ジョン万次郎は何をした人?簡単に!スパイ説・死因から英語の秘訣と功績

ジョン万次郎

「ジョン万次郎の名前は聞いたことがあるけれど、『ジョン万次郎 何をした人 簡単に』教えてほしい!」「漂流してアメリカに行った…だけじゃないの?」「スパイだったという噂や最期(死因)も気になる…」そんなあなたの疑問に、この記事がズバリお答えします。

この記事では、土佐の貧しい漁師の息子が体験した「すごい」漂流生活から、アメリカでの驚異的な「英語の覚え方」、帰国後に「咸臨丸」で果たした歴史的役割、そして「坂本龍馬」ら幕末の志士に与えた影響まで、ジョン万次郎の多岐にわたる「功績」を分かりやすく解説。彼を支えた「妻」や現代に続く「子孫」の物語、心に響く「名言」、気になる「スパイ」疑惑の真相、そして彼の「死因」にも光を当てます。

読み終える頃には、ジョン万次郎という人物の多面的な魅力と、彼が日本の近代化にいかに貢献したかが具体的に見えてくるはずです。

この記事を読むとわかること

  • ジョン万次郎の波乱万丈な生涯と主な出来事
  • アメリカでの驚異的な学びと英語習得の秘訣
  • 日本の近代化における具体的な功績と影響
  • スパイ説の真相、名言、家族、そして最期
目次

ジョン万次郎とは?何をした人か簡単に知りたい!

ジョン万次郎1
  • 漂流からアメリカへ!ジョン万次郎の「すごい」半生
  • 万次郎の驚異的な「英語の覚え方」とその秘訣
  • 日本人初!アメリカでの学びと多様な経験
  • 帰国への決意と仲間たちとの再会

漂流からアメリカへ!ジョン万次郎の「すごい」半生

ジョン万次郎の半生は、まさに波乱万丈という言葉がふさわしく、その出発点からして常人の想像を絶するものでした。

彼の「すごい」と言われる所以は、単に日本人として初めてアメリカに渡ったという事実だけでなく、そこに到るまでの壮絶な経緯と、未知の世界へ臆せず飛び込んでいった類稀な勇気と適応能力にあると言えるでしょう。

文政10年(1827年)、土佐の貧しい漁師の家に生まれた万次郎は、9歳で父を亡くし、幼い頃から家計を助けるために働いていました。

読み書きを学ぶ機会もほとんどなかった少年が、日本の歴史を動かす一人になるとは、この時誰も予想できなかったはずです。

運命が大きく動いたのは、天保12年(1841年)、万次郎が14歳の時でした。

仲間と共に足摺岬沖でのアジ・サバ漁に出たものの、激しい嵐に遭遇し、船は航行不能となってしまいます。

5日半とも10日間とも言われる漂流の末、彼らがたどり着いたのは、伊豆諸島にある無人島「鳥島」でした。

ここから、万次郎たちの想像を絶するサバイバル生活が始まります。

飲み水はわずかな溜水に頼り、食料はアホウドリなどの海鳥や海藻を口にするしかありませんでした。

後に万次郎は、60日から70日間も雨が降らず、自分の尿を飲んで渇きをしのいだとも語っており、その過酷さがうかがえます。

このような極限状態の中、実に143日間もの日々を生き延びたのです。

この生命力と困難に屈しない精神力こそ、万次郎の「すごさ」の根源の一つと言えるのではないでしょうか。

そして、漂着から143日後、万次郎たちの運命を再び大きく変える出来事が起こります。

食料の海亀を求めて鳥島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって、彼らは救助されたのです。

船長のウィリアム・ホイットフィールドは、万次郎たちを保護しました。

しかし、当時の日本は鎖国政策を敷いており、外国船がむやみに日本の港に近づくことはできませんでしたし、仮に帰国できたとしても、海外渡航者として厳しい処罰を受ける可能性が高かったのです。

ホイットフィールド船長は、万次郎を除く4人の仲間を、比較的安全なハワイで下ろすことを考えました。

しかし、万次郎の利発さや真面目な性格を気に入った船長は、彼にアメリカへ来ないかと問いかけます。

万次郎自身も、船内で初めて見た世界地図の中で日本のあまりの小ささに衝撃を受け、広い世界、特にアメリカという国を見てみたいという強い知的好奇心を抱いていました。

こうして、彼はアメリカへ渡るという、当時としては極めて異例かつ大胆な決断を下します。

この時、船長は万次郎に、船名にちなんで「ジョン・マン (John Mung)」という愛称を与えました。

これが、後に「ジョン万次郎」と呼ばれる彼の新たな人生の始まりとなったのです。

このように、万次郎の半生の序章は、絶望的な状況からの生還と、未来への大きな一歩を踏み出す勇気に満ち溢れていました。

彼の「すごい」物語は、まだ始まったばかりだったのです。

万次郎の驚異的な「英語の覚え方」とその秘訣

ジョン万次郎が、ほぼ教育を受けていない状態から、短期間で高度な英語力を身につけたことは、まさに驚異的と言わざるを得ません。

その背景には、彼の並外れた知的好奇心、類まれな勤勉さ、そして何よりも彼を温かく支えた人々との出会いがありました。

彼の英語学習法は、現代を生きる私たちにとっても多くの示唆を与えてくれるものです。

1843年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘーブンで、船長の養子同然の生活を始めました。

