年月日574年
死亡年月日622年
享年49歳
活躍した時代飛鳥時代
家族用明天皇(父)、穴穂部間人皇女(母)、推古天皇(叔母)、蘇我馬子(大叔父)、山背大兄王(子)

聖徳太子のかんたん年表

574年生誕
587年物部守屋との戦いに参戦
593年推古天皇の摂政になる
593年四天王寺を建立
594年仏教興隆の詔
601年斑鳩宮を造営
603年冠位十二階の制
604年十七条の憲法
622年斑鳩宮にて死去
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【聖徳太子はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介

聖徳太子はどんな人?

聖徳太子は、西暦574年、用明天皇(当時は橘豊日皇子)の子として生まれました。

母親は欽明天皇(きんめいてんのう)の娘であり、蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。

聖徳太子という名前は後につけられた呼び名で、当時は厩戸皇子と呼ばれていました。

幼少期から聡明であったといわれていて、数々の逸話も残されています。

物部守屋と戦う

587年、父の用明天皇が死去します。

これをきっかけに、かねてから仏教受容問題などで対立していた蘇我馬子と物部守屋(もののべのもりや)との争いが表面化し、武力衝突へと突入します。

蘇我馬子は兵を集結し、河内国渋川郡(いまの大阪府八尾市のあたり)にあった物部守屋の拠点を攻撃します。

聖徳太子は蘇我氏との血縁関係がつよく、また仏教も尊んでいたことから、蘇我馬子の軍の一員として、物部守屋と戦います。

このとき、聖徳太子は14歳です。

物部氏は軍事を司る一族。
当初蘇我馬子は苦戦しますが、聖徳太子が四天王像を彫り祈ると、戦況が変わり勝利につながったという伝説が残っています。

聖徳太子はこのときの感謝として後に四天王寺を建立しました。

推古天皇の摂政に

物部守屋との戦いに勝利し、蘇我馬子が絶大な権力を手にしました。

その後、崇峻天皇の擁立と暗殺など、政局の変化があり、593年、崇峻天皇の次の天皇として推古天皇が即位します。

推古天皇のもと、聖徳太子は摂政になります。

このとき、聖徳太子は20歳です。

摂政とは、天皇の政務を補佐する役割です。
若干20歳で摂政に就任した聖徳太子はよほど優秀だったのでしょう。

また、次の天皇候補として期待されていたとも思われます。

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推古天皇、蘇我馬子とともに様々な政策を実行

推古天皇と蘇我馬子

推古天皇の摂政になった聖徳太子は、推古天皇や蘇我馬子とともに様々な革新的な政策を実行していきました。

聖徳太子は高句麗から来日した高僧・恵慈(えじ)に師事して学んでいました。
恵慈からは、仏教のことのみならず、大陸の政治制度や文化なども貪欲に学んだことでしょう。

聖徳太子が行おうとした政策は、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立だといわれています。

つまり、これまでは豪族たちが争い合っていたのを、天皇を中心に統一感のある国家として作り変えようとしたのです。

聖徳太子が進めた主な政策としては、仏教興隆の詔、冠位十二階の制、十七条の憲法、遣隋使の派遣などがあります。

仏教興隆の詔

594年、聖徳太子は仏教興隆の詔(みことのり)を発布します。

これによって、国として公式に仏教を推していくという意思表示をしたのです。

仏教興隆の詔では、三宝(仏・法・僧)を興隆することを推奨しており、それによって豪族たちが寺院を建立するようになりました。

このことが飛鳥文化の興隆につながるのです。

冠位十二階の制

603年には、冠位十二階の制が定められます。

冠位十二階の制は、これまでは血縁によって冠位が決められていたのが、血縁に関係なく実力によって冠位を決め、格の低い氏族の出身であっても能力次第で高い地位につけるという制度でした。

