南北朝時代という激動の時代を、彗星のごとく駆け抜けた若き武将、北畠顕家。 「北畠顕家は何をした人なんだろう?」 「なぜ『最強英雄』とまで語られるの?」 「『風林火山』の旗との関係は?」 「宿敵・高師直との戦いの末の『死因』とは?」 そんな疑問を抱いている方も多いのではないでしょうか。
この記事では、わずか21歳でその生涯を閉じた北畠顕家の、知られざる実像に迫ります。 異例の速さでの出世、奥州での目覚ましい活躍、そして足利尊氏をも脅かした「最強」と評される戦いぶり。 さらには、「風林火山」の旗を用いたという逸話や、「弓」の名手であったとされる武勇、悲劇的な「死因」の真相、そして彼の「子孫」たちがその後どうなったのかまで、分かりやすく解説していきます。 宿敵「高師直」との因縁の対決も見逃せません。
この記事を読むことで、あなたは以下のことについて理解を深めることができるでしょう。
- 北畠顕家の具体的な生涯と、時代を動かした主な功績
- 「最強」と称されるほどの武勇や、「風林火山」「弓」にまつわる逸話
- 宿敵・高師直との戦いや、若くして命を落とした悲劇的な死の真相
- 北畠顕家の人物像、そして彼の死が後世や子孫に与えた影響
北畠顕家は何をした人?その生涯と輝かしい功績

- 北畠顕家の基本情報:時代と立場
- 異例の出世と「陵王」の舞の逸話
- 奥州統治と鎮守府大将軍としての活躍
- 北畠顕家は「最強」?足利尊氏を破った戦歴
- 逸話:北畠顕家と「風林火山」の旗
- 北畠顕家は弓の名手だったのか?
北畠顕家の基本情報:時代と立場
北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、鎌倉時代の終わりから南北朝時代にかけて、日本の歴史が大きく揺れ動いた時期に活躍した人物です。
彼が生きた時代は、武士の政権であった鎌倉幕府が力を失い、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による天皇中心の新しい政治「建武の新政(けんむのしんせい)」が始まるなど、まさに激動の時代でした。
顕家は、文保2年(1318年)に、学問に優れた家柄である北畠家に生まれました。
父は、後醍醐天皇の側近として知られ、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』という歴史書を著した北畠親房(きたばたけちかふさ)です。
北畠家は村上源氏の流れをくみ、代々学問をもって朝廷に仕える公家(くげ)でした。
そのため、顕家も幼い頃から高い教養を身につけていたと考えられます。
顕家は、朝廷に仕える公家としての高い地位にありながら、同時に武将としても類稀なる才能を発揮しました。
建武の新政が始まると、彼はわずか16歳で陸奥守(むつのかみ)という東北地方を治める重要な役職に任命されます。
これは、朝廷の役人でありながら、地方の行政と軍事を担当する立場でした。
さらに後には、鎮守府大将軍(ちんじゅふだいしょうぐん)という、東北地方の軍事指揮官としての最高の地位にも就いています。
このように、顕家は文官と武官の両方の側面を併せ持つ、非常に重要な立場にあったのです。
時代背景に触れますと、建武の新政は残念ながら短期間で崩壊し、日本は後醍醐天皇を中心とする南朝(なんちょう)と、足利尊氏(あしかがたかうじ)が擁立した天皇を中心とする北朝(ほくちょう)の二つに分かれて争う「南北朝時代」へと突入します。
顕家は、終始南朝の中心人物として、父・親房とともに後醍醐天皇を支え続けました。
若くして国の重要政策に関わり、また自ら軍を率いて戦場を駆け抜けるなど、その生涯はまさに時代の荒波と共にあったと言えるでしょう。
彼の立場は、単なる一貴族や一武将に留まらず、南朝の行く末を左右するほどの重みを持っていたのです。
この複雑な時代背景と、彼が置かれた特異な立場を理解することが、北畠顕家という人物を深く知るための第一歩となります。
異例の出世と「陵王」の舞の逸話
北畠顕家は、その短い生涯において、驚くべき速さで出世を遂げたことで知られています。
これは、彼の卓越した才能と、父・親房が後醍醐天皇から厚い信頼を得ていたこと、そして北畠家自体が代々天皇家と深い繋がりを持っていたことなどが背景にあると考えられます。
顕家は、わずか3歳で初めて官位を授かり、その後も順調に昇進を重ねました。
特筆すべきは、元弘2年(1332年)、数え年で14歳(満12歳)の若さで参議(さんぎ)という朝廷の最高幹部会議の一員に任命されたことです。
参議は、国政の重要な意思決定に関わる役職であり、この年齢での就任は前例がありませんでした。
当時の歴史書である中原師守の日記『師守記(もろもりき)』にも、「幼年人、参議に任ずる例」として、顕家の名が四条隆顕(15歳で任官)と共に記されており、その異例ぶりがうかがえます。
