遣唐使廃止の理由をわかりやすく解説!菅原道真の決断と危険すぎる航海、「停止」の真実

「894(白紙)に戻そう遣唐使」。
歴史の授業でこの語呂合わせを覚えた方も多いのではないでしょうか?
200年以上続いた国家プロジェクトが、なぜ菅原道真の一言であっけなく終わってしまったのか。
その理由には、教科書だけでは語りきれないドラマチックな背景がありました。

実は、当時の唐は内乱によってボロボロの状態。
さらに、東シナ海を渡る航海は「生きて帰れる確率が五分五分」という、まさに命がけのミッションだったのです。 この記事では、菅原道真が下した決断の裏側にある「政治的な計算」や「過酷すぎる航海の現実」、そして意外と知られていない「本当は廃止するつもりではなかった」という歴史の真実について、わかりやすく解説します。

この記事を読むとわかること

  • 菅原道真が遣唐使の停止を提言した決定的な理由
  • 多くの遭難者を出した命がけの航海の実態
  • 実は「廃止」ではなく「停止」だった歴史的背景
  • 遣唐使の終了が国風文化に与えた影響
目次

遣唐使が廃止された決定的な理由

  • 菅原道真が寛平6年に提言した内容と意図
  • 黄巣の乱など唐の衰退による現地の情勢不安
  • 成功率が低く命がけだった航海の危険性
  • 商船の往来により変化した物資調達の手段
  • 実際は廃止ではなく停止だった歴史的経緯

