幕末の志士・久坂玄瑞は、短い生涯で何を成し遂げたのでしょうか。
彼の名は聞いたことがあっても、「実際に何をした人なのか」「なぜ若くして命を落としたのか」といった具体的な人物像は、意外と知られていません。
吉田松陰の高弟として、松下村塾で学び、高杉晋作と肩を並べた才人。
その一方で、長身で声も美しく、現代で言うイケメンとしても評判を集めた魅力的な人物でもありました。
禁門の変で迎えた衝撃的な死因、妻や子孫との関係、坂本龍馬との接点や辞世の句に込められた想いなど、久坂玄瑞の知られざる側面に迫ります。
この記事を読むとわかること
- 久坂玄瑞が何をした人なのか
- 久坂玄瑞の死因や禁門の変との関係
- 妻や子孫など家族にまつわるエピソード
- 坂本龍馬や高杉晋作との関係性
久坂玄瑞とは何した人?その生涯と活動

- 松下村塾での学びと吉田松陰との師弟関係
- 尊王攘夷運動の旗手としての活躍
- 盟友・高杉晋作との関係と思想の違い
- 禁門の変:なぜ戦い、どう散ったか
- 若き死:禁門の変におけるその死因
松下村塾での学びと吉田松陰との師弟関係
久坂玄瑞の生涯において、吉田松陰との出会いと松下村塾での学びは、彼の思想形成に決定的な影響を与えました。
玄瑞が松陰の門を叩くきっかけは、安政3年(1856年)の九州遊学にあります。
この旅の途中、熊本で宮部鼎蔵を訪ねた際、松陰への師事を強く勧められました。
実はそれ以前にも、亡兄の旧友であった月性からも松陰への入門を促されており、玄瑞の中で松陰という存在への関心は高まっていたのです。
萩に戻った玄瑞は、松陰に書状を送ります。
最初の書状で玄瑞は、「弘安の役のように外国の使者を斬るべきだ。そうすればアメリカも来襲し、武士たちも覚醒して国防も厳重になる」という過激な意見を述べました。
これに対し松陰は、「議論が浮ついており思慮も浅い。至誠から発する言葉ではない」と厳しく批判し、書状を送り返します。
松陰は、玄瑞の平凡ならざる士気を認めつつも、その粗削りな部分を鍛え上げようとしたのでしょう。
土屋蕭海への手紙で「これで激昂して反駁してくる勢いがあれば、私の本望です」と述べていることからも、松陰が玄瑞を試していたことがうかがえます。
案の定、玄瑞は猛反発し、「米英仏の戦艦や大砲に我が国は太刀打ちできない。だからといって国が亡びるのを待つのか。まず守りを固めるべきだ」と再反論します。
松陰はこれに対し、国家間の信義の重要性や、外国と平穏な関係を保ちつつ国力を蓄えるべきという、より大局的な見地からの意見を返しました。
三度にわたる書状のやり取りを通じて、互いの思想をぶつけ合った末、安政4年(1857年)晩春、玄瑞は正式に松下村塾に入門することになります。
この入門前の激しい議論は、単なる入門許可を得るための手続きではなく、師弟双方にとって互いの器量を見極める重要な過程だったと言えるでしょう。
松下村塾において、玄瑞は高杉晋作と共に「村塾の双璧」、さらには吉田稔麿、入江九一を加えて「松門四天王」と称されるほどの才能を発揮します。
松陰は玄瑞を「長州第一の俊才」と高く評価し、その才能をさらに開花させるため、高杉晋作と競わせるよう配慮しました。
松陰の教育方針は、一方的に知識を授けるのではなく、弟子同士を切磋琢磨させることで、それぞれの個性と能力を最大限に引き出すものだったのです。
師弟関係は学問だけに留まりませんでした。
安政4年(1857年)12月、松陰は自身の妹である文を玄瑞に嫁がせます。
これは、玄瑞の才能と人間性に対する松陰の深い信頼の証であり、玄瑞を家族同然に迎え入れようとする意志の表れでもありました。
この結婚により、玄瑞は松陰の義弟となり、その絆はより一層深いものとなります。
松下村塾での学びと松陰との濃密な師弟関係は、若き玄瑞の思想的骨格を形成し、後の尊王攘夷運動へと彼を駆り立てる原動力となったのです。
尊王攘夷運動の旗手としての活躍
吉田松陰が安政の大獄によって刑死した後、久坂玄瑞はその遺志を継ぎ、長州藩における尊王攘夷運動の中心人物として精力的に活動を展開しました。
彼の行動は、松陰の教えを胸に、日本の将来を憂う強い危機感から発せられたものです。
松陰没後の結束と藩論転換への動き
文久元年(1861年)12月、玄瑞は松下村塾の門下生を中心とした長州藩の志士たちの結束を強化するため、「一灯銭申合」を創設しました。
これには桂小五郎(後の木戸孝允)や高杉晋作、伊藤俊輔(後の伊藤博文)、山縣有朋といった、後に明治維新で重要な役割を果たす面々が参加しています。
この結束が、後の長州藩の大きな力となっていきました。
当時、長州藩の藩論は長井雅楽が提唱する「航海遠略策」、すなわち幕府と協調し積極的に海外へ進出しようという公武合体・開国策に傾いていました。
玄瑞はこれに対し、真っ向から反論します。
彼は、現状の不平等な貿易が国富を流出させ、民衆を苦しめていると経済的観点から批判。
さらに、長井の策が結果的に幕府を助け、朝廷の権威を抑えることになると警鐘を鳴らしました。
師・松陰も究極的には海外進出を考えていたとしつつも、それは国内の体制を整え、武威を高めた後の話であるべきだと主張したのです。
玄瑞は長井と何度も議論を重ね、藩主にも直接意見を具申しましたが、藩論を覆すには至りませんでした。
過激な行動と藩論の主導
公武合体派が主導権を握る中、玄瑞は各藩の志士との連携を深め、特に薩摩、土佐、水戸といった藩の尊攘派との同盟結成に力を注ぎます。
