尊王攘夷とは?簡単に意味と背景を解説

尊王攘夷とは?簡単に意味と背景を解説

尊王攘夷とはなにか、簡単に知りたいと思って調べている方に向けて、この記事ではその意味や背景、そして時代との関わりをわかりやすく解説します。尊王攘夷は、幕末の日本で大きな影響を与えた政治思想であり、「いつ」「なぜ」この考えが広まったのかを知ることで、明治維新の流れが見えてきます。中心人物としては藤田東湖や吉田松陰、坂本龍馬などが挙げられ、特に長州藩との関わりは非常に深いものがありました。また、尊王攘夷に反対する立場としては「公武合体」や「開国論」などの反対概念や対立概念も存在します。さらに、京都の治安維持を担った新選組との関係も欠かせません。この記事を通して、尊王攘夷の全体像を体系的に理解できるように整理していきます。

この記事のポイント
  • 尊王攘夷の基本的な意味と成り立ち
  • 尊王攘夷が起こった時代背景と理由
  • 関連する中心人物や藩の役割
  • 対立概念やその後の歴史的影響
目次

尊王攘夷とは?簡単にわかりやすく解説

  • 尊王攘夷とは?簡単に言うと何か
  • 尊王攘夷はいつの時代に起きたか
  • 尊王攘夷がなぜ起こったのか
  • 尊王攘夷の中心人物には誰がいたか
  • 尊王攘夷と長州藩の関係について

尊王攘夷とは?簡単に言うと何か

尊王攘夷とは?簡単に言うと何か

尊王攘夷とは、「天皇を敬い、外国勢力を日本から排除しよう」という考え方を指します。江戸時代の末期、外国船が次々と日本近海に現れるようになり、人々の間に不安が広がる中で登場した政治思想です。
この言葉は「尊王(そんのう)」と「攘夷(じょうい)」の2つから成り立っています。

まず「尊王」とは、天皇を日本の正統な支配者として尊重する思想です。当時の日本では、実際の政治は将軍が行っていたため、天皇の存在は形式的なものでした。しかし、尊王思想が広まることで「政治の中心は天皇であるべきだ」という意識が高まりました。

次に「攘夷」は、外国を排斥しようという考えです。当時、日本は長らく鎖国を続けていたため、突然接近してきた欧米列強に対して大きな危機感を抱いていました。とくに、武力を背景に開国を迫ってきたアメリカやイギリスなどに対し、「力で追い払うべきだ」とする攘夷論が支持を集めるようになります。

このように、尊王と攘夷という本来別々だった思想が結びついた結果、「尊王攘夷」というスローガンが生まれました。とくに水戸藩がこの思想を広める役割を果たし、やがて日本全国の武士や志士たちに広まっていきます。

ただし、外国の軍事力を前に攘夷の実行は難しく、後には「まずは日本を強くするために開国し、そのうえで外国に対抗しよう」という現実的な考え方(いわゆる「大攘夷」)へと移行していきます。このように、尊王攘夷とは単なる排外主義ではなく、日本の主権や独立を守るための複雑な思想だったのです。

尊王攘夷はいつの時代に起きたか

尊王攘夷はいつの時代に起きたか

尊王攘夷という思想が強く叫ばれるようになったのは、江戸時代の末期、いわゆる「幕末」と呼ばれる時代です。西暦でいえば、1850年代から1860年代の約15年間にわたり、日本は大きな混乱と変革の中にありました。

きっかけとなったのは、1853年のアメリカ・ペリー提督による「黒船来航」です。この事件によって、日本は開国を迫られ、従来の鎖国体制が崩れ始めました。外国の圧力が強まる中、「このままでは日本が外国の支配下に置かれてしまうのではないか」という不安が広がり、それに対する反発として尊王攘夷の思想が広がっていきます。

