佐幕派とは?思想や人物一覧、新撰組・倒幕派との違いも解説

佐幕派

幕末の歴史を学ぶ中で、「佐幕派とは何か?」という問いにぶつかる方は少なくありません。
尊王攘夷や倒幕運動が注目されがちな中で、佐幕派の思想や立場、関わった人物たちの存在はやや見落とされがちです。
しかし、新撰組をはじめとする佐幕派の活躍や、会津藩などの藩が果たした役割を知ることで、幕末の全体像がより立体的に見えてきます。

この記事では、佐幕派とはどういう人たちだったのかをわかりやすく整理しながら、勤王派・倒幕派・攘夷派との違いや、思想の背景にも丁寧に触れていきます。
坂本龍馬のように倒幕と開国を進めた人物との比較も交えながら、当時の価値観や政治構造を読み解いていきましょう。
また、佐幕派に属した代表的な人物の一覧や、関わった主な事件など、具体的な情報も豊富に盛り込んでいます。

歴史初心者の方でもスムーズに読み進められるよう、専門用語はできる限り丁寧に説明しています。
この記事を通じて、幕末を生きたもう一つの側の「視点」に触れてみてください。

この記事を読むとわかること

  • 佐幕派とは何か、どのような思想だったか
  • 勤王派・倒幕派・尊王攘夷派との違い
  • 佐幕派に属した主要な藩や人物の一覧
  • 新撰組や坂本龍馬との関係や立場の違い
目次

佐幕派とは何かをわかりやすく解説

佐幕派1
  • 佐幕派の思想と立場とは
  • 佐幕派と尊王攘夷・攘夷派との違い
  • 勤王派・倒幕派との対立構造を解説
  • 佐幕派を支えた幕府の体制とは
  • 佐幕派に属した代表的な人物一覧

佐幕派の思想と立場とは

佐幕派とは、幕末の動乱期において「幕府を守る」という立場をとった人々を指します。
彼らは徳川幕府の正統性を重視し、江戸時代を通じて築かれてきた政治秩序を維持することが日本の安定につながると考えていました。

佐幕派の根底にあったのは、幕府による長年の支配を正しいものとし、急激な変革を避けるべきだという保守的な価値観です。
このような思想の背景には、混乱の続く時代において既存の秩序が最も信頼できるものであるという意識がありました。
また、諸外国との不平等条約に対する不満はあったものの、開国自体を全面的に否定するわけではなく、現実的な対応を取る姿勢も見られました。

一方で、幕府が不合理な政策を行ったとしても、それを批判するよりも内部から改革していくことを望む傾向が強く、従来の体制の中で調整するという考え方が主流でした。
このように佐幕派は「守る」ことに主眼を置き、武力による体制転覆には否定的な立場を取ります。

その立場は、特に地方藩士や幕府に強い忠誠心を持つ武士階級の中に多く見られました。
彼らは、自らが属する秩序が否定されることに不安を感じ、徳川政権の継続にこそ正義があると信じていたのです。

このような考え方は、新たな時代の到来を期待する倒幕派とは大きく異なります。
結果として、佐幕派は時代の流れに逆らう形となり、やがて政権を失うことになっていきます。
しかし、彼らの行動は混迷する時代に秩序と安定を求める声として一定の理解を集めていました。

佐幕派と尊王攘夷・攘夷派との違い

佐幕派と尊王攘夷、あるいは攘夷派との違いは、その政治的立場や行動の方向性にあります。
一見すると、どちらも幕末の日本を案じていたという点では共通していますが、目指す未来は大きく異なっていました。

まず、佐幕派は徳川幕府の存続と安定を第一に考えていました。
幕府を中心とした体制の中で改革を進めようとする立場であり、あくまで「既存の秩序を守る」ことに重点を置いていました。
開国には一定の理解を示し、むやみに外国と争うことは避けようとする姿勢も特徴です。

一方、尊王攘夷や攘夷派は「天皇を中心とする国づくり」と「外国勢力の排除」を主張します。
特に攘夷派は、欧米列強との接触を「国辱」と捉え、過激なまでの排外主義を掲げました。
これに対し佐幕派は、外国との接触を現実的に受け入れ、貿易や外交の必要性を理解していたのです。

また、尊王攘夷運動の中には、幕府を否定し、天皇による政治支配を目指す勤王派の要素が強く含まれていました。
つまり、尊王攘夷の思想は「幕府の打倒」を前提にしている場合が多く、佐幕派とは本質的に対立する関係にあります。

