島津久光は何した?斉彬との関係、生麦事件、そして花火に秘めた国父の真実

島津久光

「島津久光は何をした?」幕末の動乱期、この問いを抱く方は少なくありません。
彼の功績や人物像は、兄である島津斉彬の関係性や、西郷隆盛との複雑な関係、そして生麦事件や公武合体への深い関わりによって、時に見えにくくなることがあるかもしれません。
しかし、久光こそが薩摩藩を牽引し、明治維新へと導いた「国父」と称される実力者でした。
彼の行った改革の真意や、意外な性格、そして廃藩置県後に見せた花火に込めた思いまで、その生涯はドラマに満ちています。

この記事では、そんな島津久光が何をしたのかを深掘りし、彼の知られざる側面や歴史的役割をわかりやすく解説していきます。

この記事を読むと、以下のことがわかります。

  • 島津久光の生涯と、彼の功績の全体像
  • 兄・島津斉彬との関係や、薩摩藩主としての実権掌握の経緯
  • 生麦事件から薩英戦争、公武合体など主要な出来事への関与
  • 西郷隆盛との関係性や、晩年の花火の逸話、そしてその死因
目次

島津久光は何をした?薩摩藩の「国父」として

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  • 島津久光の生涯と人物像
  • 島津斉彬との関係と藩主継承
  • 島津久光の性格と政治手腕
  • 藩政改革と精忠組の登用
  • 公武合体をなぜ推進したのか

島津久光の生涯と人物像

島津久光は、1817年(文化14年)に薩摩藩の鹿児島城で、第27代当主である島津斉興の五男として誕生しました。
彼は激動の幕末から明治にかけての時代を生き抜き、薩摩藩の実質的なリーダーとして、日本の歴史に大きな足跡を残した人物です。
幼名は普之進といい、生母がお由羅の方という側室であったため、生まれた直後に家臣である種子島久道の養子となりました。
しかし、8歳の時には島津家一門筆頭の重富島津家の養子となり、藩主の座を狙える立場へと進んだのです。
学問に深く、特に国学に造詣が深かったことで知られており、兄の斉彬が蘭学を好んだのとは対照的でした。
晩年には、鹿児島で隠居生活を送りながら、島津家に伝わる貴重な歴史資料の収集と保存に尽力し、自らも『通俗国史』をはじめとする歴史書の執筆や編纂を手がけました。
彼のこうした活動は、島津家と薩摩藩の歴史を後世に伝えるだけでなく、日本史研究の発展にも寄与するものでした。
政治家としての顔だけでなく、伝統を重んじる守護者、そして歴史家としての多面的な魅力を持つ人物であったと言えます。
生涯を通じて髷を切らず、刀を差し和服を着用し続けた姿勢は、武士としての誇りと矜持を貫いた彼の生き様を象徴しています。

島津久光が歩んだ激動の時代

久光が活躍した時代は、日本が鎖国から開国へと向かい、幕府の権威が揺らぎ、新たな国家体制への模索が続く激動の時期でした。
公武合体運動の推進者として中央政界に関与し、徳川家茂の上京や一橋慶喜の将軍後見職への就任など、重要な政治的決定に関与しました。
また、寺田屋事件や生麦事件、薩英戦争といった歴史的な大事件に深く関わり、明治維新へとつながる社会の大きな流れを作り出す上で、不可欠な役割を担っていたのです。
彼の行動が、後に明治維新という一大転換点にどのように繋がっていったのかを理解することは、幕末史を深く読み解く上で非常に重要になってきます。

島津斉彬との関係と藩主継承

島津久光と異母兄である島津斉彬との関係は、一見すると対立していたかのように思われがちですが、実際には非常に複雑で、互いに深い信頼関係に裏打ちされたものでした。
二人の関係を語る上で欠かせないのが「お由羅騒動」です。
これは、父である島津斉興の跡継ぎをめぐり、久光を擁立する派閥と斉彬を擁立する派閥が激しく対立したお家騒動でした。
この騒動の背景には、斉彬の子どもたちが相次いで早世したことがあり、斉彬派はこれを久光の生母であるお由羅の方による「呪い」であると疑いました。
一時はお由羅の方の暗殺計画まで持ち上がるほどの激しい対立でしたが、最終的には江戸幕府の介入により、1851年(嘉永4年)に斉彬が薩摩藩主の座に就くことで終息しました。

