北条高時は何をした?死因・障害説・息子との関係をわかりやすく解説

北条高時

鎌倉幕府の最後を飾る執権、北条高時。
この記事にたどり着いた方の多くは、彼がどんな人物だったのか、何をした結果として幕府が滅んだのか、歴史の授業だけではつかめなかった実像を知りたいのではないでしょうか。

一方で、北条高時には「無能」「暗君」といったネガティブな評価がつきまといがちです。
しかし、本当に彼は何もしていなかったのでしょうか?
また「病気だった」「障害があった」とする説や、息子・北条時行との関係、最期の自害に至るまでの経緯など、見過ごされがちな背景も存在します。

この記事では、北条高時の人物像や行動をわかりやすく紐解きながら、彼と深い関わりを持った内管領長崎高資との関係性にも触れていきます。
さらに、病気とされる身体的な問題や「障害説」、彼の死因最期の場面、そして息子である北条時行が後に起こす反乱との関係についても詳しく解説します。

歴史に興味がある方はもちろん、「名前だけ知っているけど実際何をしたのか分からない」と感じている方にも役立つ内容になっています。

この記事を読むとわかること

  • 北条高時が鎌倉幕府で実際に何をしたのか
  • 北条高時の死因や最期に関する詳しい経緯
  • 高時と内管領・長崎高資の権力関係
  • 息子・北条時行との関係や中先代の乱への影響
目次

北条高時は何をしたのかをわかりやすく解説

北条高時1
  • 北条高時の生涯と鎌倉幕府での役割
  • 北条高時が行った政治的な対応とは
  • 鎌倉幕府の滅亡に高時が与えた影響
  • 北条高時と内管領の関係性とは
  • 北条高時と長崎高資の権力構造

北条高時の生涯と鎌倉幕府での役割

北条高時は、鎌倉幕府第14代執権として、その最末期に登場した人物です。彼の生涯は、幕府の衰退と密接に関係しており、その生き様を知ることで鎌倉幕府の終焉を読み解く手がかりとなります。

高時は1303年(嘉元元年)、9代執権・北条貞時の三男として誕生しました。兄たちが早世したため、実質的な嫡男として育てられます。幼い頃から将来の執権就任を前提に、得宗家の当主としての教育を受けましたが、1311年に父・貞時が亡くなると、わずか9歳で家督を継承しました。

しかし、幼さゆえに幕政を任されることはなく、後見人として安達時顕や内管領の長崎円喜が実権を握ります。このような体制の中で、高時は政治よりも趣味や仏教に関心を持つようになっていきました。1316年、13代執権・北条基時から職を譲られる形で14代執権に就任しますが、このとき高時はまだ14歳でした。

高時の執権としての在任期間は約10年にわたりますが、その間、自らの手で政策を進めたという記録はほとんどありません。実際の政治は内管領や寄合衆によって進められており、高時自身は形式上の最高権力者に過ぎなかったとも言えます。

こうした背景もあり、高時の役割は「政治的主導者」ではなく「象徴的指導者」に近いものでした。執権でありながら、政務を執らずに仏教問答や田楽、闘犬などに興じていたことが、後世に「暗君」と評される要因にもなっています。

一方で、高時の治世下で鎌倉の街が経済的に最も繁栄していたという記録も残っており、一概に彼を無能と決めつけることもできません。政務を側近に任せるという手法が、短期的には機能していたとも考えられるのです。

つまり、北条高時は形式上のリーダーでありながらも、実際の政治からは距離を置いた存在でした。その結果として、内外の動乱に柔軟に対応できず、幕府の瓦解を止められなかったという見方もあります。

北条高時が行った政治的な対応とは

北条高時の政治的な対応は、端的に言えば「消極的な統治」と表現することができます。彼は執権の座にあったにもかかわらず、自ら積極的に政治を主導することはほとんどありませんでした。とはいえ、全くの無関心だったわけではなく、いくつかの場面では高時の意向が働いたとされる政治的判断も見られます。

まず注目されるのは、1318年から1319年にかけて行われた「鎌倉殿中問答」です。これは日蓮宗の布教許可に関する問答であり、高時が直接命じて行わせたものです。このように宗教面においては関心を持っていた様子がうかがえます。

また、1324年に起きた「正中の変」では、後醍醐天皇の倒幕計画が発覚しますが、高時は穏便な対応を選びました。関係者を流罪にするにとどめ、天皇自身には手を出しませんでした。この判断が政権への反発を拡大させたとの指摘もあります。

