【詳細解説】聖武天皇は何をした人?どんな人?簡単にわかりやすく解説

この記事では、聖武天皇は何をした人なのか、どんな人なのかについて簡単に分かりやすく解説します。

聖武天皇は、奈良時代に仏教の力で国家の安寧と民衆の幸福を願った天皇です。
疫病や反乱など不安定な時代に即位した聖武天皇は、仏教への帰依を深め、国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営など、様々な事績を残しました。
また、譲位の際には「三宝の奴」を自称し、自ら出家するなど、仏教に対する深い信仰心を持っていました。
聖武天皇の治世は、奈良時代の仏教隆盛の礎を築いた時代でした。

それでは、本文で聖武天皇が何をした人なのか、詳しく解説します。

この記事のポイント
  • 聖武天皇は仏教の力で国家の安寧と民衆の幸福を願った
  • 聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営などの事績を残した
  • 聖武天皇は譲位の際に「三宝の奴」を自称し、自ら出家するなど深い仏教信仰を持っていた
  • 聖武天皇の治世は奈良時代の仏教隆盛の礎を築いた時代だった
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目次

聖武天皇は何をした人?簡単に解説

聖武天皇は、奈良時代に仏教の力で国家の安寧を願った天皇です。
疫病や反乱など、不安定な時代に即位した聖武天皇は、仏教への帰依を深めていきました。
国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営など、聖武天皇は仏教を通じて国家と民衆の幸福を願い、様々な事績を残しています。
また、譲位の際には「三宝の奴」を自称し、自ら出家するなど、仏教に対する深い信仰心を持っていました。
聖武天皇の治世は、奈良時代の仏教隆盛の礎を築いた時代だったのです。

聖武天皇の生きた時代とは

聖武天皇が生きた奈良時代は、律令制度が整備され、中央集権国家が確立した時代でした。
一方で、天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など、社会不安が続いた時代でもありました。

聖武天皇自身も、皇族の母を持たない初めての天皇として即位したため、皇位継承に不安を抱えていました。
(聖武天皇の父は文武天皇。母は藤原宮子。藤原宮子は藤原不比等の娘です。)

このように、聖武天皇が生きた時代は、制度の整備が進む一方で、様々な不安を抱えた時代だったと言えます。
聖武天皇はそのような時代に、仏教の力で国家の安泰を願い、様々な事績を残したのです。

聖武天皇は何をした?

聖武天皇は、仏教を通じて国家の安泰と民衆の幸福を願い、様々な事績を残しました。
その代表的なものが、国分寺・国分尼寺の建立と東大寺大仏の造営です。
国分寺・国分尼寺は全国に建立され、東大寺大仏は当時世界最大級の大仏でした。
これらは、聖武天皇の仏教に対する深い信仰心の表れだったのです。
また、聖武天皇は「三宝の奴」を自称して出家するなど、自らの身をもって仏教に帰依しました。
聖武天皇の事績は、奈良時代の仏教隆盛の礎となったと言えるでしょう。

聖武天皇はどんな人?

聖武天皇は、仏教に対する深い信仰心を持った天皇でした。
母が皇族ではなかったため、即位当初は皇位継承に不安を抱えていましたが、仏教への帰依を深めることで自らの地位を確立しようとしたともいえます。
ただ、政治的な目的だけではなく、病に苦しむ民衆を救済するために施薬院を建立するなど、慈悲の心を持っていたと言われています。
また、東大寺大仏の造営の際には、自ら土を運ぶなど、身をもって民衆に範を示しました。
一方で、政情不安に悩まされ続けた聖武天皇は、心労から体調を崩すこともありました。
そのような中でも、聖武天皇は国家と民衆のために、仏教に帰依し続けたのです。

聖武天皇のエピソード

聖武天皇には、様々なエピソードが残されています。
東大寺大仏の造営では、聖武天皇自らが土を運んだと言われています。
これは、民衆とともに利益を分かち合おうとする聖武天皇の思いの表れでした。

また、天皇の座を譲位する際には、「三宝の奴」を称して出家しました。
「三宝の奴」とは、仏・法・僧の三宝に帰依する者という意味で、つまりは、仏の弟子になるという意味です。

