甲午農民戦争をわかりやすく|きっかけ・指導者・結果・日清戦争との関係も簡単に解説

甲午農民戦争

朝鮮の近代史を学ぶうえで欠かせない出来事のひとつが「甲午農民戦争」です。
とはいえ、「甲午農民戦争ってそもそも何?」「なぜ起きたの?」「どことどこの国が関わったの?」と、疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。

特に「甲午農民戦争 わかりやすく」と検索している方の多くは、教科書だけではつかみにくい背景や流れを、簡単に理解したいと感じているはずです。
また、きっかけとなった出来事や、指導者である全琫準(チョン・ボンジュン)についても知りたい方が多いでしょう。

この記事では、甲午農民戦争がなぜ起きたのか、どこで発生したのかといった基本情報から、清と日本の対立構造、そして結果的にどう結末を迎えたのかまでを、簡単に整理して解説していきます。
あわせて、この戦争が日清戦争へとつながっていく歴史的背景もわかりやすく取り上げています。

複雑に感じる朝鮮半島の歴史も、ポイントをおさえて読み進めれば決して難しくありません。
このリード文を読んで興味を持っていただけた方は、ぜひ本文もチェックしてみてください。

この記事を読むとわかること

  • 甲午農民戦争のきっかけや発生した場所
  • 指導者・全琫準とはどんな人物か
  • どことどこの国が関与し、なぜ出兵したのか
  • 甲午農民戦争の結果と日清戦争との関係
目次

甲午農民戦争をわかりやすく解説します

甲午農民戦争1
  • 甲午農民戦争のきっかけは何だったのか
  • 農民たちが抱えていた不満とは?
  • 東学とは何か?宗教的背景を簡単に
  • 指導者・全琫準とはどんな人物か
  • どこで起きた?朝鮮半島の地理を整理

甲午農民戦争のきっかけは何だったのか

甲午農民戦争のきっかけは、朝鮮王朝における地方行政の腐敗と、それに対する民衆の怒りが爆発したことにあります。1894年、朝鮮南西部の全羅道古阜郡で、郡守による不正行為が発覚したことが、最初の引き金となりました。

この地域では、郡役人の趙秉甲が水税を横領していたとされ、その被害を受けた農民たちは、上官に直訴するという手段に出ました。しかし、その訴えが受け入れられるどころか、逆に訴えた農民が投獄されるという理不尽な結果となってしまいます。この一件は、多くの民衆にとって「政府は自分たちを守ってくれない」という強い不信感を確信に変える出来事でした。

その背景には、当時の李氏朝鮮の統治機構が著しく機能不全に陥っていたことが関係しています。特に地方では、役人の私利私欲が行政を歪めており、民衆の声はほとんど届かない状況が続いていました。このような状態の中で、農民たちは「このままでは生活が成り立たない」と感じ、最終的に武装蜂起という手段に踏み切ったのです。

また、きっかけとなる事件の直後には、東学という民間宗教の幹部たちが動き出しました。農民たちの不満を集約し、組織的な行動へと導いたのです。単なる一地域での暴動が、朝鮮全土へと波及する「戦争」へと発展していった背景には、こうした宗教的・社会的な下地がありました。

つまり、甲午農民戦争は、単なる偶発的な事件ではなく、長年にわたる政治の腐敗と、民衆の抑圧が蓄積された結果として起きたものであると言えるでしょう。そして、その火種に火をつけたのが、古阜郡での地方役人の不正だったのです。

農民たちが抱えていた不満とは?

甲午農民戦争を引き起こした農民たちの不満は、多岐にわたります。まず第一に挙げられるのが、過重な税負担です。当時の李氏朝鮮政府は財政難に苦しんでおり、その穴埋めを民衆、特に農民からの徴税で賄おうとしていました。

このような状況下で、農民たちは収穫の多寡に関係なく重税を課されるばかりか、その徴収過程でも不正が横行していました。地方役人は税を名目に賄賂を要求したり、必要以上の収奪を行ったりすることが珍しくなかったのです。こうした不正を訴えても、役人同士の癒着により是正されることはほとんどありませんでした。

さらに、旱魃や飢饉といった自然災害が重なり、農民の生活は極端に困窮していました。そこに追い打ちをかけるように、開国によって朝鮮に進出してきた日本や清の商人たちが穀物を買い占め、物価が高騰します。農民は自らが育てた米を安く買い叩かれ、高値で買い戻さなければならないという二重の苦しみに晒されました。