菅原道真が寛平6年に提言した内容と意図

平安時代の寛平6年、西暦でいうと894年のことです。

日本の歴史において大きな転換点となる出来事が起こりました。

それが、菅原道真による遣唐使派遣の再検討を求める提言です。

この年、宇多天皇によって一度は遣唐使の大使に任命された道真でしたが、彼はすぐに出発することなく、朝廷に対してある提案を行いました。

それは「請令諸公卿議定遣唐使進止状」と呼ばれる文書の提出です。

名前だけ聞くと難しく感じるかもしれませんが、要するに「遣唐使を派遣するかどうか、もう一度みんなでよく話し合って決めませんか」という内容の提案書でした。

道真がこの提言を行った背景には、決して個人的な感情だけがあったわけではありません。

当時の唐の情勢と、派遣に伴うリスクを冷静に分析した結果としての政治的判断でした。

彼が挙げた主な理由は二つあります。

一つは「唐の衰退」です。

かつては大帝国として栄華を極めた唐でしたが、この頃には内乱が相次ぎ、国としての統制が取れなくなっていました。

もう一つは「航海の危険性」です。

過去の遣唐使たちの多くが海で命を落としており、優秀な人材を失うリスクがあまりにも大きかったのです。

ここで注目すべきは、道真の情報収集能力です。

彼はただ漠然と不安を感じていたのではありません。

当時、唐に滞在していた留学僧である中瓘(ちゅうかん)という人物から送られてきた報告書をもとに、現地のリアルな状況を把握していました。

その報告には「唐は今、内乱状態で非常に危険である」といった生々しい情報が記されていたといいます。

これを踏まえて道真は、多額の国家予算と貴重な人材を投じてまで、混乱する唐へ使節を送るメリットは薄いと判断したのです。

一部の説では、道真自身が海を渡ることを恐れたのではないか、あるいは政敵の策略を避けるためだったのではないかと言われることもあります。

しかし、彼が提出した建議書の内容を見る限り、そこには国家の利益を第一に考えた合理的な論理が展開されています。

当時の日本は、すでに唐の文化を十分に吸収し終えており、無理をしてまで新しい制度を取り入れる必要性は薄れていました。

むしろ、国内の政治改革や文化の熟成に力を注ぐべき時期に来ていたのです。

道真のこの提言は、単なる「中止願い」にとどまらず、日本の外交方針を根本から見直すきっかけとなりました。

それまで「唐に学ぶ」ことが当たり前だった日本の姿勢が、「自国の状況に合わせて判断する」という自立した外交へとシフトする重要な瞬間だったと言えるでしょう。

結果として、この提言は朝廷に受け入れられ、寛平の遣唐使派遣は延期、そして事実上の停止へと向かうことになったのです。

黄巣の乱など唐の衰退による現地の情勢不安

遣唐使が廃止された大きな要因の一つに、派遣先である唐という国の劇的な変化がありました。

かつての唐は、世界でもトップクラスの文明と強大な軍事力を持つ超大国であり、日本がお手本とすべき憧れの存在でした。

しかし、9世紀の終わり頃になると、その輝きは完全に失われつつあったのです。

その決定的な要因となったのが、唐国内で頻発した大規模な反乱でした。

中でも日本の朝廷に衝撃を与えたのが「黄巣の乱(こうそうのらん)」です。

これは874年頃から約10年間にわたって続いた農民反乱で、唐の全土を巻き込む大混乱を引き起こしました。

反乱軍は非常に強力で、なんと唐の首都である長安までもが一時的に占領されてしまったほどです。

長安といえば、過去の遣唐使たちが訪れ、その美しさと繁栄ぶりに圧倒された国際都市です。

その都が戦火に包まれ、略奪や破壊が行われているという情報は、日本側にとって信じがたいものでした。

もし、そんな危険な状態にある国へ遣唐使を派遣したらどうなるでしょうか。

まず、現地の治安が悪化しているため、使節団の身の安全が保障されません。

外交官として丁重に扱われるどころか、反乱軍に襲われたり、巻き込まれて命を落としたりする可能性が極めて高くなります。

また、唐の朝廷自体が弱体化しているため、日本からの使節を迎えて外交交渉を行う余裕などなかったと考えられます。

本来の目的である皇帝への拝謁や、最新の文化・文物の収集など、満足にできるはずがありません。

実際、この時期の唐は地方の軍事勢力がそれぞれ勝手に行動する分裂状態に近づいていました。

これを「藩鎮(はんちん)の割拠」と呼びますが、中央政府の命令が地方に届かない状態になっていたのです。

遣唐使船が中国の港に到着したとしても、そこから都である長安まで安全に移動することすら困難でした。

道中の宿場は荒れ果て、盗賊が横行するような道を、高価な貢物を持って進むのは自殺行為に等しかったでしょう。

このように言うと、単に「危ないから行かなかった」という消極的な理由に聞こえるかもしれません。

しかし、これは「外交相手としての唐の価値」が暴落したことを意味していました。

もはや唐は、命がけで学びに行くべき理想郷ではなく、崩壊しつつある危険な地域へと変わってしまっていたのです。

