鳥居強右衛門は、足軽の立場でありながら、長篠の戦いにおいて戦局を変える働きをした人物として知られています。
この記事では、鳥居強右衛門が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯を簡潔にわかりやすく紹介します。
鳥居強右衛門は何をした人?
鳥居強右衛門は長篠の戦いにおいて、決死の覚悟で長篠城を抜け出して岡崎城の徳川家康のもとに援軍を要請したことで知られています。
強右衛門は援軍要請後、長篠城に戻る途中で武田軍に捕らわれ処刑されてしまいますが、その勇気と忠義心は語り継がれています。
鳥居強右衛門のプロフィール
名前 | 鳥居強右衛門(とりい すねえもん) |
別名 | 鳥居勝商(かつあき) |
出身地 | 三河国 |
生年月日 | 1540年 |
死亡年月日 | 1575年 |
享年 | 36歳 |
活躍した時代 | 戦国時代 |
家族 | 鳥居信商(子) |
鳥居強右衛門のかんたん年表
1540年 | 三河国宝飯郡(現在の愛知県豊川市)にて誕生 |
1575年 | 長篠の戦いにて死去 |
【鳥居強右衛門はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
鳥居強右衛門は1575年の長篠の戦いにおける逸話が残されていますが、その前の人生についてはあまり知られていません。
鳥居強右衛門は三河国に生まれ、数え年で36歳の時に長篠の戦いに参戦しました。
このとき、強右衛門は一足軽にすぎない身分であったと伝えられています。
長篠の戦いの発端は、奥平貞昌(のちの奥平信昌)が守る長篠城が武田勝頼の軍勢に包囲されたことから始まります。
長篠城は約500人の城兵で守られていましたが、武田軍は1万5,000人で攻めてきました。
戦いが始まってから数日間、長篠城は防戦していましたが、食糧が尽きてしまったため、援軍を求めるために徳川家康のいる岡崎城へ使者を送ることになりました。
この使者の役目を務めたのが鳥居強右衛門です。
夜に城を抜け出して岡崎城に向かい、援軍を要請しました。
しかし、鳥居強右衛門は長篠城へ戻る途中、武田軍に見つかって捕らえられてしまいます。
強右衛門は、武田勝頼から援軍は来ないという偽情報を城へ伝えるよう命令されます。
しかし、死を覚悟した強右衛門は、「援軍はすぐに来るから持ちこたえろ!」と城に向かって叫び、結果、武田軍によって殺されました。
この強右衛門の行動のおかげで長篠城の人々は援軍が近いことを知り、士気を奮い立たせて城を守り続け、最終的には援軍が到着して武田軍を撃退することに成功しました。
強右衛門の決死の決意にもとづく行動がなければ、長篠城の士気が下がり陥落し、長篠の戦いの結果も大きく異なるものになっていたかもしれません。
織田信長は強右衛門の勇敢な行動に感銘を受け、強右衛門のために立派な墓を建てるよう命じたと伝えられています。
鳥居強右衛門は武田軍に包囲された長篠城のために援軍を求める役割を果たし、自分の命を犠牲にして援軍の到着を城に知らせることにより、城の防衛に大いに貢献した勇敢な人物でした。
鳥居強右衛門のエピソードや逸話
鳥居強右衛門の死については、斬られたという説と、磔にされたという説の2種類が伝わっています。
しかし、一般には磔にされたという逸話が有名で伝わっています。
強右衛門が武田軍に捕らえられた後のわずかな時間、強右衛門を監視していた武田家の家臣、落合左平次道久は、強右衛門の勇気と忠義心に感銘を受け、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、それを旗指物として使ったと伝えられています。
鳥居強右衛門の子孫は?
鳥居強右衛門の勇気と忠義心は多くの人に感銘を与え、強右衛門の子の鳥居信商は父の功により100石を与えられました。
子孫は忍藩の奥平松平家に代々仕え、家中で厚遇されることになり、家老を務めることもありました。
奥平松平家とともに鳥居家も明治を迎え、強右衛門の家系は現在も存続しています。
おわりに
鳥居強右衛門について、何をした人なのかということや、どんな人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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