こんにちは、日本史のススメのたーやんです。
幕末を勉強していると、「尊王攘夷」「公武合体」「佐幕」「倒幕」と、似ているようで違う言葉が次々に出てきます。
しかもややこしいのが、薩摩藩は長州藩と戦ったあとに手を結び、西郷隆盛は幕府による長州征討に関わったあとで倒幕へ向かい、岩倉具視は公武合体を進めたあとに王政復古を推進していることです。
これを「幕府側と倒幕側が戦った時代」とだけ覚えようとすると、どうしても途中で話が合わなくなるんですよ。
幕末を理解するコツは、人や藩を固定した派閥に入れるのではなく、その時点で「外国とどう向き合うのか」「幕府と朝廷をどうするのか」「誰が日本の政治を担うのか」という問いに、どんな答えを出していたのかを見ることです。
この記事では、用語の意味だけでなく、それぞれの考えがなぜ生まれ、なぜ途中で変わっていったのかまで追っていきます。
- 開国・攘夷・尊王攘夷の意味と違い
- 公武合体・佐幕・倒幕が目指した政治
- 薩摩・長州などが立場を変えた理由
- 大政奉還から王政復古へ進んだ流れ
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幕末の思想は政党名ではない
最初に押さえておきたいのは、尊王攘夷派、公武合体派、佐幕派、倒幕派といった言葉を、現代の政党のように考えないことです。
幕末の政治では、複数の問題が同時に動いていました。それぞれの問題について違う答えを持つ人物も珍しくありません。

幕末には複数の争点があった
幕末の人々が考えなければならなかった問題は、一つではありません。
まず外国との関係です。欧米諸国との通商を受け入れるのか、それとも外国勢力を遠ざけるのか。さらに外国の軍事力に対抗するには、西洋の技術を取り入れるべきなのかという問題もありました。
次が朝廷と幕府の関係です。外交のような国家的な問題を、従来どおり幕府が決めてよいのか。それとも天皇や朝廷の意思が必要なのか。有力な藩も国政に参加させるべきなのか。
そして幕末後半になると、さらに大きな問題が出てきます。
そもそも徳川幕府を中心とした政治体制を残すのか、それとも別の全国政権を作るのか。
この問いへの答えが変わるにつれて、公武合体から倒幕へ進む人物や藩が現れていきました。
幕末の立場を見るときは、「外国への態度」と「国内政治の形」を分けて考えると分かりやすくなります。
尊王だから倒幕とは限らず、攘夷だから西洋技術を拒否するとも限りません。
尊王と倒幕は同じではない
特に注意したいのが、「尊王=倒幕」と考えてしまうことです。
尊王とは、天皇や朝廷を政治的・道徳的な権威として重んじる考えです。しかし江戸幕府そのものも、天皇から征夷大将軍に任命されることで正統性を得ていました。
つまり、天皇を敬いながら幕府を支えることは十分に両立したわけです。
実際、幕末の孝明天皇は攘夷を求めましたが、幕府をすぐに廃止して別の政府を作ろうとしていたわけではありません。朝廷と幕府が協力して国難に対応する道も模索されていました。
後に倒幕へ進んだ人々を最初から「倒幕派」と考えると、この時期の選択肢が見えなくなってしまいます。
開国と攘夷は何が違う?