894年の時点で菅原道真が「唐は衰退している」と指摘した背景には、こうした具体的な現地の惨状がありました。

そして、その見立ては正しく、遣唐使停止の決定からわずか13年後の907年、唐王朝は滅亡することになります。

もしあの時、無理をして遣唐使を派遣していたら、日本を代表する知識人たちが無駄死にしていたかもしれません。

そう考えると、現地の情勢不安を理由に派遣を見送った判断は、歴史的に見ても非常に賢明な選択だったと言えます。

成功率が低く命がけだった航海の危険性

遣唐使の歴史を語る上で避けて通れないのが、その移動手段である船旅の過酷さです。

現代の私たちが飛行機で数時間かけて移動するのとはわけが違い、当時の渡航はまさに命がけの冒険でした。

遣唐使船は木造の帆船であり、動力は風と人力のみです。

しかも、当時の造船技術や航海術はまだ発展途上であり、東シナ海という荒れ狂う海を渡るにはあまりにも心許ないものでした。

遣唐使の航路には、大きく分けて「北路」と「南路」がありました。

初期の頃は、朝鮮半島の沿岸を伝って進む「北路」が使われていました。

このルートは陸地が見える範囲を航行できるため比較的安全でしたが、朝鮮半島の国々(新羅など)との関係が悪化したことで使えなくなってしまいます。

そこで日本が選ばざるを得なかったのが、五島列島から中国大陸に向かって東シナ海を一気に横断する「南路」でした。

これは、目印となる島がほとんどない大海原を突っ切るルートであり、遭難のリスクが飛躍的に高まる選択でした。

遣唐使船の構造的な弱点

遣唐使船には、構造上の大きな問題もありました。

当時の船は、箱のような形をした平底の船だったと言われています。

この形状は波の穏やかな沿岸部や河川を航行するのには適していましたが、波が高い外洋には不向きでした。

横波を受けると転覆しやすく、また「網代帆(あじろほ)」と呼ばれる植物を編んだ帆は、強風を受けると破損しやすいという欠点もありました。

さらに、現代のような羅針盤もありませんから、一度嵐に遭って方向感覚を失えば、どの方角に進んでいるのかさえ分からなくなってしまいます。

実際、中国を目指していたはずが、海流に流されてベトナムや南海の孤島に漂着したという記録も残っています。

遭難の頻度と生存率

どれだけ危険だったのかを具体的な数字で見ると、その凄まじさがわかります。

正確な統計を取るのは難しい部分もありますが、後期の遣唐使では、4隻で出発しても無事に4隻すべてが帰還できることは稀でした。

例えば、ある回では4隻のうち1隻が沈没し、数百人の命が一度に失われました。

また別の回では、暴風雨で船が真っ二つに裂け、破片にしがみついて数日間漂流した末に、奇跡的に数名だけが生還したという悲惨な事例もあります。

一説によると、往復無事に成功する確率は50%程度だったとも言われており、これは外交使節の派遣というよりも、生存競争に近い状態でした。

このような危険な航海に対して、当時の人々も強い恐怖心を抱いていました。

遣唐使に選ばれることは名誉であると同時に、家族との今生の別れを意味することも多かったのです。

出発の前には盛大な宴が開かれましたが、そこには悲壮な空気が漂っていたことでしょう。

894年に菅原道真が派遣の中止を訴えた際、この「航海の危険性」を理由の一つに挙げたことは、決して大げさな話ではありませんでした。

国家の最高レベルの知識人や官僚を、半分の確率で失うかもしれないプロジェクトに送り出すこと。

その損失とコストを天秤にかけたとき、もはや割に合わない事業になっていたのです。

技術的な限界と自然の猛威、これらが遣唐使廃止の背景にあった物理的な障壁でした。

商船の往来により変化した物資調達の手段

遣唐使を派遣する必要がなくなった理由として、経済的な側面、特に「モノの動き」の変化も見逃せません。

遣唐使が始まった当初、唐の優れた文物流入ルートは、公式な使節団が持ち帰る荷物にほぼ限定されていました。

最新の経典、美しい工芸品、珍しい薬、そして書物。

これらは日本にとって喉から手が出るほど欲しい貴重品であり、だからこそ莫大な国費をかけて船を出していました。

いわば、自ら「買い出し」に行かなければ手に入らない状況だったのです。

しかし、時代が進むにつれて状況は大きく変わりました。

9世紀頃になると、唐や新羅の商人が自分たちの船で日本へやってくるようになったのです。

彼らは民間の貿易商人であり、利益を求めて活発に活動していました。

国家の命令で動く堅苦しい使節とは違い、彼らはビジネスとして海を渡ります。

そのため、航海術や造船技術の向上にも熱心で、より安全かつ確実に荷物を運ぶノウハウを持っていました。

「買い出し」から「宅配」へ

これを現代の感覚で例えるなら、「遠くの店まで自分で買いに行っていた」状態から、「業者が自宅まで配送してくれる」状態になったと言えるでしょう。

唐の商船が日本の博多や大宰府に来航し、そこで最新の唐物(からもの)を販売してくれるのです。

