日本史人物解説

徳川家康は何をした人?どんな人?わかりやすく紹介!かんたん年表も

2023年5月3日

徳川家康

戦国時代に織田信長や豊臣秀吉と並ぶ三英傑として活躍し、江戸幕府を創設した徳川家康。

この記事では、徳川家康が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯をなるべく簡潔にわかりやすく紹介します。

徳川家康は何をした人?

徳川家康が活躍した時代は室町時代末期の戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期にかけてです。

徳川家康は大国に挟まれた小国である三河国岡崎の国主の子として生まれ、織田家や今川家のもとで人質として過ごす辛い幼少期を過ごしました。

大人になってからは頭角を現し、優秀な家臣団とともに、ときには大胆に、ときには慎重に、戦国時代を駆け抜けていきます。

天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、征夷大将軍となり、約260年続く江戸幕府の礎を築くことになります。

辛い幼少期を過ごした苦労人なんだね

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徳川家康のプロフィール

名前徳川家康(とくがわ いえやす)
別名竹千代(たけちよ)、松平元信(もとのぶ)、松平元康(もとやす)
出身地三河国
生年月日1542年12月26日
死亡年月日1616年4月17日
享年75歳
活躍した時代戦国時代・安土桃山時代・江戸時代
家族松平広忠(父)、於大の方(母)、徳川秀忠(子)など

徳川家康のかんたん年表

1542年松平広忠の子として岡崎で生誕
1547年織田家の人質に
1549年父・松平広忠死去。今川家の人実に
1555年元服
1560年桶狭間の戦い
1562年織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)
1563年三河一向一揆
1570年姉川の戦い
1572年三方ヶ原の戦い
1575年長篠の戦い
1582年本能寺の変、神君伊賀越え
1584年小牧・長久手の戦い
1590年関東へ移封される。江戸を本拠地に
1596年右大臣に
1598年豊臣秀吉死去
1600年関ヶ原の戦い
1603年征夷大将軍に任命。幕府を開く
1605年将軍の座を三男・秀忠に譲って引退
1614年大坂冬の陣
1615年大坂夏の陣
1616年駿府城にて死去
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【徳川家康はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介

徳川家康はどんな人?

1542年、徳川家康は、三河国岡崎城主、松平広忠(まつだいら ひろただ)の子として生まれました。
※三河国は現在の愛知県東部。三河国岡崎は現在の愛知県岡崎市です。

幼名は竹千代(たけちよ)と名乗っていました。

人質として幼少期を過ごす

家康誕生時の東海地方勢力図

竹千代が生まれた岡崎は、尾張(現在の愛知県西部)の織田家、駿河・遠江(現在の静岡県)の今川家に挟まれた弱小の国でした。

1545年、織田信長の父である織田信秀(おだ のぶひで)が三河に侵攻してきます。

松平広忠は、今川家に助けを求めますが、今川家は助けの見返りとして竹千代を人質に要求します。

竹千代は今川家の家臣である戸田康光によって、岡崎から今川家の本拠である駿府に送られるはずでしたが、このとき戸田康光が今川家を裏切ります。

竹千代は尾張に連れて行かれ、そのまま織田家の人質になってしまいます。

その2年後、岡崎では父の松平広忠が亡くなってしまいます。

この頃、織田家と今川家の間で人質交換が行われ、竹千代は今川義元(いまがわ よしもと)のもとで人質となるのです。

このように、織田家と今川家のもとを人質として転々とし、いつ殺されてもおかしくないような不遇な幼少期を過ごしました。

竹千代はそのまま今川家のもとで元服し、はじめは今川義元から「元」の字をもらい松平元信と名乗ります。
さらにその後、祖父・松平清康から「康」の字をもらい松平元康と名乗りました。

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桶狭間の戦い・独立

1560年、今川義元が尾張に侵攻し、桶狭間の戦いが起こります。

このとき松平元康は今川方の先鋒を任されており、戦場にいました。

しかし、織田信長によって今川義元が討たれてしまいます。

元康は、今川義元が討たれたという報告を聞くと退却し、混乱に乗じて故郷である岡崎城に入城します。

そして元康は今川家を裏切り、岡崎の領主として独立を果たします。

清洲同盟・三河一向一揆

1561年、今川家を裏切り独立を果たした家康は、織田信長と同盟を結びます。(清洲同盟)

