日本史講座

幕末年表|黒船来航から明治維新までの流れを時系列で詳しく解説

幕末年表|黒船来航から大政奉還・戊辰戦争までの流れ

こんにちは、日本史のススメのたーやんです。

幕末の年表を眺めていると、黒船来航、安政の大獄、桜田門外の変、薩英戦争、禁門の変、薩長連携、大政奉還……と事件が次々に登場します。

一つひとつ覚えようとすると、かなりややこしいですよね。しかも幕末が難しいのは、事件が多いことだけではありません。昨日まで敵だった薩摩と長州が手を結んだり、尊王を唱える人が必ずしも倒幕を目指していなかったりと、人や藩の立場そのものが変化していくからです。

そこでこの記事では、1853年の黒船来航から1869年の戊辰戦争終結までを年表で追いながら、「なぜ次の事件が起きたのか」というつながりを中心に見ていきます。

幕末は事件名をバラバラに暗記するより、「外国への対応問題」が「日本を誰がどう統治するのか」という政治体制の問題へ変わっていく流れとして見ると、一気に理解しやすくなります。

  • 黒船来航から戊辰戦争までの詳しい年表
  • 幕末の主な事件が起きた理由と結果
  • 薩摩・長州・幕府・朝廷の立場が変化した流れ
  • 大政奉還から明治維新へつながった理由

\ あなたはどの武将タイプ? /

戦国武将 X MBTI診断

自分に似ている戦国武将を診断してみよう!

幕末はいつからいつまで?

まず確認しておきたいのが、「そもそも幕末とは何年から何年までなのか」という問題です。幕末は正式な元号や時代区分ではないため、始まりと終わりにはいくつかの考え方があります。

1853年開始が分かりやすい

幕末の始まりには複数の考え方がありますが、この記事では政治の流れを追いやすくするため、1853年のペリー来航を起点とします。

もちろん、それ以前から外国船は日本近海へ姿を見せていました。1808年にはフェートン号事件が起こり、1840~1842年には清がイギリスに敗れたアヘン戦争も起きています。幕府や各藩にとって、海防はすでに大きな問題でした。

ただ、1853年にペリー艦隊が浦賀へ来航したことで、外国への対応が幕府だけの問題では済まなくなります。外交、海防、幕府と朝廷の関係、有力諸藩の政治参加などが次々につながり、全国規模の政治問題へ発展していきました。

幕末=ペリーが来て突然始まった時代と考えるより、江戸後期から続いていた外国への危機感が1853年をきっかけに一気に政治問題化した、と考える方が実態に近いです。

1867年と1869年の二つの終点

幕末の終わりも、一つの年に決めることはできません。

政治制度で区切れば、1867年が大きな節目です。徳川慶喜が大政奉還を行い、その後の王政復古によって江戸幕府という政治体制が終わったからです。

一方、翌1868年には鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争が始まり、戦争は東北・箱館まで続きました。1869年に榎本武揚らが箱館で降伏して、ようやく大規模な軍事抵抗が終わります。