文久2年(1862年)には、坂本龍馬が玄瑞を訪ねて萩に来訪し、今後の策について話し合いました。
同年、玄瑞は同志と共に長井雅楽の弾劾書を藩に提出。
長井要撃を試みるも機を逸し、京都で謹慎処分となりますが、この間も彼の尊攘思想は衰えることはありませんでした。
謹慎中の文久2年(1862年)8月、玄瑞は藩主に対し『廻瀾條議』と題する建白書を提出します。
この建白書は藩主に受け入れられ、長州藩の藩論はついに航海遠略策を捨て、尊王攘夷へと大きく転換しました。
さらに翌月には、全国の尊攘派志士に向けた実践的綱領『解腕痴言』を著し、その中で、外国の武力に屈する形での開国ではなく、対等な交渉によって国力を回復し、軍備を整えた後に条約締結に臨むべきであると説きました。
これは松陰の開明的攘夷論を踏襲しつつ、倒幕という政治的目的を達成するための手段としても「攘夷」が有効であると力説するものでした。
攘夷実行とその影響
藩論を尊王攘夷で統一した玄瑞は、具体的な行動に移ります。
文久2年(1862年)12月には、高杉晋作らと共に品川御殿山に建設中だったイギリス公使館の焼き討ちを実行。
これは過激な行動であり、内外に大きな衝撃を与えました。
翌文久3年(1863年)、幕府が朝廷の攘夷要求に対し期限を5月10日と定めたことを受け、玄瑞は帰藩。
下関で外国船を砲撃するための準備として、身分にとらわれず志を同じくする者たちを集め「光明寺党」を結成します。
そして5月10日、関門海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの艦船に対し砲撃を実行しました(下関戦争)。
この攘夷決行は、長州藩の断固たる意志を示すものでしたが、列強の報復攻撃を招き、藩に大きな被害をもたらす結果ともなりました。
しかし、こうした一連の行動を通じて、久坂玄瑞は尊王攘夷派の指導者としての地位を確固たるものとし、幕末の政局に大きな影響を与え続けたのです。
盟友・高杉晋作との関係と思想の違い
久坂玄瑞と高杉晋作は、共に吉田松陰門下の逸材であり、「松下村塾の双璧」と称されたように、幕末の長州藩を牽引した盟友でした。
しかし、その個性や思想、行動様式には違いも見られ、時には意見を衝突させることもありました。
松下村塾での出会いとライバル関係
二人の出会いは松下村塾に遡ります。
玄瑞より1歳年上の晋作は、名門の家柄の出身でした。
松陰は、玄瑞の才能と学識を称賛することで、晋作の負けん気に火をつけ、両者を競わせることで互いの成長を促しました。
松陰は「玄瑞の才は気に基づいたものであり、晋作の識は気から発したものである。二人がお互いに学びあうようになれば、僕はもう何も心配することはない」と語り、二人の協調と相互補完に期待を寄せています。
実際に二人は互いの才能を認め合い、玄瑞は晋作の識見を高く評価し、晋作も玄瑞の才を「当世に比べるものがない」と称賛するなど、深い信頼関係で結ばれていました。
性格的には、苦労人で理知的な優等生タイプの玄瑞に対し、晋作はプライドが高く行動的、時に破天荒な一面も持つタイプと対照的でしたが、それがかえって互いを刺激し合う良い関係につながったのでしょう。
尊王攘夷運動における共闘と路線対立の萌芽
松陰没後、二人は尊王攘夷運動の指導的立場として共に活動します。
文久2年(1862年)12月には、建設中のイギリス公使館焼き討ちを共に決行するなど、過激な行動も辞さない点は共通していました。
しかし、具体的な行動方針や戦略においては、徐々に考え方の違いが表面化してきます。
例えば、外国船砲撃を計画していた晋作に対し、玄瑞は当初「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、激論を交わしたとされます。
最終的には玄瑞も晋作の計画を受け入れましたが、ここには慎重かつ大局的な視点を持つ玄瑞と、大胆かつ即時的な行動を重視する晋作との個性の違いが表れていると言えます。
奇兵隊と光明寺党
文久3年(1863年)の下関戦争後、高杉晋作が身分にとらわれない画期的な軍隊として「奇兵隊」を結成したことは有名です。
一方、玄瑞も下関での攘夷実行に際し、同様に身分を問わず志ある者を集めた「光明寺党」を組織していました。
光明寺党は奇兵隊の前身とも言われ、両者ともに従来の封建的な身分制度にとらわれない新しい組織を目指した点で共通の思想を持っていたことがうかがえます。
しかし、晋作が奇兵隊総管として軍事面に注力したのに対し、玄瑞は京都での政治工作など、より藩政や国政の中枢に関わる活動に軸足を移していくことになります。
禁門の変前の意見対立
元治元年(1864年)、池田屋事件などをきっかけに長州藩内で京都への進発論が高まると、玄瑞は当初、慎重な立場を取り、武力行使を押しとどめようとしました。
しかし、藩内の強硬派の勢いに押され、最終的には進発論に転じます。
一方、高杉晋作は、この時期、藩論の対立などから一時失脚しており、京都への進発に対しては一貫して慎重、あるいは反対の立場だったとされています。
晋作は「久留米藩の大馬鹿者の真木和泉保臣と、わしらの藩の大馬鹿者の久坂。こいつらがグルになって何か企んだら、何をしでかすかわかったものじゃない」と玄瑞の京都進発を批判的に見ていたという逸話も残っています。
このように、最終局面においては、戦略や情勢認識において二人の間には明確な意見の相違が生じていました。
しかし、それは互いを認め合うが故の真摯な議論であり、決して個人的な反目から来るものではなかったでしょう。