1326年には病を理由に出家し、執権の座を北条貞顕に譲ります。このとき、後継をめぐる「嘉暦の騒動」が発生しましたが、高時は明確なリーダーシップを発揮することなく、騒動の火種を残したまま政界を去りました。

一方で、高時の治世中は、鎌倉幕府内における大規模な内乱は少なく、経済面では比較的安定していたとも言われています。その背景には、内管領ら側近の巧みな統治や、幕府が築いた制度の安定性があったと考えられます。

ただし、政務を完全に委任した代償として、高時は全国各地で起こる反乱や不満に対処できず、特に倒幕運動への初動対応に失敗します。悪党の活動や東北の安藤氏の乱なども軽視され、結果的に政権崩壊を招きました。

このように、北条高時は政治の表舞台にはほとんど立ちませんでしたが、彼の判断や対応の「薄さ」が幕府の命運を左右することになったのです。

鎌倉幕府の滅亡に高時が与えた影響

鎌倉幕府の滅亡には複数の要因がありますが、北条高時の統治姿勢が大きく影響したことは否定できません。とくに、彼が政務を軽視したことが、倒幕勢力の拡大を許した一因とされています。

高時の治世中、幕府に対する不満は全国的に高まっていました。元寇後の恩賞不足や、経済的負担の偏りによって地方武士たちの不満はくすぶり続けていたのです。さらに、後醍醐天皇による倒幕運動も徐々に本格化していきました。

こうした流れの中で、高時は政権の長として十分な対応を示すことができませんでした。1324年の正中の変や1331年の元弘の変においても、倒幕の動きを軽視し、初期段階での封じ込めに失敗しています。結果として、反幕府勢力の勢いは増し、1333年には新田義貞が鎌倉に進軍し、幕府は滅亡します。

高時は自ら戦場に立つこともなく、最期は一族と共に東勝寺で自刃しました。この出来事は「東勝寺合戦」と呼ばれ、北条一族の集団自害として記録されています。

また、高時が早くに出家したことや、後継問題に適切に対処しなかったことも、幕府内部の混乱を助長しました。嘉暦の騒動をはじめとする内紛が、政権の求心力を弱めたのです。

とはいえ、高時一人にすべての責任を帰するのは公正ではありません。鎌倉幕府そのものが制度的に限界を迎えており、いずれは崩壊した可能性もあります。ただし、北条高時が「それを早めてしまった」という見方には説得力があります。

このように、北条高時の姿勢や判断は、幕府の終焉に少なからず影響を与えたといえるでしょう。

北条高時と内管領の関係性とは

北条高時の政治を語るうえで、内管領との関係性は極めて重要です。内管領とは、得宗家の執事であり、幕府の実務を担う存在でした。高時の時代に内管領の地位にあったのが長崎円喜とその子・長崎高資です。

高時が執権に就任した1316年当時、まだ14歳という若さでした。当然ながら、政治の実務をこなすのは難しく、幕政は事実上、内管領に任されることになります。特に長崎円喜は高時の後見人として強大な権力を持ち、幕府内の意思決定に大きな影響を与えました。

高時は若年時からこの体制に慣れてしまったため、成長してからも政治に主体的に関与しようとはしませんでした。このため、内管領が政治の主導権を握り続ける構造が出来上がったのです。

また、内管領は得宗家の家政を担当する立場でもあり、高時にとっては身近で信頼できる存在だったともいえます。ただし、これは裏を返せば、高時自身が政務から一層距離を置く要因にもなっていました。

この関係は、一見円滑に機能していたように見えるかもしれません。しかし、内管領に権力が集中したことで、他の御家人や幕閣からの反発も強まり、幕府内の分裂を招く原因となりました。特に後半になると、高資と他勢力の対立が表面化し、「嘉暦の騒動」などの政争を引き起こします。

こうした背景から見ても、高時と内管領の関係は「便利な依存関係」であると同時に、「政権不安定化の温床」でもあったのです。

北条高時と長崎高資の権力構造

北条高時と長崎高資の関係は、表面上は主従関係でありながら、実質的には権力が逆転していたと見ることができます。高時が形式上の執権だったのに対し、長崎高資は実務のほとんどを担う“実質的支配者”だったのです。