幕末前半で最大級の問題になったのが、欧米諸国にどう対応するかでした。ここから「開国」と「攘夷」という言葉が前面に出てきます。
開国は外国への服従ではない
幕末の開国は、「外国が好きだから国を開こう」という単純な話ではありません。
1853年にペリー艦隊が来航すると、幕府は軍事衝突を避けながら交渉を進め、1854年に日米和親条約を結びました。ただし、この条約で本格的な貿易が始まったわけではありません。
日米和親条約では下田・箱館での補給などが認められ、本格的な通商は1858年の日米修好通商条約から進んでいきます。
開国を支持した人々の中には、海外の技術、軍艦、兵器、知識、貿易などを利用しなければ、日本そのものを守れないと考える人もいました。
勝海舟はその代表例でしょう。勝は蘭学や西洋兵学を学び、長崎海軍伝習所で海軍技術を身につけました。幕臣でありながら、徳川家だけを見るのではなく、日本全体の海防や海軍のあり方を考えていきます。
開国は、外国に従うことではなく、外国との関係を利用しながら日本の安全を確保する構想にもなり得たのです。
攘夷も外国嫌いだけではない
では攘夷はどうでしょうか。
「外国人を追い出せ」という感情だけで説明されることがありますが、それだけでは不十分です。
19世紀の東アジアでは、清がアヘン戦争でイギリスに敗れています。日本にも外国船がたびたび接近しており、外国勢力によって日本の主権や社会秩序が脅かされるのではないかという危機感がありました。
つまり攘夷には、外国への反感だけでなく、日本が他国に支配されることを避けたいという安全保障上の発想も含まれていました。
さらに面白いのは、攘夷を唱えながら西洋の知識を学ぶ人物がいたことです。
吉田松陰は外国への警戒心を持ちながら、ペリー再来航の際には外国船に乗って海外へ渡ろうとしました。相手に対抗するためには、相手を知らなければならないと考えたわけです。
◆たーやんのワンポイント解説
「開国派=西洋好き」「攘夷派=西洋嫌い」と考えると、幕末の人物はかなり分かりにくくなります。むしろ両者とも「どうすれば日本を守れるか」を考え、その方法について意見が違ったと見るほうが実態に近いですよ。
尊王攘夷とは何だったのか
尊王攘夷は、「尊王」と「攘夷」が結びついた考えです。
ただし、これも最初から幕府を倒す思想だったわけではありません。
1858年、幕府は朝廷から通商条約締結の勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印しました。ここで外国との問題と朝廷の権威が結びつきます。
「天皇の意思を無視して幕府が外国との条約を結んでよいのか」という批判が生まれたためです。
その後、「朝廷の意思を重んじ、外国勢力を排除すべきだ」という尊王攘夷運動が政治的な力を持つようになりました。
ただし尊王攘夷を唱えた人々も一枚岩ではありません。幕府に攘夷を実行させようとする人もいれば、幕府そのものへの批判を深めていく人もいました。
| 考え方 | 中心となる発想 | 必ずしも意味しないこと |
|---|---|---|
| 開国 | 外交・通商を受け入れ、海外の技術や知識も利用する | 外国への無条件の服従 |
| 攘夷 | 外国勢力を排除・抑制し、日本の自主性を守る | 西洋知識をすべて拒否すること |
| 尊王 | 天皇・朝廷の権威を重んじる | ただちに幕府を倒すこと |
| 尊王攘夷 | 朝廷の権威と攘夷を結びつける | 最初から統一された倒幕運動 |

公武合体と佐幕は何が違う?