玄瑞と晋作は、その短い生涯の中で、時に共闘し、時に異なる道を歩みながらも、互いを高め合い、幕末という激動の時代を駆け抜けた真の盟友だったと言えます。
禁門の変:なぜ戦い、どう散ったか
禁門の変(蛤御門の変)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に京都で起こった長州藩と会津・薩摩藩を中心とする幕府側勢力との武力衝突です。
久坂玄瑞はこの戦いに深く関与し、その短い生涯を閉じることとなりました。
この戦いに至る背景と、玄瑞の行動を詳しく見ていきましょう。
八月十八日の政変と長州藩の苦境
禁門の変に至る直接的なきっかけは、前年の文久3年(1863年)8月18日に起きた「八月十八日の政変」です。
この政変により、長州藩は京都守護の任を解かれ、朝廷への影響力を失い、京都から追放されるという屈辱を味わいました。
孝明天皇の意向も背景にあったこのクーデターは、長州藩を中心とする尊王攘夷急進派にとって大きな打撃となります。
玄瑞はこの事態に「いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ」と憤りを隠せませんでした。
長州藩は失地回復を目指し、藩の無実を訴えるため様々な工作を行いますが、事態は好転しませんでした。
進発論の高まりと玄瑞の苦悩
元治元年(1864年)に入ると、長州藩内では失地回復と藩の名誉回復のため、武力をもって京都へ進発すべきであるという「進発論」が急速に高まります。
特に6月に起きた池田屋事件で、多くの長州藩士や尊攘派志士が新選組によって殺害されたことは、藩内の強硬論に火を注ぎました。
この状況に対し、久坂玄瑞は当初、桂小五郎らと共に慎重な立場を取り、武力行使を押し止めようと努めていました。
しかし、薩摩藩の島津久光らが京都を離れたことなどを好機と捉えたのか、玄瑞は突如として進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を要請します。
この心変わりの理由は諸説ありますが、藩内の激高した世論を抑えきれなかった、あるいは何らかの勝算を見出した可能性などが考えられます。
6月4日には長州藩内で進発令が発せられ、玄瑞も来島又兵衛や真木和泉らと共に諸隊を率いて京都へ向かうことになりました。
戦略会議での対立と開戦
7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩の最後の大会議が開かれます。
ここで玄瑞は、朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を再び主張しました。
彼は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない」と述べ、援軍もなく準備も不十分な現状での戦闘開始に反対したのです。
しかし、来島又兵衛は「卑怯者」「医者坊主などに戦争のことがわかるか」と激しく反論し、即時進撃を主張。
最年長の参謀格であった真木和泉が来島に同調したことで、戦闘開始が決定されました。
玄瑞はこの決定に一言も発せず、天王山の陣に戻ったと伝えられており、その胸中には深い絶望があったのかもしれません。
長州藩の兵力は2,000に満たないのに対し、京都を守る諸藩の兵力は2万とも3万とも言われ、戦力差は歴然でした。
鷹司邸での最後の抵抗と自刃
7月19日、戦闘が開始されると、蛤御門を攻めた来島又兵衛隊は薩摩藩兵などの反撃に遭い壊滅、来島自身も戦死します。
遅れて堺町御門方面へ進軍した玄瑞・真木らの隊は、既に来島隊が敗れたことを知りつつも、関白・鷹司輔煕に朝廷への取りなしを求めるため鷹司邸を目指しました。
越前藩兵の守る門を突破し、邸内に侵入した玄瑞は鷹司輔煕に参内への同行と嘆願を要請しますが、輔煕はこれを拒絶し邸から脱出します。
会津藩からの援軍も加わり、鷹司邸は炎上。
万策尽きた玄瑞は、共に自刃しようとする入江九一を「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と説得して逃がそうとします。
しかし、入江も脱出途中で戦死。
最後に残った玄瑞は、寺島忠三郎と共に鷹司邸内で互いに刺し違えて自害しました。
享年25。
志半ばでの無念の死であり、彼の死は長州藩にとっても大きな損失となりました。
若き死:禁門の変におけるその死因
久坂玄瑞は、元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変において、わずか25歳という若さでその生涯を終えました。
彼の死因は戦闘による直接的な戦死ではなく、追い詰められた末の自刃でした。
その最期の状況と背景には、長州藩の苦境と彼自身の絶望が色濃く反映されています。
敗色濃厚な戦局と最後の望み
前述の通り、禁門の変における長州藩の軍事行動は、当初から戦力的に劣勢であり、無謀な戦いと言わざるを得ませんでした。
来島又兵衛らが率いた部隊が早々に壊滅し、戦況は長州藩にとって絶望的なものとなります。
久坂玄瑞は、真木和泉らと共に鷹司邸へ向かいましたが、これは戦闘に勝利するためというよりは、長州藩に同情的であった関白・鷹司輔煕を通じて朝廷に藩の無実と寛大な措置を訴えるという、最後の望みに賭けた行動でした。
しかし、鷹司輔煕は玄瑞の必死の嘆願を拒絶し、邸を脱出してしまいます。
この時点で、玄瑞にとって政治的な解決の道は完全に閉ざされたと言えるでしょう。
