徳川御三家をわかりやすく解説|初代・場所・ランク・将軍との関係も整理

徳川御三家

江戸時代の歴史を学ぶ中で、「徳川御三家」という言葉を耳にすることは多いですが、実際にその成り立ちや役割を詳しく説明できる方は少ないかもしれません。特に、「御三家と御三卿はどっちが上?」「初代当主は誰?」「場所はなぜ尾張・紀州・水戸なの?」といった素朴な疑問は、教科書だけでは理解しづらいものです。

この記事では、そんな疑問を持つ方のために、「徳川御三家 わかりやすく」をテーマに、初心者の方でもスッと頭に入るよう丁寧に整理しました。尾張・紀州・水戸のそれぞれの家の特徴はもちろん、ランクや格式、将軍との関係性まで、歴史の流れに沿ってわかりやすく解説していきます。

御三家と御三卿の違いについても比較しながら紹介するので、序列や役割の違いで混乱していた方にも、スッキリ理解していただける内容です。学校のテスト対策や日本史の復習にも活用できる、保存版の1記事になっています。

この記事を読むとわかること

  • 徳川御三家の成り立ちと役割
  • 各御三家の初代とその人物像
  • 御三家の場所が尾張・紀州・水戸になった理由
  • 御三家と御三卿の違いや序列関係
目次

徳川御三家をわかりやすく整理する基本知識

徳川御三家1
  • 徳川御三家の成り立ちと役割とは?
  • 徳川御三家の初代はどんな人物?
  • 徳川御三家の場所はなぜこの三藩?
  • 徳川御三家のランクと家格の違い
  • 将軍を出した御三家はどこ?

徳川御三家の成り立ちと役割とは?

徳川御三家は、江戸幕府の安定と徳川家の血統維持を目的として形成された、特別な大名家です。将軍家の万一の断絶に備えて、あらかじめ後継者候補となる家系を確保するという意図がありました。ただし、制度として厳密に整備されたわけではなく、結果的に形成され、後に「御三家」として位置づけられた側面が強いです。

家康の死後、三人の息子たちが尾張・紀州・水戸にそれぞれ封じられました。これが御三家の起源です。徳川義直(尾張)、徳川頼宣(紀州)、徳川頼房(水戸)がその初代当主となり、それぞれの地で藩主として統治を行います。これら三家は、いずれも徳川家康の直系男子を始祖としており、幕府からも特別視されていました。

この御三家は、形式上は他の大名と同様に藩政を行う存在でしたが、将軍家の補佐や後継者の候補としての役割があった点で大きく異なります。実際、8代将軍徳川吉宗や14代家茂は御三家から出ています。また、御三家には徳川の名字の使用や三つ葉葵の家紋の使用が許可されるなど、格式の高さを示す特権が与えられていました。

一方で、御三家のうち水戸家については、設立当初は将軍候補としての立場がやや弱く、のちに格上げされて御三家として扱われるようになります。その背景には、家康の晩年に誕生した頼房が、他の兄たちよりも家格で下と見られていたことなどが影響しています。

また、御三家は軍事的にも重要な配置がされていました。江戸を守るための戦略的な拠点に位置し、外様大名の動きを牽制するという軍事的側面もあったのです。これにより、幕府は政権を維持するための布陣を整えていたことがわかります。

つまり、徳川御三家は、政治的にも軍事的にも徳川幕府の屋台骨を支える存在であり、制度的な裏付けよりも、実質的な重要性と必要性から自然発生的に形成された役割だったと言えるでしょう。

徳川御三家の初代はどんな人物?

徳川御三家の初代当主は、いずれも徳川家康の息子であり、それぞれが将軍家を支えるにふさわしい人物として封じられました。三人の人物像は、それぞれの家の性格や後の動きに大きな影響を与えています。

まず、尾張徳川家の初代は徳川義直です。家康の九男で、非常に聡明で礼儀正しく、学問を重んじる姿勢で知られていました。名古屋城を居城とし、藩政においても理知的な判断を重ね、名君として名を残しています。一方で、幕府に対して批判的な姿勢を見せることもあり、その後の尾張家が「幕府の批判勢力」としての色合いを持つきっかけとなりました。

