この記事では、源頼朝が何をした人でどんな人だったのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
源頼朝について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!
この記事は
・源頼朝って何をした人?どんな人?
・源頼朝の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
・テストや受験勉強で役立つ源頼朝の知識を学びたい。
こんなことを知りたい人におすすめです。
源頼朝のプロフィール
名前 | 源頼朝(みなもとのよりとも) |
出身地 | 尾張国(現在の愛知県) |
生年月日 | 1147年4月8日 |
死亡年月日 | 1199年1月13日 |
享年 | 53歳 |
活躍した時代 | 平安時代~鎌倉時代 |
家族 | 北条政子(妻)、源義経(異母弟)、源頼家(子)、源実朝(子) |
源頼朝のかんたん年表
1147年 | 生誕 |
1159年 | 平治の乱 |
1160年 | 伊豆へ流される |
1177年頃 | 北条政子と結婚 |
1180年 | 挙兵 |
1185年 | 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡 |
1192年 | 征夷大将軍になる |
1199年 | 死去 |
【源頼朝はどんな人?】生涯をざっくり紹介
それでは、源頼朝の生涯を簡潔に紹介します。
鎌倉幕府を成立させた人物として知られている源頼朝は、どのような人物だったのでしょうか。
源氏の名門、源義朝の子として生まれる
源頼朝は、源義朝の三男として1147年に生まれます。
ときは平安時代末期。
貴族の権力闘争に武士が加勢するようになり、武士が台頭するようになっていました。
武士のグループには2大派閥がありました。
それが源氏と平氏です。
源氏も平氏も、もともとは天皇家にルーツがある由緒ある家系です。
頼朝は、そんな由緒正しい源氏の名門の家に生まれたのでした。
平治の乱で父を殺され、伊豆に流される
源氏と平氏は、ときには共に戦ったり、ときには敵対したりといった関係を続けていました。
そして保元の乱という戦いをきっかけに、平清盛と、頼朝の父である源義朝が、平氏と源氏を代表する2トップ的な感じになりました。
しかし、2トップの平清盛と源義朝は、対立し争うことになります。
この武士の頂上決戦的な戦いを平治の乱といいます。
平治の乱には、13歳の頼朝も父に従って参戦していました。
平治の乱は、平清盛の勝利に終わります。
源義朝・頼朝親子は、関東を目指して逃げますが、逃走中に父の義朝は殺され、頼朝も捕らえられてしまいます。
捕らえられた頼朝は処刑される運命でしたが、まだ元服前の子どもだったこともあり、平清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命嘆願をしました。
それにより頼朝は命を救われ、伊豆の蛭ヶ小島に追放されることになります。
平氏打倒のため伊豆で挙兵、関東の武士勢力をまとめ上げる
伊豆で頼朝は、地元の豪族である北条時政らの監視を受けながらも、のんびり静かに暮らしていました。
伊豆に流されてから20年が経ち、頼朝は北条時政の娘である政子と結婚しますが、その頃になって、世の中が大きく動き始めます。
平治の乱のあと、武士の頂点に立った平清盛は、同時に貴族の頂点でもある太政大臣にも任命され、平氏は絶頂期を迎えます。
平氏の一門である平時忠の「平家にあらずんば人にあらず」という言葉が有名ですが、それくらい平氏の権力は強いものになっていたのです。
そうなってくると、そんな平氏に反発を抱く者も出てきます。
平清盛が自らに権力を集中するため後白河法皇を幽閉すると、後白河法皇の皇子の以仁王は、「平氏を倒せ」という命令を全国の源氏勢力に発しました。
これを「以仁王の令旨」といいます。
頼朝も伊豆で以仁王の令旨を受け取りますが、当初は動く気配を見せませんでした。
しかし、以仁王の令旨のことを知った平氏勢力が、逆に源氏を追討しようと企てているのを知ると、身の危険を感じて挙兵を決意しました。
このころ、平氏は全国に支配を広げ、そのことによって地方の武士たちのなかには、自分の支配地を平氏に奪われてしまうのではないかという危機感をもつ者も多くいました。
そんな反平氏の武士たちが、源氏の名門である頼朝に呼応することになります。
最初に頼朝の挙兵に呼応したのは、北条時政、岡崎義実、宇佐美助茂、佐々木盛綱といった面々でした。
頼朝の勢力は、はじめ、石橋山(現在の神奈川県)で平氏軍と戦いますが、大敗してしまいます。
頼朝たちは船に乗って、安房(現在の千葉県)まで逃れます。
安房で頼朝は、地元の武士たちに「味方をしてくれたら、土地を支配する権利を与える」という約束をして、どんどん味方を増やしていきます。
この関係は、「御恩と奉公」として、鎌倉幕府成立後も引き継がれます。
そして頼朝は関東一円の武士をまとめ上げ、一大勢力になるのです。