攘夷という一点においては、一部の佐幕派にも共感する人がいたことは事実です。
しかし彼らにとって攘夷は「幕府の枠組みの中で達成されるべきもの」であり、体制そのものを変える手段とは考えていませんでした。

こうして見ると、両者は「国を思う気持ち」は同じであっても、その手段や方向性が大きく異なっていたことがわかります。
佐幕派は保守と安定、尊王攘夷派は革新と排外という立場に立っていたのです。

勤王派・倒幕派との対立構造を解説

佐幕派と勤王派・倒幕派は、幕末の政治情勢を大きく揺るがした三大勢力です。
この三者の対立構造を理解することは、当時の日本社会が抱えていた問題を知るうえで欠かせません。

勤王派とは、「天皇を中心とする政治体制を理想とする」人々のことを指します。
彼らは、幕府が天皇の意志を無視して外国と通商条約を結んだことに強く反発し、徳川政権を批判していました。
この思想が次第に武力による「倒幕」へとつながっていき、やがて倒幕派として活動を本格化させます。

一方、佐幕派は幕府を中心とした政治体制の維持を主張し、天皇の権威は尊重しつつも、実際の政治は引き続き幕府が担うべきだと考えていました。
つまり、勤王派とは「天皇中心か、幕府中心か」で対立していたのです。

また、倒幕派の中でも特に過激なグループは、武力行使も辞さない姿勢を取り、尊王の名の下に暗殺や討幕計画を進めました。
これに対抗して佐幕派も治安維持のため新撰組などの組織を設立し、幕府擁護の立場から行動を強化していきます。

こうした対立は、京都での政治活動や江戸での治安維持にまで影響を与え、混乱の原因ともなりました。
さらに、藩ごとに立場が分かれていたため、藩同士の争いにもつながっていきます。
薩摩藩や長州藩は倒幕を推進し、会津藩や桑名藩などは佐幕の立場で幕府を支えました。

最終的に、薩摩・長州を中心とした倒幕派が明治政府を樹立し、佐幕派は敗北を喫することになります。
この対立構造は日本近代史の大きな転換点として、今でも多くの歴史研究の対象となっています。

佐幕派を支えた幕府の体制とは

江戸時代に260年以上続いた徳川幕府の体制こそが、佐幕派が守ろうとした基盤でした。
この体制は、中央集権と地方分権を巧みに組み合わせた統治システムとして知られています。

幕府の中枢を担っていたのは将軍であり、彼を補佐する老中、大老、若年寄といった役職が行政や外交を取り仕切っていました。
全国の大名(藩主)は幕府の直轄下に置かれ、参勤交代などの制度によって中央集権が維持されていました。

このような体制は、各藩にある程度の自治を認めつつも、幕府が最終的な権威を持つという形で成立していました。
そのため、安定した社会秩序と長期的な平和が続いたとも言えます。

佐幕派にとって、この体制は単なる政治構造ではなく、日本を守ってきた象徴でもありました。
また、武士階級の多くが幕府の恩恵によって生活していたため、経済的な理由でも幕府体制を支持することが多かったのです。

一方で、幕末になるとこの体制には限界が見え始めます。
開国による経済混乱や、欧米列強の圧力に対応しきれない外交力の弱さが浮き彫りになり、幕府の権威は次第に揺らいでいきます。

さらに、情報伝達の遅さや、藩ごとの対応のばらつきも、近代国家としての統一感を欠く要因となりました。
これにより、倒幕派からは「時代遅れ」と批判されるようになります。

しかし、それでも佐幕派は「幕府の体制が最も信頼できる」と信じ、改革ではなく維持を選びました。
これが最終的には新政府との対立を深める結果となってしまったのです。

佐幕派に属した代表的な人物一覧

佐幕派には、幕府を支えようとした多くの有力人物が存在しました。
ここでは、その中でも特に有名な人物をいくつか紹介します。

まず挙げられるのが、**松平容保(まつだいら かたもり)**です。
会津藩主として京都守護職を務め、新撰組を配下に置いて尊王攘夷派の取締りに尽力しました。
彼の忠義心は評価される一方で、戊辰戦争での敗北により苦難の運命をたどります。

次に、**土方歳三(ひじかた としぞう)**も重要な人物です。
新撰組副長として知られ、徹底した規律と戦術で部隊を統率しました。
最後まで幕府に忠誠を尽くし、五稜郭で命を落としたその生き様は、今なお多くの人に語り継がれています。