これは、単に家柄が良いというだけでは説明がつかない、顕家自身の並外れた器量が認められていた証左と言えるでしょう。
顕家の才能は、政治や軍事の分野だけに留まらなかったようです。
彼には、芸能の才能を示す有名な逸話が残されています。
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が有力貴族である西園寺公宗(さいおんじきんむね)の邸宅(北山第)へ行幸した際のことです。
この時、まだ13歳だった顕家は天皇の前で「陵王(りょうおう)」という雅楽の舞を披露しました。
「陵王」は、中国の北斉の蘭陵武王(高長恭)が、あまりにも美しい顔立ちをしていたため、戦場では勇ましい仮面をつけて戦ったという伝説に由来する勇壮な舞です。
『増鏡(ますかがみ)』という歴史物語によれば、顕家が舞を舞うと、後醍醐天皇自らも笛を吹いて伴奏し、その見事な舞に感嘆したと言います。
舞が終わると、当時の関白であった二条道平(にじょうみちひら)が、褒美として自身の美しい上着を与えたほどでした。
また、『舞御覧記』という記録には、この時の顕家の容姿について「形もいたいけして(幼くてかわいらしく)、けなりげに見え給いに(態度は堂々としていた)」と記されており、若く美しいながらも威厳を漂わせる姿が目に浮かぶようです。
この「陵王」の舞の逸話は、顕家が「花将軍」とも呼ばれる、文武両道にして眉目秀麗な貴公子であったというイメージを後世に伝える大きな要因となりました。
ただ、容姿に関しては後世の脚色も含まれている可能性も指摘されていますが、少なくとも同時代の人々を魅了する何かを持っていたことは間違いないでしょう。
異例の出世と華やかな逸話は、北畠顕家という人物の多才さと、彼がいかに特別な存在であったかを物語っています。
奥州統治と鎮守府大将軍としての活躍
建武の新政が始まると、北畠顕家は父・親房と共に、日本の東北地方である陸奥国(むつのくに)の統治という重要な任務を担うことになります。
元弘3年(1333年)、顕家は陸奥守に任命され、当時まだ幼かった後醍醐天皇の皇子・義良親王(のりよししんのう、後の後村上天皇)を奉じて、京都から遠く離れた陸奥へと下向しました。
これは、鎌倉幕府滅亡後の混乱が残る東北地方を安定させ、天皇中心の新しい政治体制を浸透させるという、非常に困難な課題を伴うものでした。
顕家一行は、陸奥国の国府があった多賀城(現在の宮城県多賀城市)を拠点としました。
当時の東北地方は、旧幕府勢力である北条氏の残党や、新政に不満を持つ武士たちが依然として力を持ち、決して平穏な状態ではありませんでした。
しかし、顕家は弱冠16歳という若さにもかかわらず、優れた政治手腕を発揮します。
彼は、現地の有力武士である結城氏や伊達氏などを味方につけ、巧みな統治を行いました。
建武元年(1334年)には、津軽地方(現在の青森県西部)で反乱を起こした北条氏の残党を自ら軍を率いて討伐し、これを平定するという武功を挙げます。
この功績により、顕家は従二位という高い位に昇進しました。
さらに建武2年(1335年)には、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命されます。
鎮守府将軍は、古くから東北地方の防衛と統治を担当する重要な軍事職であり、これにより顕家は名実ともに東北地方の軍事指揮官となりました。
興味深いのは、顕家がこの役職について、単なる鎮守府将軍ではなく「鎮守府大将軍」と称することを朝廷に願い出て認められている点です。
これは、従三位以上の高位の者が就任する際には大将軍と名乗るという先例に基づいたものであり、若年ながらも自身の立場と権威を確立しようとする顕家の気概が感じられます。
顕家は、陸奥国府の組織整備にも力を注ぎました。
義良親王を名目上のトップとしつつ、政治の最高合議機関である「式評定衆(しきひょうじょうしゅう)」や、訴訟を扱う「引付(ひきつけ)」などを設置しました。
これらの組織は、かつての鎌倉幕府の仕組みを参考にしつつ、天皇の権威のもとに地方を直接統治しようとするもので、「ミニ幕府」とも評されるような独自の統治機構でした。
このようにして、顕家は奥州の武士たちをまとめ上げ、後醍醐天皇の勢力基盤を東北地方に築き上げることに成功したのです。
しかし、中央では足利尊氏が次第に建武政権と対立を深めており、顕家はまもなくその渦中へと身を投じることになります。
東北の安定化という大きな仕事を成し遂げた顕家の次なる舞台は、京を中心とした全国規模の戦乱でした。
北畠顕家は「最強」?足利尊氏を破った戦歴
北畠顕家が「最強」の武将と称されることがあるのは、その若さにもかかわらず、数々の戦いで目覚ましい勝利を収め、特に当時最大の武家勢力であった足利尊氏を一度は打ち破ったという輝かしい戦歴によるものです。
公家の出身でありながら、卓越した軍事指揮能力を発揮したことは、多くの人々を驚かせました。