しかし、この騒動を経た後も、久光と斉彬の個人的な関係は良好であったとされています。
斉彬は、弟の久光を信頼し、藩の防衛に関する重要な職務を任せるなど、その才能を評価していました。
斉彬は、欧米列強の脅威に備えるだけでなく、国内の内乱が国を弱体化させることを強く懸念しており、この考えを久光と共有していたのです。
二人の間で交わされた書状からも、互いの信頼感がうかがえます。

斉彬が1858年(安政5年)に急死すると、その遺言により、久光の嫡男である島津忠義が薩摩藩主の座を継ぎました。
しかし、忠義は当時まだ10代と若かったため、藩主の実父である久光が実質的な藩の最高権力者となり、「国父」と称されるようになります。
斉彬が推進した富国強兵政策や殖産興業の流れは、久光によって引き継がれ、彼の政治的才覚が薩摩藩の発展に大きく貢献していくことになります。
このように、久光は斉彬の遺志を継ぎ、薩摩藩の近代化と幕末の政治動向に大きな影響を与えたのです。

島津久光の性格と政治手腕

島津久光は、しばしば保守的で頑固な性格の持ち主として描かれることが多いですが、その実像は学識豊かで、時局を的確に見極める優れた政治手腕を兼ね備えた人物でした。
彼は国学に深い造詣を持ち、単なる伝統墨守の人物とは一線を画していました。
薩摩藩内で実権を握る過程では、その堂々たる人物像から自然と周囲に影響力を持つようになり、多くの人々から「国父」として慕われたのです。

彼の政治手腕は、幕末の混乱期において、薩摩藩を常に優位な立場に導いたことに顕著に表れています。
例えば、公武合体運動を推進する中で、朝廷への積極的な働きかけを行い、幕府に改革を迫るための勅使派遣を実現させました。
これは、中央政界における薩摩藩の発言力を飛躍的に高めることに繋がります。
また、江戸幕府に対して将軍の上洛や一橋慶喜の将軍後見職への就任といった要求を突き付け、その大半を実現させた「文久の改革」は、彼の交渉力と政治的影響力の証と言えるでしょう。

西郷隆盛との関係においては、終生にわたって相性が合わないとされ、西郷を二度も遠島処分に処すなど、強硬な態度を取ることもありました。
しかし、その一方で要所では西郷を登用するなど、感情的になりがちな状況下でも、理性的な政治判断を下していました。
これは、彼が個人的な感情よりも、藩の、そして国家の利益を優先する戦略的な思考の持ち主であったことを示しています。

明治新政府が成立した後も、急速な近代化政策には疑問を呈し、廃藩置県や帯刀禁止令といった改革に強く反対しました。
生涯髷を切らず、刀を差し和服を着用し続けた姿勢は、彼の武士としての誇りと、伝統的価値観を重んじる信念を象徴しています。
しかし、これは単なる旧弊固執ではなく、国の根幹を急激に変えることへの慎重さや、伝統と革新の調和を模索する彼の思想の表れでもありました。
彼の功績と評価は、時代や視点によって異なる見解がありますが、混迷の時代において常に適切な采配を振るった名君として、その政治手腕は高く評価されるべきでしょう。

藩政改革と精忠組の登用

島津久光が薩摩藩の実権を掌握した後、彼は藩政改革に積極的に取り組みました。
この改革の大きな特徴の一つは、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを積極的に登用したことです。
具体的には、大久保利通や税所篤、伊地知貞馨、岩下方平、海江田信義、吉井友実といった面々が彼の側近として重用されました。
これは、兄である島津斉彬が西郷隆盛らを登用して富国強兵政策を進めた流れを汲むものであり、久光もまた、身分にとらわれず有能な人材を見出し、藩政に活かすという斉彬の遺志を継承したと言えます。

久光が精忠組を登用した背景には、当時の薩摩藩が抱えていた内部の課題がありました。
斉彬の急死後、藩主となった嫡男の島津忠義がまだ幼かったため、久光が実権を握りましたが、藩内には様々な派閥が存在し、特に若手藩士の中には、安政の大獄で薩摩藩関係者が処罰されたことへの怒りから、過激な行動に走ろうとする者もいました。
そうした中で、久光は精忠組を自らの側近として取り込むことで、藩内の意見を集約し、暴発しかねない過激な動きを抑えつつ、藩全体として統一した行動を取ることを目指しました。