炎上する鷹司邸と自決の覚悟
鷹司邸に侵入した長州藩兵でしたが、会津藩や越前藩の兵に包囲され、激しい戦闘となります。
まもなく鷹司邸は炎上し始め、長州兵は逃亡を開始。
玄瑞自身も戦闘中に負傷したとされています。
完全に追い詰められた状況下で、玄瑞は自決の覚悟を固めました。
彼にとって、敵兵に捕らえられて辱めを受けることは耐え難いことであり、武士としての矜持を保つためには自ら命を絶つという選択肢しかなかったのかもしれません。
入江九一への託言と寺島忠三郎との最期
燃え盛る鷹司邸の中で、玄瑞は最後まで共にあった同志・入江九一に対し、「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君(毛利定広)に京都に近づかないように御注進してほしい」と、藩の将来を託す言葉を残し、生き延びるよう促しました。
これは、自らの死を覚悟しつつも、最後まで藩主と長州藩の安危を気にかけていた玄瑞の心情を表しています。
残念ながら、入江九一も邸を脱出する際に越前兵に発見され、討ち死にしてしまいますが、玄瑞の忠誠心を示す逸話として知られています。
そして、玄瑞は同じく松下村塾門下生であった寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて自害を遂げました。
まだ25歳という若さであり、その才能と将来を嘱望されていただけに、あまりにも早すぎる死でした。
彼の遺体は鷹司邸が炎上したため、正確には確認されていないとも言われており、その最期は悲劇的な色彩を一層強めています。
死の背景にあるもの
久坂玄瑞の死因は自刃ですが、それは単なる個人的な絶望から来たものではありません。
八月十八日の政変以降、長州藩が朝敵として追いやられ、藩の名誉回復と失地回復という悲願を背負い、進発論に揺れる藩論の中で苦悩し、最終的に勝ち目の薄い戦いに身を投じなければならなかったという、幕末の激動期の複雑な政治状況が背景にあります。
彼の死は、一個人の死であると同時に、時代の大きなうねりの中で理想と現実の狭間で散った、多くの若き志士たちの悲劇を象徴しているとも言えるでしょう。
その若すぎる死は、長州藩にとって計り知れない損失であり、後の歴史に大きな影響を与えたことは間違いありません。
久坂玄瑞は何した人?人物像と後世への影響

- 辞世の句に込められた無念の想いとは
- 伝わる容姿:久坂玄瑞はイケメンだった?
- 妻・文との結婚と家族、そして子孫
- 坂本龍馬との関係:龍馬に託した書状
- 医者としての久坂玄瑞の一面
- 久坂玄瑞の思想と幕末における位置づけ
辞世の句に込められた無念の想いとは
久坂玄瑞がその短い生涯を閉じるにあたり、彼の胸中に去来したであろう深い無念の想いは、彼が遺したとされるいくつかの言葉からうかがい知ることができます。
特に、彼の作として伝えられる和歌「時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起(ほととぎす ちになくこえは ありあけの つきよりほかに しるひとぞなき)」は、玄瑞の孤独や悲痛な心情を象徴するものとして知られています。
この歌は、禁門の変で自害する3年前、玄瑞が22歳の頃に詠まれたものとされています。
その意味は、「血を吐くように鳴くホトトギスの声(=私の心の叫び)は、夜明けの空に白く残る月以外には、本当に知ってくれる者はいないだろう」というものです。
ここには、自らの抱く危機感や国の将来を憂う切実な想いが、周囲に十分理解されないことへの深い孤独感、そしてその想いを託す相手のいない絶望にも似た感情が込められているように感じられます。
「ほととぎす」は、日本では古来より魂や切ない思いを象徴する鳥として歌に詠まれてきました。
一説には、この歌の背景に「ほととぎすの兄弟」という昔話があり、血を吐くまで鳴き続ける時鳥の姿に、国のために身を削る自身の姿を重ね合わせていたのではないかとも言われています。
国を憂い、変革のために奔走する中で、彼は多くの困難や挫折を経験しました。
師である吉田松陰の刑死、藩論の対立、そして志を同じくする仲間たちとの意見の衝突や別離。
そうした中で、自らの理想と現実との間で苦悩し、時には過激な手段も辞さない覚悟で行動しましたが、その真意が必ずしも周囲に正しく伝わらなかったこともあったでしょう。
「有明の月」だけが知る、という表現は、誰にも打ち明けられない、あるいは理解されることのない深い苦悩や志を象徴しているのかもしれません。
自らの非力さを嘆き、志半ばで倒れることへの無念さ、そして後に続く者たちへの想いが、この一句に凝縮されていると解釈できます。
また、禁門の変で自害する直前、玄瑞は「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」という言葉を残したと伝えられています。
この言葉からは、自らの限界を悟りつつも、残る仲間たちに未来を託そうとする彼の強い意志が感じられます。
25歳という若さで散った彼の生涯を思うとき、この辞世の句や最期の言葉は、単なる個人的な感慨を超えて、幕末という激動の時代に生きた若き志士たちの共通の苦悩や、それでもなお未来を信じようとした切実な願いを私たちに伝えてくれるのです。
彼の抱いた無念の想いは、単に個人的な失意に留まらず、時代そのものが抱えていた大きな課題と、それに対する真摯な取り組みの証であったと言えるでしょう。
伝わる容姿:久坂玄瑞はイケメンだった?