尊王攘夷と並んで幕末政治の中心になったのが、公武合体です。そして幕府を支える立場を示す言葉として佐幕もあります。この二つも同じ意味ではありません。
公武合体は朝廷と幕府の協調
「公」は朝廷、「武」は幕府・武家を意味します。
公武合体とは、朝廷と幕府を対立させるのではなく、両者が協力することで政治を立て直そうとする構想でした。
代表的な出来事が、孝明天皇の妹である和宮と将軍徳川家茂の婚姻です。幕府は朝廷との関係を深めることで、自らの政治的な立場を立て直そうとしました。
ただ、公武合体にもさまざまな形があります。
幕府を中心に置き、朝廷の権威によって幕府を支えようとする考えもあれば、朝廷・幕府・有力諸藩を組み合わせて国政を行おうという考えもありました。
そのため、公武合体に関わった薩摩藩などが、のちに幕府中心の政治から離れていっても、それだけで矛盾とは言えません。
佐幕は幕府を支える立場
佐幕とは文字どおり、幕府を支える立場です。
ただし、佐幕だから攘夷、あるいは佐幕だから近代化に反対というわけではありません。
幕府自身が海軍を整備し、西洋式の軍制を導入し、外国奉行を置いて外交機構を作っていました。幕末の幕府も国際環境に対応しようとしていたのです。
この点から見ると、「古い幕府対近代的な倒幕勢力」という図式では幕末は説明できません。
問題になったのは、西洋技術を採用するかどうかだけではなく、誰が全国の政治・軍事・外交をまとめるのかでした。
会津は尊王と佐幕を両立した
尊王と佐幕が両立することを示す分かりやすい例が会津藩です。
会津藩主の松平容保は京都守護職となり、京都の治安維持と朝廷の警護を担いました。同時に、徳川幕府への忠誠も重視しています。
会津側から見れば、「朝廷を守ること」と「幕府を支えること」は矛盾していませんでした。
ところが1867年の王政復古以後、天皇を中心とする新政府と旧幕府が対立する政治状況になると、それまで両立していた二つが分かれていきます。
幕末を後から見ると会津が「新政府の敵」に見えますが、それをそのまま1850年代や1860年代前半に当てはめないことが大切です。
なぜ倒幕へ変わったのか
幕末最大の疑問の一つが、「尊王攘夷や公武合体を唱えていた人々が、なぜ倒幕へ向かったのか」でしょう。
ここでは思想が突然入れ替わったのではなく、事件を経験するたびに「どの方法なら目的を実現できるのか」が問い直されていきました。
条約問題が幕府の権威を揺らした
1858年の日米修好通商条約は、大きな転機でした。
幕府は朝廷の勅許を得られないまま条約に調印します。その後、反対派への処罰である安政の大獄が進みました。
ここで問題になったのは、条約の内容だけではありません。
「日本全体に関わる外交を、幕府だけで決められるのか」という政治の正統性そのものが問われるようになります。
さらに1860年には大老井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されました。幕府は朝廷との協調によって政治を立て直そうとしますが、政争は収まりません。
京都が政治の中心になった
幕末後半になると、江戸だけでなく京都が全国政治の舞台になります。
なぜなら、各勢力が自分たちの政策を正当化するために、朝廷の意思や勅命を必要とするようになったからです。
1863年には将軍徳川家茂が上洛し、幕府は5月10日を攘夷期限として朝廷へ示します。長州藩は実際に下関海峡を通過する外国船へ砲撃しました。
一方、同年の八月十八日の政変では、薩摩藩・会津藩などが長州系の尊王攘夷勢力を京都から排除します。
つまり、この時点では薩摩と長州は味方ではありません。
1864年の禁門の変でも、薩摩・会津側と長州は戦っています。
外国との戦争が方法を変えた
1863年には薩英戦争、1864年には米英仏蘭四国艦隊による下関攻撃が起こりました。
薩摩と長州は欧米諸国の軍事力を実戦で経験します。
だからといって、戦争の翌日に「攘夷は間違いだった。これからは外国と仲良くしよう」と考えたわけではありません。
むしろ重要なのは、外国に従属しない日本を作りたいという目的を残しながら、そのための方法を変えたことです。
現状の軍事力で外国船を追い払うことが難しいなら、西洋式の兵器・船舶・軍制を導入して、日本自身の力を高めなければならない。
攘夷という目的から、軍事近代化と国家の作り直しへ。ここが幕末の思想変化を見るうえで大切な部分です。
◆たーやんのワンポイント解説
幕末の人々は、現実の失敗から学んでいます。「思想を捨てた」というより、「この方法では目的を達成できない」と判断して別の方法へ移った、と考えると薩摩や長州の行動がぐっと分かりやすくなります。
幕府の長州統制が行き詰まる
1864年の禁門の変後、長州藩は朝廷に敵対した立場とされ、幕府による長州征討を受けました。
いったん長州では幕府への恭順を求める勢力が主導権を持ちます。しかし高杉晋作らが挙兵し、再び幕府に対抗する方向へ動いていきます。
その長州と、かつて京都で長州を排除した薩摩が接近します。
1866年には薩摩と長州の政治的連携が成立。同年の第二次長州征討では、幕府側は長州を屈服させられませんでした。
ここで有力諸藩から見た幕府の意味が変わってきます。
「幕府を改革して全国政治を立て直すことができるのか。それとも別の仕組みが必要なのか」。この問いに対する答えが、倒幕方向へ移る勢力を増やしていきました。
薩摩と長州はなぜ変わった?