次に、紀州徳川家の初代は徳川頼宣です。家康の十男で、勇猛果敢な性格を持ち、軍事的な才能に優れていたとされます。彼は駿河藩主を経て紀州藩に封じられ、和歌山城を拠点に藩政を行いました。紀州藩は海運や京・大坂との関係が深く、幕府の経済的・軍事的な要所として重要な役割を担うことになります。

最後に、水戸徳川家の初代は徳川頼房です。家康の末男で、比較的若い時期に水戸に封じられました。当初は徳川姓の使用が許されておらず、他の兄たちより家格が劣る扱いを受けていました。しかし、のちに徳川姓を名乗ることを許され、御三家の一角として認められるようになります。頼房は文武に通じ、特に学問に力を入れたことが知られています。

このように、義直は学者肌、頼宣は武将肌、頼房は文化人という特色を持っており、それぞれの藩が持つ気風の基礎を形づくったと言えるでしょう。各家の初代がどのような人物であったかを知ることは、御三家の後の展開や性格を理解する上で重要な手がかりになります。

徳川御三家の場所はなぜこの三藩?

徳川御三家が尾張・紀州・水戸という三つの藩に設けられた背景には、単に家康の子を封じたという理由だけでなく、戦略的・地理的な意味合いが強くありました。つまり、将軍家の後継確保という政治的役割だけでなく、軍事と物流の要所を押さえる配置でもあったのです。

まず、尾張徳川家は名古屋城を中心とする尾張藩に設けられました。この地は東海道と中山道が交差する交通の要所であり、関西から江戸へ進軍する外様大名に対する防衛拠点として最適でした。豊臣政権時代には譜代の福島正則が配されていた地域でもあり、その重要性は古くから認識されていたことがわかります。

紀州徳川家が設けられた和歌山もまた、紀淡海峡を挟んで西国諸藩との接点に位置していました。海上交通の要衝であり、太平洋ルートを利用して江戸へ進出する勢力を封じる防波堤の役割を担っていました。特に海軍力を持つ西国大名に対する牽制には、この地が最適だったと言えます。

一方、水戸徳川家が設置された常陸国は、江戸の北東に位置し、陸奥・出羽方面から江戸へ侵入する軍の進路上にあります。水戸街道という要路を押さえるだけでなく、江戸城から比較的近いため、緊急時には宗家を直接支援することも可能でした。このような地理的特性から、水戸藩主は江戸に常住する定府大名とされ、「副将軍」とも呼ばれるようになります。

このように考えると、御三家が置かれた場所は、すべて江戸防衛のための要衝であり、軍事戦略としても非常に理にかなった配置であったことがわかります。単なる血縁者の分封ではなく、幕府の維持と安定を強固にするための巧妙な布陣だったのです。

徳川御三家のランクと家格の違い

御三家は、すべて親藩の中でも最高の家格を持っていましたが、その中でも細かな序列が存在していました。一般に、尾張徳川家が筆頭、次に紀州徳川家、最後に水戸徳川家という順が基本とされています。これは家康の子どもたちの生まれ順や、藩の設置時期、石高などから判断されたと考えられます。

尾張家は石高62万石を有し、名古屋城という巨大な拠点を持ち、家康の死後すぐに封じられたことからも、その家格の高さがわかります。また、初代の義直が幕府内でも強い存在感を持っていたため、政治的にも発言力がありました。

紀州家は56万石と尾張家に次ぐ石高を持ち、和歌山を拠点として西日本方面に強い影響力を持っていました。軍事的要所に位置していたことから、幕府にとって欠かせない防衛拠点となっていました。また、後に将軍を複数輩出したことにより、家格が実質的に向上したとも言えます。

一方、水戸家は35万石と他の2家に比べて石高が少なく、当初は「徳川」を名乗ることも許されていませんでした。しかし、江戸に常住する定府大名としての役割が与えられ、将軍家を補佐する立場が強調されていくにつれて、形式的には他の御三家と同格とされるようになりました。

さらに、朝廷から授けられる官位にも差が見られます。尾張・紀州両家は従二位権大納言が極官であるのに対し、水戸家は正三位権中納言止まりとされていました。このことも、微妙な家格の差を象徴しています。

このように、御三家は形式上は同格とされながらも、実際には石高・官位・将軍輩出実績などによって、目に見えないヒエラルキーが存在していたのです。その背景を知ることで、江戸時代の徳川政権の構造や緊張関係をより深く理解することができます。

将軍を出した御三家はどこ?

