【詳細解説】白河上皇は何した人?院政がいつなぜできたかや後白河上皇との関係、北面の武士や鴨川の水のエピソードもわかりやすく解説!

「白河上皇って、何をした人物なの?院政って何?」

この記事では、白河上皇の生涯を軸に、白河上皇が院政を始めた背景や、その後、後白河上皇がどのようにしてその体制を引き継ぎ、日本の歴史に大きな影響を与えたのかを詳しく解説しています。
院政の流れや変遷を知ることで、武家政権の登場へとつながる歴史の全貌が見えてきます。

この記事を読むと分かること
  • 白河上皇が院政を始めた理由と、その政治体制の特徴について理解できる
  • 後白河上皇が保元の乱を経てどのように権力を握ったかがわかる
  • 源平合戦と後白河上皇の関わり、平氏との対立の背景を理解できる
  • 院政が最盛期を迎え、鎌倉幕府成立により終焉を迎えた流れを理解できる

さて、白河上皇と後白河上皇が行った院政について詳しく見ていきましょう。彼らの政治手腕や時代背景を理解することで、平安時代後期の複雑な権力構造がぐっと見えてくるはずです。それでは、詳しく解説していきます!

目次

白河上皇のプロフィール

白河上皇
白河上皇
名前白河上皇(白河天皇)
出身地京都
生年月日1053年7月7日(天喜1年6月19日)
死亡年月日1129年7月24日(大治4年6月13日)
享年77歳
活躍した時代平安時代後期
家族父:後三条天皇、母:藤原茂子、子:堀河天皇(第73代天皇)
主要な業績初めて「院政」を確立し、長期にわたって政治を実質的に支配。北面の武士を設置し、軍事力を強化。
関連するエピソード「天下三不如意」(鴨川の水、双六の賽、山法師は思い通りにならない)という言葉を残す
その他の興味深い事実仏教に熱心で、法勝寺を建立。院政によって天皇家の権威を取り戻し、後白河上皇にまで影響を与えた

白河上皇は何をした?時系列でわかる院政の始まりと政治の流れ

白河上皇は、日本史において非常に重要な「院政」という政治体制を始めた人物です。
彼の行動や政治手法を理解することで、平安時代後期の政治の流れがよくわかります。
ここでは、白河上皇の生涯と院政の始まりを時系列で解説していきます。

白河上皇の生い立ちと即位の背景

白河上皇(白河天皇)は1053年に後三条天皇の第一皇子として誕生しました。
彼の幼少期は、摂関家との対立が根深い時代背景の中で過ごされました。
後三条天皇は摂関家の勢力を排除し、親政を行ったことでも知られています。

白河天皇もその影響を受け、後に天皇として即位することになります。
1072年、彼はわずか20歳で天皇に即位しましたが、この背景には摂関家の衰退が大きく関わっています。

天皇としての即位直後、父である後三条天皇が崩御し、白河天皇はその後も摂関家の影響を受けつつ、親政の体制を引き継ぎました。

白河上皇、堀河天皇への譲位と院政の開始

白河天皇は、1086年に堀河天皇(自分の息子)に天皇の位を譲り、上皇となりました。
これにより、いわゆる「院政」が始まります。
院政とは、天皇を退位した後に上皇が政治を実質的に支配する体制のことです。

この背景には、実仁親王が亡くなり、白河天皇の息子である善仁親王(後の堀河天皇)が即位することが大きな要因でした。
白河上皇は、自分の血筋を確実に皇位に残すために、堀河天皇の後見として政務を握り続けることを選びました。

院政はなぜ始まった?藤原氏からの脱却

院政が始まった理由は、摂関政治からの脱却にあります。
平安時代の日本では、長らく藤原氏が摂政や関白として天皇の政治を支配していました。
しかし、後三条天皇とその後を継いだ白河天皇は、藤原氏の権力に対抗し、天皇自らが政治を主導する体制を目指しました。

