こんにちは、日本史のススメのたーやんです。
幕末の戦いというと、薩英戦争、禁門の変、長州征討、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争……と、名前だけでもかなりの数が出てきます。
しかも厄介なのは、ずっと同じ陣営が戦っていたわけではないことです。薩摩と長州はのちに新政府の中心になりますが、1864年の禁門の変では敵同士でした。長州が外国船を砲撃していた時期には、幕府も薩摩も同じ方法で攘夷を実行していたわけではありません。
幕末の戦争は、最初から「幕府側対倒幕側」という一つの内戦が続いたものではありません。外国との武力衝突、京都の主導権をめぐる争い、幕府と長州の戦争、そして新政府と旧幕府系勢力の戊辰戦争へと、誰と誰が、何をめぐって戦うのかが変わっていったことが大切です。

この記事では、主要な戦争・戦いを年代順に追いながら、それぞれの戦いが次の局面へどうつながったのかを見ていきます。
- 幕末に起きた主要な戦争・戦いの時系列
- それぞれ誰と誰が何をめぐって戦ったのか
- 外国との戦争から国内の内戦へ変わった流れ
- 薩摩・長州・幕府などの立場が変化した理由
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幕末の戦争を一覧で見る
まずは、幕末に起きた主な武力衝突を年代順に見てみましょう。すべてを同じ「倒幕戦争」と考えるのではなく、戦った相手と争点に注目すると流れがつかみやすくなります。
| 年 | 戦争・戦い | 主な当事者 | 何をめぐる戦いか |
|---|---|---|---|
| 1863年 | 長州藩の外国船砲撃 | 長州藩と米・仏・蘭など | 攘夷の実行 |
| 1863年 | 薩英戦争 | 薩摩藩とイギリス | 生麦事件の賠償・外交問題 |
| 1864年 | 禁門の変 | 長州藩と会津・薩摩など | 京都政局と朝廷への影響力 |
| 1864年 | 四国艦隊下関砲撃 | 長州藩と英・仏・米・蘭 | 外国船砲撃と関門海峡の通航 |
| 1864年 | 第一次長州征討 | 幕府・諸藩と長州藩 | 禁門の変後の長州処分 |
| 1866年 | 第二次長州征討 | 幕府・諸藩と長州藩 | 長州の再処分と幕府への服従 |
| 1868年 | 鳥羽・伏見の戦い | 旧幕府軍と薩長中心の新政府軍 | 王政復古後の政権と徳川家の地位 |
| 1868年 | 上野戦争 | 彰義隊と新政府軍 | 江戸での旧幕府系勢力の抵抗 |
| 1868年 | 北越戦争・会津戦争 | 新政府軍と長岡・会津など | 新政府への対応と会津処分 |
| 1868~1869年 | 箱館戦争 | 新政府軍と榎本武揚ら | 旧幕府系勢力による最後の軍事抵抗 |

幕末の戦争の大きな流れ
外国をどう退けるかという戦い → 京都政治をめぐる武力衝突 → 幕府と有力藩の戦争 → 日本の新しい政権をめぐる全国規模の内戦、と戦いの意味が変わっていきました。
幕末全体の出来事を戦争以外も含めて追いたい場合は、幕末年表で黒船来航から明治維新までの流れもあわせて読むと、各戦争がどこに位置するのかが分かりやすくなります。
外国との武力衝突が始まる
1853年のペリー来航からしばらくの間、最大の問題は外国への対応でした。幕府・朝廷・諸藩の間では「条約をどうするのか」「外国を排除するのか」「戦うなら誰が戦うのか」が争われます。そして1863年、攘夷は議論だけではなく実際の武力行使へ進みました。
長州藩が外国船を砲撃
1863年、幕府は朝廷から強く攘夷実行を求められ、5月10日を攘夷期限として諸藩へ伝えました。ただし、幕府が全国一斉に外国との戦争を始めたわけではありません。
実際に武力行使へ踏み切った代表が長州藩です。長州は関門海峡を通るアメリカ・フランス・オランダなどの外国船に砲撃を加えました。
ここで長州が掲げていたのは、まだ1867年のような明確な王政復古ではありません。外国との条約に反対し、朝廷の権威のもとで攘夷を実行させることが政治上の大きな目標でした。