とても革新的な制度ですが、蘇我氏は特例として除外するなど、穴もありました。

冠位十二階の制は、のちの律令制へとつながっていきます。

十七条の憲法

604年には、十七条の憲法を制定しました。

十七条の憲法は、現代でいう憲法のイメージとは異なり、豪族や臣下たちへ、臣下としての心構えや道徳的な規範を示したものです。

十七条の憲法では、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しています。

遣隋使の派遣

推古天皇のもとで聖徳太子が行ったこととして、遣隋使(けんずいし)の派遣も有名です。

遣隋使は600年から614年頃までの間に、6回ほど派遣されました。

最初の遣隋使として記録に残っているのは小野妹子(おののいもこ)、最後の遣隋使は犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)です。

遣隋使派遣の理由としてはいくつか考えられますが、一つは隋と国交を結ぶことで東アジアにおける日本の立場を優位にしようとしたことが考えられます。

当時の日本は朝鮮半島の新羅と対立している状態で、聖徳太子が摂政の期間にも、朝鮮半島へ兵を複数回派遣しています。

しかし、朝鮮半島への出兵では大きな成果は得られませんでした。

そこで、朝鮮半島を飛び越えて、大国である隋と国交を結ぶことで、自国の立場を優位にしようとしたのです。

『隋書』倭国伝によると、小野妹子が派遣されたときは、隋の皇帝・煬帝に対し、「日出ずる処 (ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す、恙 (つつが)無きや云々」という国書を送ったとされています。

大国である隋と、あくまで対等の外交を行おうと尽力したのです。

隋との交流は、単に政治的な面だけでなく、学問僧や留学生(りゅうがくしょう)の派遣によって、さまざまな制度や文化を学び、日本の文化や政治の発展につながっていきます。

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後半生と最期

聖徳太子は後半生、政治の中心である飛鳥(現在の奈良県明日香村)から斑鳩宮(現在の奈良県斑鳩町)に移り住みます。

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法隆寺があるあたりだよね

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そうそう

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それからは、仏教の研究に没頭し、あまり政治には関わらなくなっていったといわれています。

その理由としては、蘇我氏の権力がますます増長していったことが、聖徳太子の理想とする政策の実現の障壁となったからではないかと推測されています。

たとえば、冠位十二階の制は、蘇我氏だけは特例として除外されていました。

真実はわかりませんが、聖徳太子が政治に嫌気がさした、あるいは蘇我氏との対立があった、などの理由が考えられます。

聖徳太子は49歳のとき、斑鳩宮で倒れ、そのまま死去しました。

死因は流行り病(はやりやまい)、つまり疫病です。
疱瘡で亡くなったといわれています。

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聖徳太子のエピソードや逸話・伝説は?

聖徳太子には多くの逸話やエピソード、伝説があります。

たとえば、聖徳太子が生まれたとき、すぐに言葉を話したという伝説があります。
また、幼少期は動物が聖徳太子の周りに集まってきて、鳥が手に止まり歌を歌ったという伝説もあります。

また、聖徳太子は予言者であったという伝説もあります。
日本書紀によると、聖徳太子はまだ実現していないことをたくさん知っていたと書かれていて、自分の死期も予言していたそうです。

また、現存はしていませんが、「未来記」という予言の書物を記していたともいわれています。

「未来記」は聖徳太子の死後、四天王寺で厳重に保管されていましたが、南北朝時代に楠木正成がこの書を目にし、自分の運命を悟ったとか…。

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ここまで来ると都市伝説みたいだね

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聖徳太子が作った地球儀というのもあって、雑誌『ムー』で取り上げられたりしたこともあるんだよ

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このように、聖徳太子に関しては、都市伝説レベルのいろんな伝説や逸話が残っています。

最近では聖徳太子は存在しなかったという説もありますね。

また、聖徳太子は多くの人の話を一度に聞き分けることができたと言われています。

10人の話を一度に聞き、全員に対して的確な返答をしたというエピソードが残っています。

このことから、めちゃくちゃ賢くて耳が良い、というような意味を持つ豊聡耳(とよさとみみ)という名前で呼ばれていたともいわれます。

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聖徳太子と仏教の関係~信仰対象としての聖徳太子

聖徳太子は仏教を受容するか否かで混乱していた時期に仏教を尊び、のちの仏教文化に大きな影響を与えました。

聖徳太子は高句麗の僧、恵慈に仏教を学び、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の3つの経典の注釈書である『三経義疏』(さんきょうのぎしょ)を記したと伝えられています。

