このページでは、壱与(いよ)について簡潔にわかりやすく解説します。
目次
壱与について簡単に解説
壱与について簡単に解説します。
壱与が活躍した時代は弥生時代後期です。
生誕年や死没年についてはわかっていません。
「魏志倭人伝」には、壱与は卑弥呼の宗女であると書かれています。
宗女とは一族の女性のことと解釈されています。
つまり、卑弥呼の娘ではありません。
姪などにあたるのでしょうか。
卑弥呼の死後、邪馬台国では男の王が立ちましたが、国中が服さず、戦乱状態に陥りました。
そこで壱与を女王に立てたところ、戦乱が治まりました。
このとき壱与は13歳の少女だったといわれています。
受験生がおさえておきたいポイント
大学受験で日本史を勉強している受験生へ、おさえておきたいポイントをピックアップします。
受験日本史での「壱与」の重要度は★★★です。(5段階中の3)
壱与は卑弥呼の娘ではなく、一族の女性(宗女)ですので勘違いしないようにしましょう。
- 壱与は卑弥呼の一族の女性(宗女)。
- 卑弥呼の死後、男王が立ったが国が乱れたため、壱与が女王になった。
壱与のエピソード・逸話
壱与(いよ)の名前には諸説あります。
「魏志倭人伝」には「壹與(壱与)」と書かれていますが、後代の「宋書倭国伝」には「臺與(台与)(とよ)」と書かれていて、どちらかが誤りであると考えられています。
壱与の時代(3世紀後半)のことが中国の歴史書に書かれて以降、倭の五王が登場する5世紀前半まで、日本でのできごとは文書の記録に残されていません。
この間のことを「空白の150年」とか「空白の4世紀」と言ったりします。
以上、壱与についての解説でした。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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