【詳細解説】源行家って何をした人?どんな人?わかりやすく紹介

源行家
この記事でわかること

この記事では、源行家が何をした人でどんな人だったのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
源行家について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!

この記事は

・源行家って何をした人?どんな人?
・源行家の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
・源平合戦(治承・寿永の乱)の時代について知りたい。

こんなことを知りたい人におすすめです。

目次

源行家のプロフィール

源行家
中央の馬に乗っている人物が源行家
スクロールできます
名前源行家(みなもとのゆきいえ)
出身地紀伊(現在の和歌山県)
生年月日不明
死亡年月日1186年5月12日
享年不明(40歳代)
活躍した時代平安時代末期
家族源為義(父)、源義朝(兄)、源頼朝(甥)、源義経(甥)、源義仲(甥)
別名・幼名等新宮十郎
※新宮(紀伊)に住み、源為義の十男だったので、新宮十郎と呼ばれた。

源行家のかんたん年表

生誕
平治の乱

このあと熊野に逃れ、約20年間潜伏生活を送る

以仁王の令旨を各地の源氏に伝達する
墨俣川の戦い
源義仲とともに入京
頼朝による行家討伐令
捕らえられ斬首される

【源行家はどんな人?】生涯をざっくり紹介

この章では、源行家の生涯を簡潔に紹介します。
源行家は一般的にはマイナーな人物ですが、源頼朝の挙兵のきっかけとなる重要な人物です。
また、かなりの野心家であったことや、その一方で軍事面の才能はまったくなかったことが伺い知れます。

源為義の十男として生まれる

河内源氏の名門、源為義の十男として生まれます。
生まれた年は伝わっていませんが、1140年代前半と考えられます。

源頼朝の父である源義朝は兄にあたります。

つまり、行家は源頼朝や源義経の叔父さんにあたるわけです。
また、源頼朝・義経兄弟の従兄弟にあたる源義仲の叔父さんでもあります。

平治の乱で敗れて熊野に潜伏

1159年の平治の乱では、兄の義朝に従って戦いますが、敗北してしまいます。

平治の乱のあと、行家は紀伊の熊野に逃れ、そこで20年近くの潜伏生活を送ることになります。

以仁王の令旨の伝達役になる

1180年、以仁王が各地にいる源氏勢力に「打倒平氏」を呼びかけます。
このときの以仁王の命令書を「以仁王の令旨」といいます。

行家は、この以仁王の令旨の伝達役となります。
行家は山伏に変装して、源頼朝や源義仲といった各地の源氏勢力に令旨を伝達します。

ちなみにこのとき源頼朝は、突然やってきた行家を怪しみ、様子見しようとしていたそうです。

墨俣川の戦いで大敗

各地の源氏に令旨を伝えた行家は、誰かの傘下に入るのは嫌だったようで、独立勢力として三河国や尾張国で地盤を固め勢力を築こうとします。

1181年、行家の勢力は墨俣川(現在の長良川)で、平重衡などの平家軍と交戦します。(墨俣川の戦い)

行家は野心家でしたが軍事的才能はなかったようで、このあとの人生で戦に負け続けるのですが、この墨俣川の戦いでも惨敗します。

墨俣川の戦いで惨敗したあと、行家は頼朝を頼って逃げるのですが、頼朝に所領を求めて断られると対立することに。

今度は源義仲を頼って、義仲の傘下に入ります。

墨俣川は、現在の長良川です。

源義仲とともに入京

1183年、義仲が京の平氏勢力を倒し入京する際、行家も義仲とともに入京しました。

しかし、後白河法皇に謁見する際には、義仲より下の序列とされたことに対し不満を抱きます。
その後、徐々に義仲と対立するようになり、身の危険を感じた行家は京から離れることになります。

源義経とともに、反頼朝勢力となる

この後、源義経・源範頼軍が義仲を倒し、さらに壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしますが、行家はそれらの戦いには関わっていません。

その間、行家は、半独立勢力として和泉国や河内国(現在の大阪府)で地盤を固め勢力を築こうとしていました。

しかし、鎌倉にいる頼朝は、そのような行家を危険視し、討伐令を出します。

それを受け、行家は、頼朝と不和になっていた義経に「一緒に頼朝を倒そう」と持ちかけ、反頼朝勢力を結集しようとしますが、賛同する者は少なく、それぞれ逃亡することになります。

翌年の1186年、和泉国に潜伏していた行家は捕らえられ、斬首されました。

源行家のエピソードや逸話

ここでは、源行家のエピソードや逸話を紹介します。
紹介する逸話は2つです。

野心と交渉力はあるが戦は下手

行家の生涯を見ればわかるように、行家はこの時代において少し独特な立ち位置にいます。
けっして誰かの傘下に入ろうとはせず、独立勢力として行動しようとしています。

そのための野心と交渉力は優れたものがあったと思われます。
しかし、その独立心に反して、戦はとても下手でした。

関わった戦はほぼ全敗。でもしぶとく生き残る

行家が関わった戦は、ほぼ全敗という結果になっています。

でも、行家はかなりの強運の持ち主だったのか、何度も戦で敗北しても、しぶとく生き残りました。

行家が平知盛・重衡軍と戦った室山の戦いでは、わずか270騎で約2万騎の平氏軍に攻撃を仕掛けて大敗したと伝えられています。

そんなムチャな戦いをしても生き残ったのは、やはり強運の持ち主だったといえるでしょう。

源行家にゆかりの地

ここでは、源行家にゆかりの地や史跡を紹介します。

新宮十郎行家(源義盛)の屋敷跡

和歌山県新宮市には、行家が潜伏していた屋敷跡と推定されている史跡があります。
建物などが残っているわけではなく、説明板があるだけのようです。

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