この頃、徳川という姓を名乗るようになり、また、今川義元の「元」の字を返上し、家康と名乗るようになりました。

1563年、三河一向一揆が起こります。

三河一向一揆は、西三河全域で起こった一向一揆で、本證寺の僧・空誓(くうせい)が中心となりました。

三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされています。

家臣団の多くが一向宗側に付き、家康もピンチに陥りますが、なんとか鎮圧。

不安要素を取り除いた家康は、今川氏の鵜殿長照(うどの ながてる)などと戦い、三河国を統一。

戦国大名として頭角を現していきます。

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今川氏との戦い

桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、今川家の当主は今川氏真(いまがわ うじざね)になっていました。

前当主が討たれたことで国力は低下し、1568年、駿河(現在の静岡県東部)が武田信玄(たけだ しんげん)に侵攻されます。

武田信玄が駿河侵攻を開始すると、徳川家康は武田信玄と遠江(現在の静岡県西部)割譲を条件に同盟を結び、今川領に侵攻します。

この戦いの結果、今川家は滅亡。

当主の今川氏真は、この後家康の庇護のもと生きることになります。

徳川家康は遠江を支配下に置き、もともと曳馬城があった地を浜松と改名し、浜松城を築き本拠地としました。

なお、武田家臣の秋山虎繁(あきやま とらしげ)が遠江に侵攻してきたことから、徳川家と武田家との同盟は破綻。

この後は徳川家と武田家は敵対していくことになります。

金ケ崎の戦い・姉川の戦い

1570年、織田信長は北陸の朝倉義景(あさくら よしかげ)、浅井長政(あざい ながまさ)と戦います。(金ケ崎の戦い、姉川の戦い)

この戦いにおいて、徳川家康は織田信長を助け、浅井・朝倉軍を撃破し活躍します。

武田氏との戦い~三方ヶ原の戦い・長篠の戦い~

三方ヶ原の戦いでの徳川家康

織田信長と対立した将軍・足利義昭(あしかが よしあき)は、武田信玄・朝倉義景・浅井長政・石山本願寺などの反織田勢力を糾合して、信長包囲網を画策します。

その際、徳川家康にも信長包囲網に加わるよう打診がありましたが、家康は信長との同盟を維持します。

その結果として、1572年、武田信玄が遠江、三河に侵攻を開始します。

武田信玄が率いる武田家臣団は戦国最強といわれていた最強軍団です。

武田軍の勢いにあらがうことができず、一言坂の戦いや二俣城の戦いで徳川軍は連戦連敗をしてしまいます。

そして、家康最大のピンチの一つである三方ヶ原の戦いが起こります。

支城を次々と攻め落とした武田軍の本隊が、家康の本拠地である浜松城に迫ってきていました。

籠城するか野戦に持ち込むか、対応を迫られる家康でしたが、一方の武田軍は、浜松城を無視するかのように素通りして、三河方面へ進もうとしたのです。

これを見た、まだ若く血気盛んな家康は、「なめるな!」と頭に血が上ったのでしょう。

籠城を進言する家臣たちの意見を無視して、武田軍を追撃します。

しかし、実はこれは武田軍の罠だったのです。

万全の構えで待ち構えていた武田軍と対峙することになった徳川軍は、わずか2時間ほどの会戦で2000人もの死傷者を出しました。

一方の武田軍の死傷者は200人ほどでした。

徳川軍の死傷者のなかには、有力家臣であった鳥居忠宏や成瀬正義、中根正照や青木貞治、夏目吉信といった武将たちがいました。

なかでも、夏目吉信は家康を逃がすために身代わりとなり、「自分が家康である!」と名乗りながら敵に突撃して討ち死にしたといわれています。

このように、家康の人生最大の惨敗となった三方ヶ原の戦いで、家康は家臣たちの犠牲のもと、命からがらなんとか敗走します。

このとき、家康は恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残っています。

家康は、このときの失敗を戒めとするために、合戦直後の自分の姿を描かせたといわれ、それが『徳川家康三方ヶ原戦役画像』として伝わっています。

顔を顰(しか)めていることから『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれます。

このような歴史的大敗となった三方ヶ原の戦いを経験した家康ですが、運は家康に向かいます。

三方ヶ原の戦いの直後、武田信玄が陣中で病死し、武田軍は撤退することになります。

またこの頃、家康は側室であるお万の方との間に子をもうけています。(のちの結城秀康)