日本側からすれば、わざわざ命がけで危険な東シナ海を渡り、高いコストをかけて使節団を派遣する必要がなくなります。

欲しいものがあれば、向こうからやってくる商人から買えば済む話だからです。

この物流の変化は、遣唐使という国家事業の根幹を揺るがすものでした。

実際、894年の停止提案の背景には、こうした民間貿易の成熟がありました。

菅原道真が参照した情報の中には、唐の商人や僧侶から得たものも多く含まれていました。

これは、公式な使節を送らなくても、情報のパイプラインがすでに確保されていたことを意味しています。

物資だけでなく、最新の情報でさえも、商船を通じて入手できるようになっていたのです。

貿易の管理体制の変化

また、朝廷はこうした商船の来航を管理するために、大宰府に「鴻臚館(こうろかん)」という施設を整備していました。

ここでは、来航した商人をもてなし、取引を行うための設備が整えられていました。

商船が到着すると、まず朝廷が優先的に必要な品物を購入し、その残りを貴族や寺院が購入するというシステムが出来上がっていたのです。

これにより、朝廷はリスクを負わずに最上級の品物を手に入れることができました。

このように考えると、遣唐使の廃止は「日本が唐との関係を断ち切った」わけではなく、「より効率的な交流手段に切り替えた」という側面が強いことがわかります。

外交上の形式的な朝貢よりも、実利的な貿易の方が双方にとってメリットが大きくなっていたのです。

商船の往来による物資調達の容易化は、遣唐使という巨大プロジェクトを終わらせるための、非常に現実的かつ合理的な理由の一つでした。

実際は廃止ではなく停止だった歴史的経緯

教科書などで「894年、遣唐使の廃止」と習った記憶がある方は多いと思います。

しかし、歴史の事実を細かく見ていくと、この時は「永久に廃止します」と宣言されたわけではありませんでした。

正確には「今回は見送りましょう」、つまり「停止(延期)」という決定だったのです。

ここには、当時の政治家たちの慎重な姿勢と、その後の予測不能な歴史の展開が関係しています。

寛平6年(894年)、菅原道真の提言によって派遣計画がストップした際、朝廷が出した結論は「延期」でした。

道真自身も、遣唐大使という役職を解任されたわけではありません。

彼はその後も数年間、「遣唐大使」の肩書きを持ったまま日本に留まっていました。

これは、もし唐の情勢が回復し、また行く必要が出てくれば、いつでも再開できる余地を残していたことを意味します。

つまり、当時の人々にとって、これは「長い歴史を持つ遣唐使制度の終わり」という認識ではなく、「とりあえず今の危険な状況が落ち着くまでは様子を見よう」という一時的な措置だったのです。

なぜ「停止」が「廃止」になったのか

では、なぜ結果としてこれが「廃止」と呼ばれるようになったのでしょうか。

それは、再開のタイミングを待っている間に、相手国の唐そのものがなくなってしまったからです。

894年の決定から13年後の907年、唐王朝は滅亡しました。

派遣する相手がいなくなってしまえば、当然ながら遣唐使を送ることはできません。

その後、中国大陸では五代十国という混乱の時代を経て、宋(そう)という新しい王朝が成立します。

しかし、その頃には日本国内の政治体制も変化しており、改めて莫大な予算をかけて大規模な使節団を送ろうという機運は盛り上がりませんでした。

また、遣唐使計画の中心人物であった菅原道真が、901年に大宰府へ左遷されてしまったことも影響しています。

リーダーを失った遣唐使計画は、事実上宙に浮いた状態になり、誰も積極的に再開を言い出さなくなりました。

そうこうしているうちに唐が滅び、自然消滅のような形で遣唐使の歴史は幕を閉じたのです。

歴史用語としての「廃止」のニュアンス

現代の私たちが「廃止」という言葉を使うとき、そこには「制度を意図的に無くす」という強い意志を感じます。

しかし、遣唐使の場合は「気づいたら終わっていた」という表現の方が実態に近いかもしれません。

当時の日本政府が「今日から廃止します」と宣言したわけではなく、状況に合わせて判断を先送りしているうちに、時代の変化によってその役割自体が消滅してしまったのです。

この「停止」から「自然消滅」への流れは、日本の外交スタンスの変化を象徴しています。

無理に形式を維持するのではなく、実状に合わせて柔軟に対応する。

894年の決定は、ある意味で日本が現実主義的な外交へと舵を切った瞬間でもありました。

ですから、「遣唐使廃止」という出来事は、ある日突然バサリと切り捨てられたものではなく、時代の流れの中で静かにその役目を終えていったプロセスとして理解するのが正しいでしょう。

遣唐使廃止の理由と歴史的背景

  • 200年以上続いた遣唐使の目的と変遷
  • 空海や最澄など歴史に名を残した派遣者
  • 4隻の船で挑んだ過酷な渡航と遭難の実態
  • 廃止を機に加速した日本独自の国風文化
  • 公式な国交断絶後の海外貿易と交流