また、政治的にも閉塞感が強まっていた時代でした。政府は改革を叫びながらも具体的な改善を進めることができず、民意を無視した統治を続けていました。とくに閔妃政権による国家予算の浪費や、宗教への偏重が財政悪化を招いたという批判が強まっていたのです。

こうした複数の要因が積み重なり、農民たちは「このままでは生きていけない」という切迫した思いに至りました。そして、自らの生活と尊厳を守るために、組織的な抵抗運動へと進んでいくことになります。甲午農民戦争は、そうした抑圧された人々の最後の手段だったとも言えるのです。

東学とは何か?宗教的背景を簡単に

東学とは、19世紀中頃に朝鮮で誕生した新興宗教であり、その思想と組織が甲午農民戦争の中核を担いました。この宗教は、1860年に崔済愚(チェ・ジェウ)という思想家によって創始されました。

東学という名前には、西洋から入ってきたキリスト教=西学に対抗し、朝鮮独自の伝統や思想=東の学問を守ろうという意味が込められています。教義としては、儒教・仏教・道教などの要素を融合しながら、すべての人間は平等であり、真理に至る道は誰にでも開かれていると説きました。

特徴的なのは、難解な哲学を持ち出すのではなく、「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」という13文字の呪文を唱えることで救済が得られるという実践的な信仰形態です。このシンプルさゆえに、東学は短期間で農民や下層階級に急速に広まりました。

しかし、既存の権力構造にとって、東学の「人は平等である」という教えは極めて脅威的でした。身分制度に根差した両班(ヤンバン)社会にとって、東学の思想は体制そのものを揺るがすものだったのです。このため、東学は早い段階から「邪教」として弾圧の対象とされ、多くの信徒が不当な扱いを受けてきました。

また、東学の支持者たちは、外国勢力への強い反発も抱いていました。西洋や日本の商人による経済的な圧迫が進む中、「斥洋斥倭(西洋人と日本人を追い出せ)」というスローガンが登場するのもこの流れの一環です。

こうして東学は、宗教であると同時に、抑圧された民衆が自らの権利を取り戻すための思想的基盤ともなっていきます。甲午農民戦争は、単なる経済反乱ではなく、東学という思想運動が導いた社会変革の試みでもあったのです。

指導者・全琫準とはどんな人物か

甲午農民戦争の指導者である全琫準(チョン・ボンジュン)は、単なる武装指導者ではなく、農民たちの信頼を集めた人物でした。彼の存在なくして、あの規模の農民運動は実現しなかったと言っても過言ではありません。

全琫準は、全羅道出身の下級役人の家庭に生まれました。身分制度の厳しい朝鮮社会において、彼自身は両班ではありませんでしたが、民衆の教育を受けた知識人層に属していました。そのため、単なる民衆とは異なる洞察力と行動力を持っていたのです。

1894年、古阜郡での税制不正事件に際して、全琫準は怒れる農民たちの前に立ち上がり、不正官吏の追放と生活の改善を求めて行動を開始しました。東学の幹部でもあった彼は、信仰の力を背景に、農民たちを組織化していきます。

彼のリーダーシップは、単なる暴力ではなく、明確な目標と指針を持っていた点に特徴があります。例えば、軍を率いて進軍する際には、民衆から略奪をしない、道徳的に規律を保つといったルールを徹底しました。これは、単なる反乱ではなく「改革運動」であることを示す姿勢でもありました。

また、停戦協定や交渉の場においても冷静で、戦略的な判断を下すことができたとされています。その人柄は敵である日本公使・井上馨が助命を求めたという逸話からも伝わってきます。

最終的には、敗北し1895年に処刑される運命をたどりますが、彼の名前は現在でも韓国の歴史の中で「緑豆将軍」という尊称とともに語り継がれています。全琫準は、抑圧された人々の声を代弁し、近代朝鮮の社会変革を夢見た先駆者だったと言えるでしょう。

どこで起きた?朝鮮半島の地理を整理

甲午農民戦争は、朝鮮半島南西部の全羅道(チョルラド)という地域を中心に起きました。とくに最初の蜂起は、全羅道にある古阜郡(コブグン)で発生しています。この地域は、農業が盛んな一方で、官吏による搾取が深刻だったため、民衆の不満が最も高まっていた場所でもありました。

