戦国時代、徳川家康に仕え、忠義の士として語り継がれている夏目吉信。
この記事では、夏目吉信が何をした人なのかということを中心に、生い立ちや生涯を簡潔にわかりやすく紹介します。
夏目吉信は何をした人?
夏目吉信が活躍した時代は戦国時代です。
三河武士として松平家譜代の家に生まれ、家康に仕えます。
三河一向一揆で一度は家康を裏切りますが、終生家康に忠義を尽くし、三方ヶ原の戦いでは家康の身代わりとなって家康を逃がし、自らは討ち死にします。
もし夏目吉信が身代わりにならずに、三方ヶ原の戦いで家康が討ち死にするようなことになっていたら、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。
夏目吉信のプロフィール
名前 | 夏目吉信(なつめ よしのぶ) |
別名 | 夏目広次、次郎左衛門 |
出身地 | 三河国 |
生年月日 | 1518年 |
死亡年月日 | 1572年12月22日 |
享年 | 55歳 |
活躍した時代 | 戦国時代 |
家族 | 夏目吉久(父)、夏目信次(三男) |
夏目吉信のかんたん年表
1518年 | 三河で生誕 |
1561年 | 三河長沢城攻めで軍功を上げる |
1562年 | 板倉重定との戦いにおいて殿を務める |
1563年 | 三河一向一揆、一向一揆側につく |
1563年 | 徳川家に帰参、三河・遠江の郡代となる |
1573年 | 三方ヶ原の戦いにて討ち死に |
【夏目吉信はどんな人?】生い立ちや生涯を紹介
1518年、夏目吉信は、夏目吉久の子として三河国に生まれます。
夏目吉信の通称は次郎左衛門。
また、確認できる史料では夏目広次という名前であった可能性も記録されています。
家康に仕え武功を上げる
夏目家は、古くから松平氏に仕える譜代の家柄でした。
桶狭間の戦いのあと、徳川家康が三河の領主になると、夏目吉信は家康に仕えます。
三河国の反対勢力や今川家との戦いでは、殿(しんがり)を務めるなど数々の武功を上げました。
家康からも信頼され、脇差しを贈られました。
三河一向一揆で家康を裏切る
しかし、1563年、三河一向一揆が勃発します。
三河一向一揆の際は、徳川家の家臣も、徳川側と一揆側に分かれ争うこととなり、家康の人生にとっても大きな危機となるできごとでした。
夏目吉信も、葛藤はあったでしょうが、おそらく一向宗の門徒であったことから家康を裏切り、一向一揆の側について戦うことになります。
三河一向一揆は家康に大きなダメージを与えますが、鎮圧される結果に終わります。
再び家康のもとに帰参
夏目吉信は、三河一向一揆で敗北し、徳川方の松平伊忠に捕らえられます。
助命の結果、夏目吉信は許され、再び家康の家臣として仕えることになります。
家康のもとに帰参すると、三河・遠江の郡代に任命され、家康に尽くすことになります。
三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなり討ち死に
1573年、武田信玄が徳川領に侵攻、三方ヶ原の戦いが起こります。
三方ヶ原の戦いは家康の生涯最大の惨敗となります。
戦国最強軍団の武田軍に徳川軍がボロ負けしたのです。
罠を張って待ち構えていた武田軍によって、徳川軍はボロボロになり、わずか2時間ほどの合戦で2000人近くの死傷者が出たと言われています。
敗色濃厚となった戦場で、家臣たちが退却を進言するにもかかわらず、激昂した家康は敵に向かって決死の突撃をしようとしました。
そこで夏目吉信は、家康が乗っていた馬の脚を刀のみねで打ち、強引に逆方向に走らせ、家康を逃しました。
また、家康の兜をかぶり、「我こそは家康である!」と叫びながら敵中に突撃し奮戦。
結果、家康の身代わりとなり戦死しました。
夏目吉信が身代わりとなって戦ったことで、家康は浜松城まで逃げ戻ることができたのでした。
夏目吉信のエピソードや逸話
三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討ち死にした夏目吉信。
家康は吉信に感謝し、忠節をたたえ、岡崎の法蔵寺に吉信の墓を建てます。
また、家康は吉信に信誉徹忠という号を与えて感謝の念を示しました。
夏目吉信の子孫は?
夏目吉信には4人の男子がいましたが、吉信が死去した時点で長男と次男はすでに亡くなっていました。
三男の信次は刃傷事件を起こして家を出ており、四男の吉忠が夏目家のあとを継ぐことになりました。
しかし、その後吉忠は病死。
結果的に、父・吉信の忠節を考慮して三男の信次は許され、徳川家の家臣として仕えることになります。
夏目家はその後も徳川家の旗本として存続。
明治時代の文豪、夏目漱石は、この夏目家の子孫といわれています。
おわりに
夏目吉信について、何をした人なのかということや、どういう人なのかということについてわかりやすく紹介しました。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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