渡米当時、万次郎は日本語の読み書きすらほとんどできませんでしたから、英語の知識は皆無だったと言ってよいでしょう。

しかし、船長の厚意により、彼はオックスフォード・スクールという学校に通う機会を得ます。

最初は小学生に交じって英語の基礎から学ぶことになりましたが、万次郎は新しい知識に触れることを心から喜び、寝る間も惜しんで勉学に励んだと伝えられています。

当時のアメリカは、まだ人種差別が色濃く残る時代でした。

万次郎が日曜学校に入ろうとした際、肌の色を理由に入学を断られたというエピソードもあります。

しかし、ホイットフィールド船長夫妻は、万次郎を受け入れてくれたプロテスタントの一派であるユニテリアン教会に、自らも宗旨替えをするという深い愛情と決意をもって彼を支えました。

このような恵まれた環境が、万次郎の学習意欲を一層高めたことは想像に難くありません。

万次郎の英語の覚え方について特筆すべきは、彼が耳で聞いた音を非常に忠実に捉え、それをそのまま発音しようと努めた点です。

例えば、「water」を「ワタ」、「Sunday」を「サンレイ」、「New York」を「ニューヨー」といった具合に、当時の日本人が馴染みのない音を、自身の聴覚を頼りに再現していったのです。

これは、文法や文字から入るのではなく、まず音声を重視するという、現代の言語習得論にも通じる実践的なアプローチでした。

彼が後に編纂に協力した日本初の本格的な英会話教本『英米対話捷径』にも、この発音法が生かされていると言われています。

彼の努力は実を結び、学友からは「万次郎は恥ずかしがりやで物静かだったが、常に成績はクラスでトップだった」と証言されるほど優秀な生徒となりました。

その後、より専門的な知識を学ぶためバートレット・アカデミーに進学し、英語だけでなく、数学、測量、航海術、造船技術といった高度な学問も英語で習得し、ここでも首席の成績を収めています。

これは、彼が日常会話レベルを超えて、専門的な文献を読み解き、論理的に思考する能力をも英語で身につけていたことを示しています。

もちろん、万次郎の英語習得は順風満帆だったわけではありません。

言葉の壁や文化の違いに戸惑うことも多々あったでしょう。

しかし、彼の持ち前の知的好奇心、目標を達成しようとする強い意志、そして周囲の温かいサポートが、これらの困難を乗り越える力となったのです。

万次郎の驚異的な英語習得の秘訣は、単なる才能だけでなく、学ぶことへの純粋な喜び、実践を重視した学習姿勢、そして彼を信じ支え続けた人々の存在にあったと言えるでしょう。

彼の学びの軌跡は、言語習得における環境と本人の努力の重要性を、私たちに改めて教えてくれます。

日本人初!アメリカでの学びと多様な経験

ジョン万次郎は、日本人として初めてアメリカの学校で系統的な教育を受け、当時の最先端の知識や技術を吸収しただけでなく、異なる文化や価値観に深く触れました。

彼がアメリカで送った約10年間の生活は、その後の日本の近代化に大きく貢献する彼の人間形成において、決定的な意味を持ったと言えるでしょう。

万次郎のアメリカでの学びは、フェアヘーブンのオックスフォード・スクールから始まり、その後バートレット・アカデミーへと進みました。

ここで彼は、英語はもちろんのこと、数学、測量術、航海術、そして造船技術といった、当時の日本がまさに必要としていた実学を熱心に学びました。

特に航海術や造船技術は、後の彼の人生において非常に重要な役割を果たすことになります。

彼の勤勉さと知性は際立っており、バートレット・アカデミーでは首席の成績を収めるほどでした。

これは、鎖国下の日本では想像もつかないような、西洋の進んだ学問体系に触れた万次郎が、いかにそれを貪欲に吸収しようとしていたかを物語っています。

学校を卒業した後、万次郎はホイットフィールド船長の紹介で、捕鯨船フランクリン号の乗組員となりました。

1846年から数年間、彼は近代的な捕鯨技術を実践の中で学びながら、大西洋、インド洋、太平洋と、文字通り七つの海を股にかけて航海します。

この航海中、彼は世界各地の港に立ち寄り、多様な人々と交流し、国際的な視野を広げていきました。

また、この捕鯨船員としての経験は、彼に実践的な航海術やリーダーシップを養わせ、一説には副船長格にまで昇進したとも言われています。

この事実は、彼が単に学問を修めただけでなく、それを実社会で応用し、成果を上げる能力も持っていたことを示しています。

アメリカでの生活は、万次郎に学問や技術以上のものをもたらしました。

それは、当時の日本人には全く未知であった民主主義という社会システムや、個人の自由を尊重する価値観との出会いです。

国民の選挙によって大統領が選ばれることや、男女の比較的平等な関係性などは、封建的な身分制度が当たり前だった日本から来た彼にとって、大きな衝撃であったに違いありません。

これらの経験は、彼のものの見方や考え方に深い影響を与え、後の日本社会のあり方について思索を巡らすきっかけとなったでしょう。

しかし、当時のアメリカ社会が全てにおいて理想郷であったわけではありません。

万次郎は、人種差別という厳しい現実に直面することもあったと言われています。

彼が日曜学校への入学を拒否されたエピソードは、その一端を示しています。

それでも、ホイットフィールド船長夫妻をはじめとする周囲の人々の温かい支援と、彼自身の困難に立ち向かう強靭な精神力によって、これらの壁を乗り越えていきました。

さらに、万次郎は1849年頃、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへも足を運んでいます。

これは、日本への帰国資金を得るという明確な目的を持った行動でした。

彼は数ヶ月間、金鉱で働き、見事に目的の資金を獲得します。

このエピソードは、彼の目標達成への執念と、現実的な問題解決能力の高さを示していると言えるでしょう。

このように、ジョン万次郎のアメリカでの学びと多様な経験は、知識や技術の習得に留まらず、彼の人間性、世界観、そして行動力を育む上で、計り知れないほど大きな意味を持っていたのです。