大久保利通との面会では、お由羅騒動でのわだかまりが氷解し、精忠組と久光の間には深い信頼関係が築かれたとされています。
久光は、桜田門外の変のような事件後にも、時期尚早として出兵を退けるなど、軽挙妄動を慎み、あくまで勅命を得て行動する慎重な姿勢を貫きました。
このように、久光は藩の改革を推し進めるにあたり、有能な人材を積極的に活用し、自身の政治的判断力を背景に、薩摩藩を幕末の激動期において常に一歩リードする存在へと導いていったのです。
彼の主導した改革は、薩摩藩が明治維新の中心的な勢力となるための基盤を築いたと言えるでしょう。

公武合体をなぜ推進したのか

島津久光が公武合体運動を推進した理由は、当時の日本の置かれた内外の情勢と、彼自身の政治的信念に深く根差しています。
公武合体とは、朝廷と江戸幕府が連携を強化し、幕藩体制の再編を図ることで、国内の政治的安定と対外的な危機への対応を目指す政策です。
久光がこの路線を強く推進した背景には、いくつかの重要な要因が存在しました。

まず、兄である島津斉彬の遺志を継ぐという強い思いがありました。
斉彬は、日本の内乱が外国からの侵略を招くことを深く懸念しており、国内の安定を何よりも重視していました。
久光もまた、斉彬と同様に、幕府の権威失墜と尊王攘夷派の過激な動きによる内乱の可能性を危惧していました。
公武合体によって朝廷と幕府が手を組むことで、国内の混乱を収拾し、国家の統合を図る狙いがあったのです。

次に、当時の国際情勢が挙げられます。アヘン戦争での清国の敗北など、欧米列強によるアジアへの進出は明らかであり、日本もまた、外国の脅威に直面していました。
久光は、分裂した状態では外国に対抗できないと考え、強固な中央政権を樹立する必要性を感じていました。
公武合体は、外圧に対処するための国内体制を強化する上で、最も現実的な選択肢だと考えたのです。

さらに、薩摩藩自身の立場と利益も考慮されていました。
幕末の動乱期において、薩摩藩は有力な雄藩の一つであり、中央政界での発言力を高めることを望んでいました。
公武合体を通じて、薩摩藩が朝廷と幕府の双方に影響力を行使できる立場を確立し、日本の政治を主導していく意図があったと言えるでしょう。
実際に、久光は兵を率いて江戸へ向かい、将軍・徳川家茂の上洛や一橋慶喜の将軍後見職への就任などを要求し、その大半を実現させました。
これは、公武合体という名のもとに、薩摩藩が幕政改革を主導しようとした試みでもありました。

しかし、公武合体は必ずしも順調に進んだわけではありません。
特に将軍・徳川慶喜との交渉は難航し、慶喜が公武合体論を巧みに利用して幕府の権力を温存しようとしたため、久光は最終的に公武合体を断念し、武力による倒幕へと舵を切ることになります。
それでも、久光が公武合体を目指した時期の彼の行動は、幕末の政治状況を理解する上で非常に重要な要素であり、彼の政治家としての合理性と国家観を示すものと言えます。

島津久光は何をした?激動の幕末と明治

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  • 寺田屋事件と江戸上洛
  • 生麦事件から薩英戦争へ
  • 西郷隆盛との複雑な関係性
  • 武力倒幕と明治政府での久光
  • 晩年の暮らしと歴史研究
  • 頑固な姿勢と最期の死因
  • 久光と花火にまつわる逸話

寺田屋事件と江戸上洛

島津久光が公武合体運動を推進するため、1862年(文久2年)に兵を率いて上京したことは、幕末の政局に大きな衝撃を与えました。
無位無官の藩主の父という立場でありながら、これほどの大軍を率いて中央に乗り込むという行為は、当時の常識では考えられないことでした。
しかし、この強硬な行動が、久光の政治的影響力を示すことになります。
京都に到着した久光一行は、まず伏見の寺田屋で、自藩の尊攘派過激分子である有馬新七らを粛清する「寺田屋事件」を起こしました。
この事件は、自らの藩士を斬るという流血沙汰を伴いましたが、久光は藩内の不穏な動きを断固として抑え込む姿勢を示し、京都の治安悪化に苦慮していた孝明天皇や諸侯から賞賛されたのです。

