やなせたかしの妻(小松暢)はどんな人?再婚や高知新聞での活躍、死因まで解説

小松暢

やなせたかしさんといえば、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親として知られていますが、その人生の裏には、深い愛と支えを注いだ妻・暢(のぶ)さんの存在がありました。
では、やなせたかしの妻はどんな人だったのでしょうか。
再婚の過去や高知新聞での記者としての活躍、子供との関係、そして死因や結婚はいつだったのかなど、気になる点は多いはずです。

本記事では、やなせたかしさんと妻・暢さんの出会いから結婚、夫婦としての歩み、別れに至るまでの実話をもとに、彼女がどのような人物だったのかを丁寧に紐解いていきます。
読み進めるうちに、単なる“支える妻”という枠を超えた、ひとりの強く美しい女性の生き様に触れることができるでしょう。

この記事を読むとわかること

  • やなせたかしと妻の馴れ初めや結婚の時期
  • 暢さんの記者としての経歴や高知新聞での活躍
  • 妻の再婚エピソードや前夫との関係
  • 死因や亡くなるまでの夫婦の感動的なエピソード
目次

やなせたかしの妻はどんな人だったのか

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  • 結婚はいつ?やなせたかしとの出会いと馴れ初め
  • 妻・暢は再婚だった?前夫との関係について
  • 妻が高知新聞で働いていた頃のエピソード
  • ふたりの結婚生活と支え合う関係性
  • アンパンマン誕生における妻の存在と影響
  • やなせたかしの著書や発言に見る妻への想い

結婚はいつ?やなせたかしとの出会いと馴れ初め

やなせたかしさんと妻・暢(のぶ)さんが出会ったのは、戦後間もない1946年、高知新聞社が舞台でした。やなせさんが入社した3か月前に、暢さんは同社で女性記者として働き始めており、ふたりは同じ編集部「月刊高知」で机を並べて仕事をすることになります。

暢さんはもともと大阪生まれですが、父の故郷である高知県に移住していた経緯がありました。旧制女学校を卒業後、一度は東京で結婚生活を送っていましたが、夫と死別したことで再び高知に戻り、新聞社に就職したのです。こうして運命的に出会ったのが、やなせたかしさんでした。

やなせさんは、後に「前の席に座っていた暢さんに一目惚れした」と語っており、暢さんもまた、穏やかで優しいやなせさんに惹かれていきました。ただし交際の主導権を握ったのは、男勝りで行動的な性格だった暢さんの方です。

一度は東京の代議士の秘書となるために暢さんが退職し、上京することになりますが、それから約1年後、やなせさんは彼女を追いかけて東京へ移住。そこで改めて交際を深め、1949年に結婚しました。このときやなせさんは28歳、暢さんは29歳でした。

ふたりの関係は、戦後の混乱期に生まれたものであり、互いが人生の苦難を経てようやく出会った「同志」ともいえる関係性でした。高知新聞で出会ってから結婚に至るまでのストーリーは、情熱と尊敬、そして運命的な再会を含んだもので、現在のNHK朝ドラ『あんぱん』でも丁寧に描かれています。

妻・暢は再婚だった?前夫との関係について

暢さんは、やなせたかしさんと結婚する前に別の男性と結婚していたことが知られています。つまり、やなせさんとの結婚は再婚にあたります。最初の夫は小松総一郎という人物で、日本郵船に勤務していた高知県出身の男性でした。2人は東京で出会い、戦時中に結婚します。

結婚生活は始まったばかりでしたが、まもなく総一郎さんは徴兵され、戦地へ赴くことになります。戦争が終わり、彼は帰還したものの、健康状態はすでに悪化しており、間もなく病で亡くなってしまいました。こうして、暢さんは若くして夫と死別し、残されたのは夫の遺したライカのカメラだけだったといわれています。

このカメラが後に暢さんの人生を動かす重要なきっかけとなりました。夫の死をきっかけに高知に戻った暢さんは、戦後まもない混乱の中で高知新聞社の記者募集を見つけます。女性記者としては非常に珍しい時代に、自ら応募して採用され、仕事の道を切り開いていきました。

前夫との結婚生活は短く、戦争という時代の波に飲まれて終わってしまいましたが、その経験を通じて暢さんは大きな精神的成長を遂げたと考えられます。そして、失意から立ち上がる強さこそが、やなせさんとの新たな人生を築くための土台となったのでしょう。