帰国への決意と仲間たちとの再会

アメリカでの生活が10年近くに及び、万次郎は英語を自在に操り、航海術や造船技術といった専門知識も身につけ、捕鯨船員としても確かな地位を築きつつありました。

ホイットフィールド船長からは実の子のように可愛がられ、フェアヘーブンの人々にも受け入れられていた彼が、なぜ多大な困難と危険を冒してまで日本への帰国を決意したのでしょうか。

その背景には、故郷への断ち切れない想いと、アメリカで得た知識や経験を日本のために役立てたいという強い使命感があったと考えられます。

万次郎の心の中には、常に土佐の母や家族、そして共に漂流し、ハワイで別れた仲間たちの姿がありました。

捕鯨船での航海中、日本の近海を通過するたびに、彼の望郷の念は募ったことでしょう。

ある時、日本の漁船と遭遇し、土佐訛りで「ここから土佐へいねるかや?(ここから土佐へ帰れるか?)」と呼びかけたものの、返事はなかったという逸話は、彼の故郷への強い思いを物語っています。

また、琉球の無人島に停泊した際も、帰国の機会は訪れませんでした。

さらに、万次郎がアメリカで目にした世界の広さ、そして西洋列強の国力がアジア諸国に及ぼす影響は、彼に日本の将来に対する強い危機感を抱かせました。

初めて世界地図を見たとき、日本のあまりの小ささに衝撃を受けたと言われていますが、それは同時に、この小さな島国が世界の荒波の中でどう生き残っていくべきかという大きな問いを彼に投げかけたはずです。

このまま鎖国を続けていては、日本はいずれ欧米列強の脅威に晒されるのではないか。

自分がアメリカで学んだ知識や技術、そして見聞した世界の情勢を故国に伝え、日本の進むべき道を示す一助となりたいという思いが、日増しに強くなっていったと考えられます。

帰国を決意した万次郎でしたが、そのためには多額の資金が必要でした。

そこで彼は、1849年頃、一攫千金を夢見る人々が殺到していたカリフォルニアの金鉱へと向かいます。

数ヶ月間そこで働き、約600ドルという大金(当時の船員の給料から考えると相当な額です)を稼ぎ出すことに成功しました。

この資金を持って、万次郎はまずハワイのホノルルへと渡ります。

そこには、かつてジョン・ハウランド号で共に救助され、ハワイで下船した漂流仲間のうち、伝蔵(元の名を筆之丞)と五右衛門が暮らしていました。

他の仲間の一人、寅右衛門はハワイに残り、重助は残念ながら病死していましたが、万次郎は残る二人との再会を果たします。

彼は一人で帰国するのではなく、この仲間たちと共に故郷の土を踏むことを望んだのです。

そして1850年12月、万次郎は、ハワイで知り合った新聞発行者サミュエル・C・デイモン氏らの協力を得て、上海行きの商船サラ・ボイド号に、購入した小舟「アドベンチャー号」と共に乗り込みました。

目指すは、鎖国下の日本。

漂流から実に10年近い歳月が流れていました。

彼の胸には、故郷への熱い想いと、これから待ち受けるであろう困難への覚悟、そして日本の未来への微かな希望が交錯していたことでしょう。

この帰国への決意と周到な準備、そして仲間を思う心こそ、ジョン万次郎という人物の誠実さと行動力を示すものと言えます。

ジョン万次郎が日本に何をした人か簡単に解説!その功績

ジョン万次郎2
  • 帰国後の取り調べと「スパイ」疑惑の真相
  • 「咸臨丸」での活躍と果たした歴史的役割
  • 日本の近代化への具体的な「功績」とは?
  • 「坂本龍馬」ら志士に与えた思想的影響
  • 万次郎を支えた「妻」と活躍する「子孫」たち
  • 心に残る「名言」と波乱の生涯の「死因」

帰国後の取り調べと「スパイ」疑惑の真相

10年ぶりに日本の土を踏んだジョン万次郎でしたが、彼を待ち受けていたのは、英雄としての歓迎ではなく、鎖国体制下における厳しい現実でした。

長期間にわたる取り調べと、一部からは「アメリカのスパイではないか」という根深い疑念の目で見られるという、精神的にも困難な状況に直面することになります。

しかし、彼が身をもって体験し、持ち帰った貴重な海外の知識や情報は、徐々にではありますが、時代の変化を求める人々に認識されていくことになるのです。

嘉永4年(1851年)、万次郎と仲間たちは、小舟「アドベンチャー号」で薩摩藩の支配下にあった琉球(現在の沖縄県)の海岸に上陸しました。

まず彼らは、琉球の役人である牧志朝忠から英語で尋問を受けたと記録されており、この時点で万次郎の語学力が早速役立ったことがうかがえます。

その後、薩摩本土へ送られ、藩主であった島津斉彬の元で取り調べを受けることになりました。

島津斉彬は非常に開明的な人物として知られ、西洋の文物や海外情勢に強い関心を持っていました。

そのため、万次郎が語るアメリカの社会、文化、技術の話に熱心に耳を傾け、彼を厚遇したと言われています。

万次郎はこの時、斉彬の命により、薩摩藩士や船大工らに西洋式の造船術や航海術について教示しました。

この知識が、後の薩摩藩における洋式船「越通船」の建造や、藩の海軍力強化に繋がったと考えられています。

薩摩藩での取り調べの後、万次郎たちは幕府の直轄地である長崎へ送られ、長崎奉行所においてさらに厳重な尋問を受けることになります。

鎖国政策を国是とする当時の日本にとって、許可なく海外へ渡航し、異国で長期間生活した者の帰国は、国家の秩序を揺るがしかねない重大事でした。

そのため、取り調べは慎重かつ長期にわたり、キリスト教徒ではないことを証明するための踏み絵も行われました。

万次郎自身は後年、「何の絵か分からないまま踏んだ」と語っており、形式的な儀式であった側面もうかがえます。

長崎での尋問の後、ようやく土佐藩へと引き渡され、ここでも藩当局による取り調べが行われました。

この土佐での取り調べの際、万次郎の聞き取りを担当し、彼の口述を記録したのが、土佐藩の絵師であり蘭学の素養もあった河田小龍です。

河田小龍は万次郎を自宅に寄宿させ、寝食を共にしながら彼の数奇な体験を詳細に聞き出し、『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』という貴重な記録書としてまとめ上げました。