白河上皇は、藤原氏の影響力を弱めるために荘園整理などの政策を実施し、天皇の権威を取り戻すことを目指しました。
また、院政という新しい形で天皇家の力を強化することで、藤原氏からの影響を排除しました。

北面の武士の設置とその役割

白河上皇は、院政を支えるために「北面の武士」を設置しました。
これは、上皇を守護するための軍事的な組織であり、上皇の身辺警護や国内の治安維持を担いました。
これにより、白河上皇は強力な軍事力を手に入れ、さらに摂関家や反対勢力に対抗できる力を持つようになりました。

北面の武士は、院政時代を象徴する存在であり、後の武士政権の礎を築いたとも言われています。
この組織が後に平家や源氏の台頭に繋がる重要な役割を果たすことになります。

白河上皇が動かした「天下三不如意」

白河上皇の有名な言葉として「天下三不如意」があります。
これは「鴨川の水、双六の賽、山法師」の三つが自分の思い通りにならない、という意味です。
鴨川の水の流れやサイコロの目、そして強大な寺院勢力(山法師)は、どんなに強い権力者でも完全に支配することができないという自嘲的な表現です。

このエピソードは、白河上皇の権力がいかに強大であったかを象徴すると同時に、彼自身が直面した難題をも物語っています。
政治力では支配できない自然や運、そして宗教勢力の存在は、平安時代の政治においても非常に大きな問題でした。

白河上皇の晩年とその影響

白河上皇は1129年に77歳で崩御しました。
彼の晩年には、息子である鳥羽天皇やその後の崇徳天皇の後見人として、政治の中心に居続けました。
特に鳥羽天皇の時代には、白河上皇が完全に実権を握り、専制的な政治を行っていたことが知られています。

白河上皇が築いた院政は、後の天皇たちにも引き継がれ、平安時代の終わりまで続く大きな政治体制となりました。
彼の死後も、院政は武士の台頭まで続き、日本の政治史に深い影響を与えました。

白河上皇と後白河上皇の関係、院政の変遷

白河上皇が開始した「院政」という政治体制は、その後の日本史に大きな影響を与えましたが、彼の後を継いだ後白河上皇もまた、この体制をさらに複雑化させた重要な人物です。
ここでは、後白河上皇の登場から、院政の変遷について見ていきます。

後白河上皇の登場とその政治手腕

後白河上皇(後白河法皇)は、平安時代末期の激動の中で登場し、非常に巧みな政治手腕を発揮しました。
彼は1127年に鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、1155年に第77代天皇として即位しますが、この即位は当初、後白河上皇の評価が低く、期待されていなかった背景があります。
しかし、側近である信西(藤原通憲)の助力により、彼は権力を強固なものにしていきました。

後白河上皇は「治天の君」として、天皇の背後から権力を握り続けましたが、その政治的駆け引きの巧妙さから「日本第一の大天狗」とまで呼ばれました。

保元の乱と後白河上皇

1156年、後白河上皇は「保元の乱」という大きな戦乱を迎えます。
この乱は、彼の兄である崇徳上皇との皇位継承争いが発端でした。
後白河上皇側には、武士の源義朝や平清盛が付き、崇徳上皇側との武力対決に発展します。
この保元の乱で後白河上皇が勝利を収め、崇徳上皇は流刑となりました。

この勝利により、後白河上皇はさらなる権力を掌握し、以後の院政を安定させる基盤を築きました。

後白河上皇と源平合戦

後白河上皇の時代は、源氏と平氏の争いが激化した「源平合戦」の時期とも重なります。
後白河上皇は、平清盛を利用しながらも、次第にその勢力拡大に警戒を強めました。
最終的に、平氏との対立が深まり、「鹿ヶ谷の陰謀」という事件をきっかけに、平清盛に幽閉される事態に発展しました。