その後、武田信玄の後継者となった武田勝頼(たけだ かつより)との決戦に向け着々と準備をし、1575年の長篠の戦いにて織田・徳川連合軍は武田軍に大勝することとなります。

長篠の戦いでは、長篠城を守り抜いた奥平信昌や、決死の覚悟で援軍を要請した鳥居強右衛門の活躍などがありました。

長篠の戦いで多くの武将を失った武田家は徐々に衰退していきます。

1979年、家康の正室の築山殿(つきやまどの)と嫡男の松平信康(まつだいら のぶやす)が、武田家と内通しているのではないかという疑いが信長からかけられ、2人を処刑するように命じられます。

家康は迷った末、信長との同盟関係を優先し、築山殿を殺害、信康を切腹させます。

その後、織田信長が武田氏を滅ぼすと、家康は駿河国を与えられます。

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本能寺の変

1582年、明智光秀(あけち みつひで)の謀反によって、織田信長が本能寺にて討たれます。

このとき、家康は少人数の供を引き連れて大坂の堺に滞在していました。

織田信長と同盟関係にあった家康は、明智光秀から狙われる可能性も高く、本能寺のある京から近いところに少人数でいたこともあってか、本能寺の変の報を聞いた家康は狼狽して、信長の後を追おうとするほどであったといわれています。

しかし、家臣に説得されて気持ちを取り戻し、服部半蔵の進言を受けて、伊賀の険しい山道を越え、さらに海を渡り、なんとか三河に戻ることができました。(神君伊賀越え)

三河に戻った家康は、兵を率いて京に向かい、明智光秀と戦おうとしますが、すでに羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が明智光秀を討ったという報を聞いて引き返しました。

織田信長が死んだ後、旧武田領の甲斐や信濃では大量の一揆が起きます。

家康は旧武田領の一揆を鎮圧する流れで、甲斐・南信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を領有する大大名となりました。

小牧・長久手の戦い

織田信長の死後、織田政権内では羽柴秀吉が勢力を伸ばしていました。

1583年には秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、地位を確立していきます。

一方、織田信長の次男の織田信雄(おだ のぶかつ)は秀吉と対立するようになり、家康に接近します。

対立は高まり、1584年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍との合戦に至ります。

これを小牧・長久手の戦いといいます。

合戦では徳川家康・織田信雄連合軍の大勝に終わりましたが、外交戦によって、結果的に秀吉に屈する形で終わりました。

この後、家康は秀吉の配下に加わることになります。

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関東に移封

1590年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻撃します。(小田原征伐)

戦いは豊臣連合軍の勝利に終わり、北条氏は滅亡します。

戦後、家康は駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5カ国を秀吉に召し上げられ、北条氏の旧領である武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封されることになります。

これによって家康は、これまでの119万石から250万石へ一気に加増された形にはなりますが、徳川家に縁の深い三河・遠江・駿河といった地を失うことになります。

関東移封により、家康は武蔵国の江戸城を新たな本拠地としました。

当時の江戸は海が入り組んだ湿地帯でしたが、家康は海を埋め立て土地を増やし、町づくりに力を入れ、現在の東京の街につながる発展に貢献しました。

関ケ原の戦い

1598年、豊臣秀吉が死去すると、遺言により家康は豊臣政権の五大老の筆頭となります。

この後、家康は政権内で権力を伸ばし、各大名家と婚姻関係を結ぶなどして勢力を広げていきます。

このことは、大老の前田利家や五奉行の石田三成らとの対立を生みます。

この対立が極まった結果、1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍による関ヶ原の戦いへと至ります。

戦いの結果、家康率いる東軍が大勝します。

征夷大将軍に

1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開き、事実上の天下人となります。

1605年には、将軍の座を三男の徳川秀忠に譲って引退しますが、その後も駿府城にて政治の実権を握り続けました。

この政治体制を大御所政治といいます。

大坂の陣

幕府を開き、事実上の天下人となった家康でしたが、関ヶ原の戦いはあくまで豊臣政権内での勢力争いという色合いが強く、いまだに豊臣家の権力は大阪城を拠点とする豊臣秀吉と淀殿の子、豊臣秀頼を中心に存在していました。

