3つのポイントで分かりやすく解説する日本史シリーズ。
今回のテーマは、「大伴金村(おおとものかなむら)」です。
大伴金村が登場するのは、6世紀のはじめごろのことです。
大伴金村は、6世紀はじめに権力を握った人物。このころはヤマト政権の支配体制も確立してきていて、権力争いなども起きるようになっています。
大伴金村について分かりやすく理解するための3つのポイントはこれ。
- 継体天皇を擁立して権力を握る
- 任那4県割譲事件を起こす
- 磐井の乱がきっかけとなり失脚する
という3点です。
それではさっそく、大伴金村について3つのポイントで解説していきます。
継体天皇を擁立して権力を握る
大伴氏とはどのような存在だったのでしょうか。
ヤマト政権の氏姓制度
以前解説した「倭の五王」の時代から時間が経って、この頃にはヤマト政権の支配体制もかなり確立されてきています。
その支配体制の軸となっていたのが、「氏(うじ)」と「姓(かばね)」という制度です。これをあわせて「氏姓制度(しせいせいど)」と呼びます。
「氏」は、血縁的な集団のこと。分かりやすく言うと家族ですね。鈴木家とか田中家とかいう一族です。
ヤマト政権では、この「氏」ごとに、一種の称号を与えていました。その称号が「姓」です。
「姓」は大きく分けて、「臣(おみ)」と「連(むらじ)」という2つに分かれます。
イメージとしては、「臣」は地方の有力豪族。「連」は特定の職務で大王を支えた豪族です。また、臣と連のなかでも特に有力な豪族を、「大臣(おおおみ)」「大連(おおむらじ)」といいます。
この時代の有力豪族で覚えてきたいのは、大臣の蘇我(そが)氏と、大連の大伴(おおとも)氏、物部(もののべ)氏です。
ちなみに、大連は特定の職務で大王を支えるといいましたが、大伴氏と物部氏はどのような職務を担っていたかというと、軍事的な役割です。
大伴は、「大王に伴う」という意味で、大王の近衛兵のようなものです。
また、武士や武人のことを「もののふ」という言い方をすることがありますが、それは物部(もののべ)氏に由来します。「もののべ」→「もののぶ」→「もののふ」ということですね。
つまり、大伴氏と物部氏は古代において代表的な軍人だったということです。
継体天皇を擁立
蘇我氏、大伴氏、物部氏の3豪族のなかで最初に権力を握るのは、大伴氏の大伴金村です。
日本の歴史の大きな流れのなかで、絶大な権力を握った人物の多くはある共通のことをしています。それはざっくりと言ってしまうと、自分の言うことを聞く人間を天皇にするということです。
「倭の五王」の5人のなかの最後の「武」は、別名「雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)」です。
雄略天皇のあと、清寧天皇(せいねいてんのう) → 顕宗天皇(けんぞうてんのう) → 仁賢天皇(にんけんてんのう) → 武烈天皇(ぶれつてんのう)と4人の天皇が続きますが、いずれも短命に終わります。
武烈天皇には後継者がいませんでした。そこで大伴金村は、越前(現在の富山県)にいた、大王の親戚にあたる人物を探し出してきて天皇に即位させます。これが継体天皇(けいたいてんのう)です。
継体天皇即位の立役者となった大伴金村は、絶大な権力を持つようになります。
任那4県割譲事件を起こす
この頃の朝鮮半島は、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)という三国に分裂した三国時代でした。そしてさらに、朝鮮半島の南には、任那(みまな)という地域がありました。任那は、ヤマト政権が支配権を持っていた地域でした。
当時のヤマト政権は、百済と強く結び付いていました。しかし朝鮮の三国のなかで勢いがあったのは高句麗で、百済は高句麗に攻められて、国土の北半分を奪われてしまいました。