幕末の思想変化を理解するなら、薩摩藩と長州藩を見るのが一番分かりやすいでしょう。どちらも最初から倒幕を目指していたわけではありません。

薩摩は公武合体から倒幕へ
薩摩藩では島津斉彬の時代から、西洋技術を利用した軍事・産業の改革が進められていました。
その後、島津久光は朝廷・幕府・有力諸藩を組み合わせた政治改革を求めます。この段階の薩摩は、幕府をなくすことより、幕府を含む政治体制を作り直す方向にいました。
実際、1863年の八月十八日の政変では会津藩などと協力して長州勢力を京都から排除し、翌年の禁門の変でも長州と戦っています。
西郷隆盛も第一次長州征討では幕府側の立場で活動しました。
ところが幕府中心の改革が進まず、長州を徹底的に排除すれば幕府だけが優位になる状況も生まれます。そこに薩英戦争後の外交関係の変化なども重なり、薩摩は長州との連携へ動きました。
つまり薩摩は、「最初から幕府が嫌いだったから倒幕した」のではありません。
幕府を含む政治改革を試した結果、幕府中心では全国政権の再編が難しいという判断へ移っていったと見るほうが分かりやすいでしょう。
長州は攘夷実行から倒幕へ
長州藩は1860年代前半、尊王攘夷を前面に出しました。
1863年には下関で外国船を砲撃し、京都でも朝廷を通じて攘夷を実行させようとします。
しかし八月十八日の政変で京都から追われ、1864年の禁門の変でも敗北。さらに四国艦隊による下関攻撃も受けました。
国内でも国外でも行き詰まったわけです。
その後の長州では、高杉晋作らが西洋式装備や新しい軍事組織を積極的に使いながら幕府へ対抗していきます。
ここにも、「目的の継続と方法の変更」が見えます。
外国の圧力に屈しない国を作りたい。そのためには、外国とただ戦うのではなく、外国の技術も取り入れ、国内の政治体制まで変えなければならない。
長州の政治目標は、即時の攘夷から幕府中心の秩序そのものを変える方向へ移っていきました。
人物から思想の変化を見る
幕末の思想は、人物の歩みを見るとさらに理解しやすくなります。ここでは岩倉具視、西郷隆盛、勝海舟を見てみましょう。
岩倉具視は公武合体から転じた
岩倉具視は、幕末の立場が固定されていなかったことを示す代表的な人物です。
1858年には日米修好通商条約の勅許に反対し、その後は公武合体の一環として和宮降嫁を推進しました。
そのため尊王攘夷派から批判され、政治の表舞台を離れています。
ところが1867年になると討幕・王政復古へ転じ、大久保利通らと新しい政権作りを進めました。
公武合体と王政復古を別々の人物が唱えたのではありません。同じ人物が政治状況を見ながら構想を変えています。
西郷隆盛も最初から倒幕ではない
西郷隆盛も同じです。
島津斉彬に取り立てられ、のちに島津久光のもとで薩摩藩政へ復帰した西郷は、1864年には長州と対立する側にいました。
それがのちに長州との連携を進め、王政復古では新政府側の中心人物となります。
さらに1868年には勝海舟との交渉を通じ、江戸での大規模戦闘を避ける方向へ動きました。
西郷を「倒幕派」という一言だけで覚えると、この変化は説明できません。
その時々に、何を実現しようとしていたのかを見る必要があります。
勝海舟は幕臣でも倒幕派でもない
勝海舟は幕臣です。しかし「幕臣だから幕府を何が何でも残そうとした」と考えると、その行動はつかみにくくなります。
勝は西洋式海軍の必要性を早くから唱え、長崎海軍伝習所で学び、1860年には咸臨丸で太平洋を渡っています。
幕府の海軍を作る立場にいながら、諸藩の人材も含めた幅広い海軍構想を持っていました。
戊辰戦争では西郷隆盛と交渉し、江戸城開城へ進みます。
勝にとって重要だったのは、「幕府を守るか倒すか」という二択だけではなく、日本全体にとってどの選択が現実的かという問題だったと見ることができます。
人物を見るときのポイント
「○○派だった」と覚えるより、「その時点で何を守ろうとし、どの政治体制ならそれを実現できると考えていたのか」を見ると、幕末の人物像が立体的になります。
大政奉還と王政復古の違い
幕末政治の最後を理解するうえで、大政奉還と王政復古の違いも欠かせません。この二つは連続していますが、意味は同じではありません。
大政奉還で幕府は何をした?