久坂玄瑞について語られる際、その知性や行動力と共に、しばしば彼の容姿についても言及されることがあります。
彼は果たして、現代でいう「イケメン」だったのでしょうか。
残された記録や証言を紐解くと、彼が非常に魅力的な容姿の持ち主であったことがうかがえます。
長身で美声、そして知的な雰囲気
まず、身体的な特徴として、玄瑞は身長が六尺(約180cm)ほどあり、当時としてはかなりの長身であったと伝えられています。
恰幅もよく、堂々とした体躯だったようです。
さらに特筆すべきは、その声です。
非常に大きく、かつ美しい声の持ち主で、詩吟を吟じると人々が聞き惚れたという逸話も残っています。
京都の色街で玄瑞が漢詩を吟じながら歩くと、女性たちが熱狂したとも言われており、その美声は彼の大きな魅力の一つだったのでしょう。
片目は少しすがめ(斜視)であったという記録もありますが、それがかえって知的な憂いを帯びた表情を際立たせていたのかもしれません。
また、色白であったという記述も見られ、これらが総合して、彼が「イケメン」と評される所以となっていると考えられます。
周囲の証言とモテエピソード
実際に玄瑞と接した人物の証言からも、彼の魅力的な風貌が伝わってきます。
例えば、京都の芸妓であった中西君尾は、久坂玄瑞の風采について「中肉にして、背高く、色は黒けれど人品賤しからで、物腰沈着て天晴れ一方の旗頭と見えました」と述べています。
また、同じく君尾の証言として、玄瑞が駕籠で島原を訪れた際、浪人たちに絡まれそうになったものの、「私は長州の久坂ぢゃが貴公等は誰かな」と駕籠の中から落ち着いて声をかけると、浪人たちが驚いて逃げ去ったというエピソードがあります。
この話からは、玄瑞の容姿だけでなく、その名声や胆力が周囲に与える影響の大きさがうかがえます。
島原の駕籠かきが「久坂さんを乗せている程安心なことはありません」と言ったというのも、彼の存在感と信頼感を示すものでしょう。
肖像画についての注意点
今日、久坂玄瑞の肖像画としてよく知られているものは、実は玄瑞本人ではなく、彼の遺児である久坂秀次郎をモデルに描かれたものであるという説が有力です。
このため、私たちが目にする肖像画が、玄瑞自身の容貌を正確に伝えているわけではない可能性が高いことに注意が必要です。
松下村塾最後の生き残りであった渡辺蒿蔵は、この肖像画を見て玄瑞ではないと断定したとされています。
しかし、この肖像画が玄瑞の容貌を伝える唯一のものとして広まっているのも事実です。
もしこの秀次郎が父・玄瑞の面影をいくらかでも受け継いでいたとすれば、玄瑞もまた精悍で知的な顔立ちの人物だったのかもしれません。
このように、様々な記録や証言から、久坂玄瑞が長身で美声、そして知的な雰囲気を漂わせた魅力的な人物であったことは間違いなさそうです。
単に容姿が整っていたというだけでなく、その立ち居振る舞いや言動、そして内面から滲み出る知性や気迫が、人々を惹きつける「イケメン」としての評価につながったのではないでしょうか。
妻・文との結婚と家族、そして子孫
久坂玄瑞の私生活において、妻である文(ふみ、後の楫取美和子)との関係は、彼の人間的な側面を垣間見せる上で非常に興味深いものです。
また、彼の死後、久坂家がどのように受け継がれていったのか、その子孫についても触れておきましょう。
吉田松陰の妹・文との結婚
文は、玄瑞の師である吉田松陰の三番目の妹です。
二人の結婚は、安政4年(1857年)、玄瑞が18歳、文が15歳の時でした。
この縁談は、松陰自身が玄瑞の才能と人柄を見込み、妹を託すにふさわしい人物として強く推し進めたものとされています。
天涯孤独であった玄瑞を気遣い、家族として迎え入れたいという松陰の温かい配慮もあったのかもしれません。
しかし、この結婚には有名な逸話が残っています。
仲人の中谷正亮から縁談を持ちかけられた際、玄瑞は「あねえなブスはわしの好みじゃない」と文の容姿を理由に一度は断ったと言われています。
これに対し中谷が「お前は結婚相手をルックスで選ぶそ? つまらん男じゃのぉ」と一喝したことで、玄瑞は翻意し結婚に至ったとされます。
このエピソードの真偽は定かではありませんが、当時の結婚が必ずしも恋愛感情だけを基盤とするものではなかったことを示唆しているとも言えます。
また、玄瑞が若くして多感な時期であったことや、照れ隠しであった可能性も考えられるでしょう。
結婚後、二人は松陰の実家である杉家で新婚生活を始めましたが、玄瑞は結婚からわずか2ヶ月後には江戸へ遊学するなど、国の将来を憂う活動に身を投じていくため、夫婦が共に過ごす時間は非常に限られていました。
夫婦関係と文の想い
玄瑞と文の夫婦関係について、玄瑞が文に対して熱烈な愛情表現をしたという記録は多くありません。
残された手紙の文面も、やや事務的なものが多いとされています。
しかし、これは当時の武士階級の夫婦関係としては一般的なものであり、必ずしも愛情が薄かったことを意味するものではありません。
一方、文は夫である玄瑞を深く愛し、生涯慕い続けたと言われています。