200年以上続いた遣唐使の目的と変遷

遣唐使という一大プロジェクトは、630年から894年の停止決定に至るまで、約260年もの長きにわたって続きました。

これだけの期間続いていれば、当然その目的や役割も最初と最後では大きく変化しています。

遣唐使の歴史を理解するためには、その変遷を「初期」「中期」「後期」といった段階に分けて見る必要があります。

それぞれの時代で、日本が唐に対して何を求めていたのかが異なっているからです。

初期:国家建設のための必死の学習

遣唐使が始まった630年頃、日本(当時は倭国)はまだ国家としての形を整えようとしている最中でした。

この時期の最大の目的は、先進国である唐の政治システムや法律(律令制度)を学ぶことです。

当時の唐は、世界最先端の行政システムを持っていました。

日本はそれを模倣し、天皇を中心とした中央集権国家を作り上げようと必死だったのです。

また、朝鮮半島での白村江の戦い(663年)で敗北した後は、唐との緊張関係を緩和し、日本が攻められないようにするための「政治的な外交」としての側面も強くなりました。

つまり、初期の遣唐使は「国の存亡をかけた学びと外交」だったと言えます。

中期:文化の吸収と人材育成

702年の大宝の遣唐使以降、日本国内でも律令制度がある程度整ってくると、目的は少しずつ変化していきます。

政治制度そのものよりも、仏教、芸術、文学といった「文化的な要素」の吸収に重きが置かれるようになりました。

この時期には、多くの留学生や留学僧が海を渡っています。

彼らは長期間現地に滞在し、最新の知識を身につけて帰国しました。

彼らが持ち帰った知識は、奈良時代の天平文化などに色濃く反映されています。

この頃の遣唐使は、日本が文化的に成熟するための「栄養補給」のような役割を果たしていました。

後期:儀礼と威信、そして物資の獲得

平安時代に入り、800年代になると、遣唐使の性質はさらに変わります。

すでに日本独自の文化や政治体制がある程度確立されていたため、唐から学ぶべきことは少なくなっていました。

それでも派遣を続けた理由の一つは、珍しい文物の獲得です。

密教の経典や道具、香料や薬品など、日本では手に入らない「モノ」を持ち帰ることが重要視されました。

また、国際社会における日本の立場を示すための「儀礼的な意味合い」も強くなっていきます。

しかし、この頃には唐の衰退も始まっており、留学生たちも「もう学ぶことはあまりない」と感じるケースが出てきました。

実際、短期留学で帰国する者が増えたのもこの時期の特徴です。

このように、遣唐使の目的は「国家の基礎作り」から「文化の充実」、そして「儀礼と実利」へと移り変わっていきました。

200年以上もの間、同じ名前の使節団が派遣され続けましたが、その中身は時代とともに柔軟に変化していたのです。

そして最終的に、学ぶべきことを学び尽くし、商船による貿易でモノが手に入るようになったことで、その歴史的な役割を終えることになりました。

遣唐使の歴史は、そのまま古代日本の成長の歴史とも重なっているのです。

空海や最澄など歴史に名を残した派遣者

遣唐使船には、外交官である大使や副使だけでなく、多くの留学生(るがくしょう)や留学僧(るがくそう)が乗船していました。

彼らは、現代で言えば「国費留学生」のようなエリートたちです。

その中には、後に日本の歴史や文化を決定づけることになる、スーパースターたちが含まれていました。

特に有名なのが、平安仏教の二大巨頭である「空海」と「最澄」です。

彼らが参加したのは、延暦23年(804年)の遣唐使でした。

密教をもたらした天才・空海

空海(弘法大師)は、真言宗の開祖として知られています。