建武2年(1335年)、足利尊氏が建武政権に反旗を翻し、「建武の乱」が起こります。
尊氏は関東で兵を挙げ、新田義貞(にったよしさだ)率いる朝廷軍を破り、京都へと迫りました。
この危機的状況に対し、奥州にいた北畠顕家は後醍醐天皇からの要請を受け、義良親王を奉じて精強な奥州の兵を率い、京都へ向けて進軍を開始します。
時に顕家、18歳。
ここからの顕家軍の進軍速度は驚異的でした。
『太平記』などの軍記物によれば、奥州から京都までの約600kmとも言われる道のりを、わずか半月ほどで走破したとされています。
1日に平均40km弱というこの速度は、後の豊臣秀吉の「中国大返し」(1日平均約20km)を遥かに凌ぐものであり、日本戦史上有数の強行軍と言えるでしょう。
この高速行軍が可能だった理由としては、奥州が名馬の産地であり騎馬隊が中心だったこと、食料などを現地で調達(『太平記』には略奪行為の記述も見られますが、当時の軍隊行動としては珍しくありませんでした)しながら身軽に進んだこと、進路上の足利方の抵抗が比較的少なかったことなどが考えられます。
顕家の卓越した統率力と、奥州武士団の精強さがあってこそ成し得た快挙でした。
建武3年(1336年)1月、顕家軍はまず鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)の軍勢を破り、鎌倉を一時占領します。
その後、京都へ急行し、新田義貞や楠木正成(くすのきまさしげ)といった南朝の勇将たちと合流。
第一次京都合戦と呼ばれる一連の戦いで、足利尊氏の軍を打ち破り、尊氏を京都から九州へと敗走させることに成功しました。
これは、顕家の武名を一躍高めた大きな勝利でした。
さらに、九州へ逃れた尊氏を追撃し、同年2月には摂津国豊島河原(てしまがわら)の戦いでも勝利を収めています。
これらの戦功により、顕家は鎮守府大将軍の称号を得るなど、南朝におけるその地位を不動のものとしました。
若くしてこれほどの大軍を率い、経験豊富な足利尊氏を相手に勝利を重ねた事実は、顕家が単なる貴公子ではなく、非凡な軍略家であり、「最強」と評されるにふさわしい武将であったことを物語っています。
もちろん、戦いには常に運や状況も絡みますが、顕家の戦歴は彼の軍事的才能を疑う余地なく示していると言えるでしょう。
逸話:北畠顕家と「風林火山」の旗
戦国時代の武将、武田信玄の旗印として非常に有名な「風林火山」ですが、実はそれよりも約200年も前に、北畠顕家がこの「風林火山」の文字を記した旗を用いたという逸話が伝えられています。
この話が事実であれば、顕家は「風林火山」の旗を軍旗として使用した先駆者ということになり、非常に興味深い点です。
「風林火山」の語源は、古代中国の兵法書である『孫子(そんし)』の軍争篇にある「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)」という一節です。
これは、軍隊の行動がいかに変幻自在であるべきかを説いたもので、戦術の要諦を示す言葉として知られています。
顕家がこの旗を用いたとされるのは、主に足利尊氏と戦うために奥州から京都へ向けて進軍した際など、彼の軍事行動が最も活発だった時期です。
彼の軍隊が見せた驚異的な進軍速度や、戦における果敢な攻撃は、まさに「疾きこと風の如く、侵掠すること火の如し」を体現していたかのようであり、この旗印と結びつけられるのも自然なことかもしれません。
しかしながら、北畠顕家が実際に「風林火山」の旗を使用したという確たる一次史料(同時代に書かれた信頼性の高い記録)は、現在のところ明確には見つかっていません。
この逸話は、主に江戸時代以降に編纂された書物や、軍記物語である『太平記』の解釈などに基づいて語られることが多いようです。
そのため、歴史学的な観点からは、あくまで「説」の一つとして扱われるのが一般的です。
では、なぜ顕家と「風林火山」が結びつけられるようになったのでしょうか。
一つには、前述の通り、彼の戦いぶりが『孫子』の兵法に通じるものであったというイメージが強かったことが考えられます。
また、若くして華々しい戦功を挙げた悲劇の英雄として、後世の人々が彼の姿に理想的な武将像を重ね合わせ、このような勇壮な旗印がふさわしいと考えたのかもしれません。
キリスト教の宣教師ルイス・フロイスが、顕家軍の遠征における略奪行為などを指して「日本における十字軍」と評したという記録もあり、これは顕家軍の行動が組織的かつ目的を持ったものであったことを示唆しており、何らかの旗印のもとに統率されていた可能性は十分に考えられます。
「風林火山」の旗の真偽はともかくとして、この逸話は北畠顕家という武将が、後世に至るまでいかに人々を魅了し、その戦術や統率力が高く評価されていたかを物語るものと言えるでしょう。
北畠顕家は弓の名手だったのか?
