この記事では、江戸時代中期に活躍した平賀源内についてわかりやすく解説します。
いったい何をした人なのか、どんな発明を行ったのか、また「土用の丑の日」にまつわる逸話や現在の子孫についても紹介します。
歴史があまり得意でない方から、受験生や歴史ファンまで楽しめる内容になっていますので、ぜひ最後までご覧ください!




平賀源内のプロフィール
まずは、平賀源内がどのような人物だったのか、かんたんにまとめてみましょう。
エレキテルの復元や「土用の丑の日」を広めたエピソードなど、奇抜なアイデアと行動力で名を残す“江戸の奇才”です。
さらに、戯作(げさく)の作家としてもユーモアあふれる作品を手掛けており、学問や文化の発展にも大きく貢献しました。


項目 | 詳細 |
---|---|
名前 | 平賀 源内(ひらが げんない) 本名:平賀 国倫(くにとも) |
出身地 | 讃岐国 志度(現在の香川県さぬき市志度) |
生年月日 | 1728年(享保13年) |
死亡年月日 | 1779年(安永8年)12月(獄中で病死) |
享年 | 52歳 |
活躍した時代 | 江戸時代中期 |
家族 | 父:白石 茂左衛門 生涯独身(正式な妻子はなし) |
主要な業績 | エレキテル(静電発電装置)の復元 火浣布(石綿布)の試作 薬品会(博覧会)の開催 戯作の執筆など |
関連するエピソード | 「土用の丑の日」うなぎ宣伝 「お神酒天神」のからくり絵 |
その他の興味深い事実 | 男性歌舞伎役者を特に贔屓していたという逸話あり 奇抜な服装や行動で注目を集めた |
平賀源内のかんたん年表
平賀源内の生涯をかんたんな年表にまとめました。
彼の人生には数多くのドラマやエピソードが詰まっています。
西暦(年号) | 出来事 |
---|---|
1728年(享保13年) | 讃岐国志度に生まれる(白石家の三男として誕生) |
1749年(寛延2年) | 父の死を受けて家督を継ぐ。平賀姓に改める |
1757年(宝暦7年) | 江戸で薬品会(物産博覧会)を開催(蘭学・本草学の知識をもとに国内外の薬や物産を紹介) |
1773年(安永2年) | 秋田藩に招かれ、阿仁鉱山の技術指導を行う。藩士に西洋画の技法を教える |
1776年(安永5年) | エレキテル(静電発電装置)の復元に成功 |
1779年(安永8年) | 口論から人を傷つけ投獄され、獄中で死去(破傷風とされる)52歳 |
平賀源内はどんな人?生涯をざっくり紹介
それでは、平賀源内の生涯を簡潔に紹介します。平賀源内は、どのような人物だったのでしょうか。
讃岐国志度の白石家に三男として生まれる
平賀源内は、1728年(享保13年)に讃岐国志度(香川県さぬき市志度)で誕生しました。
元々は白石家という家系で育ちましたが、父が亡くなると同時に家督を継ぎ、信濃平賀氏の末裔を称して平賀姓を名乗るようになります。
少年時代から発明の才覚を発揮し、有名なのが「お神酒天神」というからくり絵の逸話です。
11歳頃に天神様が酒を飲むように見える仕掛けを作り上げ、周囲を驚かせました。
この体験がきっかけとも言われ、本草学(薬学)への興味や独創的な発想につながっていきます。
そんな彼は、身近にあるものを工夫して遊びながら学ぶ姿勢を幼いころから身につけていました。
奇抜なアイデアと行動力は、生まれ育った環境と好奇心から自然に育まれていったのかもしれません。
江戸に出て本草学や蘭学を学ぶ
青年期になると、平賀源内は江戸に上り本草学(薬学)や蘭学(オランダ語や西洋知識)を貪欲に学び始めます。
当時の江戸では西洋の学問を学ぶ機会が限られており、長崎経由で入手できる書物は非常に貴重でした。
彼は通詞(通訳)を頼りながらオランダ語を学び、海外の科学技術や医学を研究することに没頭していきます。
さらに、江戸では医師や学者と交流し、薬物や国内産品を集めて展示する「薬品会(物産博覧会)」を企画。
宝暦7年(1757年)には第1回の博覧会を開催して新しい知識と産物を世に広めました。
前述の通り、こうした取り組みは当時としては大変先進的でした。
海外からの情報を取り入れ、それを日本国内で活用しようとする姿勢は「国益のために」という強い思いから来ていたとも言われています。
発明家としてエレキテルや火浣布などを開発
平賀源内の名前を有名にしたのが、なんといってもエレキテルの復元です。
エレキテルとは、静電気を起こす摩擦起電機の一種で、元々は海外から壊れた状態で持ち込まれたものを、源内が独自に修理・改良して完成させました。
安永5年(1776年)に日本初の静電発電装置として世に披露され、江戸の町で見世物として大人気になります。
また、不燃布として知られる火浣布(かかんふ)(石綿布)の試作にも成功。
幕府に献上し、科学の可能性を広める実績を示しました。
各地の鉱山開発や薬草研究にも携わっており、その多才ぶりは他に類を見ないほどです。