玄瑞亡き後、彼の遺した手紙を大切に保管し、『涙袖帖(るいしゅうちょう)』としてまとめたほどです。
この『涙袖帖』は、文が後に楫取素彦(小田村伊之助)と再婚する際にも手元に置き、晩年まで読み返していたと伝えられており、夫への変わらぬ想いの深さを物語っています。
玄瑞が京都で活動していた際には、京の芸妓・辰路(たつじ)との間にも交流があり、後に触れるように二人の間には子供も生まれていますが、文はそうした事実も含めて、夫の全てを受け止めようとしていたのかもしれません。
久坂家の子孫
久坂玄瑞と妻・文の間には実子はいませんでした。
そのため、玄瑞は文の姉・寿(ひさ)とその夫であった小田村伊之助(後の楫取素彦)の次男である粂次郎(くめじろう)を養子として迎え、久坂家を継がせることにしていました。
しかし、玄瑞の死後、事態は変化します。
実は玄瑞には、前述の京都の芸妓・辰路との間に子が生まれていました。
この子は玄瑞の死後に生まれた秀次郎(ひでじろう)で、明治維新後に申し出があり、久坂家によって認知されました。
そして、この秀次郎が久坂家の家督を継ぐことになったのです。
秀次郎は後に大倉組の台湾基隆支社で勤務したとされています。
一方、養子であった粂次郎は実父である楫取素彦のもとに戻り、楫取道明(かとりみちあき)と名を改めました。
道明は後に台湾で教育者として活動しますが、芝山巌事件に巻き込まれ殺害されてしまい、「六氏先生」の一人として祀られています。
興味深いことに、道明の実母・寿の死後、父・楫取素彦は玄瑞の妻であった文(美和子と改名)と再婚しています。
このように、久坂玄瑞の子孫の物語は、幕末から明治にかけての複雑な人間関係と時代の変遷を色濃く反映していると言えるでしょう。
坂本龍馬との関係:龍馬に託した書状
幕末の風雲児として名高い坂本龍馬と、長州藩の若き俊英・久坂玄瑞。
直接的な活動の舞台や期間は必ずしも重なるわけではありませんが、両者の間には確かな接点があり、特に玄瑞が龍馬に託した一通の書状は、当時の志士たちの思想や危機感を伝える貴重な資料となっています。
文久2年の出会い
坂本龍馬と久坂玄瑞が直接顔を合わせたのは、文久2年(1862年)正月14日のことでした。
当時、剣術修行の名目で土佐を出ていた龍馬は、土佐勤王党の盟主・武市半平太の書簡を携えて、長州藩の萩にいた玄瑞を訪ねています。
この訪問の目的は、武市からの書簡を届けると共に、長州藩の尊攘派の中心人物である玄瑞と今後の時局について意見を交換することにあったと考えられます。
玄瑞の記録によれば、この時、薩摩藩の尊攘派からの使者も萩を訪れており、各藩の志士たちが連携を模索し始めていた時期であったことがうかがえます。
龍馬は玄瑞と「腹蔵無くご談合つかまつり候頃」とあるように、率直な意見交換を行ったようです。
龍馬に託された武市半平太宛の書状
この萩での会談の後、玄瑞は坂本龍馬に一通の書状を託します。
宛先は土佐の武市半平太でした。
この書状は現存しており、その内容は玄瑞の当時の思想や時局認識、そして来るべき変革への強い意志を生々しく伝えるものです。
書状の中で玄瑞は、まず「結局、諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候」と述べています。
これは、既存の藩主や公家といった支配層に頼るのではなく、在野の志士たちが身分を超えて団結し、義挙を起こすしかないという、吉田松陰の「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」に強く影響された考え方です。
さらに、「失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず。両藩共存し候とも、恐れ多くも皇統綿々、萬乗の君のご叡慮相貫き申さずしては、神州に衣食する甲斐はこれ無きかと、友人共申し居り候事に御座候」と続け、藩という枠組みを超え、日本の国体、皇室の尊厳を守るという大義のためには、自藩の滅亡すら厭わないという過激とも言える決意を表明しています。
このような玄瑞の強い危機感と覚悟は、龍馬に大きな影響を与えた可能性があります。
事実、龍馬はこの書状を土佐に持ち帰った約2ヶ月後の3月24日に脱藩しており、この書状がその決断の一因となったのではないかという説もあるほどです。
書状が示すものと龍馬への影響
玄瑞が龍馬に託したこの書状は、単なる私信に留まらず、当時の尊王攘夷派の志士たちが抱いていた共通の危機意識や行動原理を示す重要な歴史的資料と言えます。
「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず」という言葉は、旧体制への絶望と、新たな主体による変革への渇望を端的に表しています。
また、「草莽志士糾合義挙」という思想は、後の薩長同盟や大政奉還といった、身分や藩閥を超えた連携による変革を予感させるものでもあります。
坂本龍馬がこの書状を読み、玄瑞の熱い思いに触れたことが、彼のその後の行動、特に土佐藩という枠を超えて全国を舞台に活躍するきっかけの一つになったとしても不思議ではありません。