寺田屋事件によって、久光は藩内外に強い統制力を持つことを示し、彼の覚悟を一層強固なものにしました。
流血を伴う粛清を行った以上、もはや後戻りはできません。
彼は断固として勅命を得て、幕政改革を成し遂げる決意を固めたのです。
久光の働きかけにより、朝廷は幕政改革を要求するための勅使を江戸へ派遣することを決定し、久光自身もその勅使に随従するよう命じられました。
幕府への要求事項は、「三事策」と呼ばれ、将軍・徳川家茂の上洛、沿海五大藩による五大老の設置、そして一橋慶喜の将軍後見職や松平春嶽の大老職就任などが含まれていました。

久光は、通称を「三郎」と改めた上で、勅使・大原重徳に随従して京都を出発し、江戸へと向かいました。
江戸での幕閣との交渉の結果、慶喜の将軍後見職、春嶽の政事総裁職への就任などが実現し、これらは「文久の改革」として知られています。
この改革によって、幕府の権威は大きく揺らぎ、薩摩藩の発言力が一層強まることになります。
久光の江戸上洛は、幕末の政治構造を大きく変えるきっかけとなった、非常に重要な出来事だったと言えるでしょう。

生麦事件から薩英戦争へ

文久の改革を成功させ、江戸から薩摩へ帰京する久光一行の道中、思いがけない事件が発生しました。
それが「生麦事件」です。
1862年(文久2年)8月21日、神奈川県横浜市鶴見区生麦付近で、久光の行列の通行を妨害したとして、随伴の薩摩藩士がイギリス人商人4名のうち3名を殺傷するという事態が起こったのです。
この事件は、国際問題へと発展し、後に薩摩藩とイギリスの間で戦争を引き起こすことになります。

イギリス側は、この事件に対して高額な賠償金と犯人の引き渡しを要求しました。
当時の薩摩藩は、兄の島津斉彬の時代から西洋の軍事力を認識しており、無謀な戦いは避けるべきだと考えていました。
しかし、国内外の攘夷熱が高まる中で、イギリスの要求を安易に受け入れるわけにもいかない状況でした。
ここに両者の間に認識の食い違いが生じます。
薩摩側は、イギリスが藩主父子の首まで要求していると考え、強硬な姿勢を示しました。
一方、イギリス側はあくまで賠償と実行犯の引き渡しを求めていたに過ぎなかったのです。

交渉がまとまらないまま、1863年(文久3年)7月、ついにイギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩摩藩とイギリス軍の間で「薩英戦争」が勃発しました。
この戦争は、鹿児島市街地の約10分の1が焼き払われるなど、薩摩藩に甚大な被害をもたらしました。
しかし、薩摩藩も奮戦し、イギリス艦隊にも人的・物的損害を与えた結果、両者は講和を結ぶことになります。
この戦争を通じて、薩摩藩はイギリスの圧倒的な軍事力を肌で感じ、単なる攘夷では国を守れないことを痛感しました。
同時に、イギリス側も薩摩藩の強靭さを認識し、日本を侮るべきではないと考えるようになりました。

この戦争の講和後、薩摩藩は攘夷から開国へと方針を転換し、イギリスとの関係を急速に深めていきます。
薩摩藩はイギリスから武器や技術を導入し、近代的な軍備を整えることで、その後の明治維新に向けて大きな力を蓄えることになります。
生麦事件は、図らずも薩摩藩の外交方針を大きく転換させ、幕末の歴史に大きな影響を与えた出来事だったと言えるでしょう。

西郷隆盛との複雑な関係性

島津久光と西郷隆盛の関係は、幕末の歴史を語る上で欠かせない非常に複雑なものでした。
大河ドラマなどでは、久光が西郷の「生涯の敵」のように描かれることもありますが、史実を紐解くと、単純な対立関係だけでは語れない、互いに影響し合った関係性が見えてきます。
西郷は、兄である島津斉彬によってその才能を見出され、高く評価されていました。
斉彬は、名もない下級藩士であった西郷を側近に抜擢し、国事に奔走させたことで、西郷は名士となり、尊王志士の間で重きをなす存在へと成長しました。
この斉彬からの薫陶が、西郷の政治家としての基礎となり、斉彬の遺志を継ぐという強い使命感が、彼のその後の人生を形成したと言われています。

