吉備真備は何をした人?どんな人?陰陽師や鬼の伝説とは?簡単にわかりやすく解説

吉備真備は、奈良時代に活躍した公卿・学者である。
若くして遣唐使の留学生に選ばれ、唐で儒学や律令法など多岐にわたる学問を修めた。
帰国後は数々の要職を歴任し、右大臣にまで昇進した。
優れた知識と政治手腕で、律令制度の整備や外交関係の改善に尽力。
唐文化の導入や陰陽道の普及にも努めた。
真備にまつわる数々の伝説や逸話は、その非凡な才能と知恵を物語っている。

この記事でわかること
  • 吉備真備の出自や経歴、遣唐使としての活躍について理解できる
  • 真備が唐で学んだ学問や、持ち帰った文物について知ることができる
  • 政治家として、律令制度の整備や外交関係の改善に尽力したことがわかる
  • 真備が唐文化の導入や陰陽道の普及に努めたこと、また彼にまつわる伝説や逸話について理解できる
目次

吉備真備とはどんな人物だったのか

吉備真備の出自と経歴

吉備真備は、奈良時代の公卿・学者で、備中国(現在の岡山県西部)の豪族・下道朝臣の出身です。
彼は若くして遣唐使の留学生に選ばれ、唐へ渡りました。
帰国後は朝廷で重用され、数々の要職を歴任。
最終的には右大臣にまで昇進した、まさに出世街道を駆け上った人物と言えるでしょう。
地方豪族の出身でありながら、その才能と努力で中央で活躍した希有な例として知られています。

吉備真備の才能と学問

真備の最大の特徴は、その優れた学識にあります。
唐での留学中、彼は儒学や律令法など多岐にわたる学問を修めました。
特に、儒教の経典である『漢書』や『礼記』の教授は真備の得意とするところでした。
帰国後も、儒家の聖人を祭る朝廷の儀式「釈奠」の整備に尽力するなど、儒教振興に力を注ぎます。
このように、真備は単なる知識人ではなく、その学問を国家の発展に活かそうとした実践的な学者だったのです。

吉備真備の人物像と逸話

真備の人物像を知る上で欠かせないのが、数々の逸話です。
例えば、唐で鬼に襲われそうになった際、機転を利かせて危機を脱したという話は有名ですね。
また、難解な『野馬台詩』の解読に成功し、唐の皇帝を感嘆させたとも伝えられます。
このように、知恵と度胸を兼ね備えた真備の姿が、当時の人々の間で「伝説の学者」としてイメージされていたことが窺えます。
彼の博識ぶりは、まさに「魔法使い」のように感じられたのかもしれません。

吉備真備は遣唐使として何をしたのか

吉備真備と阿倍仲麻呂の遣唐使での活躍

真備が遣唐使として活躍したのは、阿倍仲麻呂と同じ時期のことです。
仲麻呂は真備と同様、優秀な留学生として知られた人物。
二人は親交を深め、切磋琢磨しながら唐の都で学んだと言われています。
特に真備は、儒学や律令法など幅広い分野で才能を発揮。
「日本から来た秀才」として、唐の知識人たちからも一目置かれる存在となりました。
仲麻呂との友情と、真備の活躍ぶりは、遣唐使の成功を物語る象徴的なエピソードと言えるでしょう。

吉備真備が遣唐使として唐で学んだこと

唐での留学中、真備が学んだ事柄は実に多岐にわたります。
儒教の経典解釈はもちろん、律令法や暦算・天文学など、当時の最先端の学問を修めました。
また、詩文や書道など芸術面での素養も身につけたようです。
唐は当時の世界の中心であり、あらゆる分野の英知が集まる場所でした。
その中で学んだ知識は、真備にとって大きな財産となったことでしょう。
彼にとって唐留学は、単なる遣唐使の任務ではなく、自らの可能性を大きく広げる貴重な機会だったのです。

吉備真備が遣唐使から持ち帰った文物

真備が唐から持ち帰った文物は、質・量ともに膨大なものでした。
『礼記』や『漢書』など儒教の古典から、天文学の書『大衍暦経』『大衍暦立成』、さらには楽器や日時計など、多種多様な品々が含まれています。
中でも特筆すべきは、律令法に関する書物でしょう。
真備がもたらした法律の知識は、奈良時代の律令国家の基盤作りに大きく寄与したとされるのです。
彼は単に物品を持ち帰っただけでなく、唐の文物を日本に根付かせる上でも重要な役割を果たしたと言えます。