直接的な交流の機会は限られていたかもしれませんが、この一通の書状を通じて、久坂玄瑞の思想と情熱は、間違いなく坂本龍馬という稀代の風雲児に何らかの形で伝播し、幕末の歴史を動かす一つの力となったと言えるのではないでしょうか。
医者としての久坂玄瑞の一面
久坂玄瑞は、幕末の激動期に尊王攘夷の志士として名を馳せましたが、その原点は医者の家系にあり、彼自身も医学を修めた人物でした。
彼の思想や行動の背景には、医者としての知識や人間観が少ならず影響していたと考えられます。
藩医の家系と医学修業
久坂玄瑞は天保11年(1840年)、長門国萩平安古本町で萩藩医・久坂良迪(くさか りょうてき)の三男として生まれました。
次男は早世していたため、実質的には二男です。
幼い頃から学問に親しみ、城下の私塾であった吉松塾で四書の素読を学び、その後、藩の医学所である好生館に入学して本格的に医学を修め始めます。
玄瑞が14歳から15歳にかけての短期間に母、兄、そして父を次々と亡くし天涯孤独の身となった後、彼は15歳で久坂家の当主となり、医者として頭を剃り名を玄瑞と改めました。
この時、彼は若くして一家を背負い、藩医としての道を歩むことを決意したのです。
17歳の時には、成績優秀者が藩費で寄宿舎に入れる制度を利用し、好生館の居寮生となるなど、医学の道に真摯に取り組んでいたことがうかがえます。
兄である久坂玄機(げんき)もまた優れた医師であり、緒方洪庵の適塾で学び、長崎へも留学して西洋医術を修め、早くから種痘の有効性に目をつけ導入を図った人物でした。
兄の存在も、玄瑞の医学への関心や知識に影響を与えたことでしょう。
医学知識と西洋への関心
玄瑞が松下村塾に入門し、吉田松陰の下で国事を論じるようになっても、彼の医学的素養が失われたわけではありませんでした。
むしろ、当時の日本が直面していた内外の危機に対し、医者が人の体を診て病の原因を探り治療するように、国のあり方を診断し、その病弊を正そうとしていたのかもしれません。
彼の尊王攘夷思想も、外国勢力という「病原」から日本という「体」を守り、健全な状態に戻そうとする一種の治療法であったと捉えることもできるでしょう。
また、玄瑞は西洋の知識や技術に対しても一定の関心と理解を持っていたことがうかがえます。
文久2年(1862年)12月、玄瑞は信州の佐久間象山を訪ねています。
これは象山を長州藩に招聘するためでしたが、象山は辞退しました。
しかし、この滞在中に象山から受けた助言は、玄瑞にとって非常に有益なものであったようです。
翌文久3年(1863年)の正月に、玄瑞がこの助言を藩主に詳しく説明したことがきっかけとなり、伊藤俊輔(博文)や井上聞多(馨)らが藩費でイギリスへ留学することになりました。
これは、玄瑞が単に攘夷を叫ぶだけでなく、将来を見据えて西洋の進んだ知識や技術を学ぶ必要性を認識していたことを示しています。
医者としての知識は、人体だけでなく、社会や国家という組織の構造や機能、そしてその病理を理解する上でも役立ったのかもしれません。
医者としての視点と行動原理
玄瑞が九州遊学の際に宮部鼎蔵と外交問題を論じ、共にアメリカの横暴に立ち向かおうと意気投合したことや、吉田松陰に最初に送った手紙で過激な攘夷論を述べたことなども、単なる若さ故の血気にはやる感情だけでなく、国の「病状」に対する強い危機感と、それを治療しなければならないという医者にも似た使命感から来ていた可能性があります。
彼が長井雅楽の「航海遠略策」に反対した際、経済的観点から「今の通商は亡国への道である。売るものがなく、買うばかりの一方的な貿易で年々多くの国幣を失っている。物価は高騰し、国民は塗炭の苦しみの中にある」と述べたのも、国民の窮状を憂う医者のような視点と言えるでしょう。
久坂玄瑞の生涯は、志士としての活動が前面に出がちですが、その根底には医者として培われた知識、観察眼、そして人々の苦しみを救いたいという思いがあったのではないでしょうか。
彼の行動や思想を理解する上で、この「医者としての一面」は決して見過ごすことのできない重要な要素です。
久坂玄瑞の思想と幕末における位置づけ
久坂玄瑞は、幕末という激動の時代において、その短い生涯を尊王攘夷運動に捧げた長州藩の志士です。
彼の思想は、師である吉田松陰から深く影響を受けつつも、独自の発展を遂げ、幕末の政局に大きな影響を与えました。
そして、彼の名は維新史において、過激な行動力と先鋭的な思想を持った指導者の一人として記憶されています。
吉田松陰の思想の継承と発展
久坂玄瑞の思想の根幹には、吉田松陰の教えがあります。
松陰が唱えた「一君万民論(天皇の下では全ての民は平等であるという考え)」や、幕府や諸藩の権威よりも天皇を絶対視する尊王論、そして外国の脅威から日本を守るための攘夷論は、玄瑞の行動の指針となりました。
特に松陰刑死後、玄瑞はその遺志を継ぐことを自らの使命とし、松陰の思想を広め、実践に移すことに全力を注ぎます。