そこで百済は、大伴金村に対して任那の西半分を譲ってくれということを頼みます。それに対して、大伴金村はこの要請を受け入れて、任那の西半分の4県は百済のものになります。このことを任那4県割譲事件といいます。割譲(かつじょう)とは、土地などの一部を他人に分け与えるという意味です。
任那4県を割譲するにあたり、大伴金村は百済から賄賂を受け取っていたということが『日本書紀』に書かれています。
ただ、大伴金村は任那割譲の交換条件として、百済から、五経博士(ごきょうはかせ)という当時最先端の知識人を日本に渡来させています。五経博士の渡来によって、日本の文化知識レベルが大きく向上したのは間違いないです。また、百済が力を得ることで高句麗や新羅を食い止めるという思惑もあったかもしれません。
いまとなっては、任那4県割譲事件が単なる収賄事件だったのか、それとも政治的な思惑があったのかは分かりませんが、分かることは、大伴金村が、これだけの重大事項を決定するだけの力を持っていたということです。
磐井の乱がきっかけで物部氏と蘇我氏の力が強くなり大伴金村は失脚する
筑紫国造磐井の乱
任那4県割譲事件は、西暦512年のことです。その後も任那の残された地域はヤマト政権が支配権を持っていました。
任那をめぐって、ヤマト政権は朝鮮三国のひとつ、新羅と小競り合いを続けていました。
西暦527年、ヤマト政権は大規模な兵力を新羅に送る軍事行動を起こそうとします。ところが新羅は事前にそれを察知、新羅は九州の筑紫地方を治めていた豪族、「筑紫国造磐井(つくしの くにのみやつこ いわい)」へヤマト政権への反乱を呼びかけます。
もともとヤマト政権に対する反発心の強かった磐井は、これに応じて反乱を起こします。これが「磐井の乱(いわいのらん)」です。
物部麁鹿火が磐井の乱を鎮圧
ヤマト政権は、2年がかりで磐井の乱を鎮圧しました。
まず磐井の乱の鎮圧に向かったのは、大伴金村の配下の近江毛野(おうみ の けぬ)という人物です。ですが、近江毛野では鎮圧することはできませんでした。
激しい戦いのすえ、磐井の乱を鎮圧したのは、物部氏の物部麁鹿火(もののべの あらかび)という人物です。
この磐井の乱の結果、大伴金村は信頼を失い、鎮圧に成功した物部氏が力をつけることになります。
ちなみに、磐井は戦で殺されたとも逃げたともいわれています。磐井の墓は、福岡県八女市の岩戸山古墳(いわとやまこふん)だと推測されています。
各地に屯倉が置かれ、蘇我氏が力をつける
また、磐井の乱をきっかけとして、地方豪族に対する監視を強くしようという動きが出てきます。そこで、各地に置かれたのが「屯倉(みやけ)」です。屯倉とは、地方に置かれたヤマト政権の直轄地のことです。そして、この屯倉を管理していたのが蘇我氏です。
磐井の乱の結果として、大伴氏が力を失い、物部氏と蘇我氏が力をもつことになっていきます。
物部氏と蘇我氏が欽明天皇を擁立し大伴金村は完全に失脚
継体天皇の死後、安閑天皇(あんかんてんのう)と宣化天皇(せんかてんのう)という天皇が続きますが、短命に終わります。
その後、物部氏と蘇我氏は欽明天皇(きんめいてんのう)を擁立します。つまり、物部氏と蘇我氏の言うことを聞いてくれる天皇を即位させたわけですね。
このころ、物部氏一族の物部尾輿(もののべの おこし)が、かつての任那4県割譲事件を持ち出して、大伴金村を非難します。これによって、大伴金村は完全に力を失い、失脚することになるのです。
おわりに
以上、大伴金村について3つのポイントで解説しました。
日本で最初の汚職事件といってもいい任那4県割譲事件や磐井の乱での失脚などは、注目のポイントです。
大伴金村は失脚後、摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に隠居。住吉区の帝塚山古墳(てづかやまこふん)は、大伴金村の墓だといわれています。
大伴金村は失脚しましたけど、大伴氏の一族は平安時代の前期頃まで歴史の表舞台で活躍します。
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