吉備真備は政治家として何をしたのか

吉備真備と橘諸兄の政治的パートナーシップ

真備が政治家として活躍する上で、橘諸兄の存在は欠かせません。
諸兄は聖武天皇の側近として政治の実権を握っていた人物で、真備とは盟友とも言える間柄でした。
真備が唐から帰国した後、諸兄は彼の才能を見抜き、自らの政権の要職に起用します。
二人は協力して聖武天皇を支え、国政運営に尽力したのです。
この時期の真備は、諸兄の片腕として、その政治手腕を遺憾なく発揮します。
諸兄との連携は、真備が政治家としての基盤を築く上で、大きな意味を持ったと言えるでしょう。

吉備真備の政治的手腕と役割

真備は政治家として、非常に優れた手腕を発揮しました。
律令制度の整備や、外交問題の解決など、様々な局面で活躍を見せたのです。
中でも特筆すべきは、東アジア情勢への対応でしょう。
真備は遣唐使の経験を活かし、唐との外交関係の改善に尽力。
また、新羅との緊張関係が高まった際には、筑紫の大宰府に赴任し、現地の防衛体制を整えました。
このように、国内外の情勢を見据えた真備の判断は、国家の安定に大きく寄与したのです。
まさに、「知」と「行動力」を兼ね備えた政治家の理想像と言えるでしょう。

吉備真備の右大臣就任という異例の出世

真備の政治家としての集大成は、何と言っても右大臣への就任です。
もともと地方豪族の出身だった真備が、ここまでの地位に上り詰めたことは、当時としては異例中の異例でした。
真備はその才覚と忠義により、孝謙上皇の信頼を勝ち取り、宮廷の重鎮となります。
右大臣としての真備は、国政の最高責任者の一人として、律令制度のさらなる充実に取り組みました。
彼の政治姿勢は、「有能な人材を登用する」という聖武・孝謙朝の方針を体現するものだったのです。

吉備真備は文化面で何をしたのか

吉備真備と玄昉の唐文化の導入

吉備真備と並び称されるのが、僧侶の玄昉です。
二人は遣唐使として同じ時期に渡唐し、それぞれの分野で唐文化の吸収に努めました。
玄昉は仏教を中心に、真備は儒教や律令を中心に学んだと言われています。
帰国後、彼らは習得した知識を日本に広めることに尽力。
特に、『漢書』『礼記』など中国の古典や、詩文・書道といった芸術は、真備によって日本の文化に大きな影響を与えました。
「唐文化の使者」とも呼ぶべき存在だったのです。

吉備真備が伝えた陰陽道の知識

吉備真備が日本にもたらした文化の中で、見逃せないのが陰陽道です。
真備は唐で陰陽道の知識を学び、帰国後はその普及に努めたと言われています。
特に、陰陽道の基本書とされる『金烏玉兎集』は、真備が唐から持ち帰ったと伝えられているのです。
平安時代に編纂された『江談抄』など、真備を日本陰陽道の祖と位置づける資料も残されています。
陰陽師安倍晴明の始祖とも言われる真備。
彼が伝えた陰陽道は、日本の思想や文化に大きな影響を与えたのです。

吉備真備にまつわる桃太郎伝説の関係性

真備と桃太郎伝説の関係を示す直接的な証拠はありませんが、吉備真備と桃太郎伝説の関係性について推測されることもあります。
桃太郎伝説の舞台である吉備の国は、真備の出身地でもあります。
真備という歴史上の英雄が、後の時代に桃太郎という伝説の英雄として語り継がれた可能性は十分にあると言えるでしょう。

吉備真備にまつわる伝説と逸話

吉備真備が鬼を操ったという伝説

真備にまつわる代表的な伝説の一つが、「鬼を操った」という話です。
『江談抄』によると、真備が唐で難題を出された際、亡き阿倍仲麻呂の霊が鬼となって助けてくれたのだとか。
真備は知恵を駆使して見事に難題を解き、唐の皇帝を驚かせたと言います。
もちろんこれは伝説ですが、真備の知恵と心の友・仲麻呂との絆を象徴するエピソードとして、広く親しまれてきました。
時に「鬼」すら味方につける真備の姿は、彼の非凡さを物語っているのです。