久光もまた、斉彬に見出された一人であり、政治家として育成され、国事周旋を行う上での重要な役割を担っていました。
久光と西郷は、ともに斉彬のブレーンとして国政に関わる意見を具申しており、何よりも斉彬の遺志を継承する正統性を持っているという自覚を強く持っていました。
この点においては、両者は同志であり、斉彬の前では君臣関係を超えた平等な立場であったとも言えるかもしれません。

しかし、両者の間には深い溝も存在しました。
奄美大島から帰参した西郷が、久光のことを「地五郎」(田舎者)と評するなど、不遜な態度を示したことは有名です。
これにより、久光は西郷を徳之島、後に沖永良部島へ遠島処分に処しました。
久光にしてみれば、西郷は幕府から見れば死んだはずの人間であり、命を助けて重用しているにもかかわらず、その命令を無視するような勝手な行動は許しがたいものだったでしょう。
公式には死んだはずの人物であるため、目立たないように行動してほしいというのが久光側の本音であり、忠誠心という面でも問題があると捉えられても仕方がありませんでした。

西郷の沖永良部島からの帰参後、表面上は久光に従順な態度を示しますが、両者の関係は必ずしも円滑なものではありませんでした。
久光は西郷の独断専行を常に警戒しながらも、彼の圧倒的な政治的パフォーマンスを認めざるを得ず、重要な中央政局での政務を西郷と大久保利通に分掌させるなど、要所では西郷を使い続けました。
久光は、西郷を「安禄山」と呼んで批判することもあったものの、彼の才能を認め、藩のために活用するという理性的な判断を常に下していたのです。
このように、久光と西郷の関係は、個人的な感情と政治的な必要性が複雑に絡み合った、幕末の薩摩藩を動かす原動力の一つであったと言えます。

武力倒幕と明治政府での久光

公武合体運動を推進してきた島津久光でしたが、最終的には武力による倒幕へと舵を切ることになります。
1867年(慶応3年)、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城とともに四侯会議を開き、将軍・徳川慶喜と長州藩処分や兵庫開港問題について協議しました。
しかし、慶喜は自身の政治的優位を保とうとし、四侯会議は機能不全に陥ります。
久光は、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念し、武力による倒幕路線を確定しました。
彼は病身でありながらも大坂へ移り、武力行使も辞さないという姿勢を示しました。

同年10月14日、久光と藩主・島津忠義のもとに「討幕の密勅」が下されます。同じ日には徳川慶喜による「大政奉還」も行われ、政権は朝廷へと還されました。
大政奉還後、久光は病を理由に上京を拒否し、代わりに嫡男である忠義を藩兵3,000人とともに京都へ派遣します。
薩摩軍は京都へ向かう途中で長州軍と合流し、その後、「王政復古の大号令」が行われ、戊辰戦争へとつながっていきます。
久光の決断は、長州藩との連携を強化し、旧幕府勢力との対決を不可避なものとした、歴史の転換点となるものでした。

明治時代に入っても、久光は旧薩摩藩の権力を掌握し続け、旧公家や大名勢力の中心的存在として、明治政府では内閣顧問や左大臣といった要職を務めます。
しかし、彼は討幕派でありながらも、明治政府が推し進める急進的な改革にはあまり賛同していませんでした。
特に、廃藩置県や帯刀禁止令といった政策には強く反対し、1871年(明治4年)に廃藩置県が断行された際には、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせたという逸話も残っています。
これは、旧大名層の中で廃藩置県に対して公然と反感を示した唯一の例とされています。

久光は、保守的な主張が受け入れられないことを理由に、1875年(明治8年)には明治政府の要職を辞任しました。
その後は鹿児島で隠居生活を送り、島津家に伝わる史書の編纂に注力しました。
西郷隆盛や大久保利通らによる急進的な改革に反発し続けた久光は、最後まで自身の信念を貫いた人物でした。
彼の行動は、維新後も旧体制の価値観を守ろうとする勢力の一つの象徴であり、明治維新が単なる旧体制の打倒ではなかったことを示しています。

晩年の暮らしと歴史研究

明治政府の要職を辞任した後、島津久光は鹿児島へと帰郷し、その後の晩年を隠居生活の中で送りました。
彼の晩年は、政治の表舞台から退いた静かな日々でしたが、決して無為に過ごされたわけではありません。
むしろ、この時期は彼が長年抱いてきた学問、特に国学への深い造詣を生かし、歴史研究に没頭する貴重な時間となりました。

