【詳細解説】皇極天皇(斉明天皇)は何をした人?簡単にわかりやすく紹介

皇極天皇(斉明天皇)とは、飛鳥時代の第35代と第37代になった女性天皇です。
舒明天皇の妃となり、その死後に即位しました。大化の改新を推進し、百済救援のために九州に赴きましたが、そこで病没しました。
この記事では、皇極天皇が何をした人なのか、その生涯と業績について紹介します。

目次

皇極天皇は何をした人?飛鳥時代の女性天皇の生涯と業績

どんな人?飛鳥時代の政治と文化に影響を与えた女性天皇

皇極天皇は、飛鳥時代の政治と文化に大きな影響を与えた女性です。
彼女は、中国の隋や唐との交流を積極的に行い、仏教や文化の導入に努めました。

また、大化の改新の中心人物であり、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足とともに、蘇我氏の権力を打倒し、天皇中心の政治体制を確立しました。
さらに、百済救援のために自ら九州に赴き、その地で病没しました。彼女は、推古天皇に続いて史上2人目の女性天皇であり、天智天皇や天武天皇などの母親にあたります。

舒明天皇との関係は?

皇極天皇は、はじめ高向王と結婚していましたが、37歳のときに舒明天皇の妃となりました。
舒明天皇は、推古天皇のあとを継ぎ、推古天皇の死後に即位しました。

舒明天皇と皇極天皇の間には、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)などの子女をもうけました。
舒明天皇は、蘇我蝦夷の推挙により天皇に即位したこともあり、政治の実権は蘇我蝦夷が握っていたといわれています。
舒明天皇の死後、皇極天皇は、蘇我氏の支持を得て、天皇に即位しました。

皇極天皇のしたことは?

中大兄皇子との関係は?

皇極天皇と中大兄皇子は、母子の関係であり、中大兄皇子は後の天智天皇となります。
中大兄皇子は、皇極天皇と舒明天皇の皇子であり、幼少の頃から聡明であったといいます。

中大兄皇子は、皇極天皇を後ろ盾にして大化の改新を推進し、蘇我氏の権力を打倒しました。
また、百済救援のために九州に赴き、そこで皇極天皇が病没した後に、皇位を継承しました。
中大兄皇子は、天智天皇として、天皇中心の政治体制を確立し、文化や学問の振興に努めました。

重祚の理由はなぜ?

皇極天皇は、2度天皇になりました。(皇極天皇と斉明天皇)
天皇が一度皇位を退き、後に再び皇位につくことを重祚といいます。

皇極天皇の重祚の理由は、在位中に起きた大化の改新が理由でした。
大化の改新による政治改革に伴い、一度は天皇の位を

皇極天皇は、孝徳天皇に皇位を譲りました。しかし、孝徳天皇は、短命で即位後数年で崩御してしまいます。
皇極天皇は、孝徳天皇の崩御後に、再び皇位につくことになりました。このときに、皇極天皇は「斉明天皇」と名乗りました。

皇極天皇に関する史跡

陵(古墳)は?

皇極天皇の陵は、奈良県高市郡にある「斉明天皇陵」です。
ここには、皇極天皇の娘である間人皇女も合葬されていますし、8歳で亡くなった孫の健王も自分の陵に埋葬するよう、皇極天皇が遺言を残したと伝えられています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次