全羅道は現在の韓国でも南西部に位置しており、韓国の伝統文化や農業の中心地として知られています。甲午農民戦争の当時も、豊かな農作物を背景に多くの農民が暮らしていましたが、その富を狙った貴族や官僚による収奪が常態化していたのです。

戦争の拡大に伴い、蜂起は全羅道の他地域、さらには忠清道(チュンチョンド)や慶尚道(キョンサンド)といった地域にも波及していきました。全州(チョンジュ)という全羅道の中心都市も一時的に農民軍に占拠されるなど、その影響は全国規模にまで広がります。

また、朝鮮の首都・漢城(ハンソン、現在のソウル)にも近づき、政府は大きな危機感を抱くようになります。この地理的拡大は、単なる局地的な暴動ではなく、国家全体を揺るがす内乱だったことを示しています。

さらに、戦争の過程で清国と日本が朝鮮に出兵することになり、朝鮮半島が国際的な対立の舞台ともなりました。朝鮮半島は中国と陸続きであるだけでなく、日本とも海を挟んで近接しているため、地政学的にも常に他国からの干渉を受けやすい場所でした。

このように、甲午農民戦争は特定の場所で完結するものではなく、朝鮮全土、さらには東アジア全体を巻き込む形で拡大していきました。その地理的背景を理解することで、この戦争の本質と影響力がより明確に見えてくるはずです。

甲午農民戦争をわかりやすく理解するために

甲午農民戦争2
  • どことどこの国が関係したのか
  • なぜ清国と日本が出兵したのか
  • 甲午農民戦争と日清戦争の関係とは
  • 第二次蜂起とその後の結末(結果)
  • なぜ歴史的に重要な事件なのか
  • 他の反乱や戦争との違いは何か

どことどこの国が関係したのか

甲午農民戦争は、朝鮮国内の農民による反乱という枠を超えて、複数の外国勢力を巻き込んだ国際的な事件となりました。最も直接的に関与したのは、当時の朝鮮を宗主国として支配下に置いていた清国(現在の中国)と、新興の近代国家として朝鮮半島への影響力を強めようとしていた日本です。

この2国は、それ以前から朝鮮における発言権を巡って対立を深めていました。1885年には、天津条約という協定を結び、朝鮮での武力行動を事前通告することで合意していたものの、両国の間に信頼関係はほとんどありませんでした。

また、こうした日清の対立を背景に、ロシアも密かに朝鮮半島を狙っていました。ロシアは、極東における不凍港の確保を目指し、南下政策を進めていたため、朝鮮の動向には強い関心を持っていたのです。

さらに、ヨーロッパの列強、特にイギリスやフランスも、清国の弱体化に乗じて東アジアへの影響力を拡大しようとしていました。こうした列強の存在が、朝鮮を「極東アジアの火薬庫」と呼ばれる不安定な地域に変えていたのです。

このように、甲午農民戦争に関連する国は、主に朝鮮・清国・日本の3カ国ですが、その背後にはロシアや欧米諸国といった列強の存在も影を落としていました。結果として、この一連の騒乱は東アジアの国際秩序そのものを揺るがす火種となり、後に大規模な国際戦争へとつながっていくことになります。

なぜ清国と日本が出兵したのか

甲午農民戦争の最中、清国と日本は相次いで朝鮮に軍隊を派遣しました。両国の出兵は、それぞれの国の思惑と、天津条約という外交上の取り決めに基づいて行われたものです。

まず、清国は朝鮮の「宗主国」としての立場にありました。つまり、形式的には朝鮮を従属国として管理する立場だったため、朝鮮政府から「反乱鎮圧の支援をしてほしい」と要請を受けた清は、即座に出兵を決定します。表向きの理由は「宗主国としての保護」でしたが、実際には朝鮮半島に対する影響力を維持するという政治的な狙いがありました。

一方、日本は、天津条約に基づき、清の出兵通告を受けたことをきっかけに、自国も朝鮮に軍を派遣する決定を下します。日本が出兵した名目は「朝鮮に在留する日本人の保護」でしたが、これもまた実際には朝鮮を清の支配下から引き離し、自国の影響力を拡大する意図がありました。

ここで重要なのは、朝鮮政府は清にだけ援軍を要請しており、日本には要請していないという点です。それにもかかわらず日本は軍を送り込み、さらに軍隊を漢城(現在のソウル)に駐屯させて政治的介入を進めていきました。