吉備真備が陰陽師の祖とされる理由

前述の通り、真備は日本陰陽道の祖とも言われています。
その理由の一つが、彼が唐から持ち帰ったとされる『金烏玉兎集』という書物の存在です。
金烏は太陽、玉兎は月を表し、陰陽道の根幹をなす思想が記されているのだとか。
また、真備が難題を解いた際、陰陽道の術を用いたという伝説もあります。
このように、真備と陰陽道の関わりを示唆する伝承が多く残されているのです。
彼の博識ぶりと、道術を駆使したとされる逸話が、陰陽師の始祖という印象を強めたのかもしれません。

吉備真備の知恵と力量を示す逸話

真備の逸話には、彼の知恵と度胸を示すものが数多くあります。
先述の『野馬台詩』の解読はその代表例ですね。
この詩は非常に難解で、唐の学者たちも解釈に苦しんでいたと言います。
それを真備が見事に解き明かした。
彼の博識ぶりに、皇帝も舌を巻いたことでしょう。
また、真備が唐人の難題を次々と解決したという話もよく知られています。
知恵比べや論争で、真備は常に唐人を圧倒したというのです。
こうしたエピソードは、当時の日本人の心に、「聡明な真備」という印象を強く刻んだに違いありません。

吉備真備は何をした人?どんな人?陰陽師や鬼の伝説とは?まとめと総括

吉備真備は、奈良時代に活躍した傑出した公卿・学者である。
備中国の豪族出身でありながら、若くして遣唐使に選ばれ、唐で儒学や律令法など多岐にわたる学問を修めた。
帰国後は朝廷で重用され、橘諸兄とともに聖武天皇を支え、律令制度の整備や外交関係の改善に尽力した。
また、玄昉と共に唐文化の導入に努め、陰陽道の知識を日本にもたらした。
真備は儒教の経典に精通し、『野馬台詩』の解読や釈奠の整備など、学者としても大きな功績を残した。
政治家としては右大臣にまで昇進し、国政の最高責任者の一人として活躍。
真備にまつわる数々の伝説や逸話は、その非凡な才能と知恵を物語っている。
吉備真備は、奈良時代の政治・文化・学問に多大な影響を与えた、まさに歴史に名を残す偉大な人物であった。

この記事のポイント
  • 吉備真備は奈良時代の公卿・学者である
  • 備中国(現在の岡山県西部)の豪族・下道朝臣の出身だ
  • 若くして遣唐使の留学生に選ばれ、唐へ渡った
  • 帰国後は朝廷で重用され、数々の要職を歴任した
  • 最終的には右大臣にまで昇進した
  • 唐での留学中、儒学や律令法など多岐にわたる学問を修めた
  • 儒教の経典である『漢書』や『礼記』の教授が得意だった
  • 帰国後、儒家の聖人を祭る朝廷の儀式「釈奠」の整備に尽力した
  • 唐で鬼に襲われそうになった際、機転を利かせて危機を脱したという逸話がある
  • 難解な『野馬台詩』の解読に成功し、唐の皇帝を感嘆させたと伝えられる
  • 阿倍仲麻呂と同時期に遣唐使として活躍した
  • 唐で律令法や暦算・天文学など、当時の最先端の学問を修めた
  • 唐から『礼記』や『漢書』など儒教の古典、天文学の書、楽器や日時計など多種多様な文物を持ち帰った
  • 橘諸兄と政治的パートナーシップを組み、聖武天皇を支えた
  • 律令制度の整備や、唐や新羅との外交関係改善に尽力した
  • 僧侶の玄昉と共に、唐文化の導入に努めた
  • 唐で陰陽道の知識を学び、帰国後はその普及に努めたとされる
  • 陰陽道の基本書とされる『金烏玉兎集』を唐から持ち帰ったと伝えられる
  • 桃太郎伝説の舞台である吉備の国は、真備の出身地でもある
  • 「鬼を操った」という伝説や、陰陽道の術を用いて難題を解いたという逸話がある
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