お万の方は、徳川家康の側室として、のちに越前福井藩の祖となる結城秀康を生んだ人物として知られています。
この記事では、お万の方が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯を簡潔にわかりやすく紹介します。
お万の方は何をした人?
お万の方(長勝院)が活躍した時代は戦国時代から江戸時代初期にかけてです。
お万の方は、もともと徳川家康の正室(正妻)である築山殿(つきやまどの)の奥女中でしたが、家康に見初められ、家康の子供である於義伊(後の結城秀康、越前松平家初代藩主)を生みました。
お万の方のプロフィール
名前 | 万(於萬之方) |
別名 | 於古茶(おこちゃ)、長勝院 |
出身地 | 三河国 |
生年月日 | 1548年 |
死亡年月日 | 1619年 |
享年 | 72歳 |
活躍した時代 | 戦国時代、江戸時代 |
家族 | 徳川家康(夫)、結城秀康(子)、永見吉英(父) |
お万の方のかんたん年表
1548年 | 三河国知鯉鮒明神(現在の知立神社)の社人・永見貞英の娘として誕生 |
1574年 | 於義伊(後の結城秀康)を生む |
1607年 | 秀康の死に伴い出家 |
1619年 | 死去 |
【お万の方はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
お万の方の生い立ちや生涯については不明な点も多いのですが、分かる範囲で紹介していきます。
お万の方は1548年、三河国の知鯉鮒明神(現在の知立神社)の神官であった永見貞英の娘として誕生します。
幼少期は、於古茶(おこちゃ)と呼ばれていたようです。
お万の方は、当初、徳川家康の正室である築山殿に女中として仕えます。
その後、家康に見初められ、家康との間の子供を妊娠しました。
しかし、正室である築山殿(瀬名)は、お万の方が側室として家康との子供を出産することを認めなかったため、お万の方は浜松城を出ることになり、家康の家臣であった本多重次に支援されながら出産に至ります。
お万の方が産んだ子は於義伊(おぎい)と名付けられました。
当初、家康も於義伊を認知することはありませんでした。
これは、当時の慣習として、側室や妾として承認するかどうかの権限を、正室がもっていたからであり、正室の築山殿はお万の方が側室になることを承認しなかったのです。
家康が於義伊を自分の子として認知したのは、築山殿の死後のことでした。
於義伊は11歳のとき、豊臣秀吉の養子となり、元服して秀康と改名。
さらに秀康は下総国(現在の千葉県)の戦国大名、結城家の婿養子となり、結城秀康と名乗るようになりました。
関ヶ原の戦い後、秀康は松平秀康と名乗るようになり、越前国(現在の福井県)の北ノ庄城の城主となります。
その際、母親のお万の方も同行し、越前で暮らすことになります。
1607年に秀康が34歳の若さで亡くなると、お万の方は出家し、長勝院と名乗ります。
1619年、長勝院は越前北ノ庄において、72歳の生涯を終えることになります。
お万の方のエピソードや逸話
お万の方が家康との間にもうけた子供は双子だったとも言われています。
当時の慣習として、双子は忌み嫌われるものでした。
そのことが原因で築山殿から嫌われたという説もあります。
知立神社の神職を務めた永見貞愛という人物が、お万の方が産んだ双子の弟であったともいわれています。
お万の方の子孫は?
お万の方の子の結城秀康(松平秀康)は、越前福井藩の祖となります。
越前福井藩は幕末まで残り、直系ではありませんが松平春嶽などの名君を生み出します。
越前松平家は明治以降も家系が続くことになります。
おわりに
お万の方(長勝院)について、何をした人なのかということや、どんな人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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