御三家の中で実際に将軍を出したのは、紀州徳川家と水戸徳川家です。ただし、水戸家から将軍になった人物は、形式上は御三卿である一橋家の当主から選ばれているため、水戸家からの将軍輩出とする見方には注意が必要です。

最初に将軍となったのは紀州家5代目の徳川吉宗です。7代将軍家継が早逝し、将軍家の嫡系が断絶したことを受けて、宗家から最も血縁が近く、政治的にも実績を挙げていた吉宗が8代将軍として迎えられました。これにより紀州徳川家は、将軍家の血統を継ぐ重要な家柄と認識されるようになります。

また、吉宗の血を引く14代将軍・徳川家茂も紀州徳川家からの輩出であり、2人の将軍を出した紀州家は、実質的に御三家の中で最も将軍家に近い立場を確立したと言えるでしょう。

一方、水戸家からは直接将軍になった人物はいませんが、9代藩主・徳川斉昭の子である徳川慶喜が、後に一橋家から15代将軍に就任しています。この場合、水戸家の血筋であることは間違いありませんが、制度上は一橋家からの選出という扱いになります。そのため、家格としての水戸家が将軍を出したとは言いづらい部分があります。

尾張家に関しては、将軍候補として常に有力視されていたものの、実際には一度も将軍を出していません。これは、尾張家の保守的な家訓や、大奥や幕臣たちの政治的な思惑が影響したためと考えられています。

このように、御三家の中で将軍に最も近かったのは紀州家であり、実績としても他家を上回っています。御三家という枠組みは、制度的には同格とされつつも、将軍輩出という面では明確な差が存在していたのです。

徳川御三家をわかりやすく他家と比較

徳川御三家2
  • 御三家と御三卿はどっちが上なのか?
  • 将軍継承における御三家の立場
  • 尾張徳川家の特徴と歴史的立場
  • 紀州徳川家が将軍家に選ばれた理由
  • 水戸徳川家と水戸学の影響とは?
  • 幕末における御三家の立場と行動
  • 徳川御三家のまとめと覚え方のコツ

御三家と御三卿はどっちが上なのか?

御三家と御三卿は、いずれも徳川家の血筋を保ち、将軍家を支えるために設けられた家系ですが、格式や立場には明確な違いがあります。どちらが上かという問いに対しては、時代や状況によって答えが変わる面もありますが、一般的には御三家のほうが家格・地位の点で上とされていました。

御三家は、初代将軍・徳川家康の子どもたちを藩主とした、尾張・紀州・水戸の三家を指します。彼らはそれぞれ大名として独自の領地を持ち、藩政を行う一方で、将軍家が断絶した場合には後継者を出す可能性を持っていました。石高も高く、格式も親藩の中では最上位とされていました。

一方、御三卿は8代将軍・徳川吉宗の代になってから創設された、一橋・田安・清水の三家です。これらの家は実際には大名ではなく、江戸城内に屋敷を構えて生活し、藩政を行うこともありませんでした。領地はあっても実際に統治しているわけではなく、収入源として割り当てられていたにすぎません。

御三卿の役割は、将軍家に後継者がいない場合の“スペア”として、血筋をつなぐことにありました。実際、15代将軍・徳川慶喜は御三卿の一橋家から出ています。こうした経緯から、将軍に最も近い家系として評価されることもありますが、形式的な家格や官位、幕府内での序列を見ると、御三家のほうが上位に位置づけられていたのは確かです。

ただし、時代が下るにつれて御三卿の影響力が高まり、実質的には御三家を凌ぐ存在となることもありました。特に幕末期には、一橋家の発言力が非常に強くなり、政治の中枢にまで関わるようになります。

このように、制度としての格付けでは御三家が上、しかし実務面では御三卿が台頭する場面も多く見られました。どちらが上かは単純に比較できる問題ではなく、それぞれの成立背景や役割を理解した上で考える必要があります。

将軍継承における御三家の立場

江戸幕府において、将軍の継承は幕府の存続に直結する重要な問題でした。将軍家に子どもがいない、または幼少すぎて政務が行えない場合、代わりに後継者を立てる必要がありました。その候補として特別な立場にあったのが、徳川御三家です。