天皇が「三宝の奴」になることを宣言したのは、聖武天皇が初めてのことです。

また、病に苦しむ母の宮子との対面を果たしたのは、聖武天皇が37歳の時だったと言われています。
母、藤原宮子は聖武天皇を産んだあと心を病み、子どもと会うこともなかったのです。

藤原宮子
藤原宮子

幼くして別れ、長らく会うことのなかった母との対面は、感動的な場面だったことでしょう。
聖武天皇の人となりを知る上で、欠かせないエピソードと言えます。

聖武天皇と東大寺の関係

聖武天皇と東大寺の関係は、非常に深いものがあります。
聖武天皇は743年、東大寺に盧舎那仏(大仏)を建立することを発願しました。
しかし、大仏の造営は難航しました。
そこで聖武天皇は、行基に大仏造営の勧進を依頼します。
(行基は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した高僧です)

行基
行基

行基の尽力により、多くの人々の協力を得て、大仏は完成しました。
東大寺は、聖武天皇だけでなく、行基や良弁など、多くの人々の力によって建立された寺院だったのです。
東大寺は「四聖建立の寺」とも呼ばれ、聖武天皇と東大寺の深い関係を物語っています。
(東大寺の「四聖」とは聖武天皇・菩提僊那・行基・良弁の4人の人物で、東大寺ではそれぞれ観音・普賢・文殊・弥勒の諸菩薩の化身とされ尊崇されています)

聖武天皇が大仏を建立した理由

聖武天皇が東大寺に大仏を建立した理由は、国家の安寧と民衆の幸福を願ったからです。
聖武天皇の治世は、天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など、社会不安が続く時代でした。
聖武天皇は、そのような災いは自らの責任であると考え、その解決を仏教に求めたのです。
大仏建立の発願文には、「一切衆生の利益安楽」という言葉が見られます。
これは、全ての民衆の幸福を願う聖武天皇の思いが表れています。
聖武天皇にとって、大仏は民衆とともにあるものだったのです。
東大寺大仏は、聖武天皇の願いが結実した象徴と言えるでしょう。

聖武天皇が行った主な事績をわかりやすく紹介

東大寺

聖武天皇は、仏教を通じて国家の安泰と民衆の幸福を願い、様々な事績を残しました。
ここでは、聖武天皇が行った主な事績を、わかりやすく紹介していきます。
聖武天皇の事績は、奈良時代の仏教隆盛の礎となったと言えるでしょう。
それでは、聖武天皇が行った主な事績を見ていきましょう。

聖武天皇の即位と政情不安

聖武天皇は、724年に即位しました。
しかし、聖武天皇の即位は順風満帆ではありませんでした。
母が皇族ではなかったため、聖武天皇は皇位継承に不安を抱えていたのです。
そのため、即位の際には臣下たちの昇叙を行い、権力基盤を固めようとしました。
※「昇叙」とは、上級の官職や位階を授けること

ところが、その後も天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など、政情不安が続きました。
※藤原広嗣の乱は、740年に九州で起きた内乱

聖武天皇の治世は、常に政情不安に悩まされ続けたのです。
そのような中でも、聖武天皇は仏教に帰依し、国家の安泰を願い続けました。

国分寺・国分尼寺の建立

聖武天皇が行った事績の一つが、国分寺・国分尼寺の建立です。
741年、聖武天皇は全国の国ごとに国分寺・国分尼寺を建立することを命じました。
国分寺・国分尼寺は、一国一寺として国家の安泰と民衆の幸福を祈る寺院でした。
当時、寺院の建立には膨大な費用と労力がかかりましたが、聖武天皇は国家と民衆のために、国分寺・国分尼寺の建立を命じたのです。
国分寺・国分尼寺は、聖武天皇の仏教に対する深い信仰心の表れだったと言えるでしょう。

東大寺大仏の造営

聖武天皇の最大の事績は、東大寺大仏の造営です。
743年、聖武天皇は東大寺に盧舎那仏(大仏)を建立することを発願しました。
大仏造営は難航しましたが、行基の尽力により完成しました。
大仏開眼供養は752年に盛大に行われ、多くの人々が参加しました。
東大寺大仏は、聖武天皇の願いが結実した象徴であり、当時の人々の信仰心の深さを物語っています。
また、東大寺大仏は奈良時代の仏教美術の最高傑作とも言えるでしょう。
聖武天皇の発願がなければ、東大寺大仏は生まれなかったのです。