彼は遣唐使船に乗って唐の都・長安に入り、恵果(けいか)という高僧から密教の奥義を授かりました。

驚くべきは、そのスピードです。

本来なら20年かけて学ぶ予定だった留学期間を、彼はわずか2年ほどで切り上げ、密教の全てを習得して帰国してしまいました。

彼の天才的な語学力と才能があったからこそ成し遂げられた偉業ですが、もし彼が遣唐使船に乗っていなければ、日本の仏教史は全く違ったものになっていたでしょう。

彼が持ち帰った密教美術やマンダラは、その後の日本文化に多大な影響を与えました。

天台宗を開いた最澄

一方、同じ船団で唐へ渡ったのが、天台宗の開祖となる最澄(伝教大師)です。

彼はすでに日本国内で実績のある高僧として、短期留学の資格(還学生・げんがくしょう)で参加しました。

最澄は天台山に登って天台教学を学び、多くの経典を日本に持ち帰りました。

彼が比叡山に開いた延暦寺は、後に多くの鎌倉仏教の祖(法然、親鸞、日蓮など)を輩出する「日本仏教の母山」となります。

最澄と空海、二人の天才が同じ時期に海を渡り、それぞれ異なる教えを持ち帰ったことは、日本の精神文化にとって奇跡的な幸運でした。

異国で散った阿倍仲麻呂

しかし、全ての派遣者が順風満帆だったわけではありません。

奈良時代に派遣された阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のように、あまりに優秀すぎて帰国できなかった人物もいます。

彼は若くして唐に渡り、現地の最難関試験である「科挙(かきょ)」に合格して唐の役人になりました。

皇帝・玄宗に気に入られ、高い地位にまで上り詰めましたが、日本への望郷の念は消えませんでした。

ようやく帰国の許可が出て船に乗ったものの、暴風雨でベトナムに漂着してしまい、結局日本に帰ることは叶わず、唐の地で生涯を終えました。

彼が詠んだ「天の原 ふりさけ見れば 春日なる…」という和歌には、遠い故郷を思う切実な心が込められています。

彼らの人生を見ると、遣唐使がいかに人間の運命を左右する巨大なプロジェクトだったかがわかります。

成功して英雄となる者、異国で果てる者、海に消える者。

遣唐使の歴史は、こうした個人の情熱と冒険によって紡がれていました。

彼らが命がけで持ち帰った知識の種が、その後の日本という国の中で大きく花開いたのです。

4隻の船で挑んだ過酷な渡航と遭難の実態

遣唐使の船旅がどれほど過酷だったかは、「四つの船」というキーワードを通して見るとより鮮明になります。

遣唐使は原則として、4隻の船で一つの船団を組んで航行しました。

これを「四船(よつのふね)」と呼びます。

なぜ4隻なのかというと、一度に多くの人と荷物を運ぶためという理由もありますが、もっと切実な理由として「全滅を防ぐため」というリスク分散の意味合いが強かったと考えられています。

もし1隻が沈んでも、他の船が生きていれば、大使や重要な荷物を守れる可能性があるからです。

分断される船団

4隻が揃って出発しても、同時に目的地に着けるとは限りません。

動力のない帆船にとって、海上の天気は絶対的な支配者です。

嵐に遭えば、船団は散り散りになってしまいます。

例えば、ある船は中国の北部に、別の船は南部に、そして残りの船は行方不明に、といったことが頻繁に起こりました。

無線もGPSもない時代ですから、一度はぐれてしまえば、互いの安否を確認する術はありません。

それぞれの船長や船員が、自分たちの判断だけで生き残る道を模索するしかなかったのです。

状況結果の例
順調な航海全船が無事に唐の港に到着(非常に稀なケース)
嵐による離散ある船は長江の河口へ、ある船はベトナムへ漂着
座礁・沈没岩礁に乗り上げる、波に飲まれて船体が崩壊する
漂流マストが折れ、海流に乗って数週間彷徨う