その後、1858年には「日米修好通商条約」が結ばれ、正式に日本が開国へと踏み出しました。しかし、この条約は天皇の許可(勅許)を得ずに締結されたため、朝廷や武士の一部から強い反発を受けます。尊王攘夷派の人々は、このような幕府のやり方に怒りを覚え、政治体制そのものを変えようとする運動を展開するようになりました。

また、1860年代には薩摩藩や長州藩といった有力な藩が尊王攘夷の旗印を掲げ、次第に幕府に対抗する勢力となっていきます。やがて、尊王攘夷を唱える運動は単なる外国排斥を超え、幕府そのものを倒して新たな政府を作る「倒幕運動」へと発展しました。

最終的に1868年の明治維新をもって江戸幕府は終わりを迎え、日本は近代国家としての一歩を踏み出します。尊王攘夷は、その幕末という短くも濃密な時代に大きな影響を与えた思想だったのです。

尊王攘夷がなぜ起こったのか

尊王攘夷が起こった背景には、外国からの脅威と、国内における政治体制への不満が複雑に絡み合っています。特に、日本が長く続けてきた鎖国政策が終わりを迎えようとしていたことが、大きな転機となりました。

まず重要なのは、19世紀中ごろから欧米列強がアジア諸国に進出し、次々と植民地化を進めていたという国際的な流れです。1840年のアヘン戦争で中国がイギリスに敗れ、香港を割譲したというニュースは、日本にも大きな衝撃を与えました。これを見て、日本の知識人や武士たちは「日本も同じ目に遭うのではないか」という強い危機感を抱いたのです。

一方で、江戸幕府の政治は長年の安定の中で硬直化しており、外圧に対応する柔軟さを欠いていました。1853年にアメリカのペリー提督が来航して開国を要求すると、幕府は動揺し、国民や諸藩からの信頼を徐々に失っていきます。こうした幕府の対応のまずさが、「幕府では日本を守れない」という不満を広める結果になりました。

このような情勢の中で、幕府を批判しつつ天皇を中心とした政治を求める尊王思想が力を持つようになり、それとともに「外国を排除して日本の独立を守るべきだ」という攘夷思想も台頭してきました。尊王と攘夷が結びついたのは、水戸藩の藤田東湖や徳川斉昭らの思想的影響が大きいとされています。

また、国学や神道など、日本固有の文化や伝統を重んじる考え方が広まっていたことも、尊王攘夷が受け入れられた理由の一つです。外国文化を危険視する考えが、攘夷の支持を強めました。

ただし、結果として尊王攘夷は一枚岩の運動ではなく、次第に考え方に違いが生まれていきます。単純に外国を追い払う「小攘夷」では限界があると認識され、富国強兵を経て外国と対等に渡り合う「大攘夷」へと思想は変化していきました。このように、尊王攘夷が起こった背景には、時代の変化に対する不安と、それに対するさまざまな反応が複雑に交差していたのです。

尊王攘夷の中心人物には誰がいたか

尊王攘夷の思想を支え、実際にその運動を進めた人物は複数存在します。ここでは特に重要な5人を紹介します。彼らの思想や行動が、幕末という激動の時代に大きな影響を与えました。

まず名前が挙がるのは藤田東湖です。彼は水戸藩の思想家であり、「弘道館記述義」を通じて尊王攘夷という言葉を明文化した人物でもあります。東湖は、天皇を中心とした政治体制の再構築と、外国勢力の排除を強く訴えました。彼の考えは水戸学として体系化され、幕末の思想的な土台となります。

次に挙げられるのが徳川斉昭です。水戸藩9代藩主として藩政改革に取り組み、藤田東湖と協力して尊王攘夷の思想を藩の基本方針としました。彼は幕府の参与にも任命され、幕政にも影響を及ぼしました。天皇への忠誠を訴える一方で、強い排外的な姿勢を持ち、黒船来航後の外交政策にも関心を示しました。

長州藩出身の思想家、吉田松陰も欠かせない存在です。彼は若くして海外留学を志し、失敗して投獄された後、松下村塾を開いて多くの志士を育てました。松陰は、尊王攘夷を単なる思想にとどめず、行動へと移す必要があると説きました。やがて幕府の条約締結に激しく反発し、命をかけて討幕と攘夷の必要性を主張しました。