北畠顕家が弓の名手であったかどうかという点について、直接的にそれを証明する詳細な記録や逸話は、残念ながら現代にはあまり多く伝わっていません。
しかし、彼が生きた時代背景や、公家でありながら武将として第一線で活躍した事実を鑑みると、弓術をはじめとする武芸全般に高い素養を持っていた可能性は非常に高いと考えられます。
まず、当時の貴族や武官にとって、弓術は必須の武芸であり、教養の一つでもありました。
古くは『源氏物語』にも「賭弓(のりゆみ)」という弓術の技を競う場面が描かれるなど、弓は身分の高い人々にとっても身近なものでした。
顕家は、朝廷において左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)という武官の役職も経験しており、これは天皇を護衛する近衛府の幹部ですから、当然ながら武芸の訓練は受けていたはずです。
また、鎮守府大将軍という役職は、東北地方の軍事を統括する最高司令官であり、自らが武勇に優れていなければ、屈強な奥州の武士たちを従え、統率することは困難だったでしょう。
彼が奥州の「荒くれ者たち」を見事にまとめ上げ、精強な軍隊を組織できた背景には、単なる家柄や朝廷の権威だけでなく、彼自身の武人としての資質が大きく影響していたと考えられます。
近年、人気漫画『逃げ上手の若君』では、北畠顕家が弓の名手として描かれていますが、これはあくまでフィクション作品におけるキャラクター設定です。
しかし、このようなイメージが生まれる背景には、顕家が「花将軍」と称されるほどの眉目秀麗さだけでなく、実際に武勇にも優れた人物であったという、歴史的な評価があるからこそでしょう。
彼が披露したとされる雅楽の「陵王」の舞も、元は勇壮な武人の舞であり、体力や身体能力、そして武に対する理解がなければ見事に舞うことはできません。
具体的な弓に関する逸話としては、例えば「〇〇という強敵を弓で射止めた」といった記録は現存史料からは確認しにくいのが現状です。
しかし、彼が数々の合戦で自ら軍を率い、足利尊氏という強大な敵と渡り合った事実そのものが、彼の武人としての能力を物語っています。
戦場において大将が自ら弓を取って戦うことは珍しくありませんでしたし、顕家ほどの指導者であれば、部下を鼓舞するためにも、また自身の身を守るためにも、弓の技は不可欠だったはずです。
結論として、北畠顕家が弓の名手であったと断言できる決定的な証拠は少ないものの、当時の武官としての嗜み、そして彼が成し遂げた軍事的な功績から推察するに、弓術においても高い技術を持っていた可能性は十分に考えられると言えるでしょう。
北畠顕家は何をした人?その死と後世への影響

- 宿敵・高師直との戦いと壮絶な死因
- 後醍醐天皇への諫奏文に込めた想い
- 北畠顕家の子孫たちはその後どうなったのか
- 若き英雄・北畠顕家の人物像と評価
- 現代に伝わる北畠顕家ゆかりの神社・史跡
宿敵・高師直との戦いと壮絶な死因
北畠顕家がその短い生涯を閉じる直接の原因となったのは、室町幕府の重鎮であり、足利尊氏の右腕とも言える武将、高師直(こうのもろなお)との壮絶な戦いでした。
顕家は二度目の西上を果たし、一時は美濃国の青野原の戦いで北朝方を破るなど勢いを示しましたが、その後は次第に苦戦を強いられることになります。
青野原の戦いで勝利したものの、顕家軍も兵力の消耗や疲弊は避けられませんでした。
京へ直進せず、伊勢方面へ転進したのは、兵力の回復や父・親房との連携を図るためだったと考えられます。
その後、大和国(現在の奈良県)へ進みますが、延元3年(暦応元年、1338年)2月28日の般若坂(はんにゃざか)の戦いで、北朝方の桃井直常(もものいただつね)らに敗北を喫してしまいます。
この敗戦を受け、顕家は奉じていた義良親王の身の安全を第一と考え、秘かに吉野の行宮(あんぐう)へと送り届けました。
その後、顕家は河内国(現在の大阪府東部)に入り、弟の北畠顕信(あきのぶ)らと合流して戦力の再建を図ります。