長崎高資は、父・長崎円喜の跡を継いで内管領の地位を得ました。高資はその地位を活かして幕政に強く関与し、多くの人事・政策に直接影響を与えました。彼の専横ぶりは、他の御家人からも問題視されており、腐敗の象徴とされることもあります。

特に問題となったのは、賄賂の横行や縁故による人事の偏りです。高資が安藤氏の乱に関与した際、敵対する両者から賄賂を受け取っていたことが知られており、幕府の信頼性を著しく損ねる結果となりました。

また、北条高時が高資の暗殺を企てていたという説もあります。実際に側近が処罰された記録があり、両者の関係が単なる主従を超えた緊張関係にあったことを示唆しています。

このように、北条高時と長崎高資の権力構造は、名目と実態が逆転していたという点で特徴的です。そして、この歪んだ構造が、幕府内部の統制力を弱め、最終的には倒幕の動きを加速させる一因となりました。

北条高時は何をした結果どうなったか

北条高時2
  • 北条高時の晩年と最期の自害について
  • 北条高時の死因は病気か戦か
  • 北条高時に障害があったという説の真偽
  • 北条高時の息子や北条時行との関係
  • 北条高時と後醍醐天皇・尊氏との関係
  • 北条高時はなぜ暗君と評価されるのか

北条高時の晩年と最期の自害について

北条高時の晩年は、政治の第一線から身を引きながらも、鎌倉幕府の命運と深く関わるものでした。彼は1326年に病気を理由に出家し、実質的な政務から退きました。このときの年齢はわずか24歳で、出家後は仏教や趣味の世界に没頭したと伝えられています。

その後、幕府では後継問題をめぐる「嘉暦の騒動」が起こり、内部の対立が激化します。こうした政争の混乱のなかでも、高時は明確なリーダーシップを発揮することなく、長崎氏や安達氏などの有力者に委ねてしまいました。この対応の鈍さが、結果的に幕府の求心力を低下させた要因のひとつと考えられます。

1331年には、後醍醐天皇が倒幕のために挙兵。これが元弘の乱の始まりです。高時はすでに執権ではなく、政務にも関わっていませんでしたが、その影響力はいまだ大きく、幕府の動向を左右する立場にはありました。しかし、事態は急速に悪化し、1333年には新田義貞が鎌倉へ進軍。幕府は崩壊の危機に瀕します。

鎌倉が新田軍によって包囲されると、高時は最終的に北条一族とともに東勝寺へ退避。ここで「東勝寺合戦」が繰り広げられ、幕府軍は劣勢に追い込まれます。逃げ場を失った高時は、家臣や一族とともに自刃。この出来事は、鎌倉幕府の終焉を象徴する悲劇として知られています。

彼が自害した東勝寺跡地は、現在「腹切りやぐら」と呼ばれ、供養塔が建てられています。この地名自体が、高時と北条一族の壮絶な最期を物語っています。

こうして見ると、北条高時の晩年は、政務から離れていたにもかかわらず、幕府の運命と深く交錯していたことがわかります。彼の死は単なる個人の最期ではなく、時代の大きな転換点そのものだったのです。

北条高時の死因は病気か戦か

北条高時の死因については、病気によるものか、それとも戦による自害かという議論がありますが、歴史的な記録を見る限りでは「自害」が最も有力とされています。実際、1333年の東勝寺合戦において、高時は北条一族とともに自ら命を絶ったと伝えられています。

まず病気についてですが、高時は1326年に病を理由に出家しています。このことから、慢性的な体調不良を抱えていたのは確かでしょう。『鎌倉九代記』や『太平記』などの記録には、彼がもともと病弱であったことが繰り返し記されています。これが事実であれば、執権退任も納得のいく流れです。

ただし、出家後も高時は生き続けており、最終的には1333年の鎌倉陥落まで生存していました。この期間に自然死したわけではなく、自ら命を絶ったとされている点からも、直接的な死因が病気ではなかったことは明らかです。

その最期については、東勝寺に籠った高時が、家臣や一族と共に自刃したと多くの軍記物に記録されています。特に『太平記』には、「相模入道切り給へば」と簡潔に記述されており、彼の自害が鎌倉幕府滅亡と重なった重要な出来事として扱われています。

また、彼が自刃したとされる東勝寺跡は「腹切りやぐら」と呼ばれ、今日に至るまでその悲劇の地として人々に記憶されています。この場所の名からも、戦の結果として命を絶ったことが強く印象づけられます。