さらに、**桂小五郎(後の木戸孝允)**も尊王攘夷の実践者として知られています。彼は一時的に攘夷を掲げつつも、やがて現実を見据えて「開国して力を蓄え、最終的に外国と対等になる」という大攘夷へと舵を切りました。実際に明治維新を実現させた中心人物の一人です。

最後に触れておきたいのが久坂玄瑞です。吉田松陰の弟子であり、長州藩の若き指導者として活躍しました。尊王攘夷の思想を純粋に信じ、京都での政治工作や攘夷実行に奔走しますが、禁門の変で命を落とします。彼の行動は、幕府との対決姿勢を明確にし、討幕への機運を一層高めました。

このように、尊王攘夷を掲げた人物たちは、それぞれ異なる背景や立場から思想を発展させていきました。一方で、状況の変化に応じて攘夷の内容を柔軟に変えていった人物も多く、単なる排外主義とは異なる複雑さがある点にも注意が必要です。

尊王攘夷と長州藩の関係について

長州藩は、尊王攘夷運動において最も積極的かつ影響力のある藩の一つでした。その思想と行動の変遷を見ることで、尊王攘夷という言葉の持つ意味の変化や、日本の近代化への道のりを理解する手がかりになります。

もともと長州藩は、江戸幕府の外様大名として中央政治からやや距離を置いた存在でした。しかし、幕末に入ると、藩内で吉田松陰をはじめとする尊王攘夷思想が急速に広まり、藩の方針にも大きな影響を与えるようになります。松陰の門下生である高杉晋作や久坂玄瑞などの若手志士たちが藩政に関わるようになり、尊王攘夷の実行に向けて動き出しました。

1863年には、長州藩は朝廷からの「攘夷決行」の命を受け、下関海峡を通過する外国船を砲撃するという強硬策を実行します。これはいわゆる「下関戦争」と呼ばれるもので、イギリスやアメリカなど列強の軍艦を相手に戦いを挑むというものでした。しかし、圧倒的な軍事力の差を見せつけられ、結果的には大敗を喫します。

この敗北は、長州藩内の意識に大きな転換をもたらします。単に武力で外国を追い払う「小攘夷」では限界があると悟り、以後は「大攘夷」、つまり一時的に開国を受け入れて国力を養い、やがて対等に渡り合える体制を整えるという方向に方針を切り替えました。特に桂小五郎や高杉晋作らは、現実的な視点を持ち、国内統一と富国強兵を優先する戦略を採用します。

また、長州藩は幕府からの弾圧にも直面し、第一次・第二次長州征伐では幕府軍との本格的な戦闘に発展します。この経験が、藩内の討幕の意志をさらに強固なものとしました。そして、薩摩藩との「薩長同盟」締結を経て、倒幕運動の中心的存在となっていきます。

こうした流れからわかるように、長州藩は尊王攘夷を理念として掲げるだけでなく、それを行動に移し、時代に合わせて実践の方法を変えていったという点で、他の藩よりも一歩先を行っていたと言えるでしょう。単なる理想主義ではなく、実際に明治維新を成し遂げた原動力の一つとなったことが、長州藩の特筆すべき特徴です。

尊王攘夷とは?簡単に知る歴史の背景

  • 尊王攘夷の対立概念・反対概念とは
  • 尊王攘夷と坂本龍馬の関わり
  • 尊王攘夷と新選組の関係を解説
  • 尊王攘夷をわかりやすく整理する
  • 尊王攘夷から倒幕へどうつながったか
  • 尊王攘夷が明治維新に与えた影響

尊王攘夷の対立概念・反対概念とは

尊王攘夷という思想は、幕末の日本において一大スローガンとなったものの、常に全員が賛成していたわけではありません。この思想と対立した概念として、最も代表的なのが「公武合体(こうぶがったい)」です。公武合体は、朝廷(天皇)と幕府(将軍政権)の両者が協力し合って国内外の問題に対応しようという政治構想でした。