つまり、この段階の戦いを「倒幕派長州対幕府側」と考えると話がおかしくなります。長州が直接戦っていた相手は外国船であり、中心的な争点も外国への対応でした。
尊王・攘夷・公武合体・佐幕・倒幕がどう違うのかは、幕末の思想と政治構想の違いで詳しく解説しています。
薩英戦争で薩摩も実戦へ
同じ1863年には、薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が起こりました。
直接の発端は前年の生麦事件です。島津久光の行列と遭遇したイギリス人が薩摩藩士に斬られ、死傷者が出ました。イギリスは薩摩側へ賠償や犯人処罰を要求し、交渉がまとまらないままイギリス艦隊が鹿児島湾へ来航します。
1863年7月、薩摩藩の砲台とイギリス艦隊との間で戦闘が始まりました。鹿児島城下にも被害が出る激しい砲撃戦となります。
この戦争で注目したいのは、「薩摩が負けたから攘夷を捨てた」という単純な話ではないことです。薩摩では島津斉彬の時代から西洋技術や軍事技術の導入が進められていました。そのうえで欧米海軍と実際に戦い、兵器・艦船・軍制の差をさらに現実的な問題として経験したのです。
戦後には薩摩とイギリスの関係も変わり、薩摩は西洋の技術や武器を利用しながら国力を高める方向へ進みます。
◆たーやんのワンポイント解説
「攘夷から開国へ変わった」とだけ覚えると、少し分かりにくいところです。外国の圧力に屈しない国を作りたいという目的と、そのためにどんな方法を使うかは別の問題でした。外国を警戒していたからこそ、西洋の技術を学ぶ必要があると考えることもできたわけです。
四国艦隊が下関を攻撃
長州藩による外国船砲撃に対し、1864年にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が下関を攻撃しました。
下関の砲台は大きな打撃を受け、長州は列強との戦闘を続けることが現実的ではないと知ることになります。
ただし、これも「外国が怖くなったので政治思想を全部捨てた」と見るべきではありません。高杉晋作らは西洋式の軍事技術を取り入れながら、長州自身の軍事力を高める方向へ進みました。
外国に対抗するため、外国から学ぶ。一見すると矛盾しているようですが、幕末後半の薩摩や長州を理解するうえではかなり重要な考え方です。
京都の政争が武力衝突へ
外国との戦争が続く一方、国内では京都を舞台に政治対立が激しくなっていました。朝廷の意思を誰が動かせるかが全国政治に大きな意味を持つようになり、藩同士の争いもついに本格的な戦闘へ進みます。
禁門の変で薩摩と長州が戦う
1863年の八月十八日の政変で、長州藩と長州に近い尊王攘夷派の公家は京都政治の中心から追われました。この政変を動かした側には会津藩と薩摩藩がいました。
翌1864年、長州勢は京都での政治的立場を取り戻そうと進出します。その直前には新選組による池田屋事件も起きており、京都の緊張は極めて高まっていました。
そして起きたのが禁門の変です。長州勢は京都で会津・薩摩などの兵と戦い、敗北しました。戦火によって京都市中にも大きな被害が出ています。
ここは幕末を理解するときに、とても重要な場面です。のちに「薩長」と呼ばれる薩摩と長州が、この時点では実際に武器を向け合っています。
薩摩は当時、幕府をすぐになくすことより、朝廷・幕府・有力諸藩を組み合わせて政治を立て直す方向にいました。長州の京都進出とは政治目標が一致していなかったのです。
薩摩・長州・会津などの関係が時期によってどう変わったのかは、幕末の藩一覧と勢力図を見るとつかみやすいでしょう。
第一次長州征討は大戦にならず
禁門の変で敗れた長州藩は、朝廷に敵対した立場とされました。幕府は諸藩へ出兵を命じ、第一次長州征討を進めます。
ただし、ここでは後の第二次長州征討のような大規模な戦闘にはなりませんでした。長州藩内では幕府への恭順を求める勢力が主導権を握り、禁門の変に関係した家老を処分するなどして幕府側の要求を受け入れます。
征討軍側でも、西郷隆盛らは長州を徹底的に攻撃するより、恭順させたうえで収拾する方向に動きました。