この記事では、1853年のペリー来航から1869年の戊辰戦争終結までを一続きの幕末・明治維新期として追っていきます。

幕末年表を一覧で確認

最初に幕末の主な出来事を一覧にしてみましょう。大切なのは事件名だけではなく、「それによって何が変わったのか」を一緒に見ることです。

西暦 主な出来事 歴史の流れでの意味
1853年 ペリー来航 外国への対応が全国的な政治問題になる
1854年 日米和親条約 従来の対外秩序から条約外交へ踏み出す
1858年 日米修好通商条約 勅許を得ない調印が幕府と朝廷の政治問題になる
1858~1859年 安政の大獄 条約・将軍継嗣をめぐる政争が弾圧へ発展する
1860年 桜田門外の変 大老井伊直弼が暗殺され幕府の権威が揺らぐ
1861~1862年 公武合体・和宮降嫁 幕府が朝廷との協調で体制を立て直そうとする
1862年 生麦事件 薩摩とイギリスの軍事衝突へつながる
1863年 長州の攘夷実行 外国船への砲撃で攘夷が実戦段階へ入る
1863年 薩英戦争 薩摩が欧米の軍事力を実戦で経験する
1863年 八月十八日の政変 長州と尊攘派公卿が京都政局から排除される
1864年 池田屋事件・禁門の変 京都で長州系尊攘勢力と幕府側の衝突が激化する
1864年 第一次長州征討 長州が幕府へ恭順する状況に追い込まれる
1864年 四国艦隊下関砲撃 長州が外国との軍事力の差を思い知らされる
1864~1865年 高杉晋作らが藩政主導権を奪回 長州が軍備改革と幕府への対抗を進める
1866年 薩長連携 かつて敵対した薩摩と長州が協調へ転じる
1866年 第二次長州征討 幕府が長州を軍事的に屈服させられず威信が低下する
1867年 大政奉還 徳川慶喜が政権を朝廷へ返上する
1867年 王政復古 幕府を政治制度から外した新政府が成立する
1868年 鳥羽・伏見の戦い 旧幕府側と新政府側の内戦が始まる
1868年 江戸開城 江戸での大規模戦闘を回避して旧幕府の本拠が明け渡される
1869年 箱館戦争終結 戊辰戦争が終わる
幕末に外交問題が国内政治・政治体制の問題へ変化した流れ

1853~1858年 開国が政争へ

幕末前半のポイントは、外国への対応をめぐる問題が、やがて「幕府には国の重要事項を決める権限があるのか」という国内政治の問題へ変化していったことです。

黒船来航と日米和親条約

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀へ来航しました。ペリーはアメリカ大統領の国書を幕府へ渡し、翌1854年に再来日します。

幕府には難しい選択が突きつけられました。要求を拒否して軍事衝突になれば、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたような事態になるかもしれません。しかし要求を受け入れれば、それまで幕府が管理してきた対外秩序を変えることになります。

1854年、幕府は日米和親条約を締結し、下田・箱館でアメリカ船への補給などを認めました。

ここで注意したいのは、1854年にいきなり自由貿易が始まったわけではないことです。本格的な通商へ進むのは1858年の日米修好通商条約からでした。

◆たーやんのワンポイント解説

黒船来航を「日本が外国を初めて知った瞬間」のように覚える必要はありません。江戸時代にも長崎などを通した外国との交流はありました。重要なのは、ペリー来航によって従来の外交の仕組みでは処理しにくい問題が一気に突きつけられたことです。

通商条約と安政の大獄

1858年、幕府はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結します。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同種の条約が結ばれました。

ここで外交問題が国内政治を大きく揺らします。幕府は通商条約について朝廷から勅許を得ようとしましたが、孝明天皇を中心とする朝廷は通商に強い警戒感を示しました。最終的に大老井伊直弼のもとで、幕府は勅許を得ないまま条約を調印します。

すると「外国と条約を結ぶか」だけではなく、「国の外交方針を幕府だけで決めてよいのか」という問題が浮上しました。朝廷の政治的な存在感が急速に高まるきっかけです。

さらに将軍継嗣問題も重なりました。井伊直弼は反対勢力を厳しく処罰し、安政の大獄が進みます。吉田松陰もこの過程で1859年に処刑されました。

松陰がどのような危機意識を持ち、その後の長州系人材へ影響したのかは、吉田松陰は何をした人物だったのかをあわせて読むと理解しやすくなります。

大老として条約締結と反対派への対応を進めた人物については、井伊直弼は何をした人物だったのかで詳しく解説しています。

1860~1862年 公武合体へ

安政の大獄で反対派を抑えたとしても、政治対立そのものが消えたわけではありません。むしろ暗殺や襲撃が増え、幕府は朝廷との協調によって秩序を立て直そうとします。

桜田門外の変で幕府が動揺

1860年、江戸城桜田門外で井伊直弼が水戸浪士らに襲撃され、殺害されました。桜田門外の変です。

幕府政治の最高位にいた大老が江戸城のすぐ近くで暗殺された事実は大きな衝撃でした。政治的な対立が、要人の殺害という形で表面化したからです。

井伊の死後、幕府は朝廷との関係を立て直す方向へ進みます。その代表が公武合体でした。「公」は朝廷、「武」は幕府・武家を意味し、両者の協調によって国難へ対応しようという政治構想です。

