この記事では、古墳時代末期に起きた大事件、磐井の乱について解説します。
磐井の乱は、6世紀の出来事です。
この記事では、
磐井の乱とは?
磐井の乱はなぜ起きた?
磐井の乱の結果は?
などについて分かりやすく解説していきます。
記事の内容は基本的に通説にしたがい、大学受験レベルの受験生にも役立つ内容を心がけています。
受験生が押さえておきたいキーワードやポイントは、黄色マーカーで色をつけていますので参考にしてください!
それではいってみましょう。
磐井の乱の基本情報
名称 | 磐井の乱(いわいのらん) |
年月 | 西暦527年 |
内容 | ヤマト政権 VS 筑紫国造磐井 |
主要人物 | 筑紫国造磐井・大伴金村・継体天皇 |
押さえておきたいキーワード | 筑紫国造磐井・岩戸山古墳・屯倉・新羅・百済 |
概要 | 新羅に奪われた朝鮮半島南部・伽耶の失地回復のためヤマト政権が朝鮮に出兵。 それを阻止しようとする新羅と九州北部の豪族・筑紫国造磐井が手を結び、ヤマト政権の朝鮮への出兵を妨害した。 |
結果 | 乱の勃発から約1年半後に磐井は敗退。 ヤマト政権は各地に屯倉をおき、地方への支配力を強めることとなる。 |
磐井の乱はなぜ起きた?原因や背景
磐井の乱が起きた背景には、当時の朝鮮半島の情勢が深く影響しています。
当時の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国が覇権を争う三国時代でした。
そしてこの三国のほかに、朝鮮半島南部には伽耶という小国群がありました。
伽耶の小国群のなかには、ヤマト政権の拠点もありました。
しかし、あるとき新羅が伽耶を侵略。
伽耶にあったヤマト政権の拠点が新羅に奪われてしまいます。
こうした事態に対し、ヤマト政権は朝鮮半島への出兵を決定。
近江毛野(おうみの けぬ)を総大将として、6万の兵を朝鮮半島へ派遣しようとします。
【磐井の乱MAP】
朝鮮半島へ軍を派遣するには、九州北部から船で行かなければなりません。
なので、ヤマト政権軍は九州北部を通過しなければならないのですが、そこで九州北部(筑紫)を治める豪族、筑紫国造磐井(つくし の くにのみやつこ いわい)の妨害にあいます。
これが磐井の乱のはじまりです。
「国造」(くにのみやつこ)とは、ヤマト政権から任命されてその土地を統治していた豪族のことです。
「磐井(いわい)」という文字、読めはしても書くのは難しいので受験生は注意しよう!
磐井がヤマト政権の朝鮮出兵を妨害した理由ですが、ヤマト政権の朝鮮出兵を察知した新羅が、ヤマト政権に対して反発心を抱く磐井に手を回して反乱を起こさせたといわれています。
当時のヤマト政権は、全国を直接支配していたわけではなく、地方は各地の豪族が支配していました。
なので、ヤマト政権の支配力はそれほど強かったわけではなかったのです。
また、当時の大王である継体天皇は、出自がはっきりしない大王でした。
継体天皇の前の武烈天皇には後継者となる子どもがいなかったので、越前(いまの福井県)から大王家の遠い親戚筋にあたる人物を探し出して大王にしたといわれています。
これが継体天皇です。
このように大王の正当性も揺らいだこのころ、ヤマト政権に反発心を抱く豪族も多くいたのではないかと思われます。
磐井はなぜ新羅と手を組んだ?
磐井はなぜ新羅と手を組んだのでしょうか、またそのことから何が分かるのでしょうか。
朝鮮半島の国のなかで、ヤマト政権と仲がいいのは百済です。
512年には大伴金村によって百済への任那4県割譲が行われていますし、のちには仏教も百済から伝わってきます。
一方で、百済と対立している新羅はヤマト政権とも仲がよくないのですね。
でもそんな新羅と、九州の豪族である磐井は独自の外交ルートをもっていて、共にヤマト政権と戦いました。
このことから、磐井はヤマト政権に従う一豪族などではなく、独自の外交権をもった、ヤマト政権に匹敵する力をもった国家だったのではないかという説もあります。(九州王朝説)
現在の通説では九州王朝説は否定されていますが、当時のヤマト政権の支配力はそれほど強いものではなく、各地の豪族が独自の外交権をもっていたことがうかがえます。
磐井の乱の経緯
挙兵した磐井は、火の国(肥前・肥後)(いまの佐賀・熊本あたり)と豊の国(豊前・豊後)(いまの福岡東部・大分あたり)を制圧し、近江毛野が率いるヤマト政権軍と交戦しました。
磐井の勢いは強大だったので、近江毛野は磐井の乱を鎮圧することができず、ヤマト政権は平定軍を派遣することになります。
このとき将軍に任命されたのが、物部氏の物部麁鹿火(もののべ の あらかび)。
物部麁鹿火と磐井は、乱の勃発から約1年半後の528年11月、筑紫三井郡(いまの福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦。
激しい戦闘のすえ、磐井軍は敗退。
磐井も戦死したといわれています。
磐井の墓は、福岡県八女市にある岩戸山古墳だといわれています。
磐井の乱の結果
磐井の乱は、ヤマト政権の勝利に終わりました。
この結果、なにが起こったのでしょうか。
ヤマト政権の地方への支配権が強まった
まずヤマト政権は、磐井の乱をきっかけに地方への支配権を強めようとします。
地方豪族への監視を強くしようということですね。
ヤマト政権は各地に「屯倉(みやけ)」を設置します。
屯倉とは、地方に置かれたヤマト政権の直轄地のことです。
こうしたヤマト政権の直轄地が磐井の元支配地である九州北部を手始めに置かれるようになり、ヤマト政権の支配権も各地に広がっていきます。
「倉」という字が使われているので建物かなにかと勘違いしがちですが、「屯倉」は土地そのもののことですので要注意です。
物部氏と蘇我氏が台頭するきっかけとなった
磐井の乱のころのヤマト政権の権力者は大伴金村です。
磐井の乱はヤマト政権内での権力関係にも影響を及ぼします。
磐井の乱が直接影響したわけではありませんが、大伴金村はこの頃から徐々に権力を失っていきます。
大きな反乱を招いた責任を問われたのでしょうね。
一方で権力をつけて台頭してきたのが物部氏と蘇我氏です。
磐井の乱を鎮圧したのは物部氏の物部麁鹿火。
物部氏が権力をつけるきっかけとなります。
また、ヤマト政権は各地に屯倉を置きますが、この屯倉を拡大するうえで活躍したのが蘇我氏です。
蘇我氏もこれをきっかけにヤマト政権内での権力をつけていくことになるのです。
以上、磐井の乱について解説しました。
この記事が参考になれば嬉しいです!
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