こんにちは、日本史のススメのたーやんです。
幕末の会津藩というと、「佐幕派」「幕府側」「戊辰戦争で新政府軍と戦った藩」という印象が強いと思います。たしかに最終的にはその通りです。ただ、そこだけを見ると、なぜ会津藩がそこまで幕府を支えたのか、そしてなぜ朝廷を守っていたはずの会津が新政府から討伐される側になったのかが分かりにくくなります。
会津藩の動きを理解するうえで大きな転機になったのが、藩主松平容保の京都守護職就任です。会津は徳川家との深い関係を背景に幕府を支えながら、京都では御所の警護や治安維持を担い、孝明天皇の信頼も得ました。つまり、会津にとって「幕府への忠誠」と「朝廷を守ること」は、本来なら両立するものでした。
ところが、八月十八日の政変や禁門の変を通じて長州藩との対立が深まり、やがて薩摩藩が長州藩と結ぶと政治上の位置が大きく変わります。大政奉還と王政復古で幕府という仕組みが消えたあとも、それまで京都で積み重なった対立や責任まで消えたわけではありません。
この記事では、「会津藩はなぜ幕府側だったのか」という疑問を軸に、松平容保と京都守護職、長州藩との対立、王政復古後の会津処分、そして戊辰戦争までを時系列で見ていきます。
- 会津藩が幕府を支えた歴史的な理由
- 松平容保と京都守護職が果たした役割
- 会津藩と長州藩の対立が深まった経緯
- 会津藩が戊辰戦争へ進んだ理由
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会津藩はなぜ幕府側だったのか
会津藩が幕府側に立った理由は、「古い体制を守りたかったから」だけではありません。徳川将軍家との歴史的な結び付き、会津松平家の家訓、そして京都守護職として背負った政治的・軍事的な責任が重なっていました。
しかも幕末前半の会津は、天皇や朝廷に反対して幕府だけを守ろうとしていたわけではありません。ここを押さえておくと、その後の流れがかなり見えやすくなります。
徳川家との特別な関係
会津松平家の祖である保科正之は、2代将軍徳川秀忠の子で、3代将軍徳川家光の異母弟にあたります。家光から厚い信頼を受け、4代将軍家綱の時代には幕政を支える立場にもなりました。
その保科正之が定めた会津家訓の第一条では、将軍家への忠勤が強く求められています。幕末の会津藩にとって、この家訓は単なる昔の標語ではありませんでした。藩主や重臣が重要な判断をするときに、自分たちの家が徳川家から受けた恩と、代々背負ってきた役割をどう考えるかに関わるものでした。
もちろん、会津藩のすべての判断を家訓だけで説明するのは単純すぎます。幕末には藩財政、軍事、京都政局、朝廷との関係など現実の問題もありました。それでも、徳川家を支えることが会津松平家の存在理由の一部になっていたことは、京都守護職を引き受ける背景として無視できません。
会津藩を「幕府に忠実だった藩」とだけ覚えるより、「徳川家への忠誠を藩の伝統として背負っていた」と考えると、容保が重い役目を断りきれなかった理由が見えやすくなります。
京都守護職が転機になった
会津藩の幕末史を大きく変えたのが、1862年の京都守護職就任です。
当時の京都では、尊王攘夷を掲げる志士や浪士の活動が活発になり、暗殺や襲撃も相次いでいました。幕府にとっては、朝廷のある京都の治安をどう維持するかが大きな政治課題になっていたのです。
そこで新しく設置されたのが京都守護職でした。松平容保はこの役目に就くことになりますが、会津藩内では負担の大きさから慎重論が強く、家老たちも就任に反対しました。それでも最終的に受諾したことで、会津は遠い東北の一藩から、京都政治の中心で幕府と朝廷の間を支える存在へと変わります。
ここから先、会津藩は京都で起きる政変、長州藩との対立、浪士取締り、御所警備などに深く関わることになります。言い換えると、京都守護職を引き受けたことで、会津藩は京都政局に深く関与し、その後の長州との対立や幕末政治の変化から離れにくい立場になっていきました。
◆たーやんのワンポイント解説
幕末の会津藩を理解するときは、「もともと幕府側だったから戊辰戦争まで一直線」と考えない方が分かりやすいです。大きな分岐点は京都守護職でした。京都で何を担い、誰と対立したのかを見ると、その後の立場が自然につながってきます。