この書物は、後に写本を通じて多くの人々の目に触れ、万次郎の存在と彼がもたらした情報が、幕末の知識人や志士たちに影響を与える大きなきっかけとなったのです。

しかし、万次郎の特異な経歴と彼が持つ豊富な海外知識は、一部の保守的な人々にとっては警戒の対象となりました。

特に、アメリカで教育を受け、流暢な英語を操り、西洋の事情に精通している万次郎に対して、「アメリカが将来日本を侵略するための手先として、万次郎を意図的に教育し、日本へ送り込んだのではないか」という「スパイ」疑惑が持ち上がったのです。

幕府内でも、特に水戸藩主の徳川斉昭などは、万次郎の能力を認めつつも、そのアメリカとの深いつながりに強い警戒心を示し、スパイ説を唱えたとされています。

この疑惑は、嘉永6年(1853年)のペリー提督率いる黒船来航という未曾有の事態に際しても、万次郎の活躍の場を制限する要因となりました。

万次郎は、その英語力とアメリカに関する知識から、ペリーとの交渉における通訳の第一候補と考えられていましたが、老中阿部正弘の懸念や、前述の徳川斉昭の反対、さらにはオランダ語通詞たちの既得権益を守ろうとする動きなどもあり、結局、公式な通訳の任からは外されてしまいました。

これは、日本のために役立ちたいと願っていた万次郎にとって、大きな失意であったことでしょう。

ジョン万次郎がアメリカのスパイであったという明確な証拠は存在しません。

むしろ、彼のその後の行動は一貫して日本の将来を憂い、近代化に貢献しようとするものでした。

しかし、鎖国という閉ざされた社会が、突如として海外からの情報や異質な文化に直面した時、彼の存在があまりにも特異であったために、疑念や警戒の目が向けられたのは、ある意味で時代の必然だったのかもしれません。

彼の真価が広く理解され、その知識と経験が日本のために本格的に活用されるまでには、もう少し時間が必要だったのでした。

「咸臨丸」での活躍と果たした歴史的役割

ジョン万次郎の生涯におけるハイライトの一つとして、万延元年(1860年)に日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカへ派遣された使節団に随行した軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」での活躍が挙げられます。

この航海において万次郎が果たした役割は、単に通訳業務に留まらず、事実上の航海指導者として、日本人自身の手による初の太平洋横断という歴史的な快挙を陰で支えた、極めて重要なものでした。

咸臨丸の渡米は、日本の軍艦が公式に太平洋を横断した最初の事例であり、日本の海運史および外交史上、画期的な出来事として位置づけられています。

これは、日本が鎖国政策を転換し、国際社会の一員として歩み出すことを内外に象徴する航海でもありました。

この歴史的な船には、艦長として勝海舟、そして若き日の福沢諭吉や、後の日本の近代化を担うことになる多くの才能ある人々が乗り組んでいました。

ジョン万次郎は、その卓越した英語能力、アメリカの捕鯨船で培った豊富な航海経験、そしてアメリカの地理や文化、社会事情に精通していることから、この重要な航海の通訳兼技術指導員(船員たちの航海術の教授役)として白羽の矢が立てられたのです。

しかし、咸臨丸の航海は決して平穏なものではありませんでした。

出航後間もなく、一行は激しい嵐に何度も遭遇し、船は大きく損傷し、マストが折れるなどの危機的な状況に見舞われました。

当時の日本人乗組員の多くは、西洋式の大型帆船の操船にはまだ不慣れであり、経験も乏しかったため、荒れ狂う海上で的確な判断を下し、船を安全に導くことは至難の業でした。

艦長の勝海舟でさえも、ひどい船酔いに苦しみ、十分な指揮を執ることが困難であったと伝えられています。

このような極限的な状況の中で、ジョン万次郎の存在が輝きを放ちます。

彼は、アメリカで習得した高度な航海術と、実際の捕鯨航海で培った冷静な判断力を駆使し、同乗していたアメリカ海軍士官ジョン・ブルックらと協力しながら、事実上の航海指揮官として船員たちを指導し、船の進路を決定していきました。

彼の的確な指示と、荒天の中でも臆することなく作業にあたる姿は、不安に駆られる日本人乗組員たちにとって大きな精神的支柱となったことでしょう。

彼の豊富な経験と知識がなければ、咸臨丸の太平洋横断はさらに困難を極め、あるいは達成できなかった可能性すらあります。

約37日間の苦難に満ちた航海の末、咸臨丸一行がアメリカのサンフランシスコに到着した際には、現地で大きな歓迎を受けました。

万次郎はここで、使節団の公式な通訳として活躍し、アメリカ側の当局者や市民との円滑なコミュニケーションに大きく貢献しました。

彼の流暢な英語とアメリカの慣習に対する深い理解は、外交交渉の場においても非常に役立ち、日本側の意図を正確に伝え、誤解を避ける上で不可欠な役割を果たしたのです。

また、このサンフランシスコ滞在中に、福沢諭吉と共にアメリカで『ウェブスター英語辞書』を購入して日本に持ち帰ったというエピソードはよく知られています。

この辞書は、その後の日本の英語教育や西洋知識の導入において、非常に貴重な資料となりました。

咸臨丸の歴史的な太平洋横断の成功は、ジョン万次郎の卓越した能力と献身的な働きなしには語ることができません。

彼は、日本人乗組員たちに、自分たちの力だけでも広大な海を渡りきることができるという大きな自信と誇りを与えました。

そして、この航海は、日本が近代国家として国際社会に伍していくための重要な一歩となり、万次郎自身も、その知識と経験を日本のために最大限に発揮する機会を得て、彼の名声を国内外で不動のものとしたのです。