三宝の奴を自称し出家

聖武天皇は749年、娘の孝謙天皇に譲位し、自ら出家しました。
この時、聖武天皇は「三宝の奴」を自称したと言われています。
三宝とは仏教の三つの宝であり、奴とは下僕のことです。
つまり、聖武天皇は仏教の下僕になることを宣言したのです。
天皇が出家し、仏教の下に身を置くことは、当時の人々にとって衝撃的な出来事でした。
聖武天皇は、自らの身をもって仏教に帰依することで、仏教に対する深い信仰心を示したのです。
聖武天皇の出家は、奈良時代の仏教隆盛を象徴する出来事だったと言えるでしょう。

光明皇后との関係と信仰心

聖武天皇の仏教に対する信仰心は、皇后の光明子の影響が大きかったと言われています。
光明皇后は、聖武天皇の母とは異なり、立后した正妻でした。
そして、光明皇后自身も篤い仏教信者だったのです。
国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営は、光明皇后の進言によるものだったとも言われています。
また、光明皇后は施薬院を建立するなど、民衆救済にも尽力しました。
聖武天皇と光明皇后の深い信仰心が、奈良時代の仏教隆盛を支えたのかもしれません。
二人の夫婦の物語は、奈良時代の仏教史に欠かせない物語と言えるでしょう。

聖武天皇は何をした人?まとめと総括

聖武天皇は、奈良時代に仏教の力で国家の安寧と民衆の幸福を願った天皇でした。
疫病や反乱など不安定な時代に即位し、皇族の母を持たない初めての天皇として皇位継承に不安を抱えていましたが、仏教への帰依を深めることで自らの地位を確立しようとしました。
国分寺・国分尼寺の建立や東大寺大仏の造営など、聖武天皇は仏教を通じて国家と民衆の幸福を願い、様々な事績を残しました。
東大寺大仏建立の際には自ら土を運ぶなど身をもって民衆に範を示し、譲位の際には「三宝の奴」を自称して出家するなど、深い仏教信仰を持っていました。
聖武天皇の治世は、奈良時代の仏教隆盛の礎を築いた時代であり、皇后の光明子も聖武天皇の仏教信仰に大きな影響を与えました。

記事のまとめ
  • 聖武天皇は奈良時代に仏教の力で国家の安寧を願った天皇である
  • 聖武天皇は疫病や反乱など不安定な時代に即位し、仏教への帰依を深めた
  • 聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立を命じ、全国に仏教を広めた
  • 聖武天皇は東大寺に巨大な大仏(盧舎那仏)の建立を発願した
  • 聖武天皇は譲位の際に「三宝の奴」を自称し、自ら出家した
  • 聖武天皇の治世は奈良時代の仏教隆盛の礎を築いた時代である
  • 聖武天皇が生きた奈良時代は律令制度が整備され、中央集権国家が確立した時代である
  • 聖武天皇の時代は天然痘の大流行や藤原広嗣の乱など社会不安が続いた
  • 聖武天皇は皇族の母を持たない初めての天皇として即位し、皇位継承に不安を抱えていた
  • 聖武天皇の父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の藤原宮子である
  • 聖武天皇は東大寺大仏の建立を通じて、民衆の幸福を願った
  • 聖武天皇は即位当初、皇位継承の不安から仏教への帰依を深めることで地位を確立しようとした
  • 聖武天皇は東大寺大仏建立の際、自ら土を運ぶなど身をもって民衆に範を示した
  • 聖武天皇は政情不安に悩まされ続け、心労から体調を崩すこともあった
  • 聖武天皇は母の藤原宮子が産後に心を病み、37歳になるまで対面できなかった
  • 聖武天皇は東大寺大仏建立に際し、行基に勧進を依頼するなど多くの人々の力を結集した
  • 聖武天皇の発願文には「一切衆生の利益安楽」という言葉があり、民衆の幸福を願っていたことがわかる
  • 聖武天皇の皇后である光明子も篤い仏教信者で、聖武天皇の仏教信仰に大きな影響を与えた
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