こうした中で、両国の軍が同時に朝鮮国内に駐留するという緊張状態が生まれ、互いに撤退を拒んだことで軍事衝突のリスクが一気に高まっていきます。つまり、出兵の背景には、表向きの大義名分とは裏腹に、朝鮮半島を巡る権益争いという本質的な対立が隠されていたのです。

甲午農民戦争と日清戦争の関係とは

甲午農民戦争は、1894年に朝鮮半島で起きた農民の反乱ですが、これが後に日清戦争へと発展するきっかけとなりました。甲午農民戦争と日清戦争は、まさに連続した一連の出来事として見る必要があります。

そもそも、甲午農民戦争が拡大した際、朝鮮政府は清国に援軍を要請しました。これを受けた清が朝鮮に出兵すると、日本は天津条約に基づき、清の出兵を受けて自国も朝鮮に軍を送りました。つまり、農民反乱の「鎮圧」が、両国軍の朝鮮出兵という大きな波紋を呼んだのです。

いったんは農民軍と朝鮮政府の間で停戦協定が結ばれ、反乱は沈静化に向かいました。しかし、清と日本の両国は撤兵せず、互いに朝鮮への影響力を強めようとしたため、対立はより一層深まりました。

特に日本は、朝鮮の内政改革を共同で行うことを清に提案しましたが、清はこれを拒否。そこで日本は独自に行動を起こし、朝鮮国王を保護の名目で王宮から連れ出し、親日政権を樹立させました。そしてその政権を通じて、清軍に対する追放命令を出させたのです。

こうして名実ともに戦争の口火が切られ、8月には日清両国が正式に宣戦布告。これが日清戦争の始まりとなります。言ってしまえば、甲午農民戦争は表向きには内乱であっても、その対応を巡る清と日本の思惑がぶつかり合い、結果的に大規模な戦争へと発展したのです。

このように見ると、甲午農民戦争は単なる国内問題にとどまらず、東アジアの国際秩序を変える大きな転換点だったことが分かります。

第二次蜂起とその後の結末(結果)

甲午農民戦争には、第一次と第二次の二つの蜂起があります。第一次蜂起は、政府との停戦協定によっていったん終息しましたが、その後再び農民軍が立ち上がったのが「第二次蜂起」です。

第二次蜂起は、1894年10月ごろに始まりました。この時期、すでに日清戦争が勃発しており、朝鮮国内は親日政権の支配下にありました。第一次蜂起を率いた全琫準は、この新しい政権と日本軍を「外国勢力の手先」と見なし、再び武装蜂起を決意します。

ただし、この段階では東学内部でも意見が分かれており、上層部は平和的解決を望んでいたといわれています。そのため、第二次蜂起は準備不足のまま進められ、戦術的にも不利な状況が続きました。

特に大きな転換点となったのが、11月末に起きた「牛金峙(ウグムチ)の戦い」です。ここで農民軍は日本軍・朝鮮軍の連合軍と衝突しますが、近代兵器と訓練を備えた日本軍に太刀打ちできず、大敗を喫しました。この戦い以降、農民軍は各地で撃破され、組織的な抵抗が難しくなっていきます。

最終的に、指導者の全琫準は翌1895年に捕らえられ、朝鮮政府によって処刑されました。その後、農民軍の残党も各地で鎮圧され、甲午農民戦争は完全に終結します。

この戦争で亡くなった農民は、30万人以上とも言われることがあり、多大な犠牲を伴った民衆運動でした。その後、朝鮮社会に深い爪痕を残しただけでなく、日本の朝鮮支配強化のきっかけともなりました。

なぜ歴史的に重要な事件なのか

甲午農民戦争が歴史的に重要とされる理由は、大きく分けて三つあります。それは、民衆による大規模な社会運動であったこと、日本の朝鮮進出の契機となったこと、そして日清戦争を引き起こした直接的な要因であったことです。

まず、この戦争は一部の知識人や軍人による反乱ではなく、農民を主体とした民衆の大規模蜂起だったという点で画期的です。当時の東アジアでは、身分制度が色濃く残っており、農民が国家権力に対して武器を取ることは稀でした。その中で、東学の思想を背景に、抑圧から脱却しようとする動きは、朝鮮社会における民主主義的発想の萌芽とも言えるものでした。