咸臨丸での活躍は、彼の生涯において、日本の歴史に深くその名を刻んだ輝かしい瞬間であったと言えるでしょう。

日本の近代化への具体的な「功績」とは?

ジョン万次郎が日本の近代化に果たした功績は、非常に多岐にわたりますが、大きく分けると「英語教育の先駆者としての役割」、「西洋の進んだ技術や知識の導入」、「国際交流の架け橋としての貢献」という三つの側面から具体的に捉えることができます。

彼の存在そのものが、鎖国という長い眠りから覚め、未知なる世界へと漕ぎ出そうとしていた日本にとって、計り知れないほどの価値を持っていたと言っても過言ではありません。

ペリー提督率いる黒船の来航以降、日本は否応なく国際社会との関わりを深めていくことを余儀なくされました。

それに伴い、外国語、特に国際共通語としての地位を確立しつつあった英語の習得と、西洋の進んだ科学技術や社会制度に関する知識の導入が、国家的な急務となったのです。

このような時代の要請の中で、ジョン万次郎は、当時日本で最もアメリカの事情に精通し、ネイティブに近い高度な英語運用能力と、捕鯨業や航海術、造船技術といった実践的な西洋技術を身につけていた、ほぼ唯一無二の貴重な人材でした。

まず、英語教育における功績です。

万次郎は帰国後、故郷の土佐藩において藩校「教授館」の教授に任命され、若き日の後藤象二郎や、後に三菱財閥を築く岩崎弥太郎らに英語を教えました。

その後、幕府に召聘されてからは、江戸で軍艦教授所の教授などを務め、大鳥圭介や箕作麟祥といった、後の日本の政治や学術を担うことになる多くの人材に英語や航海術を指導しました。

彼が編纂に大きく貢献した日本初の本格的な英会話教本と言われる『英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)』は、当時の日本人にとって画期的な英語学習教材となり、その後の英語教育に大きな影響を与えました。

また、私たちが現在でも口ずさむ「ABCの歌」を日本に初めて伝えたのもジョン万次郎であると言われています。

彼の教育活動は、日本の国際化に向けた人材育成の礎を築いたと言えるでしょう。

次に、西洋の技術や知識の導入という点です。

万次郎はアメリカで学んだ造船技術や最新の航海術を日本に伝えました。

薩摩藩では、藩主島津斉彬の命により、洋式帆船「越通船(えっつうせん)」の建造に際して貴重な助言を行い、その完成に貢献しました。

幕府においても、軍艦の建造計画や運用方法に関して意見を求められ、日本の海軍力の近代化に間接的に関与しました。

さらに、アメリカの航海学者ナサニエル・ボーディッチの著した『実用航海術書(The New American Practical Navigator)』の一部を翻訳し、西洋の科学的な航海理論を日本に紹介しました。

これは、日本の航海術が経験則に頼る段階から、より理論的・体系的なものへと発展する上で重要な一歩となりました。

また、アメリカ式捕鯨の技術や知識も日本に伝え、小笠原諸島近海での捕鯨を試みるなど、日本の水産業の近代化にも貢献しようとしました。

そして、国際交流の架け橋としての役割も忘れてはなりません。

日米和親条約や日米修好通商条約の締結交渉の際には、幕府首脳に対してアメリカ側の事情や考え方、国際慣習などを伝え、間接的に交渉を円滑に進めるための助言を行ったとされています。

公式な通訳として表舞台に立つことは叶いませんでしたが、彼の持つ情報は幕府の意思決定において重要な参考となりました。

前述の通り、咸臨丸での渡米時には、公式通訳として使節団の活動を支え、日米間の相互理解を深める上で大きな役割を果たしました。

彼の存在は、アメリカ側にも日本に対する理解者、あるいはアメリカ文化の理解者として好意的に受け止められ、両国間の緊張緩和や友好関係の構築に少なからず貢献したと考えられます。

さらに、日本で初めてネクタイを締めた人物とも言われるなど、西洋の生活様式や文化を日本に紹介するという、文化的な側面での貢献もありました。

このように、ジョン万次郎の功績は、単に個別の技術や知識を伝えたという点に留まりません。

彼の生き様そのものが、日本人全体の目を海外に向けさせ、旧来の価値観に揺さぶりをかけ、近代国家としての日本のあり方を考える上で大きな刺激を与えた点にこそ、その本質があると言えるでしょう。

彼の先見性と、困難を恐れずに行動した勇気がなければ、日本の近代化の道のりは、より険しく、時間のかかるものになっていたかもしれません。

「坂本龍馬」ら志士に与えた思想的影響

ジョン万次郎がアメリカ合衆国で実際に生活し、見聞した民主主義の理念や自由な社会のあり方は、帰国後、土佐藩の絵師であり、蘭学にも通じていた河田小龍(かわだしょうりゅう)という人物を介して、同郷の若き日の坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちに伝えられ、彼らの思想形成やその後の行動に測り知れないほど大きな影響を与えました。