松平容保と京都守護職
京都守護職は、名前だけ見ると京都の警備責任者という印象ですが、実際には幕末政治の最前線に立つ役職でした。松平容保はここで朝廷・幕府・諸藩・浪士勢力が交錯する難しい政局に入っていきます。
京都守護職は何をする役目か
京都守護職は1862年、幕府が京都の政治と治安に対応するために新設した役職です。京都所司代や京都町奉行より上位に置かれ、御所の警護、市中の治安維持、尊攘派浪士への対応などを担いました。
松平容保は多数の藩士を率いて京都へ入り、金戒光明寺を本陣としました。のちに弟の松平定敬が京都所司代となり、会津藩と桑名藩が連携して京都の警備にあたる体制もできていきます。
また、近藤勇や土方歳三らを中心とする壬生浪士組、のちの新選組も会津藩の預かりとなり、京都の治安維持に関わりました。新選組の活動だけを単独で見ると「浪士を取り締まる武装集団」に見えますが、その上には京都守護職である会津藩がいたという関係を押さえておく必要があります。
幕末の京都全体の流れは、幕末年表で黒船来航から明治維新までの流れを確認すると、会津がどの時点から政局の中心に入ったのかがつかみやすいです。
容保はなぜ引き受けたのか
京都守護職は名誉ある役職である一方、会津藩にとって負担の大きい仕事でした。多数の藩士を京都に常駐させるには費用がかかりますし、尊攘派から直接敵視される危険もあります。会津藩内で反対意見が出たのは不思議ではありません。
それでも容保が引き受けた背景には、将軍家への忠勤を重視する会津松平家の伝統がありました。幕府から京都を守る役目を求められたとき、「他藩が断るような重い任務だから会津も断る」という判断は取りにくかったのです。
ただし、これを「家訓に縛られて何も考えず受諾した」と描くのも行き過ぎです。容保や家臣たちは役目の危険性を認識していました。そのうえで、徳川家との関係と大名としての責務を重く受け止め、就任する道を選んだと見る方が実態に近いでしょう。
朝廷を守ることも任務だった
ここが会津藩を理解するうえで最も大切なところです。京都守護職の役目には、御所の警護が含まれていました。会津藩は幕府の命令で動く一方、京都では朝廷を守る立場でもあったのです。
松平容保は孝明天皇から信頼を得たとされます。孝明天皇は強い攘夷志向を持っていましたが、それはそのまま倒幕を意味しません。幕府と朝廷が協力する余地はまだあり、会津藩もその枠組みの中で朝廷警護と幕府への忠誠を両立させようとしていました。
幕末前半の会津藩は「天皇か幕府か」で幕府を選んだのではありません。朝廷を尊重し、その警護を担いながら、徳川幕府を政治秩序の中心として支えることが両立すると考えていました。
尊王・佐幕・公武合体・倒幕の違いが混乱する場合は、幕末の思想と尊王攘夷・公武合体・佐幕・倒幕の違いを先に読むと、会津の立場を「反天皇」と誤解しにくくなります。

会津藩と長州藩の対立
会津藩がのちに新政府から厳しく見られるようになる背景には、長州藩との対立があります。しかもこの対立は、最初から「幕府側の会津対倒幕側の長州」という形だったわけではありません。
1863年から1864年にかけて、京都の主導権を誰が握るのか、朝廷の意思をどの勢力が政治へ反映させるのかをめぐって対立が深まっていきました。
八月十八日の政変
1863年、京都では長州藩と尊王攘夷派の公家が強い影響力を持っていました。朝廷から幕府へ攘夷実行を求める圧力が強まり、長州藩は下関で外国船への砲撃にも踏み切っています。
こうした中で起きたのが八月十八日の政変です。会津藩は薩摩藩などと連携し、長州藩と急進的な尊攘派公家を京都政治の中心から退けました。長州系の勢力は京都から後退し、三条実美ら公家も都を離れます。
この事件のポイントは、薩摩と会津が同じ側で動き、長州を京都から排除したことです。のちに薩摩と長州が明治新政府の中心になることを知っていると意外に感じますよね。
幕末の藩同士の関係は固定されていません。主要藩の立場の変化は、幕末の藩一覧と薩長・会津などの勢力関係でも確認できます。
禁門の変で対立が決定的に