御三家は、将軍家と同じく徳川家康の血を引く直系の家系であり、その中でも尾張・紀州の二家は特に将軍候補とされていました。これは、江戸時代を通して明文化された制度ではなかったものの、慣例的に将軍家が断絶した場合にはこの二家から養子を迎えるという取り決めがあったためです。

実際、8代将軍・徳川吉宗は紀州家から、14代将軍・徳川家茂も同じく紀州家から出ています。水戸家に関しては、形式上は将軍候補としての扱いはされていませんでしたが、血縁としての近さや江戸常住の立場から、補佐役として重要な役割を果たしていました。

尾張家は、家康の九男・徳川義直を初代とし、家格的には御三家の筆頭とされていましたが、将軍を輩出することはありませんでした。これは、家内で「将軍位を争わない」という家訓があったとされ、実際に将軍候補に推された際にも自ら辞退するなど、慎重な立場を取っていたことが関係しています。

水戸家の中から将軍になったとされる徳川慶喜は、実際には御三卿の一橋家からの登用という扱いになっており、水戸家の正式な当主から将軍が出たわけではありません。こうした点からも、将軍継承において御三家の役割は、宗家を補う存在でありながら、必ずしも全ての家が同等の可能性を持っていたわけではないことがわかります。

このように、御三家は将軍継承のための「予備の家系」として整備されましたが、実際の人選には幕閣の意向、大奥の影響、政治的な駆け引きなども絡み、単純な家格や血統だけで決まるものではなかったのです。

尾張徳川家の特徴と歴史的立場

尾張徳川家は、御三家の中で最も格式が高いとされる家柄であり、名古屋藩62万石という大藩を治めていました。初代は家康の九男・徳川義直で、彼の代から幕末まで17代にわたり家系が続いています。尾張家はその地理的条件や政治的背景から、将軍家の筆頭分家として常に注目されてきました。

尾張徳川家が治めた尾張藩(現在の愛知県西部)は、東海道と中山道が交差する交通の要衝であり、西国から江戸へ進軍する際の重要な防衛拠点でもありました。この戦略的立地が、尾張家の家格の高さに大きく寄与しています。

また、義直は非常に聡明で学識も深く、儒学や文芸にも精通していました。その気風は尾張藩全体に受け継がれ、知識人を多く輩出する藩風が形成されました。さらに、「幕府に対して物申す姿勢」を示す藩主も多く、保守的な幕府にとっては扱いが難しい存在でもあったと言えます。

特に注目すべきは、尾張藩が「王命により幕命を拒否する」という極秘の藩訓を持っていたことです。これは、天皇の命があれば幕府の命に従わなくてよいというもので、表向きは幕府に忠誠を誓いながらも、最終的には朝廷の側に立つ用意があったことを示しています。このような立場から、幕府内でも一線を画した存在として見られるようになりました。

ただし、尾張家は将軍を一度も輩出していません。将軍候補として名前が挙がることはありましたが、幕閣の反対や家訓の存在、そして政治的な思惑などが重なり、実現には至りませんでした。この点は、将軍を輩出した紀州家とは対照的です。

尾張徳川家のもう一つの特徴として、文化財の保存に力を入れていたことが挙げられます。現在も「徳川美術館」などを通じて、歴史的価値のある書画や工芸品が多数公開されており、その文化的貢献は今に引き継がれています。

紀州徳川家が将軍家に選ばれた理由

紀州徳川家は、御三家の中でも実際に将軍を輩出した数が最も多い家系です。特に8代将軍・徳川吉宗を筆頭に、14代将軍・徳川家茂など、将軍家の血統が断絶しかけた場面で重要な役割を果たしてきました。では、なぜ尾張家ではなく、紀州家が将軍に選ばれたのでしょうか。

第一に、血統的な近さが挙げられます。吉宗は徳川家康の曾孫にあたる人物で、将軍家が7代家継で断絶した際、比較的宗家との血縁が近かったことが有利に働きました。また、吉宗の父・光貞も早くから政治的手腕を評価されていたため、紀州家全体としての信頼感も高かったのです。

さらに重要なのが、吉宗個人の実力と政治的な判断力です。吉宗は紀州藩主として藩政改革に取り組み、財政の立て直しなどで顕著な成果を上げていました。これにより、幕府内では「有能な実務家」としての評価が高まり、将軍候補として推薦されやすくなったのです。