万次郎が語ったアメリカの体験談は、旧態依然とした封建体制に強い疑問を抱き、新しい日本の将来像を必死に模索していた若者たちにとって、まさに未知なる世界への窓を開き、新しい時代の息吹を吹き込むものでした。

万次郎が長い漂流とアメリカでの生活を経て、故郷である土佐に帰国したのは嘉永5年(1852年)のことです。

これは、ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航するわずか1年前のことであり、日本の社会全体が、海外からの圧力と国内の矛盾によって、大きな変革の予感に揺れ動いていた時期でした。

当時の日本は依然として鎖国政策下にあり、海外の情報は極めて限られていました。

そのような中で、万次郎が直接体験し、持ち帰ったアメリカの具体的な社会の仕組み、例えば、国民の選挙によって国の指導者である大統領が選ばれること、身分に関わらず誰もが自由に意見を述べられる議会制度が存在すること、そして社会全体に自由闊達な雰囲気が満ちていることなどは、当時の知識人や意欲ある若者たちにとって、まさに衝撃的かつ新鮮な情報でした。

万次郎は帰国後、土佐藩において藩当局による取り調べを受けますが、その際、彼の数奇な体験談の聞き取り役として指名されたのが、絵師の河田小龍でした。

河田小龍は万次郎を自宅に寄宿させ、寝食を共にしながら、アメリカでの生活、政治、文化、技術などについて詳細に聞き取りました。

そして、その貴重な内容を『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』という一冊の書物にまとめ上げたのです。

この『漂巽紀略』は、すぐに出版されたわけではありませんが、写本という形で多くの人々の間で回覧され、万次郎が伝えたアメリカの情報は、土佐藩内に留まらず、徐々に他の藩の志士たちの間にも広まっていきました。

坂本龍馬が、ジョン万次郎から直接話を聞いたという確かな記録はありませんが、この河田小龍を通じて、あるいは『漂巽紀略』を読むことによって、万次郎のアメリカでの体験や、そこで育まれた自由で平等な思想に触れたことはほぼ間違いないと考えられています。

龍馬が後に「船中八策」などで示した、天皇を中心とした新しい国家体制の構想、議会の開設、身分制度にとらわれない有能な人材の登用、外国との積極的な貿易による富国強兵といった革新的な考え方には、万次郎が伝えたアメリカの自由で合理的な社会の姿が、少なからず影響を与えていると推測されます。

龍馬が夢見た、誰もがその能力に応じて活躍できる新しい日本の姿は、万次郎が語ったアメリカ社会の理想と重なる部分が多いのです。

龍馬だけでなく、土佐藩で万次郎から直接英語や海外事情を学んだ後藤象二郎や岩崎弥太郎も、彼の知識や国際感覚から大きな刺激を受けました。

また、後に自由民権運動を主導することになる板垣退助や中江兆民といった人々も、間接的にではあれ、万次郎がもたらしたデモクラシーの思想や、個人の権利を尊重する考え方に触れ、その後の活動の糧とした可能性があります。

万次郎が語った「アメリカでは、家柄や身分に関わらず、能力のある者が尊重され、重要な役職に就くことができる」といった話や、「国の政治は、一部の権力者によってではなく、国民の代表者によって話し合われ、決定される」といった事実は、世襲の身分制度が社会の隅々まで浸透し、一部の武士階級が権力を独占していた当時の日本において、まさに革命的とも言える思想でした。

このような新しい価値観が、旧体制を打破し、より公正で活力ある新しい国づくりを目指す志士たちの心を強く捉え、彼らの行動を後押ししたのです。

ジョン万次郎自身は、政治的な運動の表舞台に積極的に立つタイプの人物ではありませんでした。

しかし、彼がその身をもって体験し、日本に持ち帰った「アメリカの風」は、確実に幕末から明治維新にかけての日本社会に新しい種を蒔きました。

坂本龍馬をはじめとする多くの志士たちが、万次郎の言葉や体験談から大きな刺激と啓示を受け、閉塞した日本の未来を切り開くための具体的なビジョンと、それを実現するための情熱を育んでいったことは、歴史の表舞台にはあまり現れないものの、ジョン万次郎の非常に大きな、そして貴重な功績の一つと言えるでしょう。

万次郎を支えた「妻」と活躍する「子孫」たち

ジョン万次郎の波乱に満ちた、そして日本の歴史に大きな足跡を残した生涯の陰には、彼を公私にわたり支えた妻たちの存在がありました。

また、彼の血を受け継いだ子孫たちは、その偉大な祖先の遺志と功績を胸に、教育、医療、実業、文化といった様々な分野で活躍を続け、万次郎の物語を現代に伝えています。

万次郎の人生は、彼一人の英雄譚としてだけでなく、彼を愛し、支えた家族の絆の物語であり、そして世代を超えてその精神が継承されていく壮大なドラマでもあるのです。

万次郎は、その生涯において三人の女性を妻として迎えました。

最初の妻は、安政元年(1854年)、彼が幕府に召聘されて江戸で活動を始めた頃に結婚した、幕府の剣術指南役であった団野源之進の次女、鉄(てつ)です。

鉄との間には、長男でのちに医師となる東一郎(とういちろう)をはじめ、三人の子供を儲けたとされています。

しかし、残念ながら鉄は若くして病に倒れ、24歳という若さでこの世を去ってしまいました。

万次郎にとって、異文化での生活からようやく帰国し、日本での新たな人生を歩み始めた矢先の伴侶との早すぎる死別は、大きな悲しみであったことでしょう。

二番目の妻は、医師であった樋口立卓(ひぐちりったく)の妹、琴(こと)です。

琴は、鉄が亡くなった後、幼い東一郎を引き取って育て、さらに万次郎との間に二人の子供を儲けました。

しかし、琴との結婚生活は長くは続かず、後に離婚という形に至っています。

その詳細な理由は明らかではありませんが、万次郎の多忙な生活や、彼の特異な経歴が家庭生活に何らかの影響を及ぼした可能性も考えられます。

そして三番目の妻が、重(しげ、または繁子とも記される)です。

重との間にも子供が生まれましたが、そのうち四男は早くに亡くなったと伝えられています。

万次郎の晩年を共に過ごし、彼を支えたのはこの重であったと考えられます。

激動の時代を生き抜き、数々の困難を乗り越えてきた万次郎にとって、家庭は心の安らぎを得るかけがえのない場所であり、妻たちの存在は、彼の公的な活動を陰で支える大きな精神的な力となっていたに違いありません。

