【詳細解説】藤原伊周ってどんな人?エピソードや失脚の理由、最後どうなるかまでわかりやすく紹介

この記事でわかること

この記事では、藤原伊周が何をした人でどんな人だったのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
藤原伊周について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!

この記事は

  • 藤原伊周って何をした人?どんな人?
  • 藤原伊周の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
  • テストや受験勉強で役立つ平安時代の知識を学びたい。

こんなことを知りたい人におすすめです。

目次

藤原伊周のプロフィール

藤原伊周
藤原伊周

藤原伊周(ふじわら の これちか)は、平安時代中期に活躍した貴族であり、藤原道隆の長男として生まれました。
彼は若くして内大臣に昇進し、華やかな宮廷生活を送りましたが、叔父の藤原道長との政争に巻き込まれ、波乱に満ちた人生を送りました。
特に「長徳の変」では、花山法皇を襲撃しようとしたことで解官・左遷されるという劇的な出来事がありました。

名前藤原 伊周 (ふじわら の これちか)
出身地平安京 (現在の京都市)
生年月日974年 (天延2年)
死亡年月日1010年2月14日 (寛弘7年1月28日)
享年37歳
活躍した時代平安時代中期
家族父:藤原道隆、母:高階貴子、兄弟:道頼、頼親、定子、隆家、原子、隆円、頼子、御匣殿、周家、周頼、妍子、妻:源重光の娘、源致明の娘、子:道雅、頼宗、周子、顕長
最高官位正二位・内大臣
別名帥内大臣、儀同三司
主君花山天皇、一条天皇
事件長徳の変により解官・左遷されるが、後に復帰

藤原伊周のかんたん年表

年号(西暦)年齢出来事
天延2年(974年)0歳平安京にて誕生
寛和元年(985年)11歳元服し、従五位下に叙せられる
永延元年(987年)13歳正五位下・左近衛少将に任命される
正暦元年(990年)16歳父・藤原道隆が摂政に就任し、妹・定子が中宮に立つ
正暦2年(991年)17歳参議に任命され、公卿に列する
正暦5年(994年)20歳内大臣に昇進
長徳元年(995年)21歳父・藤原道隆が死去し、叔父・藤原道長との政争が激化
長徳2年(996年)22歳長徳の変が発生し、解官・左遷される
寛弘元年(1004年)30歳復帰し、正二位に昇進
寛弘7年(1010年)37歳死去

藤原伊周はどんな人?生涯をざっくり紹介

藤原伊周は、平安時代中期に活躍した貴族です。彼の生涯は栄光と挫折が交錯する波乱に満ちたものでした。これから、伊周の人生を詳しく見ていきましょう。

名門の子として誕生

藤原伊周は、974年(天延2年)に、当時の権力者である藤原道隆の長男として生まれました。父の道隆は摂政や関白を務めた超有名人で、母の高階貴子も歌人として知られていました。つまり、伊周は生まれた時から超エリートだったんです。

伊周は幼い頃から「小千代君」という愛称で呼ばれていました。これは「千代(永遠)に小さく可愛らしくあれ」という願いが込められていたそうです。高階氏一族から教育を受け、特に文筆の才能に優れていたと言われています。

父・道隆が摂政に

伊周が成長するにつれ、父の道隆はますます力を持っていきました。道隆は摂政や関白として、天皇の代わりに政治を動かす重要な役割を担っていたんです。こんな強い味方がいれば、伊周の未来も明るいように思えますよね。

実は、道隆は伊周を後継者にしようと考えていました。でも、一条天皇にそれを拒否されてしまったんです。これは伊周にとって大きな挫折だったでしょう。

妹・定子が中宮に

伊周には定子という妹がいました。定子は一条天皇の中宮(天皇の正式な妻)として、宮廷で重要な役割を果たしていました。兄妹仲も良かったようで、定子の立場は伊周の政治的な地位にも良い影響を与えていたんです。

しかし、1001年に定子が亡くなってしまいます。わずか24歳という若さでした。これは伊周にとって大きな打撃だったでしょう。大切な家族を失う悲しみに加えて、政治的な後ろ盾も失ってしまったからです。