したがって、北条高時の死因は、病気ではなく「戦に敗れた末の自害」であると考えるのが自然です。病気は彼の人生において影響を与えた要素であるものの、直接的な死の原因とは言いがたいでしょう。

北条高時に障害があったという説の真偽

北条高時に「障害があった」とする説は、一部の古典や後世の記録に見られます。主に『太平記』や『保暦間記』などに、高時が「亡気(うつけ)」であった、あるいは「正体無き」といった表現が使われており、これが精神的または発達的な障害を示唆していると受け取られることがあります。

ただし、これらの記述には慎重な見方が必要です。これらの文献は、いずれも鎌倉幕府を倒した側、つまり後醍醐天皇や南朝側によって編纂・伝承されたものであり、政治的な意図が込められていた可能性が高いとされています。敵対勢力を貶めるために、高時を「愚か者」や「暗愚な暴君」として描いたというのが、多くの歴史研究者の見解です。

また、現存する公的な記録や、同時代の中立的な文書においては、高時に精神的・身体的な障害があったという明確な証拠は確認されていません。病弱だったという記述は複数見られますが、それは当時の医療環境を考えるとさほど珍しい話ではなく、障害と結びつける根拠にはなりません。

他方で、政治に消極的だったことや、闘犬や田楽といった娯楽に熱中した様子が、「常軌を逸している」と受け取られ、そこから障害を疑う解釈に繋がった可能性はあります。しかし、これもあくまで一部の解釈に過ぎず、学術的に確定した事実ではありません。

このように見ていくと、「北条高時に障害があった」とする説には根拠が乏しく、後世の誇張や敵対勢力のプロパガンダ的要素が強いと考えられます。障害に関する確たる証拠はない以上、そのように断定するのは慎重であるべきでしょう。

北条高時の息子や北条時行との関係

北条高時には複数の子がいたとされますが、中でも注目されるのが北条時行です。時行は、高時の息子として幕府滅亡後に「中先代の乱」を起こし、幕府の復興を目指して戦いました。

この親子関係は、歴史的にも非常に重要です。高時が鎌倉で自害した際、幼い時行は一部の家臣によって救出されたと伝えられています。なかでも五大院宗繁という人物が関わっていたとされ、時行の命は密かに守られました。

その後、時行は信濃(現在の長野県)を拠点に勢力を整え、1335年に中先代の乱を決行。わずかながらも鎌倉を一時的に奪還することに成功します。この行動は、父・高時の遺志を継いだとも見られ、北条氏の再興を目指した強い意志が感じられます。

高時が息子にどれほど直接的な影響を与えたのかは記録に乏しく、詳しいやり取りなどは不明です。ただし、前述の通り、高時が最期に宗繁に対して「この子を守ってくれ」と託したとする逸話は、『太平記』などに記録されています。このことから、高時が時行に期待をかけていた可能性は高いといえます。

結果的に時行の反乱は鎮圧されますが、その後も各地で北条氏を名乗る者たちが現れ、時行の存在が政治的に象徴的な意味を持ち続けたことは見逃せません。

このように、高時と時行の関係は、単なる親子というだけでなく、鎌倉幕府終焉後の歴史の流れを大きく左右するものでした。父の最期と、その意志を継ごうとした息子の行動が、鎌倉という舞台で交差するのです。

北条高時と後醍醐天皇・尊氏との関係

北条高時と後醍醐天皇、そして足利尊氏は、鎌倉幕府滅亡に関する重要な人物であり、三者の関係性はその歴史の鍵を握っています。

高時が執権だった頃、後醍醐天皇は倒幕を志して動き始めていました。1324年の正中の変では、倒幕計画が発覚し、関係者が処罰される事態に。しかし、高時はこのとき、後醍醐天皇自身には処分を下さず、事を荒立てないように収めています。

その対応の甘さが、後の元弘の乱へと繋がっていきます。1331年、後醍醐天皇は再び挙兵。幕府は天皇を隠岐に流しますが、翌年には脱出され、反乱は全国へ広がっていきました。

このとき、幕府は鎮圧のため足利尊氏を派遣します。しかし、尊氏は形勢を見極めた上で幕府を裏切り、後醍醐天皇側に寝返ります。尊氏の裏切りは、幕府にとって致命的な打撃となり、六波羅探題は崩壊、続いて新田義貞による鎌倉攻撃へと繋がります。