ただし、公武合体も単純な「幕府をそのまま守る政策」ではありません。朝廷・幕府・有力諸藩をどのような形で政治に参加させるかについて複数の構想がありました。詳しくは公武合体と尊王攘夷はなぜ対立したのかで取り上げています。

和宮降嫁と生麦事件

公武合体を象徴する出来事が、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂の婚姻です。

ただ、朝廷と幕府が婚姻関係を結んだからといって政治対立が収まったわけではありません。尊王攘夷を唱える勢力の中には、公武合体を「幕府が朝廷の権威を利用するもの」と見る者もいました。

一方、薩摩藩では島津久光が朝廷と幕府を結びながら政治改革を進めようとしていました。この時点の薩摩は、後世のイメージのような「最初から倒幕を目指す藩」ではありません。

1862年には久光の行列をめぐって生麦事件が発生し、イギリス人が死傷しました。賠償や犯人処罰をめぐる問題は、翌1863年の薩英戦争へつながります。

島津久光の政治的立場と生麦事件との関係は、島津久光は何をした人物だったのかでも詳しく確認できます。

1863~1864年 攘夷と京都政局が転機を迎える

1863年から1864年は、幕末の流れが大きく変わった時期です。尊王攘夷運動が最高潮に達する一方、外国との実戦や京都での政変によって、それまでの政治構想が次々と現実の壁にぶつかりました。

攘夷実行と薩英戦争

1863年、将軍徳川家茂が上洛します。朝廷側から攘夷実行を求められた幕府は、5月10日を攘夷期限として諸藩へ伝えました。

長州藩はこれを実際の軍事行動へ移し、関門海峡を航行する外国船を砲撃します。一方、薩摩では生麦事件をめぐる対立からイギリス艦隊との薩英戦争が発生しました。

ここで押さえたいのは、薩摩や長州が外国との戦争を経験したから「突然、西洋好きの開国派になった」という話ではないことです。

彼らが考え直したのは、主に「現在の日本の軍事力で欧米諸国を武力によって排除できるのか」という方法の部分でした。国を外国の圧力から守りたいという目的を持ち続けながら、西洋の兵器や軍制を取り入れて国力を高める方向へ進んでいきます。

「外国を警戒する」ことと「外国の技術を学ぶ」ことは、幕末の人々にとって必ずしも矛盾しません。

京都政局と長州の転落

同じ1863年、京都では八月十八日の政変が起こります。薩摩・会津などが動き、長州藩や長州と結びついていた尊王攘夷派公卿が京都政局から排除されました。

翌1864年には、京都で池田屋事件が発生します。京都の治安維持を担っていた新選組が尊攘派の集まりを襲撃した事件で、京都の政治対立が武力を伴う段階まで激化していたことを象徴しています。

新選組がなぜ京都で活動することになったのかは、新選組の歴史と池田屋事件の流れで詳しく解説しています。

その後、長州勢力は京都へ進出しましたが、禁門の変で会津・薩摩などに敗北。長州は朝廷に敵対したとされ、第一次長州征討を受けます。

さらに同年、米英仏蘭の四国艦隊が下関を攻撃しました。長州は国内政治でも対外戦争でも大きな打撃を受けることになります。

ここで重要なのが、尊王攘夷とは何だったのかを「倒幕思想」と同じものにしないことです。尊王は天皇の権威を重視する考えであり、当初は幕府の存在とも両立できました。尊王=最初から倒幕、ではありません。

1865~1866年 薩長が接近

1864年まで京都で敵同士だった薩摩と長州が、わずか数年後には協調へ転じます。幕末を固定した「幕府派対倒幕派」で考えると最も理解しにくい部分ですが、逆にここが分かると幕末の流れがかなり見えてきます。