西郷はのちに長州と協力して新政府を作る側へ進みますが、この時点では幕府による長州処分に関わっています。幕末の人物を後の立場だけで分類すると、こうした変化が見えなくなってしまいます。
同じ1864年には水戸藩の尊王攘夷派を中心とした天狗党の挙兵も起きています。幕末の武力衝突は長州だけでなく、幕府や各藩の内部にも広がっていました。
幕府と長州が直接戦う
第一次長州征討でいったん恭順した長州ですが、藩内の政治状況は再び変わります。高杉晋作らが挙兵し、幕府に対抗する側が藩政の主導権を奪い返しました。ここから幕府と長州は、直接戦争する段階へ入ります。
第二次長州征討で幕府が苦戦
1866年、幕府は再び長州を征討するため軍を動かしました。第二次長州征討、あるいは第二次長州戦争と呼ばれる戦いです。
幕府は多数の藩に出兵を求め、長州を複数方面から攻撃しました。対する長州では、奇兵隊などの諸隊や西洋式兵器を活用した軍制が整えられ、各地で幕府側の軍勢と戦います。
ここで注意したいのは、「新式銃を持った長州と刀だけで戦った古い幕府」という構図ではないことです。幕府自身も西洋式陸軍や海軍の整備を進め、兵器や軍制の近代化に取り組んでいました。
それでも幕府は長州を屈服させられませんでした。戦争中には将軍徳川家茂が大坂城で死去し、その後休戦へ進みます。
この結果が政治に与えた意味は大きなものでした。幕府は全国の大名を従えて軍事行動を行う政権でしたが、その幕府が一つの有力藩を軍事的に従わせられなかったからです。
問題は単なる一回の敗戦ではなく、幕府が諸藩を動員しながら長州を軍事的に屈服させられなかったことで、幕府の全国的な統制力の限界が表面化したことでした。
薩摩と長州が協力へ向かう
第二次長州征討の前後には、数年前まで敵対していた薩摩と長州の関係も変わっていました。1866年には両藩の政治的連携が成立します。
薩摩が長州と接近した背景を「最初から倒幕仲間だったから」と説明することはできません。薩摩は公武合体や幕政改革を通じて政治体制を変えようとし、実際に長州を京都から排除した側でした。
ところが幕府中心の改革が思うように進まず、長州を完全に屈服させれば幕府の立場だけが大きくなるという政治上の問題も生じます。長州側も外国との実戦や藩内政争を経て、以前のような即時攘夷だけではなく軍事力と政治体制そのものを変える方向へ進んでいました。
つまり薩長連携は、最初から同じ思想だった二藩が合流した出来事ではありません。敵対していた二藩が、政治状況の変化によって協力する必要を見いだしたところに意味があります。
戊辰戦争で全国内戦へ
1867年、徳川慶喜は大政奉還を行い、幕府が持っていた政権を朝廷へ返しました。これで戦争が避けられたようにも見えますが、最大の問題が残っていました。新しい政治体制の中で、巨大な領地・軍事力・政治力を持つ徳川家をどう扱うのかという問題です。
鳥羽・伏見の戦いが始まる
大政奉還後、薩摩・長州や岩倉具視らは王政復古を進め、幕府を政治制度から外した新政府を作りました。徳川慶喜の官職辞任や領地の扱いも問題となり、旧幕府側との緊張が高まります。
1868年1月、旧幕府軍は京都方面へ進み、鳥羽・伏見で薩摩・長州を中心とする軍勢と衝突しました。これが戊辰戦争の始まりです。
旧幕府軍には幕府兵だけでなく会津藩・桑名藩などが参加していました。一方の薩長軍も、まだ後の近代国家のような全国統一軍だったわけではありません。
戦闘の途中で薩長側が朝廷の軍であることが明確になると、政治的な意味も変わっていきます。旧幕府側と行動を共にすることは、単に薩摩・長州と戦うだけではなく、新政府に抵抗することを意味するようになりました。
鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れ、徳川慶喜が大坂から江戸へ戻ると、戦争の主導権は新政府側へ移ります。
◆たーやんのワンポイント解説
ここで戦いの性格が大きく変わります。1864年の禁門の変は京都での政治的主導権をめぐる衝突でしたが、1868年には「幕府がなくなった後の日本を誰が統治するのか」が争われています。同じ薩摩・長州が登場しても、戦っている理由は同じではありません。
江戸開城と上野戦争