尊王攘夷が「幕府を弱体化させ、天皇を中心にして外国を排除しよう」とする方向を目指したのに対し、公武合体は「現実的な力を持つ幕府と形式的権威を持つ朝廷が手を取り合って国難を乗り越えよう」とする考え方です。そのため、思想としては正反対の性格を持っています。

例えば、井伊直弼や安藤信正といった幕府の要人たちは、公武合体を通じて幕府の正統性を保ちつつ、改革を進めようとしました。特に和宮と14代将軍・徳川家茂の政略結婚は、公武合体政策の象徴的な出来事です。しかし、この動きは尊王攘夷派からは「天皇の権威を政治利用した」として強く非難されました。

また、尊王攘夷のもう一つの反対概念といえるのが「開国論」です。これは、欧米列強と対立するのではなく、積極的に交流を持って技術や制度を取り入れ、日本を近代化させようという考え方です。勝海舟や福沢諭吉のような人物は、攘夷ではなく開国と文明開化を主張しており、尊王攘夷派とはしばしば対立しました。

このように、尊王攘夷の対立概念には公武合体や開国論といった現実的・妥協的な政策が含まれており、幕末の日本では理想と現実、伝統と改革のせめぎ合いが続いていたことがわかります。どちらが正しかったという単純な話ではなく、それぞれが異なる立場から国の未来を考えていたという点に注目することが重要です。

尊王攘夷と坂本龍馬の関わり

坂本龍馬は、一見すると「尊王攘夷」とは距離があるように見えるかもしれません。しかし、彼の生き方と行動をよく見ると、この思想と深く関わりながら、独自の解釈で新しい道を切り開いていったことがわかります。

もともと坂本龍馬も、多くの幕末の志士たちと同じく、若い頃は尊王攘夷の思想に強い影響を受けていました。黒船来航や不平等条約の締結に対する憤り、幕府の外交姿勢への不満から、「日本は日本人の手で守らなければならない」という強い意識を持っていたのです。

しかし、龍馬の特徴はその後の柔軟な姿勢にあります。彼は勝海舟のもとで西洋の軍事・海運の知識を学ぶ中で、単純な攘夷が不可能であることを早い段階で理解しました。外国と戦うよりも、外国と上手く付き合いながら国を強くするべきだという考えに至ったのです。この発想は、いわゆる「大攘夷」にも通じるものがあります。

坂本龍馬が最も尊王攘夷の思想と関わる場面は、「薩長同盟」の締結です。本来は対立していた薩摩藩と長州藩を和解させ、倒幕に向けた連携を実現したことで、結果的に尊王倒幕運動が加速しました。これは、天皇を中心とした新しい政体を作るという意味で、尊王思想の実現を後押しした出来事です。

ただし、龍馬自身は盲目的に攘夷を信じていたわけではありません。彼は「船中八策」という政治構想の中で、議会の設置や開国政策を提案しており、どちらかといえば現実主義者でした。つまり、尊王攘夷を起点にしながらも、理想と現実を両立させる形で新しい日本の姿を模索していた人物といえます。

坂本龍馬の存在は、尊王攘夷が単なる排外思想にとどまらず、近代国家を目指す運動へと発展するきっかけの一つになったといえるでしょう。

尊王攘夷と新選組の関係を解説

新選組は、尊王攘夷とは思想的に対立する立場にあった組織です。特に、尊王攘夷を掲げて政治改革や倒幕を目指す志士たちと、新選組はたびたび衝突しており、幕末の京都における重要な対立構造の一翼を担いました。

まず、新選組はもともと「浪士組」という形で江戸から上洛した武士の集団でした。その後、京都守護職である会津藩の配下に入り、「京都の治安維持」を任されることになります。当時の京都では、尊王攘夷を掲げる志士たちが暗殺や放火などの過激な活動を行っていたため、新選組はこれらの取り締まりを行う任務を担っていたのです。