妻が高知新聞で働いていた頃のエピソード

1946年、戦後の混乱がまだ色濃く残る中、暢さんは高知新聞社に入社します。当時としては非常に珍しい「戦後初の女性記者」の一人として採用された彼女は、男性社会である新聞業界の中でも強い個性と行動力を発揮しました。

当時、暢さんは政治や市政に関わる取材を担当しており、焼け跡の街をジープで駆け回りながら取材活動を行っていたことが記録に残っています。やなせさんも「ジープに飛び乗って焼け跡を取材していたおてんば娘」と語っており、その活躍ぶりがうかがえます。

また、暢さんはドイツ製の高級カメラ「ライカ」を使いこなしていたことでも知られており、速記術にも長けていました。このように、女性がまだ社会での地位を確立できていなかった時代に、男性顔負けの取材スキルと行動力を持っていたことは特筆すべき点です。

一方で、高知新聞社内には、彼女を「受付の女の子」と軽んじる受験者もいたようで、当時の社内報にはそのことを受けて暢さんが毅然と対応したエピソードが記されています。こうした姿勢が、やなせさんを含む周囲の人々からの信頼を得る一因となったのでしょう。

高知新聞での勤務は長くは続かず、やがて暢さんは退社して上京しますが、この経験がやなせたかしとの出会いにつながり、のちの支え合う人生の礎となりました。

ふたりの結婚生活と支え合う関係性

やなせたかしさんと暢さんの結婚生活は、よくある夫婦関係とは少し異なっていました。それは、夫が創作に没頭するタイプだったのに対し、妻が現実的で生活面をすべて支える「実務の柱」として機能していたからです。

やなせさんは、自身のことを「仕事以外はすべて妻に頼っていた」と語っています。家計の管理や食事の準備、病気の看病から髪のカットに至るまで、家庭のあらゆる場面で暢さんが全面的にサポートしていたのです。特に注目すべきは、やなせさんが漫画家として独立した際に、暢さんが「いざとなったら私が働いて食べさせてあげる」と言って背中を押したことでしょう。

さらに、暢さんは家庭内だけでなく、やなせスタジオにおける経理や雑務も担っていました。やなせさんが多方面で仕事を請け負いながらも一定の品質を維持できたのは、暢さんのきめ細かなサポートあってのことです。

一方で、暢さん自身も趣味や活動を大切にする人物でした。茶道を習い、師範として弟子をとっていたほか、山歩きを好み、大雪山系を20日間かけて縦走するなどアクティブな一面もありました。やなせさんは「自分とは正反対の性格」としながらも、それが夫婦としての良いバランスを生んでいたと語っています。

アンパンマン誕生における妻の存在と影響

アンパンマンの誕生には、暢さんの存在が大きく関わっています。やなせたかしさんは、戦後の混乱と喪失感の中で「正義とは何か」を問い続けていました。そして、その問いに向き合う姿勢を支え、日常を整えたのが妻の暢さんです。

暢さんは、やなせさんが自費出版や持ち出し仕事で収入が不安定な時期にも、「仕事がないなら私が塗ります」と、あくまで前向きに支え続けました。これは、創作の現場を裏から支えるというだけでなく、精神的な安心感を与える存在でもあったということです。

やなせさんが語った「逆転しない正義とは何か」という問いに対して、暢さんは「飢えている人がいたら、一切れのパンをあげること」と答えました。この言葉が、『アンパンマン』の根底にある「自己犠牲とやさしさ」のモチーフに直結しています。

また、絵本『あんぱんまん』は、出版社からもう一冊描くよう求められた際に、やなせさんが構想を練って描いたものです。その時、54歳という年齢でしたが、暢さんの「やってみなさいよ」といった前向きな言葉が背中を押したことは想像に難くありません。

つまり、アンパンマンの誕生は、やなせたかし一人の努力ではなく、暢さんという伴走者の存在があって初めて成立したプロジェクトだったと言えるでしょう。

やなせたかしの著書や発言に見る妻への想い

やなせたかしさんは、公私にわたり妻・暢さんへの深い敬意と愛情を言葉にしてきました。著書やインタビューでは、繰り返し「自分は何もできない人間だった。妻がすべてを支えてくれた」と語っており、その発言には真実味があります。