鎌倉幕府を成立、征夷大将軍になる
一大勢力となった頼朝は、富士川(現在の静岡県)で再び平氏軍と戦い、今度は勝利を収めます。
このとき、頼朝の異母弟の源義経が参陣します。
このあと、頼朝は鎌倉を本拠地として地盤を築きながら指示を出し、戦いの指揮官として優れた能力をもつ義経や、これまた異母弟である源範頼らが、軍勢を率いて各地を転戦し、平氏を討伐するという体制が出来上がります。
義経は破竹の勢いで平氏との戦いに勝利していき、富士川の戦いから5年後の1185年、平氏は壇ノ浦(現在の山口県下関)まで追い詰められ、滅亡します。(壇ノ浦の戦い)
しかし、平氏滅亡後、頼朝と義経は対立することになります。
対立の理由には諸説ありますが、義経の力を頼朝が恐れたとか、義経が頼朝の許可を得ずに朝廷から官職を授かったことが、頼朝の目指す武士政権の成立にとって邪魔になっていたなどの理由があります。
義経の行為を認めてしまうと、朝廷のほうが武士よりも上だというこれまでどおりの構図を認めることになってしまい、頼朝の武士政権を樹立するという政治ビジョンが崩れてしまうというわけです。
義経が反逆者として、奥州平泉の藤原氏のもとに逃亡すると、頼朝は義経を捕らえるためとして、全国に守護・地頭を置く権利を朝廷に認めさせ、これにより実質的に鎌倉幕府が成立します。
以前の教科書では、鎌倉幕府の成立は1192年とされていて、「いいくにつくろう鎌倉幕府」という語呂で覚えましたが、いまは守護・地頭を置いた1185年が鎌倉幕府の成立年となっています。
頼朝は、義経の逃亡先である奥州藤原氏も滅ぼし、権力を盤石なものにします。
1192年、46歳のときに頼朝は征夷大将軍に任命され、日本ではじめての武士政権を確立していきます。
その後、53歳で頼朝は亡くなります。
死因は落馬が原因とされていますが、暗殺や病死説など諸説あります。
源頼朝のエピソードや逸話
ここでは、源頼朝のエピソードや逸話を紹介します。
紹介する逸話は2つです。
弓が得意だった
頼朝はあまり前線で戦うタイプの武将ではないので、武力に優れたイメージがありませんが、実は弓の腕前は超一流だったそうです。
挙兵直後の石橋山の戦いでは、自ら馬に乗りながら弓を射て戦いました。
頼朝が放った矢は、敵の甲冑をつらぬくほど強力だったそうです。
イケメンで女好きだった
鎌倉時代に書かれた書物によると、源頼朝はイケメンの美男子だったそうです。
たしかに肖像画などを見ても、整った顔立ちをしていますよね。
(※従来頼朝を描いたといわれていた有名な肖像画は、最近になって実は足利直義を描いたものではないかと考えられています)
女性関係も盛んで、北条政子との結婚以前には、監視役だった伊東祐親の娘・八重との間に子どもをもうけたり、結婚後も浮気をしていたことが『吾妻鏡』という歴史書に書かれています。
源頼朝にゆかりの地
ここでは、源頼朝にゆかりの地や史跡を紹介します。
紹介するのは2つです。
源頼朝の銅像
鎌倉の源氏山公園には源頼朝の銅像があります。
源頼朝の墓
鎌倉の鶴岡八幡宮から徒歩5分の小高い丘の上に、頼朝の墓とされている石碑があります。
【ファミリーヒストリー】源頼朝の子孫は?
頼朝と北条政子との間には4人の子どもがいました。
2男2女です。
頼朝の跡をついで2代目将軍となったのは、長男の頼家でしたが、頼家は23歳の若さで北条氏により暗殺されてしまいます。
3代目将軍は、頼朝の次男の実朝が継ぎますが、今度は頼家の息子である公暁によって暗殺されてしまいます。
そして、その公暁も暗殺の罪で討ち取られてしまいます。
ここで、頼朝の直系の血筋は途絶えてしまうことになります。
頼朝直系の血筋は途絶えますが、清和源氏の血は脈々と受け継がれます。
戦国時代~江戸時代にかけて活躍した徳川家康なども清和源氏の子孫を称していました。
【試験に出る源頼朝】テストや受験ではここを覚えておこう
テストや受験生で日本史を学んでいる人のために、源頼朝に関連した重要なポイントをまとめました。
- 平治の乱で源氏は没落、平氏が権力を手にした。
- 以仁王の令旨を受けて平氏政権打倒のために挙兵。
- 鎌倉に侍所、公文所、問注所を設置し、支配体制を固めた。
- 源義経らを派遣して平氏を追討、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。
- 義経と対立し、義経追討を名目に守護・地頭を全国に配置、軍事・警察権を全国に拡げた。
- 1192年、征夷大将軍に任命された。
おわりに
源頼朝はどんな人物だったのか、何をした人なのかをエピソードなどを交えて紹介しました。
鎌倉幕府を作った人ということは知っていても、どんな人なのかはあまり知らなかったのではないでしょうか。
頼朝の作った鎌倉幕府は、頼朝の死後は、頼朝の妻、北条政子の実家である北条家が執権として実質支配することになります。
なぜそのようなことになるのかについても、別記事で解説したいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます!
コメント