一時は摂津国天王寺(てんのうじ)周辺で局地的な勝利を収めることもありましたが、北朝軍の主力は高師直が率いており、その追撃は執拗でした。
3月に入ると、天王寺や阿倍野(あべの)、片野(かたの)といった畿内各地で激しい戦闘が繰り返されます。
顕家軍は奮戦するものの、連戦による疲労と兵力の減少は否めず、次第に和泉国(現在の大阪府南西部)へと追い詰められていきました。
この間、南朝は九州の阿蘇惟時(あそこれとき)に救援を命じていますが、援軍は間に合わなかったようです。
そして、運命の日、延元3年(暦応元年)5月22日を迎えます。
和泉国堺浦の石津(いしづ、現在の堺市西区石津町付近)において、北畠顕家軍と高師直率いる幕府軍主力との間で、最後の決戦の火蓋が切られました。
『太平記』によれば、この時の顕家軍はわずか二百騎余りだったとされています。
数に劣る顕家軍でしたが、決死の覚悟で奮戦します。
しかし、長征と連戦による疲労に加え、北朝方についた瀬戸内海水軍による海上からの攻撃、そして予定していた味方の援軍の到着遅延といった悪条件が重なり、戦況は圧倒的に不利でした。
壮絶な戦いの末、顕家はついに力尽き、落馬したところを討ち取られたと伝えられています。
享年21(満20歳)という、あまりにも早すぎる死でした。
この石津の戦いでは、顕家だけでなく、長年彼に付き従ってきた忠臣・南部師行(なんぶもろゆき)や名和義高(なわよしたか)など、多くの将兵も命を落としました。
若き英雄の戦死は、南朝にとって計り知れない打撃となり、その後の戦局にも大きな影響を与えることになったのです。
後醍醐天皇への諫奏文に込めた想い
北畠顕家は、その短い生涯の最期を迎えようとしていた延元3年(暦応元年、1338年)5月15日、和泉国石津で戦死するわずか7日前に、後醍醐天皇に対して政治上の意見を記した長文の文書を提出しています。
これは「北畠顕家上奏文(きたばたけあきいえじょうそうぶん)」または「北畠顕家諫奏文(かんそうぶん)」として知られ、彼の国を憂う強い想いと、建武の新政が抱えていた問題点に対する鋭い指摘が込められた、歴史的にも非常に重要な資料とされています。
この上奏文は、顕家が「権中納言兼陸奥大介鎮守府大将軍源顕家」として署名しており、戦陣の中から天皇へ直接意見を具申するという、並々ならる覚悟がうかがえます。
現在、原文そのものは残っていませんが、京都の醍醐寺に写しとされる文書(醍醐寺文書)が保管されており、その内容を知ることができます。
ただし、この写しは冒頭部分が欠けている可能性も指摘されています。
上奏文の内容は、多岐にわたりますが、主に建武の新政の失敗点を具体的に指摘し、改善策を提言するものでした。
伝えられるところによれば、全7か条にわたって論じられていたとされます。
具体的には、まず「地方分権制の推進」を挙げ、九州や東北といった重要な地域には信頼できる有能な人物を派遣し、しっかりと統治させるべきだと主張しました。
これは、自身の奥州統治の経験に基づいた現実的な提言と言えるでしょう。
次に、「租税を軽くし、贅沢を止めること」を求め、民衆の負担を軽減し、朝廷自らも倹約に努めるべきだと訴えました。
また、「恩賞として官位をむやみに与える新政策の停止」も重要な指摘です。
功績のない者にも官位が濫発されることで、官位の価値が下がり、真に功績のあった者の不満を高めていると批判しました。
恩賞は、天皇個人への忠誠心ではなく、実際の職務に対する忠誠心や功績によって公平に与えられるべきだとも述べています。
さらに、「たとえ京都を奪還できたとしても、行幸(ぎょうこう)や酒宴といった華美な行事は控えること」や、「法令の改革を頻繁に行いすぎないこと」といった、政治運営の安定化を求める意見も見られます。
そして、最も厳しい指摘の一つが「佞臣(ねいしん)の排除」、つまり天皇の側近にいる、口先だけで実のない、政治を誤らせるような家臣を遠ざけるべきだというものでした。
この上奏文の結びは、非常に激越な言葉で締めくくられています。