長州が軍備改革を進める

第一次長州征討後、長州藩内では幕府への恭順を重視する勢力が主導権を握りました。しかし高杉晋作らが挙兵し、藩内の政治状況を再び変えていきます。

長州は外国船をただ砲撃する旧来型の攘夷ではなく、西洋式の銃砲や軍事技術を利用しながら自らの軍事力を高める方向へ進みました。

高杉が1863年に組織した奇兵隊も、この変化を象徴する存在です。従来の武士身分だけに依存しない軍事組織を作ろうとする試みでした。

高杉の行動を単純な「攘夷派から開国派への転向」と見るのではなく、目的と手段を分けて見ると理解しやすくなります。詳しくは高杉晋作は何をした人物だったのかで紹介しています。

薩長連携と第二次長州征討

1866年、薩摩と長州の間で政治的な連携が成立します。

数年前まで両藩は京都で激しく敵対していました。それでも薩摩側では、長州を完全に排除して幕府だけが強くなることへの警戒が生まれます。長州側にとっても、幕府と再び戦う可能性を考えれば薩摩との関係改善は重要でした。

そこで両者をつなぐ人々が動きます。その一人が坂本龍馬です。ただし、「龍馬一人が薩長同盟を作った」と考えるのは単純化しすぎでしょう。薩摩・長州それぞれの藩政府、小松帯刀、西郷隆盛、木戸孝允ら複数の人物の判断があって成立した政治関係でした。

坂本龍馬は何をした人物だったのかを見ると、藩の枠を越えて人と情報を結びつけた龍馬の役割が分かります。

同じ1866年、幕府は第二次長州征討を行います。しかし幕府軍は長州を屈服させることができず、戦争中に将軍家茂も死去しました。

大きな意味を持ったのは、「幕府が命令すれば有力藩を従わせられる」という従来の政治秩序が機能しにくくなったことです。

薩摩の西郷隆盛も1864年には長州と戦う側でしたが、その後は長州との提携へ進みました。こうした立場の変化については、西郷隆盛は何をした人物だったのかもあわせて読むと流れがつかみやすいでしょう。

◆たーやんのワンポイント解説

幕末で覚えておきたいのは「誰が何派だったか」より、「その時点で何を目指していたか」です。薩摩と長州が敵対から協調へ変わったこと自体が、幕末政治を固定した陣営では説明できないことをよく示しています。

1867年 大政奉還と王政復古

第二次長州征討の失敗後、幕府を中心とした政治体制をどう立て直すのかが最大の課題になります。そして1867年、徳川慶喜が大政奉還という大きな決断をしました。

大政奉還は降伏ではない

1867年10月、第15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷へ返上しました。これが大政奉還です。

教科書では「慶喜が政権を返して江戸幕府が終わった」と覚えることが多いですが、ここにはもう一段重要なポイントがあります。

大政奉還をしたからといって、徳川家そのものが政治から消えたわけではありません。

徳川家は巨大な領地、軍事力、官僚機構を持っていました。幕府という制度をなくしたうえで、有力諸侯が参加する新しい政治体制が作られれば、慶喜がその中で大きな影響力を持つ可能性は十分にありました。

つまり大政奉還は、単純な敗北宣言というより、幕府を取り巻く厳しい状況の中で政治の枠組み自体を組み替えようとした選択として見る必要があります。

大政奉還後も徳川家の扱いをめぐる対立が残り戊辰戦争へ進んだ流れ

王政復古で対立は残った

大政奉還によって「幕府を倒して政権を朝廷へ戻す」という目標は、一見すると達成されたようにも見えました。

しかし問題は、新しい政府の中で徳川慶喜と徳川家をどのような立場に置くかです。

同年12月、王政復古が宣言され、幕府だけでなく従来の朝廷の政治制度も組み替えられました。新たな政治職が設けられ、新政府を作る動きが進みます。

その後の小御所会議では、慶喜の辞官や領地返上が問題となりました。

大政奉還=幕末の争いが平和的に終了したと覚えてしまうと、その後に鳥羽・伏見の戦いが起きる理由が分からなくなります。政権を返した後も、「徳川家を新しい政治体制の中でどう扱うのか」という大問題が残っていました。