特に印象的なのは、晩年に語った「病気のとき、カミさんは自分の髪を切ってまで看病してくれた」というエピソードです。これは単なる美談ではなく、長年にわたる信頼関係と献身の象徴といえるでしょう。

さらに、暢さんががんで余命宣告を受けた際、やなせさんは「妻がいないと生きていけない」と周囲に漏らしています。その心の叫びは、やなせさんがどれほど暢さんを精神的な支柱としていたかを物語っています。

著書『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』などでは、結婚生活を通じて形成された夫婦の価値観や、創作活動におけるやりとりも詳細に記されており、「創作の伴侶」という表現がまさにふさわしい内容です。

やなせさんが生涯を通じて守り抜いた「やさしさの正義」は、暢さんの存在があったからこそ築かれたものであり、妻は単なる家庭人ではなく、人生と思想のパートナーだったといえるでしょう。

やなせたかしの妻はどんな人物だったのか

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  • 暢の性格とあだ名に見る人物像
  • 妻の職業は?戦後初の女性記者としての活躍
  • 子供はいた?家族構成についての事実
  • 妻の死因と亡くなった時期・年齢
  • 妻の死後のやなせたかしの心情と行動
  • 長年連れ添った夫婦の感動エピソード

暢の性格とあだ名に見る人物像

やなせたかしさんの妻・暢(のぶ)さんは、その生涯を通じて非常に印象的な性格の持ち主でした。彼女の性格を一言で表すなら「ハチキン」、つまり土佐弁でいうところの「男勝りで芯の強い女性」です。

若い頃、女学校時代には「韋駄天おのぶ」と呼ばれたほどの俊足を持つ短距離ランナーでした。韋駄天というのは仏教に登場する神で、足の速さを象徴する存在です。このあだ名には、単なる身体能力の高さだけでなく、彼女の行動力やエネルギーあふれる性格が反映されています。

職場でもその性格は際立っていました。高知新聞社で働いていた当時、戦後の混乱期にジープに飛び乗って取材に奔走する姿が、同僚や上司の記憶に深く残っているようです。やなせたかしさんも「広告主に無礼な態度を取られると、迷わずハンドバッグを投げて『ちゃんと払いなさいよ!』と啖呵を切るような人だった」と回想しています。

また、雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と叫ぶなど、物怖じしないどころか自然現象すらも楽しんでしまうほどの胆力もありました。女性が社会進出することがまだ一般的ではなかった時代において、暢さんのような存在はきわめて貴重だったといえるでしょう。

ただし、彼女は単に豪胆なだけの人物ではありませんでした。人の悪口を言わず、噂話には耳を貸さないという品格のある性格でもありました。実際、茶道教室で出会った人々の間でも「芯が強いけれど思いやりのある先生」として慕われていたという証言があります。

つまり、暢さんは強さとやさしさ、行動力と包容力を併せ持つ人物であり、それが「やなせたかしの妻」としてだけでなく、一人の女性としても多くの人に記憶されている理由です。

妻の職業は?戦後初の女性記者としての活躍

暢さんが記者として働いたのは、戦後すぐの日本がまだ復興の第一歩を踏み出したばかりの時期です。1946年、高知新聞社は31名の応募者の中から2名の女性を記者として採用しました。そのうちの1人が暢さんでした。

この時代、女性が記者として現場に出ること自体が非常に珍しいことでした。多くの新聞社では、女性は事務職や電話交換手などの補助的な役割に限定されていたため、彼女が「本格的な取材記者」として採用されたことは画期的でした。

彼女が配属されたのは「月刊高知」という編集部です。この雑誌は文化総合誌であり、当時の地方紙としては非常に珍しい取り組みでした。暢さんは、ここでの取材活動においても積極的な姿勢を見せていました。焼け跡の街をジープで走り回り、速記のスキルを生かして座談会や取材内容を正確に記録し、さらにライカのカメラで現場写真も撮影していたと伝えられています。

特に印象的なのは、彼女がただ情報を集めるだけでなく、記事全体の企画や構成にも関わっていたという点です。当時はまだ「女性だから」という理由で軽んじられることも多かった中で、彼女は仕事ぶりによって周囲の信頼を勝ち取っていきました。