父・道隆が死去、道長との政争が激化

995年、伊周の人生に大きな転機が訪れます。父の道隆が亡くなってしまったのです。これにより、伊周は強力な後ろ盾を失ってしまいました。政治の世界は厳しいものですね。

ちなみに、道隆は糖尿病が原因で亡くなったと言われています。当時は今のような治療法がなかったので、大変だったんでしょうね。

道隆の死後、一時的に道兼という人が関白に就任しますが、すぐに亡くなってしまいます。そして、伊周の叔父である藤原道長が内覧(天皇の補佐役)に任命されました。ここから、伊周と道長の間で激しい権力争いが始まるんです。親族同士の争いは悲しいものですが、当時の政治ではよくあることだったんですね。

長徳の変で左遷

996年、伊周の人生を大きく変える出来事が起こります。「長徳の変」と呼ばれる事件で、伊周と弟の隆家が花山法皇(引退した天皇)を襲撃したのです。法皇の衣の袖を矢で射抜くという大変な事件でした。

この事件の結果、伊周は大宰府(今の福岡県)に、隆家は出雲(今の島根県)に左遷されてしまいます。都から遠く離れた場所に追いやられるのは、当時の貴族にとって大変な罰でした。この事件により、伊周の政治的影響力は大きく低下し、逆に道長が権力を握るきっかけとなりました。

復帰

その後、伊周の罪は許されて京都に戻ることができました。都に戻ると、准大臣という高い地位に就くことができましたが、以前ほどの政治的影響力は持てませんでした

伊周は容姿が整っていて和歌の才能にも優れていたそうです。源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われています。政治の世界では苦労しましたが、文化面では高く評価されていました。

死去

藤原伊周は1010年、37歳という若さでこの世を去りました。晩年は政治的影響力が低下し、失意の中での最期だったと言われています。短い人生でしたが、栄光と挫折を味わい尽くした波乱の生涯でした。

伊周の子供たちは、ライバルだった道長の子供たちと結婚しています。これは、藤原家の血筋を守るためだったと考えられています。政治の世界は複雑で、敵対していた相手とも和解することがあるんですね。

伊周の生涯から、権力の移り変わりの激しさや、平安時代の政治の複雑さを感じ取ることができます。

藤原伊周のエピソードや逸話

ここでは、藤原伊周のエピソードや逸話を紹介します。

長徳の変

996年、藤原伊周は花山法皇を襲撃しようとした事件で、解官・左遷されました。
花山法皇が伊周の思い人の元に通っていると誤解し、弟の隆家と共に襲撃を計画しましたが、結果的に失敗し、伊周は大宰府に左遷されることになったのです。

藤原道長との弓争い

藤原道長と弓の腕を競った際、伊周は道長に敗北しました。
道長が見事に的を射抜いたのに対し、伊周は緊張で手が震え、矢を外してしまったのです。
このエピソードは、伊周の未熟さと道長の優位性を象徴しています

清少納言との交流

『枕草子』には、伊周が清少納言をからかう場面が描かれています。
宮仕えを始めたばかりの清少納言をからかい、彼女の緊張を和らげるための行動でした。
このエピソードから、伊周の人間味あふれる一面が垣間見えます

母との別れ

長徳の変で左遷された際、母・高階貴子が病に倒れました。
伊周は病と称して京に戻り、母に会おうとしましたが、捕らえられて再び大宰府に送られました。
母の死を見届けることができなかった伊周の悲しみが伝わるエピソードです

妹・定子の死

妹の定子が産後の肥立ちが悪く亡くなった際、伊周は彼女の亡骸を抱きしめて泣き崩れたといいます。
定子の死は伊周にとって大きな打撃であり、彼の人間味あふれる一面が強く感じられるエピソードです。

藤原伊周にゆかりの地

ここでは、藤原伊周にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。

一条院跡

京都府京都市にある一条院跡は、藤原伊周が妾とした藤原為光の三女が住まいとしていた場所です。
999年(長保元年)に内裏が焼亡した際には、一条天皇がこの屋敷を里内裏として使用しました。

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