このことから、新選組は「尊王攘夷派の敵」という位置づけになります。実際、「池田屋事件」では、長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが京都の町で幕府要人を暗殺しようとしていたところを、新選組が突入して阻止し、多くの志士を殺傷・捕縛しました。この事件によって、新選組は幕府の「忠臣」として名を上げましたが、一方で尊王攘夷派からは深い恨みを買うことになります。

また、新選組の主要メンバーである近藤勇や土方歳三は、武士としての忠義を重んじ、幕府への忠誠を貫きました。彼らにとって、尊王攘夷派の急進的な思想や行動は「無法」であり、治安を乱す危険な存在と映っていたのです。

しかし、注意すべき点は、新選組の隊士の中にもかつては尊王攘夷に共感していた者がいたことです。時代の流れや立場の違いによって、同じ志を持っていたはずの人々が敵味方に分かれていったという事実は、幕末の複雑さを象徴しています。

つまり、新選組と尊王攘夷の関係は単なる対立ではなく、「天皇を敬う」という共通の価値観を持ちながらも、その実現手段をめぐって激しく衝突した構図だったのです。幕末という時代がいかに混沌としていたかを示す一例と言えるでしょう。

尊王攘夷をわかりやすく整理する

尊王攘夷という言葉を見聞きしても、初めて学ぶ人にとっては意味がとらえづらいかもしれません。そこでここでは、その構成や背景をシンプルに整理し、理解を深めていきます。

まず、「尊王攘夷」は2つの異なる思想を組み合わせた言葉です。
「尊王」とは、天皇を敬い、日本の政治の正当な中心として仰ぐ考え方です。これは、天皇の権威が形骸化していた江戸時代において、「本来の統治者は将軍ではなく天皇である」という意識の復活を意味しました。
一方、「攘夷」は、外国を打ち払う、つまり外国の干渉を排除しようとする思想です。主に欧米列強の軍事的圧力や不平等条約に対する反発から生まれました。

尊王攘夷というスローガンは、こうした「国内の正統な秩序を取り戻す(尊王)」と「外敵の干渉を排除する(攘夷)」という2つの意図を併せ持っていたことが特徴です。特に、幕末期にこの思想が注目された背景には、黒船来航に始まる外圧と、幕府による外交政策への不満がありました。

そして、尊王攘夷を唱える者の多くは、当初こそ幕府の中で改革を求めていましたが、やがて幕府そのものを変えなければならないと考えるようになり、政治運動へと発展していきます。

ただし注意点として、「尊王攘夷=外国嫌い」と理解するのは正確ではありません。時代が進むにつれて、「攘夷」の解釈も変化していきます。最初は「外国を追い出す」という意味合いが強かったものの、後には「日本を強くし、対等に交渉できるようにする」といった現実的な路線が主流になっていきました。

このように、「尊王攘夷」はただのスローガンではなく、日本の政治や国際関係の変化を象徴する重要な思想だったのです。理解のポイントは、「尊王」と「攘夷」を切り分けて考え、それぞれがどのように時代とともに意味を変えていったかを見ることです。

尊王攘夷から倒幕へどうつながったか

尊王攘夷は、最初は幕府に改革を促すための思想として登場しましたが、やがてそれが幕府を倒す「倒幕運動」へと発展します。この流れにはいくつかの段階があり、それぞれに重要な出来事や人物が関与しています。

最初に大きな転機となったのが、1858年の「日米修好通商条約」の締結です。この条約は天皇の許可を得ずに結ばれたため、尊王派の間で幕府への不信感が一気に高まりました。その後も、幕府は外国との不平等な条約を次々と締結し、開国に踏み切りますが、それに対して尊王攘夷派は「天皇の意思を無視している」として、激しく反発します。

さらに、1863年に起こった「攘夷決行」の動きが事態を大きく変えました。とくに長州藩は外国艦隊に対して実際に攻撃を仕掛けますが、結果は大敗。ここで攘夷の実行が現実的でないことを悟った尊王派の一部は、外交方針を修正し、「まずは幕府を倒してから国家を立て直すべきだ」と考えるようになります。これが、倒幕への転換点となったのです。