そのため、徳川家が完全に天下統一を目指すには、豊臣家の力を削ぐ必要があったのです。

豊臣家の力を削ぐチャンスを待っていた家康は、秀頼が再建した京の方広寺という寺院に造られた鐘に着目します。

この鐘には、「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれていました。

家康はこの文字について、「家康」という文字を引き裂き、それに比して「豊臣」の名を称えるものであると難癖をつけます。

完全にいちゃもんだね…

家康はこの代償として、秀頼か淀殿の江戸移住、または秀頼の国替えを求めますが、豊臣側は完全に拒否。

このことを口実として、1614年、家康は大阪城を攻めるために挙兵します。

徳川軍による大阪城への侵攻は2度行われます。

この2度の侵攻をまとめて「大坂の陣」といい、1回目の侵攻を「大坂冬の陣」、2回目の侵攻を「大坂夏の陣」といいます。

1回目の侵攻である大坂冬の陣では、堅固な大阪城と豊臣方の奮戦に苦戦しました。

家康は、大阪城の外堀を埋めることを条件に豊臣家と和睦を結び撤退します。

ですが、このとき家康は約束を破り、外堀だけでなく内堀まで埋めていたのでした。

このように着々と準備を進め、翌年再び、徳川軍は大阪城を攻めます。

この大坂夏の陣では、豊臣方の真田幸村の攻撃により、家康本陣が脅かされるほどのピンチもありましたが、結果的には圧倒的な戦力差で勝利。

大阪城は陥落し、豊臣家は滅亡しました。

ちなみに、豊臣家の滅亡により、国内での大きな争乱は終わったということで、大坂夏の陣の終結のことを「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼んだりもします。

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最期

豊臣家滅亡後も、家康は大御所として武家諸法度や禁中並公家諸法度といった法を制定し、徳川幕府の権力を盤石なものとしました。

家康がつくった基盤によって、徳川幕府は260年も続いたといっていいでしょう。

1616年、家康は鷹狩の最中に倒れ、駿府城で死去します。

75歳と、当時としてはかなり長命でした。

家康の死因は諸説あります。

以前は鯛の天ぷらを食べたことによる食中毒という説が主流でしたが、最近は胃がんだったのではないかという説が有力になっています。

死後は久能山(現在の久能山東照宮)に葬られ、一周忌が過ぎてから日光東照宮に分霊されました。

ちなみに以前は、家康の遺体も日光東照宮に改葬されたと考えられていましたが、最近の研究では日光に運ばれたのは空の棺であり、遺体は久能山に埋葬されていると考えられています。

家康は死後「東照大権現」という神号が贈られ、神格化されるようになります。

徳川家康のエピソードや逸話

ここでは徳川家康のエピソードや逸話を紹介します。

徳川家康のエピソードはたくさんあるので、ここで紹介するのは一部だけで、また別の記事で紹介するかも知れません。

徳川家康は健康オタクだった?

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という言葉に象徴されるように、徳川家康は苦しい時期をじっと耐え忍んだからこそ天下をとったというイメージがあります。

そして、耐え忍んだ結果天下をとった要因としては、家康が健康で長生きしたということが大きいです。

家康は当時としては長命の75歳まで生き、しかも死の直前まで現役バリバリでした。

それが長生きにつながった理由かどうかはわかりませんが、家康はかなりの健康オタクだったようです。

食生活に気をつけ、酒も飲みすぎることはなく、自ら漢方薬を煎じて飲んでいたと言われています。

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徳川家康の子孫は?

江戸幕府の創始者である徳川家康には、11人の男子と5人の女子がいました。

その子孫は、歴代将軍や徳川御三家の藩主などとして歴史に名を残しています。

明治以降も徳川家は存続しており、徳川宗家、徳川御三家、徳川御三卿家として現在に続いています。

徳川宗家は、18代当主の徳川恒孝さんが高齢を理由に2022年に引退し、評論家や翻訳家として活躍している徳川家広さんが、2023年に19代当主となりました。

受験生のための一問一答に挑戦!

ここでは徳川家康に関して、大学受験レベルの一問一答クイズを出題します。
ぜひ挑戦してみてくださいね!

問題文をクリックまたはタップすると、答えが表示されます。(もう一度タップすると問題文に切り替わります)

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おわりに

徳川家康について、何をした人なのかということや、どういう人なのかということについてわかりやすく紹介しました。

最後までお読みくださりありがとうございます。

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