万次郎の子孫たちは、その後も各界で活躍し、その名を残しています。

長男の中濱東一郎は医師として多くの人々の命を救い、社会に貢献しました。

万次郎の孫の代に目を向けると、中濱絲子(いとこ)は、与謝野鉄幹の門下生として「白藤の君」と謳われた才能ある歌人として『明星』などで活躍しました。

また、中浜清は王子製紙に勤務し、中浜慶三郎は海軍主計大佐として国のために尽くしました。

このように、万次郎の知的好奇心や行動力、そして社会への貢献意欲は、子孫たちにも脈々と受け継がれていったのです。

さらに時代が下り、万次郎の曾孫にあたる中浜京(なかはま けい)さんは、「土佐ジョン万会」の名誉顧問を務めるなど、ジョン万次郎の功績を後世に正しく伝え、顕彰する活動に長年にわたり尽力されました。

彼女は『ジョン万次郎―日米両国の友好の原点』といった著作も残しており、万次郎の生涯と日米関係におけるその意義を広く社会に訴えかけました。

また、ジョン万次郎の直系の4代目にあたる中浜博(なかはま ひろし)さんも、心臓外科医として医療の発展に貢献する傍ら、日本海事史学会の会員としてジョン万次郎に関する深い研究を行い、その成果を著作として発表するなど、祖先の功績を学術的な側面からも明らかにしようと努めました。

特筆すべきは、ジョン万次郎の子孫たちが、彼をアメリカへ連れて行き、温かく育てたホイットフィールド船長の子孫と、世代を超えて現在も交流を続けているという事実です。

この絆は、万次郎の出身地である高知県土佐清水市と、彼がアメリカで青春時代を過ごしたマサチューセッツ州のフェアヘーブン市およびニューベッドフォード市との姉妹都市盟約締結と、その後の活発な市民交流へと発展しています。

これは、ジョン万次郎が蒔いた日米友好の種が、170年以上の時を超えて花開き、豊かな実を結んでいる証と言えるでしょう。

ジョン万次郎の物語は、彼を支えた妻たちの愛、そしてその志を受け継ぎ、さらに発展させている子孫たちの活動によって、今もなお生き生きと語り継がれているのです。

彼らが万次郎の功績を未来へと伝え、国際親善に貢献し続けていることは、万次郎が私たちに残した最も大きな、そして素晴らしい「功績」の一つなのかもしれません。

心に残る「名言」と波乱の生涯の「死因」

ジョン万次郎は、その数奇な運命と、前例のない困難を乗り越えて道を切り開いた行動力から、私たちに多くの示唆を与えてくれる人物です。

彼の生涯を振り返る時、何か心に残る「名言」があったのではないかと期待する人も多いでしょう。

しかし、広く知られる特定の「名言」として記録されているものは少ないのが実情です。

むしろ、彼の生き様そのものが、言葉以上に強いメッセージとなって私たちの胸に響いてきます。

そして、日本とアメリカの架け橋となり、激動の幕末から明治にかけて活躍した彼の生涯は、明治31年(1898年)、病により71歳で静かにその幕を閉じたのです。

万次郎が多くの「名言」を語録として残さなかった背景には、彼の出自や教育歴が関係していると考えられます。

彼は土佐の貧しい漁師の家に生まれ、幼い頃に父親を亡くし、寺子屋などで体系的な学問を日本で受ける機会はありませんでした。

彼の知識や教養の多くは、アメリカでの実体験や独学、そして帰国後の聞き取りなどを通じて形成されたものです。

そのため、自ら筆を執って多くの著作を残したり、思想を体系的に語ったりするタイプの人物ではなかったのです。

彼の言葉や考えは、主に土佐藩の絵師・河田小龍が聞き書きした『漂巽紀略』や、周囲の人々の証言、あるいは彼が関わった書物への協力といった形で断片的に伝えられています。

しかし、彼の思想や人となりを反映する言葉として、後世に伝えられているものもいくつか存在します。

例えば、「私は、日本とアメリカの良さを両方知っている」という言葉は、二つの異なる文化を深く理解し、両国の架け橋となろうとした彼の姿勢を象徴しています。

また、「人間は全て能力で用いられるべきだ」という言葉からは、身分制度が色濃く残る日本社会に対する彼の批判的な視点と、アメリカで目の当たりにした実力主義社会への共感がうかがえます。

これらの言葉は、彼のグローバルな視野と、封建的な価値観にとらわれない先進的な考え方を示していると言えるでしょう。

それでもなお、ジョン万次郎の最大の「名言」は、彼の行動そのもの、つまり彼の生き様そのものにあると言っても過言ではありません。

14歳で漂流し、無人島で生き延び、言葉も通じない異国アメリカへ渡り、そこで勤勉に学び、首席の成績を収め、捕鯨船員として世界を回り、そして鎖国下の日本へ帰国してその知識を伝えようと努力した。

