服部半蔵正成は、徳川家康に仕えた武将として有名な人物です。
服部半蔵という名前で有名ですが、半蔵という名前は服部家の当主が代々名乗っていた通称です。
この記事では、徳川家康に仕えていたことで有名な服部正成について解説します。
この記事では、服部半蔵正成が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯を簡潔にわかりやすく紹介します。
服部半蔵正成は何をした人?
服部半蔵正成は、徳川家康の家臣として仕え、様々な戦いで活躍したことで知られています。
勇猛な武将として知られ、「鬼半蔵」の異名も伝えられています。
服部半蔵正成のプロフィール
名前 | 服部正成(はっとり まさなり/まさしげ) |
別名 | 服部半蔵(はっとり はんぞう)、鬼半蔵 |
出身地 | 三河国 |
生年月日 | 1542年 |
死亡年月日 | 1596年11月14日 |
享年 | 54歳 |
活躍した時代 | 戦国時代 |
家族 | 服部保長(父)、服部正就(子)、長坂信政の娘(妻) |
服部半蔵正成のかんたん年表
1542年 | 服部保長の子として三河国で誕生 |
1557年 | 16歳で初陣 |
1563年 | 三河国一向一揆で家康の側に付き戦う |
1570年 | 姉川の戦いで一番槍 |
1572年 | 三方ヶ原の戦いで一番槍 |
1582年 | 伊賀越え |
1584年 | 小牧・長久手の戦い |
1590年 | 小田原征伐 |
1592年 | 肥前名護屋城に出陣 |
1597年 | 死去 |
【服部半蔵正成はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
天文11年(1542年)、服部半蔵正成は、服部保長の子として三河国で生まれました。
服部半蔵は、服部保長の5男か6男だったと言われています。
服部半蔵の父の保長は、もとは伊賀国の忍者だったと言われていますが、室町幕府12代将軍の足利義晴に仕えます。
しかし、室町幕府の衰退に伴い、徳川家康の祖父である三河の松平清康に仕えることになり、その後は松平広忠(家康の父)、家康の三代に仕えることになります。
服部半蔵は、6歳のころに三河国の大樹寺に預けられます。
当時の武家の5男や6男は、子どもの頃に出家させられるのが習わしでもありました。
このまま大人しく出家していたら、後の「鬼半蔵」としての勇猛な活躍はなかったかもしれません。
ですが、服部半蔵はそんな大人しいタイプではなかったのでしょう。
出家を拒否し、9歳のときに大樹寺から失踪しました。
その後、16歳の初陣までどのように過ごしていたかは分かっていません。
16歳で初陣
服部半蔵の初陣は16歳のとき、三河宇土城をめぐる松平家と今川家の攻防戦であったと言われています。
このとき、服部半蔵は戦功を立て、家康から盃と槍を拝領したと言われています。
その後の戦でも服部半蔵は戦功を立て、旗本馬廻衆として家康の側近になります。
三河一向一揆
三河一向一揆は徳川家康の前半生における最大のピンチとされています。
家康の家臣団のなかでも、一揆側につく武将も多く、大きな危機を迎えます。
服部半蔵は一向宗を信仰していましたが、家康への忠節を尽くし、一揆側と戦っています。
三河一向一揆は苦戦のすえ、家康の勝利に終わりました。
数々の戦いで活躍
その後も服部半蔵は数々の戦に参戦し、武功を立てます。
勇猛な武将として知られ、「鬼半蔵」の異名もありました。
織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が戦った1570年の姉川の戦いでは、一番槍の功績を上げました。
また、徳川家康と武田信玄が戦った1572年の三方ヶ原の戦いでも、服部半蔵は一番槍の功名を上げますが、徳川軍は大敗。
浜松城に退却する家康を守り、退却を成功させました。
また、浜松城に退却後も、味方を鼓舞するため一人城外へ行き、敵と一騎打ちのすえ討ち取り、首を手に城内へ戻ったという逸話が残っています。
三方ヶ原の戦いでの功績は家康に認められ、褒美として槍を贈られ、また伊賀衆150人を預けられました。
このとき拝領したと伝えられる槍は、服部半蔵が葬られている西念寺に保存されています。
伊賀越えでの活躍
1582年、織田信長が明智光秀の謀反によって討たれる本能寺の変が起こります。
このとき、徳川家康は少数の家臣のみを引き連れて、堺に滞在していました。
明智光秀にとって、信長の同盟者である家康は標的となります。
このとき、服部半蔵は伊賀と甲賀の地を通って、伊勢を経由して三河に帰還することを提案します。
服部半蔵正成の父の保長は伊賀の忍出身でしたので、その縁を使い、服部半蔵は伊賀と甲賀の地侍と交渉し、家康を警護し無事に通行する助けを求めます。
このことによって、危機を乗り越え家康は伊賀越えに成功し、三河に帰還することができました。
その後
その後も服部半蔵は徳川家康に付き従い、数々の戦いで活躍します。
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が衝突した小牧・長久手の戦いでは鉄砲隊を率いて活躍。
徳川家康が豊臣秀吉に従った後も、小田原征伐などで活躍しました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は、朝鮮半島に渡ることはありませんでしたが、肥前名護屋城で鉄砲奉行として従軍した記録が残っています。
この肥前名護屋城での従軍が服部半蔵正成にとって最後の出陣となりました。
1597年、服部半蔵正成は病没し、西念寺(東京都新宿区、四ツ谷駅の近く)に葬られました。
服部半蔵正成のエピソードや逸話
松平信康との関係
1579年、徳川家康の正妻である築山殿(瀬名姫)と、嫡男である松平信康が自害に追い詰められるという事件が起きます。(築山殿事件)
服部半蔵は松平信康の守役だったと言われており、関係性が深かったようです。
服部半蔵は信康が切腹する際の介錯を命じられますが、信康のことを哀れに思った半蔵は、刀を投げ捨てて落涙し、介錯ができなかったそうです。
代わりに、天方通綱という武将が信康の介錯を務めました。
これを聞いた家康は、「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言って服部半蔵の忠節を評価したと言われています。
また、服部半蔵が葬られている西念寺には、松平信康の供養塔もあり、これは服部半蔵が建立したと伝えられています。
服部半蔵正成は忍者なの?
服部半蔵は漫画や小説などで忍者キャラとして描かれることも多いのですが、忍者ではありません。
服部半蔵正成の父である服部保長は伊賀国の地侍出身で、忍者でもあったと言われていますが、伊賀を出て三河で暮らし、子の服部半蔵正成は忍者ではなかったようです。
服部半蔵正成の子孫は?
服部半蔵正成は、その知名度のわりには、大名になったりすることはなく、あまり出世はできなかったと言っていいでしょう。
服部半蔵正成の死後、嫡男の正就が服部家を継ぎ、徳川家に仕えますが、改易されてしまいます。
しかしその後、服部家の子孫は桑名藩に仕え、家老職を務める家柄となりました。
服部家は明治時代まで存続し、幕末から明治にかけての服部家の当主であった服部正義は明治以降の三重県の発展に尽力しました。
服部半蔵正成の墓は?
服部半蔵の墓は、東京都新宿区の西念寺にあります。
おわりに
服部半蔵正成について、何をした人なのかということや、どんな人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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