1867年、第15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷へ返上する大政奉還を行いました。
ここで注意したいのは、大政奉還を「慶喜の完全降伏」と考えないことです。
幕府という制度をなくしても、徳川家は広大な領地、軍事力、行政組織を持つ巨大な政治勢力として残ります。
新しい政治体制が諸侯による会議のような形になれば、慶喜や徳川家がそこで大きな役割を持つ可能性もありました。
大政奉還によって、「幕府を倒す」というだけでは政治目標になりにくくなったとも言えます。すでに将軍自身が幕府の政権を返してしまったからです。
王政復古は新政府を作る政変
そこで重要になるのが1867年12月の王政復古です。
王政復古では幕府が廃止され、従来の朝廷の摂政・関白なども改められ、新たに総裁・議定・参与という政治職が置かれました。
名前だけを見ると昔の天皇政治に戻したように感じますが、実際にはそう単純ではありません。
王政復古は、古代の制度をそのまま復元したのではなく、幕府を政治の中心から外した新しい全国政府を作る政変でした。
そして徳川慶喜や徳川家を新しい政治体制の中でどのように扱うかをめぐる対立が残り、やがて鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へつながります。
◆たーやんのワンポイント解説
大政奉還で全部終わった、と覚えてしまうと王政復古や戊辰戦争の意味が分からなくなります。幕府という制度はなくなっても、徳川家という巨大な政治勢力は残った。この違いがポイントです。
幕末政治を流れでつかむ
ここまでの話を年代順に追うと、幕末の思想がなぜ変化したのかが見えてきます。
| 時期 | 主な出来事 | 政治上の意味 |
|---|---|---|
| 1853年 | ペリー来航 | 外国への対応が全国政治の問題になる |
| 1854年 | 日米和親条約 | 従来の対外秩序が条約関係へ動き始める |
| 1858年 | 日米修好通商条約 | 無勅許調印によって外交と朝廷問題が結びつく |
| 1860年 | 桜田門外の変 | 幕府政治をめぐる対立が政治暴力へ発展する |
| 1862年 | 和宮と家茂の婚姻 | 公武合体が具体化する |
| 1863年 | 攘夷実行・薩英戦争 | 即時攘夷の難しさが現実の問題になる |
| 1863年 | 八月十八日の政変 | 薩摩・会津が長州系勢力を京都から排除する |
| 1864年 | 禁門の変・下関砲撃 | 長州が国内外で大きな打撃を受ける |
| 1866年 | 薩長連携・第二次長州征討 | 幕府中心の政治秩序が行き詰まる |
| 1867年 | 大政奉還 | 幕府が政権を朝廷へ返上する |
| 1867年 | 王政復古 | 幕府を外した新政府が作られる |
| 1868年以降 | 戊辰戦争 | 新政府と旧幕府系勢力の対立が軍事衝突になる |
この流れを一本につなげると、かなり見通しがよくなります。
外国からの圧力によって幕府の外交能力が試される。幕府が朝廷へ条約勅許を求めたことで、朝廷が全国政治に関わるようになる。朝廷の権威をめぐって尊王攘夷や公武合体など複数の政治構想が競い合う。
その一方で、薩摩や長州は外国との戦争を経験し、即時の攘夷より軍事・外交・政治体制そのものを変える必要性を感じるようになります。
さらに幕府が長州を十分に統制できない状況が生まれ、薩長が接近。幕府を改革して残すのか、幕府を政治の中心から外すのかという問題へ移っていきました。
そうして大政奉還、王政復古、戊辰戦争へと進みます。
幕末の大きな変化
最初の中心問題は「外国をどうするか」でした。
ところが最終的には、「外国と向き合う日本を、誰がどのような政治体制で統治するのか」という問題へ変わっていきます。
幕末の思想に関するよくある質問(FAQ)
Q1. 尊王攘夷と倒幕は同じ意味ですか?