文久2年(1862年)に藩主に提出した『廻瀾條議』や、全国の志士に向けて書いた『解腕痴言』は、彼の尊王攘夷思想を具体的に示したものです。
そこでは、単に外国を打ち払うというだけでなく、幕府の失政を厳しく批判し、朝廷を中心とした新たな国家体制の必要性を説いています。
これは、松陰の思想を継承しつつ、より具体的に倒幕という目標を視野に入れたものへと発展させたと言えるでしょう。
また、坂本龍馬に託した書状の中で「草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」と述べているように、松陰の「草莽崛起論」の影響も色濃く見られます。
過激な攘夷論と行動力
玄瑞の尊王攘夷思想は、時に過激な行動として現れました。
文久2年(1862年)のイギリス公使館焼き討ちや、文久3年(1863年)の下関における外国船砲撃(下関戦争)などはその代表例です。
これらの行動は、国際的な紛争を引き起こす危険性を孕んでおり、必ずしも全ての志士から支持されたわけではありませんでした。
しかし、玄瑞にとっては、日本の独立を守り、天皇中心の国家を樹立するためには、断固たる態度で外国勢力と対峙し、幕府の弱腰を正す必要があるという信念に基づいたものでした。
彼のこうした直接的で大胆な行動力は、多くの若い志士たちを惹きつけ、尊王攘夷運動を加速させる原動力となった一方で、藩内外の穏健派との対立を生む原因ともなりました。
幕末における位置づけと評価
幕末の志士たちの中で、久坂玄瑞は長州藩における尊王攘夷派の理論的指導者であり、かつ実践的行動者として極めて重要な位置を占めています。
松下村塾の門下生たちを思想的に結束させ(一灯銭申合など)、藩論を公武合体から尊王攘夷へと転換させる上で中心的な役割を果たしました。
また、他藩の志士たちとも積極的に交流し、藩の枠組みを超えた尊攘派の連携を模索しました。
高杉晋作とは「松下村塾の双璧」と称され、互いに刺激し合いながら長州藩を牽引しましたが、その戦略や行動様式には違いも見られました。
木戸孝允(桂小五郎)は、「わが長州藩で早くから気骨を高めたのは吉田松陰の徒を第一とするが、実際運動に身を挺せること久坂玄瑞に如く者は一人もいない」と高く評価しており、彼の行動力を特筆しています。
また、西郷隆盛は維新後、「久坂先生が生きちょられたなら、おいどんらは互いに参議などと威張ってへられんやろう」と語ったと伝えられ、その才能と影響力を認めていました。
中岡慎太郎も「第一卓見なる者を久坂玄瑞と云う」と評しています。
しかし、その急進的な思想と行動は、結果として八月十八日の政変を招き、禁門の変での敗北と自刃という悲劇的な結末を迎えました。
25歳という若すぎる死は、彼自身の無念であったと同時に、維新回天の事業にとっても大きな損失であったと言えるでしょう。
久坂玄瑞の思想と行動は、幕末という時代の矛盾と可能性を象徴しており、彼の名は日本の歴史が大きく転換する上で欠かすことのできない人物として、今日まで語り継がれています。
彼の純粋な情熱と国を憂う心は、後の明治維新を成し遂げる原動力の一つとなったのです。
久坂玄瑞は何をした人なのか?その人物像と功績をわかりやすく総まとめ
久坂玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩で活躍した志士であり、吉田松陰の高弟として知られています。25歳という若さで自刃したものの、その短い生涯で成し遂げたことや残した影響はとても大きなものでした。ここでは、久坂玄瑞が「何をした人なのか?」をわかりやすく箇条書きでまとめてみます。
- 松下村塾で吉田松陰の思想に触れ、尊王攘夷の信念を深めた
- 松陰と激しい書簡の応酬を重ねた末に弟子入りし、その才能を認められる
- 高杉晋作と並び「松下村塾の双璧」と称されるほどの俊才だった
- 松陰の妹・文(ふみ)と結婚し、義理の弟となる
- 長州藩の藩論を尊王攘夷へと導いた中心人物の一人
- 土佐の坂本龍馬と直接会談し、思想的な影響を与えた
- イギリス公使館を焼き討ちし、攘夷の実行に踏み切った
- 下関で外国船に砲撃を加える(下関戦争)など、実行力のある攘夷運動を展開
- 政治的な働きかけにも注力し、藩主に意見を述べるなど積極的に行動
- 京都の鷹司邸で最期を迎える際も、藩の将来を憂いながら自刃
- 享年25歳という若さでありながら、藩内外から「長州の俊才」と称された
- 辞世の句や詠んだ歌には、深い無念や孤独感がにじむ
- 医者の家系に生まれ、自らも藩医として学問を積んでいた一面も
- 高身長で声も良く、「イケメン」として人気が高かったとされる
- 死後もその思想や行動は高杉晋作や伊藤博文らに受け継がれ、明治維新の礎となった
久坂玄瑞は、わずかな年月で数えきれないほどの働きを残した人です。「何をした人?」という疑問を持った方にとっては、幕末という激動の時代を真剣に駆け抜けた志士として、ぜひ知っておきたい存在だと言えるでしょう。
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