「もしこの意見を聞き届けていただけないのであれば、自分は天皇のもとを辞して山中に隠棲する」という内容で、これは顕家の悲壮な覚悟と、国を思うあまりの純粋で強い憤り、そして後醍醐天皇への最後の願いが凝縮された言葉と言えるでしょう。
20世紀の歴史学者・黒板勝美は、この上奏文を醍醐寺の国宝である経典よりも価値のあるものと高く評価しています。
もちろん、現代の研究者からは、その内容について公家としての立場からの偏見や、同時代人としての視点の限界も指摘されていますが、21歳の若者が死を目前にして、これほどまでに国の将来を案じ、天皇に対して真摯に意見具申したという事実は、彼の人間性と忠誠心の深さを物語って余りあると言えるでしょう。
北畠顕家の子孫たちはその後どうなったのか
北畠顕家が若くして戦死した後、彼の血筋や北畠家がどのような道を辿ったのかは、多くの人が関心を寄せるところです。
顕家の死は南朝にとって大きな痛手でしたが、北畠一族が完全に歴史の表舞台から消えたわけではありませんでした。
まず、顕家の死後、その遺志を継ぐように弟たちが南朝方として活動を続けます。
弟の北畠顕信(きたばたけあきのぶ)は、顕家の死後に南朝から鎮守府将軍に任命され、父・親房と共に陸奥国へ下向しようと試みました。
しかし、その途上で暴風雨に遭い、伊勢国へ戻ることを余儀なくされます。
その後も顕信は、顕家が拠点とした霊山城(りょうぜんじょう)を中心に東北地方で奮闘しますが、南朝の勢力は次第に衰退していきました。
もう一人の弟である北畠顕能(きたばたけあきよし)は、伊勢国司としてその地に勢力を築き、これが後の伊勢北畠氏の基礎となります。
伊勢北畠氏は、戦国時代に至るまで伊勢国に大きな影響力を持つ大名として存続しましたが、最終的には織田信長の勢力拡大の中で、その支配下に組み込まれていくことになります。
一方、北畠顕家の直系の子孫、つまり彼自身の子供たちがどうなったかについては、いくつかの説があり、必ずしも明確ではありません。
顕家には、嫡男とされる北畠顕成(きたばたけあきなり)がいたと伝えられています。
顕成は、父・顕家の功績もあって南朝から厚遇されたと言われていますが、その後の具体的な事跡については諸説紛々としています。
一つの説としては、顕成は出家し、『太平記』の一部を執筆したり、校閲に関わったりしたというものです。
これが事実であれば、父や祖父同様、文才にも恵まれていたのかもしれません。
また別の説では、奥州の浪岡(なみおか、現在の青森県青森市浪岡)に土着し、浪岡北畠氏の祖となったとも言われています。
この浪岡北畠氏は、戦国時代まで続きましたが、津軽為信(つがるためのぶ)によって滅ぼされました。
さらに、九州へ下向し、南朝の征西将軍宮であった懐良親王(かねよししんのう)に従軍したという説もあります。
このように、顕成の生涯については確かな史料が乏しく、謎に包まれている部分が多いのが現状です。
顕家には、次男として師顕(もろあき)がいたともされ、その系統は時岡氏を名乗ったという伝承もありますが、これも詳細は不明です。
顕家の妻については、日野資朝(ひのすけとも)の娘であったとされ、顕家の死後、河内国の観心寺(かんしんじ)で尼となり、夫の菩提を弔い続けたと伝えられています。
彼女が詠んだとされる「なき人の かたみの野辺の 草枕 夢もむかしの 袖の白露」という歌は、若くして夫を失った悲しみを今に伝えています。
このように、北畠顕家の子孫たちの動向は、本家である伊勢北畠氏が一定の勢力を保ったものの、顕家の直系に関しては複数の可能性が語られ、その全てが明らかになっているわけではありません。
時代の大きなうねりの中で、それぞれの道を歩んでいったことがうかがえます。
若き英雄・北畠顕家の人物像と評価
北畠顕家は、わずか21年という短い生涯でありながら、その鮮烈な生き様と卓越した才能により、後世に「若き英雄」「花将軍」として強い印象を残しています。
彼の人物像は、公家としての高い教養と、武将としての優れた軍事能力を兼ね備えた、まさに文武両道の理想的な姿として語られることが多いです。