高時と尊氏の直接的な関係については明確な記録が少ないものの、少なくとも高時は尊氏の行動を制御することができませんでした。内管領の長崎高資を中心とした政権運営が、武士たちの信頼を失っていたことも背景にあると考えられます。

こうして見ると、高時は後醍醐天皇の倒幕意志を軽視し、足利尊氏という有力御家人の変節を防げなかったという点で、時代の大転換に対して無力であったといえます。

つまり、後醍醐天皇と足利尊氏という二つの巨大な動きに対して、高時はほとんど対応を取ることができず、結果として幕府は瓦解へと進んでしまったのです。

北条高時はなぜ暗君と評価されるのか

北条高時が「暗君(愚かな君主)」と評価されることは、後世の文献や教育の中でも広く見られます。その主な理由として挙げられるのは、彼の政務への消極姿勢と、趣味に耽溺した生活態度です。

特に『太平記』や『保暦間記』では、高時が政務を放棄し、闘犬や田楽といった娯楽に明け暮れていた様子が描かれています。これにより、当時の混乱を招いた元凶としての印象が強まっていきました。

また、政治の実権を内管領に委ね、実質的な統治を放棄していた点も、無能と評される一因です。政務に参加しなかったため、外部からの危機に適切な判断ができず、倒幕運動に対しても有効な対策を講じることができませんでした。

ただし、これらの評価が必ずしも事実に基づいているとは限りません。上述の通り、『太平記』などの史料は勝者側の視点で書かれたものであり、敗者である高時を必要以上に貶めている可能性があります。

一方で、彼の治世下で鎌倉の経済が最も繁栄していたという記録もあり、政務を他者に委ねる形で一定の安定を保っていたことも事実です。つまり、評価は一面的ではなく、多面的に考えるべきです。

現代の歴史研究では、高時が政治構造そのものの限界に直面していたことが強調されるようになってきています。個人の資質だけでなく、幕府の制度疲労や御家人制度の限界が背景にあるとする見解もあります。

それでも、最終的に幕府を滅亡に導いたという歴史的結果は動かしがたく、高時が「暗君」とされるのは避けられない部分でもあります。むしろ、その背景や文脈を深く理解することで、彼の評価をより適切に捉えることができるでしょう。

北条高時は何をしたのかを総括

ここでは、北条高時が何をした人物なのかを総まとめとして整理します。
鎌倉幕府最後の執権としてどのような行動を取り、また何が彼の評価に繋がったのかを、ポイントごとに簡潔にご紹介します。

  • 北条高時は鎌倉幕府第14代執権で、幕府の最末期を象徴する存在です。
  • 父・北条貞時の死後、9歳で得宗家の家督を継ぎました。
  • 14歳で執権となりましたが、実務は内管領の長崎円喜やその子・高資に任せていました。
  • 政治的には消極的で、執権でありながら統治への関心が薄かったとされます。
  • 趣味や仏教への傾倒が強く、田楽や闘犬に熱中していたとも言われています。
  • 日蓮宗の布教をめぐる「殿中問答」を主導するなど、宗教には一定の関心がありました。
  • 1324年の「正中の変」では、後醍醐天皇の処遇を穏便に済ませ、倒幕の芽を摘み損ねました。
  • 1326年に病気を理由に出家し、政界を離れましたが、幕府の実権は保持していました。
  • 出家後も、後継問題や内部抗争を収められず、「嘉暦の騒動」を招きます。
  • 倒幕運動に対する初動対応に失敗し、全国で幕府への不信感が高まりました。
  • 足利尊氏の裏切りや新田義貞の進軍に対して、最後まで有効な手を打てませんでした。
  • 1333年、鎌倉が攻め落とされると、一族とともに東勝寺で自害しました(東勝寺合戦)。
  • 高時の自害によって鎌倉幕府は滅亡し、武家政権の第一幕が閉じられました。
  • 彼の政治放棄や側近依存の姿勢が、幕府の求心力低下を招いたと評価されています。
  • 一方で、経済的には比較的安定した時期もあり、評価には幅があることも事実です。

このように、北条高時は「何もしなかった」ことで幕府の崩壊を早めた人物とも言われていますが、その背景には複雑な政治構造や時代の変化も存在していました。
決して一言では語れない彼の生涯が、鎌倉幕府の終焉を象徴しています。

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