次に、甲午農民戦争は、日本が朝鮮に本格的に関与する出発点となりました。以降、日本は朝鮮王朝に対する影響力を強め、1905年の日韓保護条約、そして1910年の韓国併合へと進んでいきます。つまり、甲午農民戦争は日本による朝鮮支配の「入口」だったのです。

さらに、この戦争をきっかけに、日清戦争が勃発します。この戦争によって清国は衰退し、日本は一気に列強の仲間入りを果たしました。その結果、東アジアの国際秩序は大きく変わり、以後の歴史にも多大な影響を与えます。

このように甲午農民戦争は、単なる国内反乱ではなく、アジア全体の歴史の流れを変えた重大事件として位置づけられているのです。

他の反乱や戦争との違いは何か

甲午農民戦争が他の反乱や戦争と異なる点は、いくつかの側面から見ることができます。まず、その主体が民衆であるという点です。多くの戦争や政変は、軍部や貴族層、あるいは政治家によって主導されますが、甲午農民戦争は名もなき農民たちによって組織された運動でした。

また、宗教と政治が密接に結びついていたという特徴もあります。東学という宗教が持つ「平等思想」や「排外主義」が、農民たちの怒りと結びつくことで、単なる経済的な不満が政治的な運動へと昇華していったのです。この点は、他の多くの反乱と一線を画します。

さらに、この戦争は国内問題でありながら、国際政治の引き金となりました。農民の蜂起が結果的に清国と日本の出兵を招き、日清戦争に発展した例は、歴史上きわめて珍しいケースです。通常、内乱はその国内で完結するものですが、甲午農民戦争はそれを超えて、列強のパワーバランスにまで波及する影響を持っていました。

もう一つの違いとしては、戦後の扱い方があります。この戦争は、当初は「東学党の乱」として扱われてきましたが、近年では「甲午農民戦争」として再評価されるようになっています。つまり、単なる暴動ではなく、民衆の正当な主張だったという視点が強まっているのです。

このように、甲午農民戦争はその規模・背景・国際的影響などにおいて、他の反乱とは異なる特異な歴史的事件でした。だからこそ、今もなお多くの研究者によって注目され続けているのです。

甲午農民戦争をわかりやすく総括

ここでは、これまでご紹介してきた甲午農民戦争の流れや背景、関係国などを整理し、初めて学ぶ方にも理解しやすいようにまとめてみました。以下のポイントを押さえておくと、甲午農民戦争の全体像がつかみやすくなるはずです。

  • 甲午農民戦争は、1894年に朝鮮半島南西部・全羅道で始まった大規模な農民の反乱です。
  • きっかけは、地方役人による不正と、それに対する民衆の怒りからでした。
  • 農民たちは税の横領や賄賂の強要など、長年の搾取に強い不満を抱えていました。
  • 当時の朝鮮では自然災害や飢饉も重なり、生活が限界に達していた人々が多くいました。
  • 宗教的な背景としては、平等と救済を説く東学という民間信仰が大きな役割を果たしました。
  • 東学はキリスト教(西学)に対抗して生まれた宗教で、農民たちの思想的な支柱となりました。
  • 反乱の中心には、「緑豆将軍」とも呼ばれた指導者・全琫準(チョン・ボンジュン)がいました。
  • 彼は東学の幹部であり、信仰と正義を掲げて農民軍を率いました。
  • 反乱の舞台となったのは、古阜や全州などを含む朝鮮南西部でしたが、その影響は全国へ広がりました。
  • この混乱に乗じて、宗主国であった清国と、勢力を伸ばそうとしていた日本が朝鮮に出兵します。
  • 両国の対立が激化し、最終的に甲午農民戦争は日清戦争の引き金となりました。
  • 反乱は一度停戦されましたが、のちに第二次蜂起が発生し、再び大規模な戦闘へと進みます。
  • 日本と朝鮮政府の連合軍によって農民軍は敗北し、全琫準も捕らえられて処刑されました。
  • この戦争は民衆の正当な抵抗として再評価され、後の近代化や独立運動にも影響を与えました。
  • 他の反乱と比べて、宗教・政治・国際情勢が複雑に絡み合った点で非常に特異な歴史的事件です。

このように、甲午農民戦争は単なる農民反乱ではなく、朝鮮社会と東アジア全体を大きく揺るがす重要な出来事でした。以上のまとめをもとに、さらに深く理解を深めていただけたら幸いです。

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