1864年、長州藩は京都で失った政治的地位を取り戻そうとします。池田屋事件などで長州系尊攘勢力への打撃が続く中、長州勢は京都へ進軍しました。
これが禁門の変です。長州勢は御所周辺で会津藩・薩摩藩などと戦い、敗北しました。長州藩は朝廷に武力を向けた形となり、朝敵とされ、第一次長州征討へとつながっていきます。
会津藩から見れば、京都守護職として御所を守る立場で長州勢と戦ったことになります。一方、長州側から見れば、会津は自分たちを京都から追放し、再進出も阻んだ中心勢力の一つでした。
この経験が両者の対立を深くしました。政治的な意見の違いだけではなく、実際に武力衝突して死者を出した相手になったからです。
禁門の変や長州征討を含む戦争の流れは、幕末の戦争・戦いを時系列で解説した記事でまとめています。
薩摩との関係は固定ではない
1863年の八月十八日の政変、1864年の禁門の変では、薩摩藩と会津藩は長州に対して協力しました。ところが、その後の薩摩は幕府中心の政治秩序に距離を取り、長州との関係を修復していきます。
1866年には薩長の連携が成立し、第二次長州征討でも薩摩は幕府に全面協力しません。幕府が長州を屈服させられなかったことで、幕府の統制力への疑問も強まりました。
ここで会津の位置が変わります。会津自身が「朝廷を守る」という考えを急に捨てたわけではないのに、かつて協力した薩摩が長州と結び、幕府を政治の中心から外す方向へ進んだため、会津は相対的に孤立していったのです。
長州側がどのように尊王攘夷から幕府との対決へ進んだのかは、幕末の長州藩がなぜ倒幕へ向かったのかを合わせて読むと、会津との対立を反対側から見ることができます。
王政復古で立場が逆転
1867年になると、幕末政治の前提そのものが変わります。徳川慶喜が大政奉還を行い、続いて王政復古が実施されたことで、「幕府の下で朝廷を守る」という会津の役割が制度上成り立たなくなったからです。
大政奉還だけでは終わらない
1867年10月、徳川慶喜は大政奉還を朝廷へ申し出ました。これによって幕府が持っていた政権を返上する方向が決まります。
ただし、大政奉還は「徳川家が政治から完全に消える」と決まった出来事ではありません。徳川家は巨大な領地、軍事力、官僚組織を持っており、新しい政治体制の中でも有力な立場を保つ可能性がありました。
そのため問題は、「幕府を残すか倒すか」だけではなくなります。政権返上後の新しい政府に徳川慶喜をどう参加させるのか、徳川家の領地や官位をどう扱うのかが新たな争点になりました。
京都守護職の廃止
同年12月の王政復古では、幕府だけでなく従来の朝廷の摂政・関白なども廃止され、新たに総裁・議定・参与が置かれました。政治制度そのものを組み替える政変でした。
この中で京都守護職も廃止されます。会津藩にとっては、数年間にわたって命と費用をかけて担ってきた役職が消滅したことになります。
しかも、新政府を主導する側には薩摩・長州がいました。会津が京都で取り締まり、戦ってきた相手が新しい政治秩序の中心へ移ったわけです。ここで、昨日まで「朝廷警護を担う幕府の役職」だった会津が、新政府から警戒される側へ急速に変わっていきます。
孝明天皇の死後の変化
会津藩にとってもう一つ大きかったのが、1866年末の孝明天皇の死去です。松平容保は孝明天皇から信頼を得ており、朝廷と幕府が協調する政治の中で自らの役割を位置づけることができました。
ところが孝明天皇の死後、京都政局では薩摩・長州・岩倉具視らが新しい政治体制を作る動きを強めます。もちろん、「天皇が代わったからすべてが一変した」と一本の原因だけで説明することはできません。幕府の弱体化、薩長連携、第二次長州征討、大政奉還など複数の変化が重なっています。
それでも、容保が依拠していた公武協調の政治環境が失われていったことは重要です。会津の基本的な政治的立場が大きく変わらない一方で、会津を取り巻く政治の枠組みは急速に変化していきました。

戊辰戦争へ進んだ理由
では、大政奉還と王政復古のあと、なぜ会津藩は新政府と戦うことになったのでしょうか。ここでも「会津が新政府に反対したから戦争になった」と一言で済ませると、途中の政治過程が抜け落ちます。
鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗北
1868年1月、旧幕府側と薩摩・長州を中心とする新政府側の軍勢が鳥羽・伏見で衝突しました。旧幕府軍には会津藩や桑名藩の兵も加わっていました。
戦いは新政府側の勝利となり、徳川慶喜は大坂から江戸へ退きます。その後、慶喜は恭順へ向かい、江戸城は戦火を避けて開城されました。
ここで会津にとって難しい状況が生まれます。将軍だった慶喜は新政府への恭順を進めた一方、京都で長州・薩摩と対立してきた会津と桑名には厳しい責任追及が向けられました。
「徳川慶喜が恭順したのだから、会津もすぐ降伏すれば戦争は終わった」と単純には言えません。会津藩内にも恭順論と抗戦論があり、新政府側にも会津処分をどうするかという問題がありました。さらに東北諸藩が仲介に動いたことで、政治交渉と軍事行動が並行して進みました。
会津処分をめぐる対立
鳥羽・伏見の敗戦後、松平容保は会津へ戻って謹慎します。会津側は恭順の意思を示そうとしましたが、新政府は容保の責任を重く見ていました。
東北諸藩は、会津への処分を緩和してもらうために仲介や嘆願を行います。ここで重要なのは、東北諸藩が最初から「新政府と戦うため」にまとまったわけではないことです。会津処分をめぐる交渉が進まず、新政府軍との緊張や衝突が高まる中で、軍事同盟としての性格を強めていきました。
つまり、戊辰戦争の東北戦線も、最初から「新政府対東北」という固定陣営が用意されていたわけではありません。会津をどう扱うかという問題が、周辺諸藩を巻き込みながら大きな戦争へ広がった面があります。
奥羽越列藩同盟と会津戦争
1868年、東北・北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を形成します。会津救済を求める動きから始まった連携でしたが、新政府軍との戦闘が拡大すると、同盟は軍事的な対抗勢力になっていきます。
会津藩も軍制を改め、国境各地で新政府軍に備えました。しかし戦局は次第に新政府側へ傾きます。北越方面や二本松方面で同盟側が苦しくなり、新政府軍は会津盆地へ迫りました。
8月、母成峠を突破されたことで防衛線が崩れ、新政府軍は若松城下へ進入します。会津戦争は城を中心とした籠城戦へ移りました。
会津戦争とその後
会津戦争は、戊辰戦争の中でも強く記憶されている戦いです。白虎隊の悲劇が有名ですが、会津藩全体の歴史として見るなら、京都守護職から続いた政治的対立がここで軍事的な決着を迎えたと考える必要があります。
若松城での籠城と降伏
新政府軍が城下へ入ったあと、会津藩は若松城で約1か月にわたって籠城しました。城下では激しい戦闘が続き、藩士だけでなく多くの人々が戦争に巻き込まれます。
会津藩は最終的に慶応4年9月22日に降伏し、若松城を開城しました。これによって東北での大きな抵抗は終息へ向かいますが、戊辰戦争そのものはまだ終わりません。戦いは箱館まで続き、1869年に旧幕府系勢力が降伏して終結します。
このため、会津戦争を「明治維新の最後の戦い」とするのは正確ではありません。戊辰戦争全体の流れの中では、東北戦線の大きな節目と位置づけるのがよいでしょう。
会津藩はどう処分されたか
降伏後、会津藩は領地を失い、松平容保らは謹慎・処分を受けました。会津松平家はそのまま従来の会津領へ戻されたわけではありません。
のちに家名の存続が認められ、松平容大に陸奥国下北半島を中心とする斗南藩3万石が与えられます。多くの旧会津藩士と家族が移住しましたが、厳しい自然条件の中で苦しい生活を強いられました。
会津の処分は、戊辰戦争後の社会に長い記憶を残します。明治政府側から見れば、会津は京都で長州と対立し、鳥羽・伏見や東北戦争で新政府軍と戦った旧幕府側の有力勢力でした。一方、会津側には、自分たちは幕府の命令で朝廷を守る役目を果たしてきたという意識がありました。
この認識の隔たりが、会津の幕末史を単純な勝者と敗者の話では終わらせない理由の一つです。
勝敗だけでは見えない会津藩の立場
会津藩は戊辰戦争に敗れました。その結果だけを見れば、新政府に抵抗した「敗者」です。