彼の功績は単なる物珍しさだけに留まりませんでした。
知識や技術を披露する場を設け、学問を広く人々に伝えたことも大きなポイントです。
単に自分が作るのではなく、周囲へ興味や学習意欲を喚起する姿勢が多くの人から称賛されました。
戯作者としても活躍
平賀源内は学者・発明家である一方、戯作(げさく)と呼ばれる江戸の庶民向けの文学ジャンルでも才能を発揮しました。
滑稽本『風流志道軒伝』や狂文集「放屁論」など、風刺やユーモアを含んだ作品を多く残しています。
当時の江戸では娯楽として読本や浄瑠璃、人形芝居などが盛んでした。
源内は人形浄瑠璃の台本執筆まで手掛けるなど、その活動範囲はまさに多方面。
西洋画の技法を広めたり、焼き物(志度焼)を考案したりと、もはや彼を単なる学者や発明家と呼ぶのは不十分でしょう。
このような文化的活動を通じ、江戸の庶民文化に大きな影響を与えたことは見逃せません。
独特のユーモアと発想力が源内自身の魅力でもあり、周囲を惹きつけた要因のひとつでした。
獄中死する
晩年の平賀源内は、突然の事件に巻き込まれます。
1779年(安永8年)、江戸神田の自宅での酒席で口論が勃発し、源内が友人や門人に切りつけるという騒ぎに発展しました。
結果的に一人が死亡し、源内は捕らえられて投獄されます。
獄中で過ごすうちに破傷風を患い、同年12月に52歳で世を去りました。
「功ならず名ばかり遂げて年暮れぬ」という句を残しており、その心中には無念さと虚しさがあったと推測されます。
波乱に満ちた人生を駆け抜けた彼の最期は、きわめて突然であり、同時に彼の生き様を象徴しているようにも感じられます。
平賀源内のエピソードや逸話
ここでは、平賀源内のエピソードや逸話を紹介します。
「土用の丑の日」うなぎ宣伝のエピソード
平賀源内の代表的な逸話が、「土用の丑の日」にうなぎを食べる習慣を広めたという話です。
夏場に売れ行きが落ちて困っていた鰻屋(うなぎや)から相談を受けた源内が、「本日土用丑の日」という看板を作り出し、巧みに宣伝しました。
この看板を見た江戸の人々が「土用丑の日って何だろう?」と興味を持ち、店に大勢押しかけたことで鰻屋は大繁盛しました。
さらに周りの店もこぞって真似し、結果として土用の丑の日にうなぎを食べる風習が定着したとされます。
発明だけでなく、コピーライターとしての才能もあったと言えるでしょう。








