孝謙天皇は、奈良時代に在位した日本で6人目の女性天皇です。
聖武天皇と光明皇后の間に生まれ、阿倍内親王として育ちました。
日本史上初の女性皇太子となり、749年に即位。
一度譲位した後、764年に重祚し称徳天皇となりました。
仏教の隆盛に尽力する一方、僧侶・道鏡を重用したことで政教一致の弊害をもたらしたとも言われています。
わずか53年の生涯でしたが、その波乱に満ちた人生は、奈良時代の政争の渦中にあった孝謙天皇の苦悩と献身を物語っています。
- 孝謙天皇の生い立ちと即位までの経緯
- 仏教興隆に尽くした孝謙天皇の功績
- 藤原仲麻呂との対立と重祚の理由
- 道鏡との関係と政教一致の弊害
孝謙天皇とは何をした人なのか?その生涯を解説
孝謙天皇の生涯とプロフィール
孝謙天皇は、第45代聖武天皇と光明皇后(藤原氏出身)の娘として生まれました。
その名は阿倍内親王(あべないしんのう)といい、718年から770年まで生きた奈良時代の天皇でした。
ちなみに阿倍という諱は、阿倍氏に養育されたことに由来するそうです。
孝謙天皇は日本で初めての女性皇太子となり、749年に即位。
758年に一度譲位しますが、764年に重祚(再び即位すること)し、称徳天皇となりました。
重祚後は、道鏡という僧侶を重用し、親密な関係を築きます。
しかし770年、53歳で崩御。
天武天皇の血を引く最後の天皇となりました。
日本初の女性皇太子となり即位した孝謙天皇
聖武天皇と光明皇后の間には、なかなか男子が生まれませんでした。
そこで、娘の阿倍内親王が738年、日本で初めての女性皇太子に立てられます。
これは中国の則天武后の例に倣ったものでした。
そして749年、聖武天皇の譲位を受けて即位。
日本で6人目の女帝となりました。
即位に際しては、4文字の年号「天平勝宝(てんぴょうしょうほう)」が用いられています。
これも則天武后が4文字年号を使った例に倣ったのかもしれません。
即位当初は、両親である聖武上皇と光明太皇太后が後見し、藤原仲麻呂が実権を握りました。
仏教興隆に尽力した孝謙天皇の治世
孝謙天皇は父・聖武天皇と同じく、篤い仏教信仰で知られます。
752年には東大寺の大仏開眼供養に臨席。
754年には唐からの僧・鑑真から受戒しています。
764年の恵美押勝の乱後は、西大寺建立を発願。
さらに100万基もの小塔に陀羅尼経を納める百万塔陀羅尼の事業を行いました。
このように、奈良仏教の隆盛に大きく貢献したのです。
ただし、道鏡を重用したことで、政教一致の弊害も生じました。
光明皇后との親子愛に支えられた孝謙天皇
孝謙天皇の母・光明皇后は、初の臣下出身の皇后でした。
我が子を皇太子にするため、則天武后の例を引いて正当性を主張。
孝謙天皇即位後も、紫微中台(しびちゅうだい)という后の政治機関を通じ、娘の政治をサポートしました。
母后の愛情は、孝謙天皇にとって大きな支えだったことでしょう。
しかし760年、光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と道鏡の関係が深まり、政情は不安定になっていきます。
藤原仲麻呂との関係と恵美押勝の乱
孝謙天皇の治世では、母方の叔父にあたる藤原仲麻呂が、紫微中台の長官として大きな権力を振るいました。
しかし、光明皇太后崩御後は孝謙上皇と対立するようになります。
764年、仲麻呂は怒りをあらわにして「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」を起こします。
ところが孝謙上皇側の軍勢に敗れ、仲麻呂は殺害されました。
乱後、孝謙上皇は道鏡を重用。僧侶の政治介入が進むことになります。
孝謙天皇が重祚したのはなぜ?