彼は島津家に伝わる膨大な量の歴史資料の収集と保存に力を注ぎました。
これは、単なる個人的な趣味にとどまらず、島津家と薩摩藩の歴史を後世に正確に伝えるという、強い使命感に基づいた活動でした。
久光は、自らも歴史書の執筆や編纂に取り組み、『通俗国史』などの著作を残しています。
これらの活動は、薩摩藩の歴史研究に大きく貢献しただけでなく、日本の歴史学全体にもその影響を与えたと言えるでしょう。
歴史の重要性を深く認識し、その記録と保存に尽力した彼の姿勢は、彼が単なる政治家ではない、真の歴史家としての顔を持っていたことを示しています。

また、晩年においても、久光は明治政府による急進的な開化政策、特に廃刀令などには最後まで反発し続けました。
彼は生涯を通じて髷を切らず、刀を差し、和服を着用し続けることで、武士としての誇りと伝統的価値観を頑なに守り抜きました。
このような彼の姿勢は、新政府の要人たちからは「頑固な人物」と見なされることもありましたが、彼にとっては揺るぎない信念の表れでした。
西南戦争が勃発した際には、久光の動向は政府から強く警戒されましたが、彼は中立の立場を表明し、戦火を避けるために一時桜島に避難しました。

久光は1887年(明治20年)12月6日に、70歳でその生涯を閉じました。
彼の葬儀は東京ではなく鹿児島で国葬として執り行われ、その際には道路が整備され、大規模な儀仗兵が派遣されるなど、政府が彼に最大限の敬意を表したことがうかがえます。
晩年の久光は、政治の第一線からは退いたものの、学問と伝統を守ることに情熱を傾け、その生き様は変革の時代における伝統と革新の相克を体現するものでした。

頑固な姿勢と最期の死因

島津久光の人物像を語る上で、「頑固さ」は避けて通れない重要な側面です。
彼は生涯にわたって自身の信念を貫き、特に明治政府の急進的な改革に対しては、その保守的な姿勢を崩しませんでした。
この頑固さは、時に彼の政治判断や行動にも影響を与え、周囲からは「因循家」(旧習にこだわる人)と評されることもありました。
しかし、その頑固さの根底には、薩摩島津家の伝統と武士としての誇りを守ろうとする強い意志がありました。
例えば、廃刀令が出された後も、彼は決して髷を切らず、刀を差し、和服を着用し続けました。
これは単なる反抗ではなく、武士道の精神を体現し、伝統的な価値観を擁護する役割を自らに課していたと言えるでしょう。

彼の頑固さは、西郷隆盛との関係性にも如実に表れています。
西郷に「地五郎」と評されたことに激怒し、遠島処分に処したことなどは、その典型的な例です。
しかし、久光は単に感情的に頑固なのではなく、学問に秀で、国学に深い理解を持つ知識人でもありました。
彼の頑固さは、しばしば深い考察と信念に裏打ちされたものであったと言えるかもしれません。
例えば、幕末の動乱期において、他の多くの藩が混乱を極める中で、薩摩藩が常に主役級の座を保ち続け、最終的に勝者となれたのは、久光の的確な判断と、それを貫き通す頑固なまでの姿勢があったからだという見方もできます。

久光の最期の死因は、老衰による自然死でした。
彼は1887年(明治20年)12月6日、70歳でこの世を去っています。
晩年は鹿児島で隠居生活を送り、歴史書の編纂に注力していましたが、その間も新政府の政策には不満を抱き続けていたと言われています。
特に、西郷隆盛や大久保利通といった、かつて彼が登用したにもかかわらず、自身の意に沿わない急進的な改革を進めた者たちに対しては、「騙された」という思いを抱き続けていたとも伝えられています。

久光の頑固な姿勢は、彼が理想とする国家像と、現実の明治政府のあり方との間に大きな乖離があったためかもしれません。
彼は、大名による合議制政治を理想としていましたが、実際には閉鎖的な藩閥政治が展開されていました。
このような状況の中で、自身の信念を曲げずに生きた久光の生涯は、変革の時代における伝統と革新の相克を、その身をもって示したものであったと言えるでしょう。

久光と花火にまつわる逸話

島津久光の人物像を語る上で、意外な一面を示すのが「花火」にまつわる逸話です。
これは、明治政府による廃藩置県に久光が激しく抗議した際の出来事として伝えられています。