「お神酒天神」というからくり絵
前述の通り、源内には幼少期から奇想天外な発明家気質がありました。
それを象徴するのが、11歳頃に作ったと伝わる「お神酒天神」です。これは、天神様の掛け軸に仕掛けを施し、まるで天神様が酒を飲んでいるように見えるからくり絵だったと言われています。
周囲の大人たちが驚嘆するほどの出来栄えで、これをきっかけに本草学や発明に興味を深めたという話です。少年時代から好奇心が旺盛で、身の回りの道具や絵を使って遊びながら学んでいた源内の姿が目に浮かびます。
豪快なファッションと奇行伝説
源内は学問や発明で知られる一方、奇抜な服装や奇行で人目を引いたとも言われています。
江戸の街中を派手な柄や色の着物で歩き回り、周囲を驚かせたという風聞も少なくありません。
ただし、こうしたエピソードの一部は事実かどうかはっきりしていません。
それでも、あえて型破りな姿を見せることで注目を集め、学問や新たな技術に目を向けてもらう戦略だったのかもしれません。
彼の豪快な生き方が多くの伝説を生んだのでしょう。
好きな歌舞伎役者への贔屓
平賀源内は生涯独身でしたが、男色の傾向があったとも指摘されることがあります。
とりわけ歌舞伎役者の瀬川菊之丞(2代目)をたいへん贔屓にしていた、というエピソードが伝わっています。
当時の江戸では男色は珍しいことではなかったため、源内自身も周囲の目を気にせず自由に振る舞っていたのかもしれません。
奇想天外で多才な人物像と相まって、彼の人間関係に関する話題はいっそう興味深いものとなっています。
刑事事件を起こし投獄される
平賀源内の最期は、上記でも触れたように獄死でした。
安永8年(1779年)、些細な口論が原因とも、盗難の誤解が発端だったとも言われますが、酒の席で大立ち回りを演じ、人を傷つけてしまいます。
一連の騒動で死者が出るという重い結果を招き、源内は投獄されました。
獄中での生活は非常に過酷で、最終的には破傷風のため52歳で人生を閉じることに。
誰もが想像する“大天才の悠々自適な晩年”とは程遠い幕切れですが、それもまた彼の波瀾万丈な生き様を示すエピソードだと言えるでしょう。
平賀源内にゆかりの地
ここでは、平賀源内にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。
平賀源内記念館(香川県さぬき市)
香川県さぬき市志度には、源内の生家跡や平賀源内記念館があります。
館内ではエレキテルの復元品や源内の著作、発明品の数々が展示され、当時の科学や文化の息吹を直に感じることができます。
江戸時代における西洋との交流の一端も知ることができるため、歴史好きにはたまらないスポットです。
- 公式サイト: さぬき市公式サイト – 平賀源内記念館
平賀源内旧邸(香川県さぬき市)
記念館からほど近い場所には、源内が生まれ育った家の旧邸も公開されています。
庭には薬草園が整備され、かつて源内が研究していた本草学の世界を体感できます。
約100種もの薬草が植えられており、江戸時代の医学や薬学への探求がどのように行われていたのか想像が膨らみます。
- 旧邸情報: さぬき市観光協会
橋場の墓所(東京都台東区)
平賀源内が亡くなった後、浅草橋場にある総泉寺旧墓地(現在の台東区橋場2丁目付近)に墓が建てられました。
この墓石は、友人で著名な医師だった杉田玄白が私財を投じて建てたものとされます。
当時の人々にどれほど惜しまれ、尊敬されていたかを実感できる場所です。
東京都内で源内を偲ぶなら、この浅草橋場の墓所に足を運んでみるのも興味深いかもしれません。
平賀源内の子孫は?
平賀源内の子孫について紹介します。
実は、平賀源内には正式な妻子がいなかったため、直接的な子孫は存在しないとも言われています。
しかし故郷の志度では、妹夫妻が家系を継承し、その血筋が続いているそうです。
名前 | 詳細 |
---|---|
平賀 権太夫(妹婿) | 源内の妹・里与が嫁いだ従弟。源内の家名を存続させるために婿入りした人物。 |
平賀 一善 | 香川県さぬき市在住の7代目子孫とされる方。志度の平賀源内旧邸跡の案内役などを務める。 |
なお、平賀源内自身の直系の子どもは確認されていませんが、妹の家系から続く一族によって現在まで「平賀家」の血筋が守られているようです。
平賀源内に関する覚えておきたいポイント
ここでは、平賀源内に関するエピソードを、覚えておきたいポイントとしてまとめました。
この時代のことを深く知りたい人や、テストや受験でこの時代のことを勉強している人のために、平賀源内に関する重要なポイントを以下にまとめました。ぜひ参考にしてくださいね。
- 讃岐国志度(現在の香川県さぬき市)生まれの発明家・本草学者
- 幼少期からからくり絵などを作るなど抜群の発想力を持っていた
- エレキテルを修理・改良し、日本初の静電発電装置として紹介
- 火浣布(不燃布)を試作し、幕府に献上した実績がある
- 薬品会(物産博覧会)を開催し、全国の産品や薬草を広めた
- 戯作者としても活動し、滑稽本や人形浄瑠璃の台本を手掛ける
- 「土用の丑の日」にうなぎを食べる風習を広めた逸話が有名
- 男色の傾向があったとも言われ、瀬川菊之丞を特に贔屓した
- 1779年に酒席での口論から人を傷つけ投獄され、獄中で死去
- 妹夫妻を通じて平賀家の血筋は続き、志度には現在も末裔がいる
おわりに
平賀源内は、「江戸の奇才」として多分野にわたる才能を示した人物です。
エレキテルの復元や火浣布の試作、薬品会(博覧会)の企画など、従来の常識にとらわれない斬新な発想で時代をリードしました。
また、戯作の作家としても独創的な作品を生み出し、江戸の庶民文化を大いに盛り上げています。






その一方で、酒席での口論から人を傷つけ獄中死するなど、波乱に満ちた人生を送ったことも彼の大きな特徴といえます。
この記事を通じて、平賀源内という人物の大胆な生き方や日本文化への貢献に少しでも興味を持っていただけたら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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