A. 同じではありません。尊王攘夷は天皇・朝廷の権威を重んじながら外国勢力を排除しようとする考えですが、幕府を残したまま実現しようとする立場もありました。倒幕が政治目標として明確になるのは幕末後半です。
Q2. 公武合体は佐幕と同じですか?
A. 完全に同じではありません。公武合体は朝廷と幕府・武家を協力させる政治構想で、幕府を支える目的にも使われましたが、有力諸藩を含む新しい政治体制を目指す構想もありました。そのため公武合体を推進した勢力が後に倒幕へ進むこともあります。
Q3. 薩摩と長州は最初から倒幕派でしたか?
A. 違います。薩摩は公武合体を進め、1863年や1864年には長州と対立しました。長州も当初は即時の倒幕より尊王攘夷を前面に出しています。国内外での戦争や政争を経て、両藩の政治目標が変化し、1866年に連携しました。
Q4. 攘夷派は西洋技術も嫌っていたのですか?
A. 必ずしもそうではありません。外国の支配を警戒するからこそ、西洋の軍事技術や海外事情を学ぼうとする人物もいました。吉田松陰や高杉晋作らを見ると、外国への警戒と西洋技術の導入が両立していたことが分かります。
Q5. 大政奉還で江戸幕府は終わったのですか?
A. 幕府という政権の終わりを考えるうえで大政奉還は大きな転機です。ただし徳川家の領地・軍事力・政治力は残っていました。その後、王政復古によって幕府を外した新政府が作られ、徳川家の扱いをめぐる対立から戊辰戦争へ進みます。
まとめ
幕末の思想を理解するうえで一番避けたいのは、最初から「幕府側」と「倒幕側」という二つの陣営が存在していたと考えることです。
幕末の人々が最初に突きつけられたのは、外国とどう向き合うのかという問題でした。
しかし条約をめぐって朝廷が政治に関わり、京都で政争が続き、外国との戦争や長州征討を経験するうちに、「外国への対応」だけではなく「日本を誰が統治するのか」が問われるようになります。
- 開国は外国との関係を受け入れながら日本を守ろうとする構想にもなった
- 攘夷は外国排斥だけでなく日本の自主性を守ろうとする発想を含んでいた
- 尊王は天皇を重んじる考えであり、必ずしも倒幕を意味しなかった
- 公武合体は朝廷と幕府を協力させて政治を立て直そうとする構想だった
- 佐幕と尊王は両立することができた
- 倒幕は幕末後半に現実的な政治目標として明確になっていった
そして薩摩、長州、岩倉具視、西郷隆盛などが途中で立場を変えたのは、単に思想が気まぐれに変わったからではありません。
戦争、外交、政変、幕府改革の限界など、新しい現実に直面するたびに、「どうすれば日本を守り、全国政治を立て直せるのか」という答えを更新していった結果でした。
開国か攘夷か。朝廷か幕府か。という二択だけではなく、「どんな日本を作ろうとしていたのか」を考える。
そうすると尊王攘夷、公武合体、佐幕、倒幕、大政奉還、王政復古は、ばらばらの暗記用語ではなく、一つの歴史の流れとして見えてくるかなと思います。