まず、顕家の「文」の側面としては、名門北畠家に生まれ、父・親房から受け継いだ学識の深さが挙げられます。
幼い頃から異例の速さで昇進し、朝廷の重要政策にも関与したことは、彼の知性と判断力の高さを物語っています。
また、死の直前に後醍醐天皇へ送った「北畠顕家上奏文」は、当時の政治状況に対する深い洞察と、国を憂う真摯な想いが込められた名文として知られ、彼の優れた文章能力と高い見識を示しています。
さらに、13歳の時に天皇の前で雅楽「陵王」を舞い、絶賛されたという逸話は、彼の豊かな芸術的素養と、人々を魅了する華やかさを伝えています。
『舞御覧記』には当時の顕家の姿が「幼くてかわいらしく、態度は堂々としている」と記されており、凛々しい美青年であったというイメージが定着しました。
この「花将軍」という呼び名は、彼の容姿の美しさだけでなく、戦場での華々しい活躍ぶりをも含意しているのかもしれません。
一方、「武」の側面では、その軍事指揮官としての手腕が高く評価されています。
特に奥州から京都への二度にわたる長征では、驚異的な進軍速度と巧みな戦術で足利尊氏軍を苦しめました。
海事史家でNPO法人孫子経営塾理事の海上知明氏は、顕家の遠征と進軍速度を「補給を遠征地で現地調達しながら進軍したため、背後を襲われても瓦解しなかった」点や、豊臣秀吉の中国大返しを上回る速度で敵地を進軍した点を挙げて、偉大な名将と絶賛しています。
若年にして奥州の荒武者たちをまとめ上げ、精強な軍団を率いた統率力も並大抵のものではありませんでした。
後醍醐天皇への忠誠心も、顕家の人物像を語る上で欠かせない要素です。
最後まで南朝方として戦い続けたその姿勢は、特に明治維新以降の皇国史観の中で高く評価され、楠木正成や新田義貞と並ぶ忠臣として再認識されました。
父・親房が著した『神皇正統記』の影響もあり、顕家は南朝の正統性を象徴する人物の一人とされたのです。
その結果、彼を祀る霊山神社や阿部野神社が創建されるなど、顕彰の動きが活発になりました。
一方で、楠木正成に比べると一般的な知名度ではやや劣る面があるかもしれません。
これについては、顕家が生まれながらの貴族であったのに対し、正成が河内の一武士からの成り上がりであったという出自の違いや、正成の戦い方が局地的なゲリラ戦術で大軍を翻弄するといった、より劇的なエピソードに富んでいたことなどが影響していると考えられます。
しかし、北畠顕家が示した政治手腕、軍事指揮官としての能力、そして国を思う純粋な情熱は、時代を超えて多くの人々を惹きつけ、日本の歴史における若き英雄の一人として、その名は燦然と輝き続けています。
現代に伝わる北畠顕家ゆかりの神社・史跡
北畠顕家の短いながらも鮮烈な生涯と、南朝への忠義を尽くした姿は、後世の人々に深い感銘を与え、彼を偲び、その功績を称えるための神社や史跡が現代にも各地に残されています。
これらの場所を訪れることで、私たちは顕家が生きた時代に思いを馳せることができます。
まず、顕家を祀る代表的な神社として、大阪市阿倍野区にある阿部野神社(あべのじんじゃ)が挙げられます。
ここは、顕家が最期の戦いを繰り広げたとされる古戦場の一つであり、明治8年(1875年)に地元の有志によって顕家を祀る祠が建てられたのが始まりです。
その後、明治14年(1881年)には別格官幣社となり、父・親房と共に祀られるようになりました。
建武中興十五社の一つにも数えられています。
境内には、NHK大河ドラマ「太平記」の放映を記念して1991年に建立された顕家の勇壮な銅像があり、多くの参拝者を迎えています。
福島県伊達市にある霊山神社(りょうぜんじんじゃ)も、顕家ゆかりの重要な神社です。
霊山は、顕家が奥州統治の拠点とした場所であり、南朝方の重要な要害でした。
この神社は、明治元年(1868年)に米沢藩の儒学者・中山雪堂らの運動がきっかけとなり、明治天皇の東北巡幸を機に、明治13年(1880年)に創建されました。
顕家とその父・親房、弟・顕信らを主祭神とし、こちらも別格官幣社、建武中興十五社の一つに列せられています。