**勝海舟(かつ かいしゅう)**も忘れてはならない存在です。
彼は軍艦奉行として西洋の軍事技術を学び、幕府海軍の近代化に尽力しました。
また、江戸城の無血開城に貢献し、流血を避ける政治判断を下したことで高く評価されています。

さらに、**榎本武揚(えのもと たけあき)**も代表的な佐幕派の一人です。
幕府海軍を率いて箱館戦争を戦い、最後まで幕府のために抵抗を続けました。
後に明治政府に登用され、政治家としても活躍します。

このように、佐幕派には実務・軍事・思想の各方面で優れた人物が多く存在していました。
彼らは時代の流れに逆らいながらも、自分たちの信じる正義を貫いた人々だと言えるでしょう。

幕末における佐幕派とはどのような存在か

佐幕派2
  • 新撰組が佐幕派だった理由とは
  • 会津藩など藩ごとの佐幕・倒幕の立場
  • 尊王攘夷運動と佐幕派の関係を整理
  • 坂本龍馬と佐幕派の思想の違い
  • 佐幕派が関わった主要な事件一覧
  • 佐幕派の敗因とその後の評価とは

新撰組が佐幕派だった理由とは

新撰組が佐幕派に属していた理由は、その設立の経緯と活動目的に深く関係しています。
もともと新撰組は、「浪士組」という名で幕府が京都の治安維持を目的に募集した浪士たちが起源です。
この浪士組の中から幕府への忠誠心が強かった近藤勇や土方歳三らが中心となり、後に新撰組を結成しました。

当時の京都は尊王攘夷派の活動が活発で、攘夷思想に染まった志士たちによる暗殺や暴動が頻発していました。
幕府は天皇のいる京都の治安を守ることが政権維持の生命線だと認識しており、そのための治安部隊として新撰組に期待を寄せていたのです。

新撰組の任務は、尊王攘夷を掲げる過激派の取り締まりと、幕府への忠誠を貫く姿勢の示威でした。
特に有名な池田屋事件では、長州藩などの倒幕勢力による計画を阻止し、大きな功績を残しています。
このような行動を通じて、新撰組は佐幕派としての立場を明確にしていきました。

また、構成員の多くが武士身分ではなかったことも、幕府への忠誠心をより強くする一因でした。
幕府に仕えることで身分的な保障や出世の道が開けると信じ、佐幕の立場を取ることで自らの生きる場所を確保しようとしていたのです。

一方で、新撰組はその活動の過激さから恐れられる存在でもありました。
規律を重視するあまり、内部粛清や強硬な取締りも行われ、批判の的になることもありました。
ただし、当時の混乱を抑えるためにはそれほどまでの覚悟が必要だったと考えることもできます。

このように、新撰組は政治的な理念というよりも、「幕府に忠義を尽くす」という一点で行動を決定していました。
彼らが佐幕派だったのは、任務の本質と個々の人生観が交差した結果だったのです。

会津藩など藩ごとの佐幕・倒幕の立場

幕末の動乱期には、各藩が佐幕派・倒幕派に分かれて行動しました。
その立場の違いは、藩の歴史的背景や政治的立場、さらには幕府との関係性によって大きく左右されていました。

佐幕派の代表的な藩として挙げられるのが、会津藩です。
会津藩は徳川家との結びつきが強く、藩主・松平容保は京都守護職として幕府からの信頼も厚い存在でした。
また、桑名藩や庄内藩、紀州藩なども幕府を支持する立場をとり、政権の維持に協力しました。

これらの藩は、幕府から恩恵を受けていたというだけでなく、秩序を重んじる武士道精神が根付いていたという点でも共通しています。
既存の体制を守ることで平和が保たれるという信念から、あえて時代の流れに逆らう道を選んだのです。

一方、倒幕派として名を馳せたのが薩摩藩と長州藩です。
これらの藩は、幕府による地方統制に不満を持ち、独自の軍事力や経済力を背景にして中央政治への影響力を強めたいという野心を抱いていました。
特に長州藩は、尊王攘夷の急先鋒として、たびたび武力衝突を引き起こしています。

薩摩藩は当初は佐幕的な姿勢も見せていましたが、やがて西郷隆盛や大久保利通らが中心となって倒幕へと方針を転換します。
これは、幕府の無力さを目の当たりにし、独自の国家ビジョンを実現するための現実的な判断でした。

このように、各藩の立場は単純なイデオロギーだけでなく、政治的思惑や地理的条件、歴史的経緯に基づいて決まっていました。
幕末の混乱は、藩ごとの利害対立が複雑に絡み合った結果だったとも言えるでしょう。