このようなことから、のちに仏教の世界において、日本に仏教を広めた聖人として、聖徳太子自身が信仰の対象となっていきます。

これを聖徳太子信仰といいます。

本来の厩戸皇子ではなく「聖徳太子」という呼び名も、この信仰にもとづいてつけられた呼び名です。

また、信仰の対象である聖人として、様々な伝説も創られました。

馬小屋で生まれたというエピソードは、イエス・キリストを彷彿とさせますし(シルクロードを通して西洋の伝説も日本に伝わっていた)、生まれてすぐに言葉を発したとか、動物が集まってきたというエピソードはブッダを彷彿とさせます。

このように、伝説としての聖徳太子と、実際に推古天皇の摂政として政治を行った人間・厩戸皇子が混じり合って伝わっているのです。

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聖徳太子はなぜ天皇にならなかった?

聖徳太子は有力な皇位継承者であり、天皇になる可能性のある人物でした。

しかし、天皇にはなっていません。
その理由はなぜでしょう。

崇峻天皇が暗殺されたとき、皇位継承者の皇子が数人いましたが、皇位継承争いを避けるために、女性である推古天皇が即位しました。

推古天皇は当初は中継ぎとして即位したともいわれていますが、思った以上に優秀であり、しかも健康で長生きしました。

もし推古天皇が早く亡くなっていたら、聖徳太子があとを継いで即位していたと思われます。

しかし推古天皇は長生きして、聖徳太子のほうが早く亡くなってしまいました。

なので、「なぜ聖徳太子は天皇にならなかったの?」という問いに対する答えは、推古天皇が長生きしたからということになります。

また、天皇が生きているうちに皇位を譲るということも、なくはないことです。

想像ですが、もし推古天皇が在位中に、聖徳太子が積極的に天皇の座を譲るように言えば、推古天皇は譲ったかもしれません。

でもおそらく聖徳太子は積極的に天皇になろうとはしなかったのではないかと思います。

のちに斑鳩宮に移り、政治からは距離をおいたことからも想像できるように、聖徳太子は研究者肌で、政治や権力の世界にはそこまで興味がなかったのかもしれないですね。

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お札になった聖徳太子

聖徳太子のお札

聖徳太子は、日本のお札の肖像画デザインとして7回も採用されています。

これは、日本のお札のなかで最も多い回数です。

聖徳太子のお札を挙げてみると、下記のようになります。

  • 1930年の100円札
  • 1944年の100円札
  • 1945年の100円札
  • 1946年の100円札
  • 1950年の1000円札
  • 1957年の5000円札
  • 1958年の10000円札

このように何度もお札の顔として採用されたのには、聖徳太子の十七条の憲法に書かれた「和をもって貴し(たっとし)となす」という言葉が象徴するように、聖徳太子の事績が日本の文化と平和の象徴とされたのかもしれませんね。

聖徳太子が古代日本の政治や文化、教育や社会制度の発展に大きな貢献をしたことは間違いないでしょう。

ちなみに、聖徳太子のお札にはプレミアがついているものもあるようですので、もし家にある場合は調べてみてもいいかもしれません。

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おばあちゃんの家にあったような気がする

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聖徳太子の子孫は?

聖徳太子には4人の妻がいて、子どもは14人いたといわれています。

そのなかで直系の男子は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)です。

聖徳太子の死から約20年後、山背大兄王は天皇の後継者争いによって、蘇我馬子の孫である蘇我入鹿の兵によって攻められ、一族ともに自害したといわれます。

このとき、聖徳太子の直系の一族は途絶えてしまいました。

受験生のための一問一答に挑戦!

ここでは聖徳太子に関して、大学受験レベルの一問一答クイズを出題します。
ぜひ挑戦してみてくださいね!

問題文をクリックまたはタップすると、答えが表示されます。(もう一度タップすると問題文に切り替わります)

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おわりに

聖徳太子について、何をした人なのかということや、どういう人なのかということについてわかりやすく紹介しました。

最後までお読みくださりありがとうございます。

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