ただ、1862年の京都守護職就任まで戻ってみると、会津は幕府から京都の秩序維持を任され、朝廷の警護を担い、孝明天皇の信頼を得ながら公武協調の政治を支えようとしていました。
その後、長州と武力衝突し、薩摩との関係が変わり、孝明天皇が亡くなり、幕府が消滅し、新政府が成立します。会津が守ろうとしていた政治の前提が数年で大きく変わったのです。
だからこそ、会津藩を「時代の変化についていけなかった保守的な藩」とだけ評価すると、当時の選択肢が見えなくなります。会津が守ろうとしたのは、徳川家への忠誠だけではなく、幕府と朝廷が共存する秩序でもありました。
◆たーやんのワンポイント解説
歴史は結果を知ってから見ると、勝った側の道が最初から正解だったように見えます。でも幕末の当事者には未来は分かりません。会津を見るときも、「なぜ新政府側に乗らなかったのか」だけでなく、「その時点で何を守るべきだと考えていたのか」を見ると、選択の意味がずっと立体的になります。
幕末の人物や藩を固定した「佐幕派」「倒幕派」だけで分けず、時期ごとの関係を見るなら、幕末の人物一覧と相関図も役立ちます。
まとめ
幕末の会津藩が幕府側に立った理由は、単純な保守性や天皇への反対では説明できません。会津松平家と徳川家の歴史的な関係があり、松平容保が京都守護職を引き受けたことで、幕府を支えながら朝廷を警護する役割を背負いました。
- 会津松平家には徳川将軍家への忠勤を重視する伝統があった
- 1862年に松平容保が京都守護職となり、会津は京都政局の中心に入った
- 会津は朝廷に反対したのではなく、御所警護を担い孝明天皇の信頼も得た
- 八月十八日の政変と禁門の変で長州藩との対立が深まった
- 当初は会津と協力した薩摩藩が、のちに長州藩と連携した
- 大政奉還と王政復古によって、会津が支えてきた幕府中心の政治秩序が消えた
- 鳥羽・伏見の敗戦後も会津処分をめぐる対立が残り、東北諸藩を巻き込んだ戦争へ広がった
- 1868年9月22日に会津藩は降伏し、その後旧藩士の多くは斗南へ移った
会津藩は、最初から新政府と戦う運命にあったわけではありません。京都守護職として何を守り、誰と対立し、その間に政治の仕組みがどう変わったのか。その積み重ねの先に戊辰戦争がありました。
「会津はなぜ幕府側だったのか」という問いは、そのまま「幕末の人々は何を正統な政治だと考えていたのか」という問いにもつながります。会津の視点から幕末を見ると、明治維新が単純な「古い幕府と新しい政府の交代」ではなかったことがよく分かります。
幕末の会津藩に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 会津藩はなぜ幕府側についたのですか?
A. 会津松平家と徳川将軍家の歴史的な関係に加え、松平容保が京都守護職となって幕府のもとで京都の治安維持と朝廷警護を担ったことが大きな理由です。京都で長州藩と対立したことも、その後の政治的位置を大きく左右しました。
Q2. 会津藩は天皇に反対していたのですか?
A. その理解は適切ではありません。京都守護職の会津藩は御所の警護を担い、松平容保は孝明天皇の信頼を得ました。会津は幕府への忠誠と朝廷への尊重を両立できると考えていたと見る方が分かりやすいです。
Q3. 会津藩と長州藩はなぜ対立したのですか?
A. 京都政治をめぐる対立が大きな理由です。1863年の八月十八日の政変で会津は薩摩などとともに長州系勢力を京都から排除し、1864年の禁門の変では実際に長州勢と戦いました。政治対立が武力衝突まで進んだことで、両者の関係は深く悪化しました。
Q4. 大政奉還のあとも会津が戦ったのはなぜですか?
A. 大政奉還で政権返上は進みましたが、徳川家の新政府内での位置、領地、旧幕府側諸藩の処分まで決まったわけではありません。王政復古後、鳥羽・伏見の戦いが起こり、会津藩主松平容保への責任追及も続いたため、対立は解消されませんでした。
Q5. 会津藩は戊辰戦争のあとどうなりましたか?
A. 1868年9月に会津藩は降伏し、従来の会津領を失いました。のちに会津松平家の家名は存続を許され、松平容大に斗南藩3万石が与えられました。多くの旧会津藩士と家族が現在の青森県下北地方などへ移住しています。