1868~1869年 戊辰戦争へ

大政奉還と王政復古でも政治的な対立は決着せず、ついに旧幕府側と新政府側の軍事衝突へ進みます。ここからが戊辰戦争です。

鳥羽・伏見から江戸開城へ

1868年1月、京都近郊で鳥羽・伏見の戦いが起こりました。

旧幕府側が敗れると、徳川慶喜は大坂から江戸へ戻ります。その後、新政府軍は東へ進み、江戸への総攻撃が現実味を帯びました。

しかし旧幕府側の勝海舟と、新政府側の西郷隆盛らの交渉によって、江戸城は大規模な市街戦を避ける形で開城されます。

ここでも「幕府側は古い武器、新政府側は近代兵器」という単純な図式には注意が必要です。幕府自身も海軍や西洋式陸軍の整備を進めていました。幕末の争いは、近代化する勢力と近代化を拒む勢力の戦争ではありません。

幕府がなぜ政治的な主導権を失っていったのかを全体から確認したい場合は、江戸幕府が滅亡した理由と大政奉還までの流れも参考になります。

戦争は東北と箱館へ続く

江戸城が開城しても戊辰戦争は終わりませんでした。

上野では彰義隊が新政府軍と戦い、その後も北越や東北へ戦線が広がります。会津藩など東北諸藩も新政府軍と戦いました。

会津藩についても「天皇に反対した藩」と考えるだけでは不十分です。幕末の会津藩は京都守護職として朝廷を警護しながら、同時に将軍への忠誠を守ろうとしていました。幕府への忠誠と尊王は、もともと両立し得る考えだったのです。

戦いはさらに北海道へ移り、榎本武揚ら旧幕府系勢力が箱館を拠点に抵抗します。そして1869年、榎本らが降伏し、戊辰戦争は終結しました。

政治制度としての幕府が終わった1867年から、軍事的な抵抗が終わった1869年までには、およそ2年の時間があります。この違いを意識すると、「江戸幕府の終わり」と「幕末の終わり」が必ずしも同じ年ではない理由が分かるでしょう。

幕末の流れを因果で理解する

ここまでの年表を、出来事ではなく因果関係にしてつなげてみます。

欧米諸国から開国を求められる

↓

幕府の外交判断が全国的な政治問題になる

↓

条約締結をめぐって朝廷が国政へ関与する

↓

尊王攘夷・公武合体など複数の政治構想が競合する

↓

京都で政争と政治暴力が激化する

↓

薩摩・長州が外国との実戦を経験する

↓

即時攘夷より軍備強化と政治体制の再編が重視される

↓

幕府が長州を軍事的に統制できなくなる

↓

薩長が連携する

↓

大政奉還・王政復古

↓

徳川家の位置づけをめぐって戊辰戦争へ

※幕末の人々がどのような政治構想を持ち、それがどう変化したのかは「幕末の思想をわかりやすく解説」で詳しく整理しています。

この流れで見ると、幕末は「幕府対倒幕派」の戦いとして最初から始まったのではないことが分かります。

1850年代の大きな問いは「外国とどう向き合うのか」でした。それがやがて「外交を誰が決めるのか」に変わり、最後には「日本を誰が、どのような政治体制で統治するのか」という問題へ発展していったのです。

だからこそ、人や藩の立場も変化しました。

薩摩は公武合体を進め、1864年には長州と戦いました。その後、長州と連携して王政復古を進めます。長州も即時攘夷を実行した後、西洋式軍備を取り入れて幕府との戦いに備えました。

思想が無意味に変わったのではありません。新しい戦争、新しい情報、新しい政治状況を経験するたびに、「国を守るにはどの方法が現実的なのか」という判断が変わっていったわけです。

幕末の元号も確認しよう

幕末の年表では西暦だけでなく、「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶応」「明治」といった元号も頻繁に登場します。代表的な対応関係を押さえておきましょう。

