奥平信昌(貞昌)は、徳川家康の家臣として、長篠の戦いなど様々な戦いにおいて活躍した人物として知られています。
この記事では、奥平信昌が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯を簡潔にわかりやすく紹介します。
奥平信昌は何をした人?
奥平信昌は、一度は裏切りながらも徳川家康の家臣として仕え、長篠の戦いなどで活躍したことで知られています。
奥平信昌の活躍により、江戸時代になって奥平家は豊後中津藩の藩主となりました。
奥平信昌のプロフィール
名前 | 奥平信昌(おくだいら のぶまさ) |
別名 | 奥平貞昌(さだまさ) |
出身地 | 三河国 |
生年月日 | 1555年 |
死亡年月日 | 1615年 |
享年 | 61歳 |
活躍した時代 | 戦国時代、江戸時代 |
家族 | 亀姫(妻)、奥平家昌(子)、松平忠明(子)、奥平定能(父) |
奥平信昌のかんたん年表
1555年 | 三河国作手(つくで)の有力国人・奥平定能(貞能)の長男として誕生 |
1570年 | 武田家の三河侵攻に応じて徳川家康を裏切り武田家につく |
1573年 | 家康の娘、亀姫と婚姻 |
1575年 | 長篠の戦い |
1590年 | 上野国甘楽郡宮崎3万石に入封 |
1600年 | 関ヶ原の戦い、京都所司代として活躍 |
1601年 | 美濃国加納10万石へ加増転封 |
1615年 | 死去 |
【奥平信昌はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
奥平信昌(おくだいら のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活動した武将であり大名です。
奥平信昌は当初、貞昌(さだまさ)と名乗っていました。
奥平家は、元々今川氏に従属していましたが、今川氏の影響力が弱まったことで徳川家康に従うようになりました。
しかし1570年、武田氏の重臣の秋山虎繁が2500余騎を率いて奥三河へ侵攻してきた際には、信昌とその父・奥平定能は一度は徳川を裏切り、武田氏につきました。
家康はその後、奥平家を再び自分の味方に引き入れることを試みました。
これを実現するために、自身の長女・亀姫を貞昌に嫁がせることを提案しました。
そして、元亀4年(1573年)に貞昌は、武田家に人質として送っていた妻おふうと離縁。
家康の娘、亀姫と結婚し、徳川家に対して忠誠を誓いました。
なお、武田家の人質であった、貞昌の妻おふうや弟仙千代は、武田勝頼によって処刑されることになります。
亀姫との結婚後、貞昌は家康に娘婿として重用され、亀姫との間には4男1女をもうけました。
奥平貞昌の裏切りに対し、武田勝頼は奥平氏が守る長篠城へ兵を押し寄せます。
このことが、有名な長篠の戦いの発端になります。
長篠の戦いでは、貞昌は奮闘し、織田信長からその勇敢さを賞賛され、「信」の名を与えられ、名前を「信昌」に改めました。
家康も、奥平信昌の武勇を称賛し、名刀・大般若長光を授けました。
その後、信昌は父から家督を譲り受け、様々な戦闘に参加しました。
関ヶ原の戦いの後、信昌は京都所司代となり、京都の治安維持を担当しました。
この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛することに成功します。
慶長6年(1601年)、様々な功績を称えられ、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へと領地が増やされました。
1602年に信昌は隠居し、三男・奥平忠政に藩主の座を譲りました。
信昌は大坂の陣には参戦せず、息子たちに代わって参戦を免除されましたが、美濃加納の戦力だけは派遣しました。
信昌は1615年に死去しました。
奥平信昌のエピソードや逸話
奥平信昌の逸話で最も有名なものは長篠の戦いでの活躍でしょう。
信昌は長篠城内で指揮を執り、信長と家康の援軍が到着するまで城を守り抜きました。
また長篠城の戦いの際、奥平家臣の足軽であった鳥居強右衛門が単身で敵の包囲を切り破り、家康に援軍を求める使者を送ったという逸話があります。
江戸時代、奥平家は豊後中津の藩主となります。
大分県中津市の奥平神社では、今でも信昌の勇敢さを讃える「たにし祭」が毎年開かれています。
奥平信昌の子孫は?
奥平信昌は、徳川家康の関東への国替えに伴い、上野国甘楽郡宮崎3万石を領有します。
関ヶ原の戦いの後は、美濃国加納10万石を領することになり、江戸時代以降、奥平家は大名として下野国宇都宮10万石、後に豊前国中津10万石の藩主となり、明治を迎えます。
明治以降も奥平家は華族として存続しました。
また一方で、奥平信昌の四男である忠明は、家康の養子となり、松平姓を名乗りました。
その後、奥平松平家を興し、奥平松平家は忍藩の藩主として明治を迎えます。
おわりに
奥平信昌について、何をした人なのかということや、どんな人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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