この動きの中で重要な役割を果たしたのが、坂本龍馬を介して成立した「薩長同盟」です。薩摩藩と長州藩という有力な2藩が協力することで、幕府に対抗する力を手に入れた尊王派は、いよいよ倒幕の準備を本格化させます。

1867年には、15代将軍徳川慶喜が「大政奉還」を行い、政権を朝廷に返上しますが、これに満足しない尊王派は、旧幕府勢力を完全に排除するために武力行使を選択します。こうして翌年には「戊辰戦争」が始まり、最終的に幕府は崩壊し、明治政府が誕生することになります。

このように、尊王攘夷は本来、外国排斥と天皇崇敬を訴える思想でしたが、時代の流れの中で次第に「幕府打倒」という具体的な政治運動へと変化していったのです。

尊王攘夷が明治維新に与えた影響

尊王攘夷は、明治維新という日本の歴史上最大級の政治転換に深く関わっています。この思想がなければ、幕府を倒して近代国家へと移行する動きはもっと遅れていたか、あるいは別の形になっていたかもしれません。

明治維新において最も大きな変化は、政治の主導権が幕府から朝廷、つまり天皇に移ったことです。これはまさに尊王思想の実現でした。江戸時代まで形式的な存在だった天皇が、国家の中心として位置づけられるようになったのは、「天皇を正統な統治者とするべきだ」と考える尊王派の思想的働きかけがあったからです。

また、攘夷思想も明治維新の初期政策に影響を与えました。新政府は一時的に「攘夷」を国是とし、幕末に結ばれた不平等条約の改正を目指します。もちろん、現実的にはすぐに欧米と対等な関係を築くことは難しかったものの、尊王攘夷がもたらした「日本の独立を守るべき」という精神は、明治以降の富国強兵や殖産興業、外交交渉の基本姿勢として受け継がれていきました。

ただし、尊王攘夷のすべてが肯定的に作用したわけではありません。攘夷の過激な部分が暴力的な事件を引き起こしたことも事実です。また、明治維新後も一部には鎖国的な思想を持ち続けた者がおり、新政府に反抗する動きもありました。これらは、尊王攘夷の理想と現実のギャップを物語っています。

いずれにしても、尊王攘夷が与えた影響は、単なる政治体制の変更にとどまりません。人々の国家観や政治意識を根底から揺さぶり、新たな時代を切り拓く土台を築いたのです。その思想は、明治日本の国家アイデンティティ形成にも大きな影響を与え続けました。

尊王攘夷とは?簡単に理解するための総括

最後に記事のポイントをまとめます。

  • 尊王攘夷は「天皇を敬い外国を排除する」思想を意味する
  • 「尊王」は天皇を正統な統治者と位置づける考え方
  • 「攘夷」は外国勢力の干渉を拒否しようとする排外思想
  • 幕末の1850年代から1860年代にかけて広がった
  • 黒船来航と日米修好通商条約が思想拡大の引き金となった
  • 外交で幕府が天皇の意向を無視したことが反発を招いた
  • 水戸藩の藤田東湖や徳川斉昭が思想形成に貢献した
  • 吉田松陰は尊王攘夷を行動に移す教育者として影響力を持った
  • 長州藩は尊王攘夷を実行に移し、後に倒幕の主力となった
  • 攘夷実行の失敗を経て、現実路線の「大攘夷」へ移行した
  • 尊王攘夷から倒幕へと発展し、最終的に明治維新へつながった
  • 対立概念として「公武合体」や「開国論」が存在した
  • 坂本龍馬は尊王攘夷の精神を活かしつつ開国と議会制を提案した
  • 新選組は尊王攘夷派と敵対し、京都の治安維持に尽力した
  • 尊王攘夷は近代日本の政治意識と国家観の形成に影響を与えた

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