尊王攘夷運動と佐幕派の関係を整理

尊王攘夷運動と佐幕派は、幕末における重要な思想潮流の一つですが、両者は決して同一ではありません。
むしろ、最終的には対立する関係へと発展していきました。

「尊王攘夷」とは、天皇を敬い(尊王)、外国勢力を排除する(攘夷)という思想を意味します。
この運動は、1850年代から60年代にかけて欧米列強との不平等条約締結や開国政策への反発から全国に広がりました。

一方、佐幕派は幕府の体制維持を第一とする立場で、外国との通商を必ずしも否定していませんでした。
むしろ、現実的に開国を受け入れたうえで、国力を高めるべきだという考えが主流でした。

このため、尊王攘夷運動において「尊王」の部分では一部の佐幕派も共感していましたが、「攘夷」については距離を置いていたのです。
幕府も当初は攘夷を掲げていたものの、技術的・軍事的な不利を理解したことで、徐々に通商容認の方向へ舵を切りました。

また、尊王攘夷派の多くは幕府が天皇の命を軽視していると捉え、討幕の正当性をそこに見出していきます。
これに対して佐幕派は、天皇の権威は尊重しつつも政治運営の実務は幕府が担うべきだという「公武合体」的な思想を持っていました。

このような違いから、最初は一部で重なり合っていた思想も、やがて明確な対立構造を生み出していくことになります。
尊王攘夷運動が倒幕の原動力へと変化する中、佐幕派はその動きを抑えようとしたのです。

つまり、両者の関係は「出発点では一部共通しながらも、目的と手段が異なり、最終的に対立した」という形に整理することができます。

坂本龍馬と佐幕派の思想の違い

坂本龍馬と佐幕派の思想は、幕末のビジョンの違いを象徴しています。
一見すると、どちらも日本の将来を真剣に考えていた点では共通していますが、その手段や理念には明確な隔たりがありました。

坂本龍馬は、土佐藩出身の郷士であり、幕府の体制には早くから限界を感じていました。
彼が重視していたのは、日本が近代国家として成長するための「柔軟な政治体制」と「国民による議論を通じた運営」でした。
そのため、幕府が実権を握り続ける体制よりも、より開かれた政治への転換を求めていました。

特に龍馬が構想した「船中八策」は、議会政治の導入や身分制度の見直しなどを含む先進的な内容で、幕藩体制の限界を乗り越える意志が強く表れています。
一方、佐幕派はこうした急激な変化を警戒し、徳川幕府の継続こそが日本の安定に必要と考えていました。

龍馬はまた、薩摩と長州の同盟を仲介するなど、倒幕運動に間接的に貢献しています。
この点も、幕府を支えようとする佐幕派とは明確に方向性が異なります。

ただし、龍馬自身は単なる倒幕主義者ではなく、武力よりも和平と合意形成による新体制づくりを望んでいました。
これも、武力衝突を辞さない一部の佐幕派や倒幕派との違いとして注目されます。

つまり、坂本龍馬と佐幕派の違いは「未来志向と現状維持」「革新と保守」という二つの軸に沿って理解することができます。
結果として、龍馬の思想は明治維新の方向性に大きな影響を与えることになりました。

佐幕派が関わった主要な事件一覧

佐幕派が関与した事件は、幕末の混乱を象徴する出来事が数多く含まれています。
ここでは代表的なものをいくつか紹介します。

最も有名なのが**池田屋事件(1864年)**です。
これは新撰組が京都の旅館・池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の志士たちを襲撃し、計画されていた倒幕の動きを未然に防いだ事件です。
佐幕派にとっては大きな勝利であり、その存在感を全国に知らしめる契機となりました。

また、**禁門の変(同年)**も重要です。
長州藩が京都に攻め込み、幕府側と衝突したこの戦いでは、会津藩など佐幕派の藩が幕府軍として出動し、長州藩を撃退しました。
この戦いは、長州藩を「朝敵」として扱う口実にもなりました。

さらに、**鳥羽・伏見の戦い(1868年)**は、事実上の戊辰戦争の開戦となる重要な戦闘です。
ここでは旧幕府軍が新政府軍に敗北し、佐幕派の劣勢が決定的となりました。

その後、上野戦争会津戦争、**箱館戦争(五稜郭の戦い)**といった一連の戦いにおいても、佐幕派は各地で抵抗を試みました。
特に榎本武揚率いる旧幕府艦隊が北海道に拠点を築いた箱館戦争は、佐幕派の最後の砦とも言われています。