想像を絶する遭難の現場

特に悲惨だったのが、第16次遣唐使(778年の帰路)の事例です。

この時も4隻で日本を目指しましたが、暴風雨に見舞われました。

第1船は真っ二つに割れ、大使を含む多くの人が亡くなりました。

生存者は船の破片にしがみつき、数日間の漂流の末に日本の海岸に打ち上げられたといいます。

第3船は座礁し、修理してなんとか帰還。

第4船に至っては、済州島(現在の韓国の島)に漂着し、そこで現地の人に船を奪われたり、拘束されたりするという散々な目に遭っています。

無事に帰れたのは第2船だけでした。

また、漂流中に水や食料が尽きることもしばしばありました。

「竹の筏(いかだ)を作って脱出した」という記録もありますが、これはもはや船旅というレベルを超えたサバイバルです。

海に投げ出されれば、サメの襲撃に怯え、喉の渇きと戦わなければなりません。

生きて日本の土を踏めた者は、まさに運命に選ばれた人々でした。

4隻の船が出て、4隻とも無事に帰ってくる。

そんな当たり前のことが、当時の技術では奇跡に近い偉業だったのです。

この過酷すぎる実態が積み重なり、やがて「もうこれ以上、無理をして送る必要はないのではないか」という廃止論へと繋がっていったことは間違いありません。

廃止を機に加速した日本独自の国風文化

894年に遣唐使が停止されたことは、日本の文化にとって巨大なターニングポイントとなりました。

それまでの日本は、常に「唐」という偉大なお手本を追いかけ、それを真似することに必死でした。

しかし、公式な国交が途絶えたことで、日本人は外に向いていた視線を自国の内側へと向けるようになります。

これによって花開いたのが、日本独自の「国風文化(こくふうぶんか)」です。

このように言うと「鎖国をして独自の文化が生まれた」と誤解されがちですが、実際は少し違います。

正確には、これまで輸入してきた膨大な唐の文化を、日本の風土や日本人の感性に合うように「消化・吸収・アレンジ」した時期だと言えます。

輸入が止まったからこそ、手元にある材料を使って、自分たちにとって心地よい形に作り変える作業が進んだのです。

かな文字の発明と文学の隆盛

国風文化の最大の功績の一つは、「かな文字」の発達です。

それまでは、日本語を書き表すにも中国の文字である「漢字」を使っていました(万葉仮名など)。

しかし、漢字は画数が多く、さらさらと感情を書き記すには不便です。

そこで、漢字を崩して簡略化した「ひらがな」や、一部を取った「カタカナ」が生まれました。

この発明により、日本人の繊細な感情を自由に表現できるようになりました。

その結果、女性を中心とした文学が爆発的に発展します。

紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』といった世界に誇る古典文学は、この時代に生まれました。

また、和歌(やまとうた)も再び重要視されるようになり、『古今和歌集』という勅撰和歌集が編纂されました。

これらは、「唐風」の漢詩文とは違う、日本人の心に寄り添った表現方法が確立されたことを意味しています。

生活様式の「和風化」

変化は文学だけではありません。

衣食住のスタイルも、日本の気候に合ったものへと変化しました。

建築では「寝殿造(しんでんづくり)」が登場します。

これは、高温多湿な日本の夏を快適に過ごせるよう、壁を少なくして風通しを良くした建築様式です。

服装も、唐風の動きにくい衣装から、ゆったりとしたシルエットの「十二単(じゅうにひとえ)」や「束帯(そくたい)」へと変わっていきました。

これらは、畳に座って生活する日本のライフスタイルに適応した形です。

このように、遣唐使の廃止は、日本が単なる「唐のコピー」から脱却し、「日本らしさ」を確立するきっかけとなりました。

もし遣唐使が続いていて、常に最新の唐文化が流入し続けていたら、日本独自の文化がこれほど深く根付くことはなかったかもしれません。

外交の空白期間は、日本文化が熟成するために必要な「発酵の時間」だったと言えるでしょう。

公式な国交断絶後の海外貿易と交流

遣唐使が廃止された後、日本は外国との付き合いを完全にやめてしまったのでしょうか?

