長篠の戦いとは?簡単に解説!起こった理由や場所、結果や勝因は?鉄砲隊の活躍についても紹介【どうする家康】

長篠の戦いは、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍勢がぶつかった戦いです。

この記事では、長篠の戦いがなぜ起こったのかということや、戦いの結果、勝因などについて簡単に解説します。

目次

長篠の戦いの概要

長篠の戦いは、1575年に、現在の愛知県新城市長篠にあった長篠城をめぐって起きた戦いです。

主な戦場となったのは、長篠城と設楽原です。

この戦いでは、織田信長と徳川家康の連合軍が3万8千人の軍勢を率い、対して武田勝頼が1万5千人の軍勢を指揮して戦いました。

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長篠の戦いの基本情報

名称長篠の戦い(ながしののたたかい)
年月天正3年(1575年)5月21日
内容織田・徳川連合軍 VS 武田軍
場所長篠城と設楽原(現在の愛知県新城市長篠のあたり)
主要人物織田信長、徳川家康、武田勝頼
概要長篠城の奪取を狙い、武田軍が徳川領に侵攻。
織田信長と徳川家康の連合軍がそれを迎え撃った。
武田の騎馬隊に対する鉄砲隊の三段構えの戦法が有名。
結果織田・徳川連合軍の大勝に終わる。
織田信長、徳川家康はその勢力を強め、武田勝頼は権勢を失っていく大きな契機となった。