その一方で、新聞社の受付係と勘違いされた際には、毅然とした態度で「女だと思って馬鹿にしないで」と言い放ったという逸話もあります。これは、職場でのジェンダーバイアスに対して一歩も引かない姿勢を示すものです。

このように暢さんは、記者としての能力と人間としての信念を両立させていました。彼女のような先駆者がいたからこそ、今の時代に女性記者が当たり前の存在として認められているのだと考えると、その功績は非常に大きいものです。

子供はいた?家族構成についての事実

やなせたかしさんと暢さんの間には、子供はいなかったとされています。この点について、本人たちが詳細に語った記録は多くありませんが、やなせさんのインタビューや著書からは、ふたりが「夫婦二人の生活」を大切にしていた様子がうかがえます。

一方で、家族構成という意味では、やなせさんには実の弟・千尋さんがいました。千尋さんは海軍将校として従軍し、戦時中に戦死しています。暢さんも、亡き夫との間に子供がいたという情報は確認されておらず、再婚後も子供をもうけることなく夫婦二人で生活を築いていきました。

それでも、暢さんは「家族的な役割」を果たす存在として多くの人から信頼されていたようです。夫・やなせたかしさんにとってはもちろん、のちにスタジオで働くことになる越尾正子さんのような人物にとっても、母のような、姉のような存在だったといわれています。

また、暢さんの甥にあたる川上峻志さんは、「おばさんは気が強くて、でも優しかった」と回想しています。このような親族との関係性からも、暢さんが「血縁を超えた家族的なつながり」を大切にしていたことが伝わってきます。

つまり、子供がいなかったという事実はありますが、それによって家族の絆が希薄だったということはまったくありません。むしろ暢さんとやなせさんの間には、信頼と愛情に満ちた関係が築かれており、ふたりの生活には温かみが感じられるのです。

妻の死因と亡くなった時期・年齢

暢さんが亡くなったのは1993年11月、75歳のときでした。死因は乳がんで、発見されたときにはすでに肝臓へ転移しており、医師からは余命3か月と告げられていたといいます。

乳がんが判明したのは1988年、ちょうどアニメ『それいけ!アンパンマン』が放送を開始した時期でした。この時期はやなせさんにとって仕事面では大きな転機であり、嬉しい出来事と重なる形で、妻の病が発覚するという複雑な状況でした。

暢さんは当初、痛みを感じつつも病院へ行くことを後回しにしていたようです。やなせさんも仕事の忙しさに追われて、病院に行くよう強く促すことができなかったと後悔を語っています。その後、東京女子医大で乳がんと診断され、両胸を切除する手術を受けました。

しかし、手術の結果、がんはすでに全身に転移していることがわかり、医師から「あと3か月」という厳しい現実を突きつけられることになります。それでも暢さんは、治療を受けながら懸命に日常を取り戻そうとし、一時は体重が35kg近くにまで落ちたものの、再び茶道の師範として復帰する意志を持つまで回復したこともありました。

最期まで自分のつらさを口にせず、むしろ周囲への気遣いを忘れなかったと、多くの人が証言しています。やなせさんに対しても、「あなたには仕事に集中してほしいから」と言い、弱音を吐くことなく過ごしていたそうです。

結果的に、宣告された余命3か月から5年も長く生きたことになります。暢さんの強い生命力と精神力が、それを可能にしたといえるでしょう。

妻の死後のやなせたかしの心情と行動

暢さんが亡くなった後、やなせたかしさんは深い喪失感に包まれました。それまで公私にわたって支えてくれた伴侶を失ったことで、精神的に大きな影響を受けたことは間違いありません。暢さんの死後のやなせさんについて、周囲の証言や本人の言葉から、どれほど大きな存在であったかが浮かび上がってきます。

やなせさんは日本漫画家協会の理事会の場でも、どこかうつむいて元気のない様子を見せることが多くなったそうです。その異変に気づいた漫画家の里中満智子さんが声をかけたところ、「妻がいないと、生きていけない」と涙ながらに語ったといいます。

この言葉には、長年連れ添った伴侶を失うことが、単なる喪失ではなく「人生の一部を失った感覚」であったことが込められています。実際、暢さんが生きている間、やなせさんは仕事以外のあらゆる場面で彼女に頼りきっていたことが、インタビューや著書にも繰り返し記されています。