霊山神社の境内にも顕家の銅像が建てられており、彼の東北地方における足跡を今に伝えています。
三重県津市美杉町には、北畠神社(きたばたけじんじゃ)があります。
ここは元々、北畠家の末裔とされる鈴木家次という人物が、江戸時代に顕家、親房、顕信を祀った祠が起源とされ、後に北畠八幡宮、そして村社の北畠神社となりました。
昭和3年(1928年)には別格官幣社に昇格しています。
この神社では、弟の北畠顕信が主祭神で、顕家は配祀となっていますが、伊勢北畠氏の本拠地であったこの地に、一族の歴史が息づいています。
墓所や供養塔としては、大阪市阿倍野区の北畠公園内に「伝北畠顕家墓」があります。
これは江戸時代の享保年間(1718年~1736年)に、地誌学者の並河誠所(なみかわせいしょ)が『太平記』の記述などから、この地にあった「大名塚」と呼ばれる古墳を顕家の墓と認定して建てたものです。
また、顕家が戦死したとされる大阪府堺市西区石津町付近、紀州街道と石津川が交差する太陽橋の南詰には、長年顕家に仕えた南部師行と共に供養塔が建てられています。
この地は、顕家終焉の地として、訪れる人々が彼の冥福を祈っています。
その他、顕家が戦った古戦場跡として、大阪府箕面市・池田市にまたがる豊島河原(豊島河原合戦の地)や、岐阜県大垣市の青野原古戦場などが知られています。
福島県伊達市の霊山には、江戸時代後期の寛政年間(1789年~1801年)に白河藩主・松平定信が顕家を慰霊するために建てた霊山碑も残っています。
これらの神社や史跡は、北畠顕家という歴史上の人物が、時代を超えて多くの人々に記憶され、敬愛されている証と言えるでしょう。
北畠顕家とは何をした人?総括
北畠顕家という人物が、歴史の中で一体どのような役割を果たし、何をした人なのか、その生涯を振り返ると、激動の時代を駆け抜けた若き英雄の姿が浮かび上がってきます。
彼の多岐にわたる活躍と影響を、以下にまとめてみました。
- 鎌倉時代末期から南北朝時代という、日本史における大きな変革期に活躍しました。
- 学問の名家である北畠家に生まれ、父は後醍醐天皇の側近・北畠親房です。
- 幼少期から並外れた才能を示し、わずか14歳で参議という朝廷の要職に就く異例の出世を遂げました。
- 13歳の時には後醍醐天皇の前で雅楽「陵王」を舞い、その文武に優れた姿を称賛されています。
- 建武の新政が始まると、16歳で陸奥守として東北地方に赴き、その統治と安定化に尽力しました。
- 後には鎮守府大将軍にも任じられ、東北地方の軍事指揮官としても重責を担っています。
- 足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、奥州から驚異的な速さで進軍し、新田義貞や楠木正成らと共に尊氏軍を一度は京都から駆逐しました。
- その戦いぶりから「最強」とも評される卓越した軍事指揮能力を持っていました。
- 武田信玄よりも前に「風林火山」の旗を用いたという逸話も伝えられています。
- 武官として、また鎮守府大将軍という立場から、弓術にも長けていたと考えられます。
- 二度目の西上の後、畿内各地で奮戦しましたが、最後は室町幕府の重臣・高師直との石津の戦いで、わずか21歳という若さで戦死しました。
- 戦死する直前には、後醍醐天皇に対し、建武の新政の誤りを指摘し改善を求める「北畠顕家上奏文」を提出しています。
- 彼の死後、弟の顕信や顕能が南朝方として活動を続け、特に顕能は伊勢北畠氏の祖となりました。顕家の直系子孫については諸説あります。
- 文武両道に優れ、忠義に厚い「花将軍」として後世に名を残し、特に明治維新以降にその功績が再評価されました。
- 現代においても、大阪の阿部野神社や福島の霊山神社など、彼を祀る神社やゆかりの史跡が各地に残されています。
このように、北畠顕家は短い生涯の中で、政治家、武将、そして文化人として多方面に才能を発揮し、歴史に大きな足跡を残した人物と言えるでしょう。
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