一方、尾張徳川家は格式上は筆頭でしたが、当時の藩主が大奥や幕閣から支持されなかったこともあり、最終的に吉宗に白羽の矢が立ちました。政治的な駆け引きが大きく関与していたことが、この人事に大きく影響したとも言えます。

また、吉宗が将軍に就任した後は、自らの子孫が将軍職を継げるよう体制を整備しました。その一環として「御三卿」制度を設け、一橋・田安・清水の三家を創設。こうして将軍職が紀州系統で続くことを可能にしました。

このように、紀州徳川家は血統、実力、政治戦略の三拍子が揃った存在であり、結果的に将軍家に選ばれるにふさわしい立場を確保したのです。特に吉宗の政治的改革は、幕府を再生させる象徴的存在として、江戸時代中期以降の将軍家にとって欠かせない礎となりました。

水戸徳川家と水戸学の影響とは?

水戸徳川家は、御三家の一角として設けられながらも、他の二家とは異なる独自の方向性を歩みました。その最大の特徴が「水戸学」と呼ばれる学問思想の発展です。この思想は、幕末の尊皇攘夷運動にも深く関わり、日本の近代史においても重要な役割を果たすことになります。

水戸家の初代は徳川頼房で、徳川家康の末男にあたります。水戸藩は関東北部の常陸国に位置しており、東北方面から江戸に侵攻される際の防衛線として機能しました。特に注目されるのが、2代藩主・徳川光圀の治世です。

光圀は「大日本史」の編纂を命じ、日本史の再解釈を通して天皇中心の国家観を打ち出しました。これは従来の武家中心の歴史観とは異なり、「天皇を中心にした国家こそが日本の本来の姿である」という思想に繋がります。この学問体系が後に「水戸学」と呼ばれ、藩を超えて全国に影響を及ぼすようになりました。

やがて、水戸学は尊皇思想へと発展します。幕末には、9代藩主・徳川斉昭がこの思想をさらに推し進め、尊皇攘夷を掲げる政治運動の先導者となりました。その影響で、孝明天皇から水戸藩に直接「戊午の密勅」が下され、幕府と朝廷の関係に大きな亀裂が入ることになります。

こうした思想的影響だけでなく、政治的な動きも活発化します。水戸藩士による「桜田門外の変」では、幕政の中心人物だった井伊直弼を暗殺。この事件は全国の尊皇攘夷派に衝撃を与え、明治維新への流れを加速させました。

ただし、水戸藩は藩内での意見対立が激しく、幕末期には政争や抗争が絶えず、政治的には不安定な状況が続きました。この点は、藩の力を結集しきれなかったという意味で大きなデメリットでもあります。

このように、水戸徳川家は将軍を輩出しなかったものの、水戸学という思想を通じて精神的・文化的な影響を幕末日本に与えた存在です。その意義は、単なる大名家という枠を超え、国のあり方にまで影響を及ぼした点にあると言えるでしょう。

幕末における御三家の立場と行動

幕末という激動の時代において、御三家はそれぞれ異なる立場や行動を取りました。いずれの家も徳川政権における特別な地位を持っていたため、政治的な動きが注目される存在だったことは間違いありません。

まず、尾張徳川家は幕末において比較的穏健な立場を取っていました。藩主・徳川慶勝は、徳川宗家や朝廷との間を取り持つ役割も果たし、最終的には新政府側に協力する形で明治維新を迎えます。尾張藩内でも保守派と改革派が対立しましたが、慶勝の指導により藩は一枚岩としての行動を取ることができました。

紀州徳川家は、14代将軍・徳川家茂を輩出した家として、幕府に対する忠誠を最後まで貫く姿勢を見せました。ただし、藩そのものの動きはあまり目立たず、幕政への直接的な影響力も限られていました。むしろ、家茂の早世によって紀州家の発言力は一時的に弱まり、政治の主導権は他の勢力に移っていきました。

一方、水戸徳川家は激動の中心にいました。9代藩主・徳川斉昭は尊皇攘夷の旗手として活発な動きを見せ、攘夷思想を幕政に反映させようと尽力します。この結果、藩士の中から過激な行動をとる者も現れ、「桜田門外の変」や「天狗党の乱」などの事件を引き起こしました。藩内での対立も激化し、幕府にとっては非常に扱いにくい存在となっていきます。