ただし、暢さんが亡くなった後も、やなせさんはその遺志を胸に活動を続けました。特にアンパンマンの制作やスタジオ運営においては、暢さんが残した影響を継承するような形で、元秘書の越尾正子さんが支えることになります。

やなせさん自身も、「がんがわかってからの5年間が、夫婦で一番充実した時間だった」と語っており、最後まで互いに思いやりを持ち続けた関係であったことがわかります。

長年連れ添った夫婦の感動エピソード

やなせたかしさんと暢さんの関係は、単なる「仲の良い夫婦」ではなく、人生そのものを共有したパートナーという表現がふさわしいものでした。その絆は、さまざまな場面で感動的なエピソードとして語り継がれています。

ある日、やなせさんが体調を崩した際、暢さんは自らの髪をばっさりと切って「看病に専念する」と言い、献身的に支え続けました。このエピソードは、単なる優しさではなく、「命をかけて守る覚悟」が伝わってくるものです。

また、やなせさんがカツ丼を作ったという話も印象的です。これは、病気療養中の暢さんのために自ら料理をしたというだけでなく、かつて若き日の苦しい時代に彼女がよく食べていたトンカツを思い出させる「夫婦の記憶」そのものでした。

ふたりの間には、「病めるときも健やかなるときも」という言葉がぴったり合う信頼関係がありました。日常の中のさりげないやり取り、たとえば「おぶちゃん」と呼びかける愛称にさえ、その絆の深さが込められているように思えます。

こうした感動的なエピソードは、単なるドラマのような話ではなく、実際に長年を共に歩んできた夫婦の真実の姿なのです。読者にとっても、「理想の夫婦像」として心に残ることでしょう。

やなせたかしの妻はどんな人だったのかをまとめて紹介します

やなせたかしさんの妻・暢(のぶ)さんは、ただの「漫画家の妻」ではありませんでした。
戦後の混乱期に自立した人生を切り開き、やなせさんの創作活動や人生そのものを支えた、芯の強い女性だったことがわかっています。
ここでは「やなせたかし 妻 どんな人」というテーマに沿って、これまでの情報をもとに暢さんの人物像をわかりやすく整理します。

  • 暢さんは高知新聞社で働いていた「戦後初の女性記者」の一人で、ジープで焼け跡を駆け回る行動派でした。
  • 取材ではライカのカメラや速記術を駆使し、男性に劣らない活躍を見せていました。
  • 旧制女学校時代には「韋駄天おのぶ」と呼ばれ、足の速さと活発さが際立っていたそうです。
  • 元夫とは戦時中に結婚しましたが、夫は戦後まもなく病で他界し、未亡人となって高知へ戻りました。
  • やなせさんとは高知新聞の編集部で出会い、暢さんの方から積極的に関係を進めていったとされています。
  • 1949年に結婚し、夫婦となってからは生活全般を暢さんが支える形で日々を重ねていきました。
  • 子どもはいませんでしたが、周囲の人たちからは「母のような存在」として慕われていました。
  • 家庭では料理・掃除・看病・経理・髪のカットまで全てこなす万能な存在でした。
  • やなせたかしが独立するとき、「いざとなったら私が食べさせてあげる」と背中を押しました。
  • 『アンパンマン』の根底にある「優しさと自己犠牲」というテーマは、暢さんの考え方から影響を受けたものです。
  • 乳がんが見つかった際も「あなたは仕事に集中して」と言い、最後まで弱音を吐きませんでした。
  • 余命3か月と診断されながら5年生き抜き、最期まで茶道の師範としての復帰を目指していました。
  • 暢さんの死後、やなせさんは「妻がいないと生きていけない」と涙を見せるほどの深い悲しみに包まれました。
  • やなせさんの著書やインタビューでは、妻の存在がいかにかけがえのないものであったかが繰り返し語られています。
  • ふたりの関係は、ただの愛情ではなく「人生の同志」としての結びつきに満ちていたことが伝わってきます。

このように、暢さんはやなせたかしさんの人生において、家庭の中心であり、精神的な支えであり、創作の原点とも言える存在でした。読めば読むほど、彼女の人間的な魅力がにじみ出てくる人物です。

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