鳥羽・伏見の後、新政府軍は東へ進みました。旧幕府の本拠である江戸で大規模な戦闘が起これば、多数の住民を巻き込む可能性があります。
そこで新政府側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟らが交渉し、江戸城は戦闘を避けて明け渡されました。
ただし、江戸開城で戊辰戦争そのものが終わったわけではありません。旧幕臣などで構成された彰義隊は上野の寛永寺周辺に集まり、新政府軍と衝突します。1868年5月の上野戦争では彰義隊が敗れました。
江戸城の引き渡しと各地の旧幕府系勢力の抵抗は、分けて考える必要があります。徳川家が全面戦争を避けても、旧幕府に属していた人々全員が同じ判断をしたわけではありません。
北越と会津でも戦争が続く
戦争はさらに北へ広がりました。
北越では長岡藩などと新政府軍が戦います。長岡藩は河井継之助のもとで独自の立場を模索しましたが、交渉はまとまらず戦闘へ入りました。
東北では会津藩の処分をめぐる問題が大きくなります。会津藩は幕末の京都で京都守護職を務め、長州勢力と激しく対立していました。新政府側は会津の責任を追及します。
東北諸藩は会津処分をめぐって協議し、やがて奥羽越列藩同盟を形成しました。ただし、参加した諸藩が最初から一枚岩となって新政府打倒を目指していたと考えるのは正確ではありません。会津への寛大な処置を求める動きや、それぞれの藩の事情も絡んでいました。
交渉が行き詰まる中で新政府との戦闘が広がり、会津若松城も攻囲されます。会津藩は1868年に降伏しました。
幕末の藩を「倒幕藩」「幕府側の藩」と固定して覚えるより、各藩がその時点で何を守ろうとしていたのかを見るほうが、戊辰戦争までの流れは理解しやすくなります。
箱館戦争で戊辰戦争が終わる
東北での戦闘が終わっても、旧幕府系勢力の抵抗は続きました。
榎本武揚らは旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ渡り、箱館・五稜郭を中心に政権組織を築きます。そこには旧幕臣や旧幕府側で戦った人々も集まりました。
1869年、新政府軍は箱館方面へ進攻します。戦闘の末に榎本らが降伏し、戊辰戦争は終結しました。
1867年の大政奉還で幕府という制度は消滅へ向かいましたが、軍事的な抵抗が終わるまでにはさらに一年半ほどを必要としたことになります。
このため幕末の終わりを考えるときも、政治制度の区切りなら1867年、戊辰戦争まで含めた幕末維新期なら1869年までを見るという違いが生まれます。
なぜ幕末は内戦へ進んだか
ここまで戦争を順番に見てくると、幕末がなぜ戊辰戦争へ向かったのかも見えてきます。単純に「倒幕派が幕府を嫌って戦争を始めた」という話ではありません。
外交問題が政権の問題になった
幕末の出発点にあったのは外国との関係でした。
ペリー来航後、幕府は外国との条約を結ぶ必要に迫られます。しかし通商条約をめぐって朝廷の勅許を得られないまま調印したことで、「外国とどう付き合うか」という問題が、「誰に国家の重要事項を決める権限があるのか」という問題へ変わっていきました。
幕府だけでなく、朝廷や有力諸藩も全国政治へ関わるようになります。
そこから尊王攘夷、公武合体、幕政改革など、さまざまな構想が競い合いました。京都政治が過熱したのも、朝廷の意思を得ることが政策の正当性に直結するようになったためです。
そして幕府が長州を軍事的に従わせられないことが明らかになると、今度は「外国へどう対応するか」ではなく「そもそも誰が日本を統治するのか」が最大の争点になりました。
敵と味方は固定されていない
幕末の戦争を理解するとき、もう一つ欠かせないのが勢力関係の変化です。
薩摩は1864年には長州と戦い、1866年には長州と連携しました。西郷隆盛も第一次長州征討では幕府側の処理に関わり、その後は幕府を政治の中心から外す方向へ進みます。
長州藩では、外国との戦争や国内での敗北、さらに藩内政争を経るなかで、西洋式の軍事技術を取り入れながら幕府に対抗する勢力が藩政の主導権を握るようになりました。
会津藩も単純に「天皇に反対した藩」ではありません。京都守護職として朝廷を守ることと幕府への忠誠を両立させようとしていました。