長篠の戦いの中心人物

長篠の戦いの中心人物は、織田信長と徳川家康、そして武田勝頼です。

同盟関係にあった織田信長と徳川家康は連合軍として戦い、対する武田勝頼は長篠城を奪取しようと軍勢を率いて侵攻してきました。

長篠の戦いは、織田家、徳川家、武田家の総力戦のような形となり、数多くの武将が参戦しましたが、敗北した武田家はこの戦いで多くの武将を失いました。

なかでも、武田家四天王と呼ばれた四人の武将のうち、内藤昌豊、馬場信春、山県昌景の三人がこの戦いで討ち死にしています。

さらに、真田家の当主、真田信綱や武田二十四将の土屋昌続、原昌胤といった有力な武将も討ち死にしています。

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長篠の戦いはなぜ起きた

三方ヶ原の戦いでの大勝の後、武田信玄は陣中で死亡し、武田氏は撤退を余儀なくされます。

三方ヶ原の戦いで武田氏に大敗した徳川家康も、武田氏の撤退を好機として力を蓄え、反抗を開始。
失った領地を回復しようとします。

その過程で、三河北部の重要拠点である長篠城を手に入れた家康は、その城を奥平氏(奥平信昌)に委ねます。

その後、武田氏の新たな当主となった武田勝頼は遠江・三河の再制圧を目指し、反撃を開始します。

1575年、勝頼は大軍を率いて三河へ侵攻し、長篠城を包囲します。

このことが、長篠の戦いの引き金となりました。

長篠の戦いの内容と経緯

長篠城では、奥平信昌が率いる500人の少数の守備隊が1万5000の大軍を相手にしていました。

守備隊は200丁の鉄砲という強力な武器を持っており、地形の利もあってなんとか持ちこたえていました。

しかし、兵糧庫を焼失したことで落城の危機に陥り、助けを求めるために鳥居強右衛門を使者として徳川家康のいる岡崎城へ送りました。

※鳥居強右衛門の援軍要請のエピソードについては↓こちら↓の記事で
鳥居強右衛門

鳥居強右衛門が岡崎城に着くと、すでに織田信長の援軍3万人と徳川家康の8千人が長篠城へ向けて出陣の準備をしているところでした。

鳥居強右衛門はその報告を受け、急いで長篠城に戻ろうとしましたが、途中で武田軍に捕まってしまいます。

捕まった鳥居は、援軍が近くに来ていることを敵にも堂々と告げました。

武田勝頼は、鳥居に対し、長篠城の守備隊に虚偽の報告をすれば命を助けると取引を持ちかけました。

しかし、鳥居は城の前で、「援軍がもうすぐ来る。もう少し頑張れ!」と大声で叫びました。

これに怒った勝頼は鳥居をその場で殺しました。

しかし、鳥居の報告により、城の兵士たちは援軍が近いことを知り、士気が上がった守備隊は2日間城を守り続けることができました。

その後、信長と家康の軍勢は、長篠城近くの設楽原に到着しました。

設楽原は多くの丘陵地が連なる地形で、敵から見えにくいため、信長はこの地形を利用して軍を配置しました。

さらに、川を利用した防御陣地を作り、急な斜面や土塁、馬止めの柵などを設けて防御体制を整えました。

これは鉄砲隊を守り、敵の騎馬隊を迎え撃つ戦術でした。

一方、武田側では信長の到着を知り、軍議を開きました。

多くの重臣が撤退を進言したものの、勝頼は決戦を選択しました。

長篠城の包囲に3,000人を残し、残りの12,000人を設楽原に投入しました。

これに対して、信長・家康連合軍も武田軍を叩く絶好の機会と捉え、全力で迎え撃つ体制を整えました。

信長の戦略は、鉄砲を主力とした守りの戦術をとりつつ、武田具を誘い込むことでした。

この信長の目論見は見事に当たったのでした。

信長は足軽鉄砲隊を主戦力として活用し、火縄銃の三段構えで一斉射撃を行う戦法をとったとされています。

この戦法は、騎馬武者による個人戦の時代から、足軽鉄砲隊による集団戦への転換を促す契機となりました。

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また一方で、武田軍を誘い込むことに成功した信長は、家康の家臣の酒井忠次を呼び、優秀な弓と鉄砲の兵士を選び出し、約4000名の特別な部隊を組織し、この部隊に武田軍を奇襲するよう命じました。

この特殊部隊は、敵の目を避けて武田軍を迂回し、南から回り込みました。

そして、翌日の夜明けに、長篠城の包囲の要である鳶ヶ巣山砦を後方から攻撃しました。

鳶ヶ巣山砦とその周辺の砦は全て落とされ、これにより信長と家康の連合軍は長篠城の救援という目的を達成しました。

さらに、この部隊に、長篠城に籠城していた奥平軍も加わり、武田軍の残兵を追撃しました。

これにより、武田軍の退路は絶たれ、信長・家康連合軍の勝利は確実なものになりました。

この奇襲によって、武田軍の多くの名のある武将が討ち死にし、残りの武田軍は総退却、武田勝頼も数百人の家臣に守られて、信濃に退却しました。

長篠の戦いの結果どうなった?

織田信長は、長篠の戦いで武田氏に大勝利をおさめたことで、天下人と呼ばれる存在に近づいていきます。

また、徳川家康も三河地方を完全に支配し、遠江地方の重要な拠点も手に入れることになりました。

一方、武田勝頼は、長篠の戦いで大敗し、多くの有力な将兵を失ったことで、領内では混乱が生じました。

武田勝頼はなんとか権勢を立て直そうと、織田家との和解を試みようとしたりしますが、1582年、織田信長の息子、織田信忠が率いる織田軍と徳川軍の連合軍が武田領へ侵攻。

武田氏は滅亡します。

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おわりに

織田・徳川連合軍が武田勝頼率いる武田軍に大勝した長篠の戦いは、戦国時代の戦術が転換する契機となる戦いでもありました。

以前は、歴史小説などの影響で、武田勝頼の無能さが武田軍の大敗を招いた、というふうにいわれるのが通説でしたが、最近の研究では、武田家の最大版図を築いたのは武田勝頼の時代であり、勝頼は優秀な指導者であり、勇猛な武将でもあったというのが通説になっています。

長篠の戦いは、ある意味で騎馬武者による個人戦の時代から鉄砲隊による集団戦術の時代へと移り変わっていく象徴となる出来事だったのです。

以上、長篠の戦いについて、どんな出来事なのかということや、なぜ起きたのか、そしてその結果どうなったのかということについて、簡単に分かりやすく紹介しました。

最後までお読みくださりありがとうございます。

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