このように、御三家は幕末において一枚岩ではなく、それぞれ異なる方針と行動を取っていました。結果として、徳川家の求心力は低下し、明治維新後には三家ともに旧大名として華族に列せられる道を歩むことになります。

特に水戸家の思想的影響は新政府にも受け継がれており、その意味で政治の舞台からは退いたものの、思想的遺産は明治以降の日本にも深く根付いているのです。

徳川御三家のまとめと覚え方のコツ

徳川御三家について学ぶうえで、まず押さえておきたいのは「尾張・紀州・水戸」の三家が、それぞれ徳川家康の息子たちを祖とする家系であるという点です。この三家は将軍家が断絶した際の後継者候補として設けられ、政治・軍事・思想の面で重要な役割を果たしました。

覚え方としては、「地理×順番×特徴」で整理すると効果的です。

まず、地理的には東海道・南海道・東北街道の要所に配置されています。尾張は名古屋(東海道の要衝)、紀州は和歌山(西国と江戸の海路の要所)、水戸は茨城(水戸街道の終点)です。この配置が、幕府の防衛戦略と直結していたことを思い出すと理解が深まります。

次に順番です。御三家の家格は、尾張→紀州→水戸の順。これは石高や将軍継承の優先順位にも反映されています。尾張は筆頭ながら将軍を出さず、紀州は吉宗・家茂を輩出、水戸は将軍になった慶喜の出身家系ですが制度上は一橋家からの登用でした。

最後に、それぞれの特徴を簡単に覚えておくと便利です。

  • 尾張:家格は高いが将軍を出していない。文化重視。
  • 紀州:将軍を輩出し、吉宗の改革で存在感を強めた。
  • 水戸:学問と思想で幕末に影響を与えた。

このように、「場所」「順番」「役割」をセットで覚えておくことで、徳川御三家の基礎知識が無理なく定着します。学校のテストや日本史の理解を深める際にも、この整理方法は非常に有効です。

徳川御三家をわかりやすく総括

ここまで見てきた内容を、初めて学ぶ方にも理解しやすいように、ポイントごとにまとめてみます。徳川御三家の基礎から特徴、歴史的な役割までを、ざっくりと整理した一覧としてご活用ください。

  • 徳川御三家とは、尾張・紀州・水戸の三家を指し、いずれも徳川家康の息子が初代当主です。
  • 将軍家が断絶したときの後継者候補を確保するために設けられた家系です。
  • 三家とも「徳川」の名字や「三つ葉葵」の家紋使用を許された、特別な家格を持っています。
  • 尾張徳川家の初代・徳川義直は学問に優れた名君で、名古屋藩を統治しました。
  • 紀州徳川家の初代・徳川頼宣は武に秀でた人物で、後に将軍を輩出することになります。
  • 水戸徳川家の初代・徳川頼房は文化的な側面で藩政を整え、後に水戸学の土台を築きました。
  • 御三家の配置場所(尾張・紀州・水戸)は、軍事・交通の要所としての戦略性が高かったです。
  • 家格の順位は、尾張→紀州→水戸の順とされ、石高や官位にも差が見られます。
  • 将軍を実際に輩出したのは紀州徳川家(8代吉宗・14代家茂)だけです。
  • 水戸家出身の徳川慶喜は将軍になりましたが、制度上は御三卿の一橋家からの選出です。
  • 御三家と御三卿の格式では、一般的に御三家のほうが上とされていました。
  • 水戸徳川家から発展した「水戸学」は、尊皇思想の母体となり、幕末の政治にも影響を与えました。
  • 幕末には、尾張家が穏健に新政府に協力し、紀州家は幕府に忠誠を示し、水戸家は思想的中心として動きました。
  • 御三家の家風や行動は、初代当主の性格や藩の位置づけに大きく影響されていました。
  • 徳川御三家は、単なる大名家ではなく、幕府体制の支柱として軍事・政治・思想のすべてを支えていた存在です。

このように整理することで、「徳川御三家 わかりやすく」の理解がより深まったのではないでしょうか。テスト対策や日本史の予習・復習に、ぜひお役立てください。

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