この一連の行動は、私たちに未知の世界へ飛び込む勇気、いかなる困難にも屈しない不屈の精神、常に新しいことを学び続けようとする旺盛な知的好奇心、そして何よりも自分が帰属する社会や国への貢献を願う熱い心の重要性を、言葉以上に雄弁に物語っています。

彼の生涯は、よくクラーク博士の言葉として知られる「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という精神を、まさに体現したものでした。

万次郎の晩年は、比較的穏やかなものであったようです。

明治3年(1870年)、明治政府の一員として普仏戦争の視察団に加わりヨーロッパへ派遣された際、アメリカに立ち寄り、約20年ぶりに大恩人であるホイットフィールド船長との感動的な再会を果たしています。

これは、万次郎にとって生涯忘れられない、心温まる出来事だったに違いありません。

しかし、このヨーロッパからの帰国後、万次郎は軽い脳溢血(あるいは中風とも言われる)で倒れてしまいます。

幸い一命は取り留め、日常生活に大きな支障がない程度には回復したものの、以前のような精力的な公務や活動は難しくなったようです。

その後、明治政府によって開成学校(後の東京大学)の英語教授に任命されるなどしましたが、次第に歴史の表舞台からは遠ざかり、静かな余生を送ったと伝えられています。

そして、明治31年(1898年)11月12日、ジョン万次郎はその波乱に満ちた71年の生涯を閉じました。

直接的な「死因」については、脳溢血の後遺症や老衰などが考えられますが、詳細な医学的な記録は多く残されていません。

彼の墓は、東京の雑司ヶ谷霊園にあり、その墓石は東京大空襲の際に一部損傷を受けながらも、今もなお彼の功績を偲ぶ多くの人々によって大切に守られています。

昭和3年(1928年)には、その功績を称えられ、正五位が追贈されました。

ジョン万次郎の生涯は、私たちに多くの教訓と感動を与えてくれます。

彼が残した具体的な言葉の数は少なくとも、その類まれな行動と、困難を乗り越えて道を切り開いた生き様は、現代を生きる私たちにとっても、新しいことに挑戦する勇気、異文化を理解しようとする寛容な心、そして生涯学び続けることの大切さを、力強く教えてくれているのです。

彼の「死因」は病によるものでしたが、彼が日本の近代化の扉を開くために尽くした精神と、日米友好の礎を築いた功績は、今もなお私たちの心の中に鮮やかに生き続けています。

ジョン万次郎は何をした人なのか、その生涯と功績を総括

ジョン万次郎の生涯は、まさに予測不可能な出来事の連続で、彼が日本の歴史に与えた影響は計り知れません。

土佐の貧しい漁村に生まれた一人の少年が、いかにして激動の時代を駆け抜け、日本と世界の架け橋となったのか、その主な出来事を簡単に振り返ってみましょう。

  • 土佐の漁師の家に生まれましたが、14歳の時に仲間と共に漁へ出て遭難し、壮絶な漂流生活の末、伊豆諸島の無人島「鳥島」に漂着しました。
  • 鳥島では約143日間、アホウドリを食べるなどして生き抜き、その後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって奇跡的に救助されます。
  • 当時の日本は鎖国していたため帰国は叶わず、ホイットフィールド船長の厚意により、日本人として初めてアメリカ本土の土を踏むことになりました。
  • 船長から「ジョン・マン」という愛称をもらい、マサチューセッツ州フェアヘーブンで船長の養子同然に暮らします。
  • 学校(オックスフォード・スクール、バートレット・アカデミー)に通い、ほぼ白紙の状態から英語、数学、測量、航海術、造船技術などを驚くべき速さで習得しました。
  • その勤勉さと才能は周囲を驚かせ、常にクラスでトップの成績を収めたと言われています。
  • 学校卒業後は捕鯨船の乗組員として世界中の海を航海し、多様な文化や価値観、そして国際情勢に触れました。
  • 日本への帰国資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで金を採掘し、見事に資金を調達します。
  • 故郷と日本の将来を案じ、約10年ぶりにハワイで再会した漂流仲間と共に、困難を覚悟で日本への帰国を果たしました。
  • しかし、鎖国下の日本では厳しい取り調べを受け、長期間にわたり尋問されました。一部からは「アメリカのスパイではないか」という疑いの目も向けられます。
  • 薩摩藩主・島津斉彬は彼の知識と経験を高く評価し、万次郎は西洋の造船術や航海術を伝えました。
  • 万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節団が乗るポーハタン号に随行する軍艦「咸臨丸」に、通訳兼技術指導員として乗船します。
  • 咸臨丸の太平洋横断の際には、船酔いで指揮が執れなかった勝海舟に代わり、事実上の航海指揮を執り、日本人による初の快挙を支えました。
  • 帰国後は、英語教育の先駆者として藩校や幕府の学校で教鞭をとり、『英米対話捷径』の編纂に協力するなど、多くの人材育成に貢献しました。
  • また、彼がアメリカで得た知識や体験談は、河田小龍がまとめた『漂巽紀略』などを通じて坂本龍馬をはじめとする幕末の志士たちに大きな思想的影響を与えたと言われています。
  • 生涯に三人の妻を持ち、その子孫たちは現在も日米友好の架け橋として、また様々な分野で活躍しています。
  • 明治維新後も教育者として活動しましたが、明治31年(1898年)に71歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。

このようにジョン万次郎は、数々の困難を乗り越え、持ち前の知的好奇心と行動力で道を切り開き、日本の近代化と国際化に大きく貢献した偉大な人物でした。

彼の先見性、そして未知の世界へ臆せず飛び込んでいく勇気は、現代を生きる私たちにも多くのことを教えてくれますね。

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