このように見ると、幕末の戦争は固定された二陣営の戦争ではなく、新しい出来事を経験するたびに、それぞれの勢力が政治判断を変えていった過程だったことが分かります。
人物ごとの立場や関係まで知りたい場合は、幕末の人物一覧と相関図も参考にしてください。
軍事の近代化も同時に進んだ
幕末の戦争は、軍事技術が急速に変わった時代の戦争でもあります。
薩摩や長州だけでなく、幕府も西洋式軍制・軍艦・大砲・小銃などを積極的に導入しました。幕府には長崎海軍伝習所が設けられ、幕末末期にはフランスの協力を得た軍事改革も進められています。
そのため戊辰戦争を「近代兵器を持つ新政府軍と、刀で戦う旧幕府軍」と考えるのは実態と合いません。どちらの側にも西洋式の銃砲や近代的な部隊が存在しました。
重要なのは兵器だけではなく、それを調達する財源、人員を動員する仕組み、部隊を指揮する組織、そして全国の諸藩を政治的にまとめる力でした。
幕末の戦争は、日本の軍事技術が変わった時代であると同時に、その軍事力を誰が全国規模で統合するのかが問われた時代でもあったのです。
幕末の戦争まとめ
幕末の戦争を一つずつ見ると、薩英戦争、禁門の変、長州征討、戊辰戦争はまったく別の出来事に見えます。
ところが時系列で追ってみると、戦う理由そのものが変化していたことが分かります。
- 1863年頃は外国への攘夷や外交問題をめぐって武力衝突が起きた
- 京都では朝廷への影響力をめぐって薩摩・会津と長州が戦った
- 1866年には幕府と長州が直接戦い、幕府の全国統制に疑問が広がった
- 1868年以降は新しい政治体制と徳川家の扱いをめぐる戊辰戦争へ進んだ
つまり幕末は、最初から「幕府対倒幕派」の戦争だったわけではありません。
外国にどう対応するのかという問題が、誰が日本を統治するのかという問題へ変わり、最後には新しい政治体制をめぐる内戦になった。これが、幕末の戦争を一本につないで見るときの大きな流れです。
戦争名だけを覚えるより、「誰と誰が戦ったのか」「何をめぐって戦ったのか」「その結果、次に何が変わったのか」を追ってみてください。幕末の複雑だった出来事が、かなり見えやすくなるはずです。
幕末の戦争に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 幕末で最初の戦争は何ですか?
A. 何を「幕末の戦争」と呼ぶかによりますが、ペリー来航後の代表的な対外武力衝突としては、1863年の長州藩による外国船砲撃や薩英戦争があります。1853年の黒船来航そのものは戦争ではなく、1854年の日米和親条約も戦闘を経ずに締結されています。
Q2. 薩摩と長州は最初から味方だったのですか?
A. いいえ。1863年の八月十八日の政変では薩摩・会津が長州系勢力を京都から排除し、1864年の禁門の変では実際に薩摩と長州が戦っています。両藩が政治的な連携へ進むのは、その後に幕府・朝廷・諸藩の関係が変化した結果です。
Q3. 第一次長州征討と第二次長州征討は何が違いますか?
A. 第一次長州征討では、禁門の変後に長州側が処分を受け入れて恭順したため、大規模な戦闘には至りませんでした。その後、高杉晋作らの側が藩政の主導権を握り直したため、第二次長州征討では幕府軍と長州軍が実際に各地で戦闘を行いました。幕府が長州を屈服させられなかったことは、その後の政治情勢に大きな意味を持ちました。
Q4. 大政奉還をしたのになぜ戊辰戦争が起きたのですか?
A. 大政奉還で徳川慶喜は政権を朝廷へ返しましたが、徳川家の領地・軍事力・新政府内での地位は決まっていませんでした。王政復古後、慶喜の辞官や領地の扱いをめぐる対立が深まり、旧幕府軍と薩長側の軍勢が鳥羽・伏見で衝突しました。大政奉還だけでは、新しい政治体制の具体像まで決まっていなかったのです。
Q5. 戊辰戦争はいつ終わりましたか?
A. 戊辰戦争は1868年1月の鳥羽・伏見の戦いから始まり、東北・北越などへ広がった後、1869年に箱館で榎本武揚らが降伏して終結しました。江戸城が開城した1868年春の時点では、まだ戦争は終わっていません。