1871年(明治4年)7月14日、新政府は薩摩・長州・土佐の三藩の兵力で編成された御親兵を背景に、強引に廃藩置県を断行しました。
これは、久光からすれば、自身の権力の源泉であった藩士と兵力を奪われる、まさに「騙し討ち」のような政策でした。
長年にわたり公武合体を推進し、藩の維持と改革に尽力してきた久光にとって、この決定は到底受け入れられるものではありませんでした。

この廃藩置県に対し、久光は激怒しました。
しかし、すでに藩行政権は下級士族層に握られており、彼には実力行使で対抗する手段が限られていました。
そこで久光がとった行動は、旧大名層の中では異例の、そして非常に印象的なものでした。
彼は抗議の意を込めて、自邸の庭で一晩中、花火を打ち上げさせ続けたのです。
この花火は、単なる花火ではなく、久光の激しい怒りと、新政府への無言の抵抗を表すものでした。

当時の大名たちが廃藩置県に対して様々な反応を示した中で、これほどあからさまに反感を表明した例は他にほとんどありませんでした。
この花火の逸話は、久光の感情の豊かさや、彼なりの方法で強い意志を表明しようとした姿勢を示すものとして語り継がれています。
彼の頑固さや伝統へのこだわりはよく知られていますが、このような行動からは、感情を露わにする人間的な側面や、時に象徴的な表現を用いることで自身の立場を示そうとする、彼の個性的な一面がうかがえます。

この花火の逸話は、久光が単なる保守的な人物ではなく、新政府の急進的な政策に対する強い不満や、自身の信念を貫くための表現力を持っていたことを示しています。
それは、久光が時代の変化に直面しながらも、自らの価値観と誇りを守り抜こうとした、彼の生涯を象徴する出来事の一つと言えるでしょう。

島津久光は何をした?その生涯と功績のまとめ

島津久光は、幕末から明治にかけての激動期に、薩摩藩の実質的な指導者として日本の歴史に大きな足跡を残しました。彼の生涯を振り返ると、多岐にわたる功績や複雑な人間関係が見えてきます。

  • 島津斉興の五男として生まれ、学問、特に国学に深く通じていました。
  • 兄・島津斉彬の急逝後、嫡男・忠義が幼かったため、事実上の最高権力者「国父」として藩政を主導しました。
  • 公武合体運動を積極的に推進し、将軍・徳川家茂の上京や一橋慶喜の将軍後見職への就任など、幕政改革に深く関与しました。
  • 1862年の江戸上洛の道中で、尊攘派過激分子を粛清する寺田屋事件を起こし、藩内外に強い統制力を示しました。
  • 江戸からの帰途に生麦事件が発生し、これが薩英戦争へと発展する引き金となりました。
  • 薩英戦争を通じて、薩摩藩はイギリスの軍事力を認識し、攘夷から開国へと方針を転換、イギリスとの関係を深めました。
  • 藩政改革では、大久保利通をはじめとする中下級藩士「精忠組」を積極的に登用し、藩の近代化を進めました。
  • 西郷隆盛とは終生にわたって相性が合わず、西郷を二度も遠島処分に処しましたが、その才能は認め、要所で登用しました。
  • 公武合体の交渉が難航した末、徳川慶喜との政治的妥協を断念し、武力による倒幕路線へと舵を切りました。
  • 討幕の密勅が下り、戊辰戦争が勃発すると、病身ながらも藩を動かし、明治維新に貢献しました。
  • 明治政府では内閣顧問や左大臣を歴任しましたが、政府の急進的な近代化政策には反対し、要職を辞任しました。
  • 廃藩置県に激しく抗議し、自邸で花火を打ち上げさせた逸話が残されています。
  • 晩年は鹿児島で隠居し、島津家に伝わる歴史資料の収集や『通俗国史』の編纂に尽力しました。
  • 生涯を通じて髷を切らず、刀を差し、和服を着用し続けるなど、武士としての誇りと伝統を貫きました。
  • 1887年に70歳で逝去し、その葬儀は東京ではなく鹿児島で国葬として執り行われました。

島津久光は、単なる保守的な人物ではなく、学識豊かで時局を的確に見極める優れた政治手腕を持ち合わせていました。彼の生涯は、激動の時代における伝統と革新の相克、そして一人の政治家が国家のために尽くした多大な努力を物語っています。

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