このページでは、物部守屋(もののべのもりや)について簡潔にわかりやすく解説します。
物部守屋について簡単に解説
物部守屋について簡単に解説します。
物部守屋が活躍した時代は古墳時代です。
生誕年についてはわかっていません。
死没したのは587年です。
物部尾輿の子として生まれ、敏達天皇のもとで大連(おおむらじ)になります。
日本に伝来した仏教を受け入れるかどうかの崇仏論争では、強硬な排仏派として中臣氏などと共に仏教受容に反対。
崇仏派の蘇我馬子と対立しました。
587年、崇仏論争で対立していた蘇我馬子と、皇位継承問題なども絡み戦いになります。(丁未の乱)
この戦いで物部守屋は破れ、守屋も弓に射られて死亡したといわれています。
受験生がおさえておきたいポイント
大学受験で日本史を勉強している受験生へ、おさえておきたいポイントをピックアップします。
受験日本史での「物部守屋」の重要度は★★★★です。(5段階中の4)
崇仏論争の概要についておさえておくと良いでしょう。
- 物部守屋は大連(おおむらじ)。
- 崇仏論争では仏教受容に反対し、崇仏派の蘇我氏と対立した。
- 蘇我馬子や聖徳太子との戦い(丁未の乱)に破れ、死亡した。
物部守屋の簡易年表
572年
敏達天皇のもとで大連になる
587年
蘇我馬子と戦い敗北、死亡する
物部守屋のエピソード・逸話
日本古来の神道を守ろうとしたという評価がある一方、仏教に対してはかなり過激であったと伝えられています。
仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、蘇我馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵。
また、日本最初の尼僧といわれる善信尼(司馬達等の娘)らを捕らえ、全裸にして群衆の前で鞭打ったなどとのエピソードがあります。
また、蘇我馬子と仲が悪かったことが有名です。
敏達天皇が崩御し、葬儀が行われるなか、蘇我馬子と物部守屋はお互いに罵倒しあったといわれています。
物部守屋は、長い刀を差して弔辞を読む小柄な蘇我馬子に対して「まるで矢に射られた雀のようだ」と言い、
蘇我馬子は、緊張で体を震わせながら弔辞を読む物部守屋に対して「鈴を付けたらさぞ面白かろう」と言ったと伝えられています。
物部守屋の子孫
物部氏の子孫を称する人々は多くいるようで、奈良時代の僧、道鏡も物部氏の末裔を称していたそうです。
また、戦国時代の近江の大名である浅井氏も物部氏の末裔と称していました。
物部守屋の史跡など
大阪の八尾市に、物部守屋の墓と伝えられている墳墓があります。
以上、物部守屋についての解説でした。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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