しかし、後白河上皇はその後も巧みに政治を操り、源氏の源頼朝とも交渉しながら、戦局を見守る姿勢をとりました。
結果的に、源平合戦の終盤で頼朝が権力を握り、鎌倉幕府の成立へとつながる流れを生み出しました。

院政の最盛期と衰退

後白河上皇の院政は、彼の巧妙な政治手腕によって、非常に長く続きました。
彼は五代の天皇にわたって政務を掌握し続け、これは院政の最盛期ともいえる時期でした。
しかし、次第に武士勢力が台頭し、貴族中心の政治体制は徐々に衰退していきます。

特に源頼朝が鎌倉幕府を樹立することで、武家政権が確立し、院政の影響力は次第に薄れていきました。

院政の終焉と武家政権の登場

院政は、後白河上皇の死後も続きましたが、鎌倉幕府が成立したことで実質的にその役割を終えました。
1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されることで、武家政権が日本の主導権を握るようになりました。

これにより、長らく続いた院政時代は終焉を迎え、武士が主導する新たな時代が幕を開けることとなりました。
後白河上皇の院政は、日本の歴史に大きな影響を与え、その後の政権のあり方を大きく変えたのです。

白河上皇が登場する作品等

『鎌倉殿の13人』

2012年にNHKで放送された大河ドラマ。白河上皇は伊東四朗が演じ、彼の院政や平清盛との関係が描かれます。天皇退位後も権力を握り続けた白河上皇の権力構造が描かれており、院政の影響力を実感できる内容です。

白河上皇は何した人?まとめ

この記事では、白河上皇と後白河上皇が行った「院政」という政治体制について解説しました。
白河上皇は初めて天皇退位後も政治を掌握し、後白河上皇はその体制を引き継ぎ、複雑な権力闘争を巧みに操りました。

院政の最盛期から衰退、そして武家政権の登場まで、日本史における重要な変革期を詳しく紹介しています。
この記事を読むことで、院政の流れやその背景、武家政権の成立までの歴史を簡潔に理解できるでしょう。

白河上皇の業績院政の開始、北面の武士設置、藤原氏からの脱却
後白河上皇の業績保元の乱、源平合戦、平氏との対立
院政の最盛期白河上皇から後白河上皇の時代まで続く
院政の終焉鎌倉幕府の成立と共に衰退、武家政権の登場
この記事のポイント
  • 白河上皇は日本初の院政を始めた天皇
  • 藤原氏の影響を排除するため院政を開始
  • 1086年に堀河天皇に譲位し上皇となる
  • 院政では上皇が実質的に政治を握った
  • 北面の武士を設置し、軍事力を強化
  • 「天下三不如意」は、白河上皇の権力が及ばない三つの事象
  • 後白河上皇は崇徳上皇と保元の乱で争った
  • 保元の乱で後白河上皇が勝利し権力を強化
  • 後白河上皇は源平合戦で平氏を利用しつつ対立
  • 平清盛と後白河上皇の対立は鹿ヶ谷の陰謀事件が原因
  • 後白河上皇は源頼朝とも巧みに交渉
  • 後白河上皇の院政は約30年にわたった
  • 後白河上皇は仏教を篤く信仰し、文化面でも影響を与えた
  • 院政は鎌倉幕府の成立で衰退
  • 武家政権の登場が院政時代の終焉をもたらした

白河上皇と後白河上皇の物語を通して、彼らがいかにして時代を動かしたのかを知ると、歴史がぐっと身近に感じられますよね。私も日本史を教える中で、彼らがどんな葛藤を抱え、どうやって藤原氏や武士たちと渡り合ったのかを考えると、とてもワクワクします。特に、白河上皇の「天下三不如意」という言葉からは、どれだけ権力を握っても自然や運命には逆らえないという人間らしさを感じます。また、後白河上皇が平氏や源氏を巧みに操った姿は、時代の転換期における彼の驚異的な政治センスを物語っています。

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