答えは「いいえ」です。

ここにはよくある誤解があります。

「遣唐使の廃止=鎖国」ではありません。

あくまで「国家による公式な使節団の派遣」がなくなっただけであり、民間レベルでの貿易や、僧侶たちの往来はむしろ活発に続いていました。

民間貿易の拡大と「唐物」への憧れ

遣唐使がなくなった後も、日本人の「海外製品への憧れ」が消えたわけではありません。

むしろ、貴族たちの間では、中国産の陶磁器、絹織物、書画、香料といった「唐物(からもの)」が大流行していました。

では、それらを誰が運んでいたのかというと、中国(唐、後の宋)の商人たちです。

彼らは大型の貿易船を仕立てて、博多や越前(福井県)の敦賀などに頻繁に来航しました。

日本側も、国家として正式な国交はないものの、彼らの来航を拒否することはなく、大宰府などで管理しながら貿易を認めました。

この時期の貿易は、日本からは砂金、真珠、水銀、刀剣などを輸出し、中国からは銅銭(お金)、書籍、薬品などを輸入するという形でした。

特に、平安末期になると、平清盛(たいらのきよもり)が日宋貿易(にっそうぼうえき)を積極的に推進しました。

彼は瀬戸内海の航路を整備し、神戸の大輪田泊(おおわだのとまり)を改修して、中国船が直接入港できるようにしました。

遣唐使という「形式」にこだわらず、実利のある「貿易」を選んだ結果、経済的な結びつきはむしろ強まっていたのです。

僧侶たちの私的な留学

また、人の移動も続いていました。

遣唐使船という「公用車」はなくなりましたが、情熱のある僧侶たちは、中国の商船という「タクシー」や「バス」に便乗して海を渡り続けました。

例えば、鎌倉時代に禅宗を伝えた栄西(えいさい)や道元(どうげん)といった僧侶たちも、商船に乗って宋へ留学しています。

彼らは国家の命令ではなく、自らの意志と、スポンサーの支援によって留学を行いました。

これを「入宋僧(にっそうそう)」と呼びます。

彼らが持ち帰ったのは、禅宗や茶の湯の文化、水墨画などであり、これらが後の中世日本文化の基盤となりました。

「年紀制」という緩やかな制限

ただし、無制限に自由だったわけではありません。

朝廷は「年紀制(ねんきせい)」というルールを設け、同じ商人の来航間隔を数年空けさせるなどの制限を行っていました。

これは、貿易による経済への影響をコントロールするためや、防衛上の理由からです。

しかし、基本的には「来るものは拒まず、ただし管理する」というスタンスでした。

結論として、遣唐使の廃止後も、日本と中国の間の海は閉ざされてはいませんでした。

公式な外交ルートという太いパイプはなくなりましたが、その代わりに無数の商船という細いパイプが網の目のように繋がり、人やモノ、情報を運び続けていたのです。

この柔軟でたくましい民間交流こそが、次なる時代の日本の発展を支えることになりました。

遣唐使が廃止された理由と歴史的な流れのまとめ

894年の遣唐使廃止は、単なる「中止」という出来事にとどまらず、日本が古代から中世へと移り変わる中で、自国の状況に合わせて外交方針を大きく転換させた歴史的な決断でした。
これまでに解説した複雑な背景や経緯について、重要なポイントを流れに沿って整理します。

  • 寛平6年(894年)、遣唐大使に任命された菅原道真が、宇多天皇に対して派遣の再検討(建議)を行いました。
  • 道真は個人の感情ではなく、現地の留学僧からの報告に基づき、唐国内が内乱で危険であることを把握していました。
  • かつて超大国だった唐は「黄巣の乱」などで衰退しており、リスクを冒してまで学ぶべき対象ではなくなっていました。
  • 当時の造船・航海技術では東シナ海の横断は命がけであり、多くの船が遭難や沈没の悲劇に見舞われていました。
  • 4隻の船団で出発しても無事に全員が帰国できる確率は低く、国の宝である優秀な人材を失う損失が大きすぎました。
  • 9世紀頃には唐や新羅の商船が頻繁に来航するようになり、必要な文物は彼らから購入できるようになっていました。
  • 自ら危険を冒して取りに行く「買い出し」から、商人が運んでくるのを待つ「宅配」へと、物資調達の手段が変化しました。
  • 日本国内でも律令制度や仏教が十分に定着しており、唐の模倣から脱却する時期に来ていました。
  • 当初の決定は「永久廃止」ではなく、情勢が回復するのを待つ「停止(延期)」という一時的な措置でした。
  • しかし、再開のタイミングを見計らっている間に、907年に唐王朝そのものが滅亡してしまいました。
  • さらに、計画の中心人物だった菅原道真が大宰府へ左遷されたことで、再開を主導するリーダーがいなくなりました。
  • 結果として、なし崩し的に「自然消滅」という形になり、歴史的にはこれを「廃止」と呼ぶようになりました。
  • 公式な国交が途絶えたことで、日本人の感性に合った「国風文化」が熟成し、かな文字や日本文学が発展しました。
  • 衣食住も日本の気候風土に合わせた様式(寝殿造や十二単など)へと変化し、日本らしさが確立されました。
  • 廃止後も国を閉ざしたわけではなく、民間貿易や僧侶の私的な留学を通じて、日中間の交流は活発に続いていきました。

参考サイト

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