これらの事件を通じて、佐幕派は終始「守る立場」にあり、時には果敢な戦いを挑んだものの、次第に追い詰められていきました。

佐幕派の敗因とその後の評価とは

佐幕派が敗北した背景には、時代の流れに適応できなかったという根本的な問題があります。
彼らは徳川幕府の正統性と長年続いた体制への信頼を軸に行動していましたが、国内外の環境は急速に変化していました。

第一に、開国によってもたらされた欧米列強との接触が大きな要因です。
幕府は不平等条約を受け入れざるを得ず、国民の間に不満が広がりました。
一方で、倒幕派はこれを口実にして「幕府の無能さ」を攻撃材料とし、新体制への期待を高めていきました。

第二に、佐幕派が支持していた武士中心の社会構造が、経済的にも時代遅れになっていた点も見逃せません。
産業の発展や貨幣経済の浸透により、商人や農民の力が増していたにもかかわらず、幕府は依然として武士階級の特権を守ろうとしました。
このため、一般庶民の支持は倒幕派に流れていくことになります。

また、薩摩・長州といった倒幕勢力が軍事力や政治力を急速に整えていったのに対し、佐幕派は動きが遅く、連携にも課題がありました。
特に会津藩や新撰組の奮闘は評価されますが、全体としての戦略性に乏しかった点が敗因につながっています。

こうした要因が重なり、戊辰戦争では次第に旧幕府側が劣勢となり、箱館戦争を最後に事実上の終焉を迎えることになります。

一方で、現代における佐幕派の評価は一面的ではありません。
武士としての忠義や、理想より秩序を重視する姿勢は、現代の視点から見ても一定の理解を得ています。
土方歳三や榎本武揚など、最後まで信念を貫いた人物に対しては「忠義の士」として尊敬の声も少なくありません。

また、勝海舟のように無血開城を実現して流血を避けた功績は、和平を重んじる現代の価値観とも通じる部分があります。
こうした人物の存在が、佐幕派全体の評価を複雑で奥深いものにしているのです。

つまり、佐幕派の敗北は「体制そのものの限界」でありながら、そこに生きた人々の信念や行動は、今なお語り継がれています。
敗者でありながら、確かな歴史の一翼を担った存在として、見直される機会も増えてきています。

佐幕派とは何だったのかを総括

ここまでの記事を通じて、「佐幕派とは何か?」を多角的に解説してきました。
最後にポイントを整理しながら、総まとめとしておさらいしておきましょう。

  • 佐幕派とは、幕末の動乱期において徳川幕府を支え、体制維持を主張した人々のことを指します。
  • 彼らは幕府の正統性を信じ、長年続いた秩序を守ることが日本の安定に必要だと考えていました。
  • 急激な体制転換には否定的で、改革はあくまで幕府の枠内で行うべきとする姿勢が特徴です。
  • 外国との接触についても現実的に対応し、全面的な排斥ではなく受け入れによる強化を重視しました。
  • 尊王攘夷や攘夷派とは、思想の一部で重なる部分がありつつも、国家体制への考え方で大きく異なります。
  • 勤王派・倒幕派とは「天皇中心か、幕府中心か」という根本的な政治理念で対立していました。
  • 佐幕派を支えた幕府の体制は、中央集権と地方分権を組み合わせた独自の支配構造でした。
  • 武士階級の生活基盤が幕府によって成り立っていたことも、佐幕派が多かった背景の一つです。
  • 松平容保、土方歳三、勝海舟、榎本武揚などが、代表的な佐幕派の人物として知られています。
  • 新撰組もまた、幕府の治安維持を目的に設立され、佐幕の立場で行動しました。
  • 会津藩や桑名藩など、いくつかの藩も幕府を支えた重要な佐幕勢力でした。
  • 尊王攘夷運動との関係では、一部思想が重なるものの、最終的には対立する形となりました。
  • 坂本龍馬のような開明的な思想家とは、政治体制の見方や目指す未来像において違いがありました。
  • 佐幕派は池田屋事件や禁門の変、戊辰戦争など、さまざまな歴史的事件に深く関与しています。
  • 最終的には時代の流れに逆らい敗北しますが、その忠義や信念は今でも高く評価されています。

このように、「佐幕派とは何だったのか」を振り返ることで、幕末という時代がどれだけ多様な考えと葛藤に満ちていたのかが見えてきます。
彼らの姿は、敗者であっても歴史を動かした一端として、これからも語り継がれていくでしょう。

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