主な西暦 元号 代表的な出来事
1853年 嘉永6年 ペリー来航
1854年 嘉永7年・安政元年 日米和親条約
1858年 安政5年 日米修好通商条約
1860年 安政7年・万延元年 桜田門外の変
1862年 文久2年 生麦事件
1864年 元治元年 池田屋事件・禁門の変
1866年 慶応2年 薩長連携・第二次長州征討
1867年 慶応3年 大政奉還・王政復古
1868年 慶応4年・明治元年 鳥羽・伏見の戦い・江戸開城・明治改元
1869年 明治2年 箱館戦争終結

元号は年の途中で改元されるため、同じ西暦の中に二つの元号が存在する場合があります。そのため、幕末の出来事を最初に学ぶ段階では、まず西暦で大きな時系列を覚え、そのあと元号を重ねる方が分かりやすいかなと思います。

まとめ

幕末の年表は、事件名を一つずつ暗記するよりも、「外国への対応問題が、国内の政治体制をめぐる問題へ変わっていった過程」として見ると理解しやすくなります。

  • 1853年のペリー来航で外国への対応が全国的な政治問題になった
  • 1858年の通商条約問題で幕府と朝廷の関係が大きく揺れた
  • 尊王攘夷や公武合体など複数の政治構想が競合した
  • 薩摩と長州は最初から仲間だったわけではなく、一時は京都で敵対した
  • 外国との実戦を通して薩摩・長州は軍事力強化と政体改革を重視するようになった
  • 第二次長州征討の失敗で幕府の統制力への疑問がさらに強まった
  • 1867年の大政奉還でも徳川家の政治的位置は未解決だった
  • 王政復古後の対立が戊辰戦争へつながり、1869年に戦争が終結した

幕末とは、「外国をどうするか」という問題から始まり、「日本を誰が、どのような仕組みで治めるのか」をめぐる問題へ変化していった時代だったと考えてみてください。

この一本の流れが見えるようになると、黒船、尊王攘夷、薩長連携、大政奉還、王政復古、戊辰戦争が、別々の暗記事項ではなく連続した歴史として見えてきます。

幕末年表に関するよくある質問(FAQ)

Q1. 幕末は何年から何年までですか?

A. 幕末は正式な時代区分ではないため、唯一の答えはありません。政治の流れを理解する場合は1853年のペリー来航を始まりとし、1867年の幕府消滅を大きな区切りにする考え方が分かりやすいです。戊辰戦争まで含める場合は、1869年の箱館戦争終結までを一続きで見ることができます。

Q2. 幕末と明治維新は何が違いますか?

A. 幕末は江戸幕府末期の時期を指す言葉で、明治維新は幕末から明治初期にかけて進んだ政治・社会制度の大きな転換を表す言葉です。そのため両者は完全に別々の時代ではなく、一部が重なっています。

Q3. 尊王攘夷は倒幕運動と同じですか?

A. 同じではありません。尊王は天皇の権威を重視する考え、攘夷は外国勢力を排除・抑制しようとする考えです。幕末前半には、天皇を尊びながら幕府も維持しようとする立場が存在しました。倒幕が明確な政治目標として強まるのは幕末後半です。

Q4. 薩摩と長州は最初から倒幕を目指していましたか?

A. いいえ。薩摩は公武合体を進める時期があり、1863年の八月十八日の政変や1864年の禁門の変では、会津などとともに長州を京都から排除する側でした。長州も当初から一貫して倒幕だけを目標にしていたわけではありません。両藩が連携へ進むのは政治状況が大きく変わった後です。

Q5. 大政奉還で江戸幕府は平和的に終わったのですか?

A. 大政奉還によって幕府という政治制度が終わる方向へ進みましたが、徳川家の領地・軍事力・新政府での位置づけは未解決でした。その後に王政復古、小御所会議、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争が続いています。そのため、大政奉還だけで政治対立が完全に終わったとは言えません。

参考文献・参考資料

  • この記事を書いた人

たーやん

こんにちは!「日本史・世界史のススメ」管理人のたーやんです。
京都の大学で歴史(文献史学)を専攻した、歴史大好きな30代のビジネスマンです。
学生時代にハマった歴史ゲームや司馬遼太郎作品のワクワク感を胸に、歴史の「なぜ?」をITビジネスマンならではの視点で、超わかりやすく解説します!

-日本史講座
-