孝謙天皇が重祚(ちょうそ)した、つまり一度譲位した天皇位に再び就いたのは、藤原仲麻呂の乱に勝利し、政治的実権を取り戻すためでした。
764年、孝謙上皇は仲麻呂を討ち、淳仁天皇を廃位に追い込みます。
そして自ら称徳天皇として即位したのです。
重祚の目的は、皇統の正当性を示し、道鏡を重用して政治を行うことにありました。
これにより孝謙上皇は、道鏡との二頭体制で専制的な政治を進めることになります。
称徳天皇となった孝謙天皇 – 道鏡との関係と最期
孝謙天皇が称徳天皇として重祚
藤原仲麻呂の乱に勝利した孝謙上皇は、764年10月、称徳天皇として重祚しました。
淳仁天皇を廃し、皇太子も置かず、道鏡を重用した専制政治を行ったのです。
重祚の目的は、藤原仲麻呂一派を排除し、皇統の正統性を示すことにありました。
これにより道鏡との二頭政治が始まることになります。
ちなみに「称徳」とは、道鏡の徳を称えるという意味合いがあるようです。
道鏡を重用し、親密な関係を築いた孝謙天皇
孝謙天皇は761年の病で、道鏡の看病を受けたことをきっかけに、道鏡を寵愛するようになりました。
道鏡は次第に政治にも介入。
765年には僧でありながら太政大臣禅師に任じられ、766年には法王とまでなりました。
道鏡は称徳天皇の信頼を背景に、写経所を強引に動かすなどの専横ぶりを見せます。
仏教を隆盛させる一方、政教一致の弊害が目立つようになったのです。
ただ称徳天皇にとっては、晩年を支えてくれる心の拠り所だったのかもしれません。
宇佐八幡神託事件と道鏡の野望
道鏡の野望は、ついには皇位継承にまで及びました。
769年、宇佐八幡宮からの「道鏡こそ次期天皇にふさわしい」との神託が下ります。
道鏡はこの神託を後ろ盾に、皇位を狙ったのです。
しかし朝廷は道鏡の皇位継承に反発。
和気清麻呂が宇佐に赴き、神託は偽りであると報告しました。
怒った称徳天皇は、清麻呂を大隅国に流罪に処しています。
このように道鏡の専横は、反発を招くようになっていったのです。
孝謙天皇(称徳天皇)の死因と最期
770年3月、称徳天皇は病に倒れ、8月4日に崩御しました。
享年53歳。
この間、道鏡は天皇に会うことができず、道鏡の権力は急速に衰えていきます。
その死因は不明ですが、亡くなるにあたり、後継者の遺詔(生前に死後のことについて指示した詔)を残したという話もあります。
ただ、実際は側近たちによる話し合いで、光仁天皇が即位したとされています。
崩御とともに、道鏡は下野国に追放され、権力の座から転落しました。
天武系最後の天皇となった孝謙天皇の意義
孝謙天皇は天武天皇の血を引く最後の天皇となりました。
その治世は、仏教の隆盛と母后の愛情に支えられた一方、道鏡との政教一致が禍根を残すものでもありました。
しかし日本初の女性皇太子から即位し、譲位・重祚を経験した孝謙天皇の生涯は、奈良時代の政争渦巻く時代相を映し出すものでもあります。
権力闘争の中で揺れつつも、仏教の力で国家の安寧を願った孝謙天皇。
その功績と教訓は、現代にも通じるものがあるのではないでしょうか。
孝謙天皇(称徳天皇)は何をした人?重祚したのはなぜ?道鏡との関係は?まとめと総括
孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘として生まれ、日本初の女性皇太子から即位した奈良時代の天皇です。
母后の愛情に支えられながら、仏教の隆盛に尽力し、東大寺大仏開眼供養や西大寺建立など、多くの功績を残しました。
しかし、藤原仲麻呂との対立から一度譲位し、道鏡を重用して政教一致の政治を進めたことで混乱を招くことにもなりました。
再び即位し称徳天皇となりますが、道鏡の皇位継承の野望が失敗に終わったことで、孝謙天皇の晩年は苦難の連続でした。
わずか53年の生涯でしたが、その治世は奈良時代の政争渦巻く時代相を映し出すものであり、現代にも通じる教訓を残しています。
権力闘争に翻弄されながらも、仏教の力で国家の安寧を願った孝謙天皇の生き様は、今なお多くの人々の心を打つものがあるでしょう。
- 孝謙天皇は、第45代聖武天皇と光明皇后の娘である
- 本名は阿倍内親王で、阿倍氏に養育された
- 日本で初めての女性皇太子となり、749年に即位した
- 758年に一度譲位し、764年に重祚して称徳天皇となった
- 天武天皇の血を引く最後の天皇である
- 即位に際し、中国の則天武后にならって4文字年号を用いた
- 即位当初は、聖武上皇と光明太皇太后の後見を受けた
- 藤原仲麻呂が実権を握っていた
- 東大寺大仏開眼供養に臨席し、唐の僧・鑑真から受戒した
- 奈良仏教の隆盛に尽力し、西大寺建立や百万塔陀羅尼の事業を行った
- 母・光明皇后の愛情に支えられていた
- 藤原仲麻呂が起こした乱を鎮圧し、淳仁天皇を廃位に追い込んだ
- 重祚後、道鏡を重用し、親密な関係を築いた
- 道鏡は太政大臣禅師や法王となり、政治に介入した
- 宇佐八幡宮からの神託を受けた道鏡は、皇位を狙った
- 和気清麻呂が神託の偽りを暴き、道鏡の野望は失敗に終わった
- 770年、53歳で崩御した
- 孝謙天皇の治世は、仏教の隆盛と政教一致の弊害が混在していた