【詳細解説】後白河法皇は何をした人?どんな人?わかりやすく紹介!平清盛との関係や幽閉の理由についても

この記事でわかること

この記事では、後白河法皇がどのような人物で、どのような業績を残したのかを簡単にわかりやすく紹介しています。
歴史にあまり詳しくない人から日本史を学ぶ受験生まで役立つ内容になっています。
後白河法皇について知りたい方は、ぜひ本記事をご覧ください!

この記事は

  • 後白河法皇ってどんな人?どのような業績を残したの?
  • 後白河法皇の生涯やエピソード、ゆかりの地について知りたい。
  • テストや受験勉強で役立つ平安時代の知識を学びたい。

こんなことを知りたい人におすすめです。

目次

後白河法皇のプロフィール

後白河法皇
後白河法皇

後白河法皇は、平安時代末期に院政を行い、保元の乱や平治の乱などの戦乱を経験しました。
また、仏教を厚く信奉し、東大寺の大仏再建にも積極的に取り組みました。

名前後白河法皇(ごしらかわほうおう)
出身地京都府
生年月日1127年10月18日(大治2年9月11日)
死亡年月日1192年4月26日(建久3年3月13日)
享年66歳
活躍した時代平安時代
家族父:鳥羽天皇、母:藤原璋子、妻:藤原忻子、子:二条天皇、高倉天皇など
特記項目院政を行い、保元の乱や平治の乱などの戦乱を経験

後白河法皇のかんたん年表

後白河法皇の簡単な年表を以下の表にまとめました。

年代(西暦/年号)年齢出来事
1127年10月18日(大治2年9月11日)0歳京都で誕生。父は鳥羽天皇、母は藤原璋子。
1140年1月18日(保延5年12月27日)12歳元服し、二品に叙せられる。
1155年8月23日(久寿2年7月24日)28歳近衛天皇の急死により即位。
1156年(保元元年)29歳保元の乱が発生。後白河天皇は勝利し、兄の崇徳上皇は讃岐国へ配流される。
1158年9月5日(保元3年8月11日)31歳二条天皇に譲位し、院政を開始。
1159年(平治元年)32歳平治の乱が発生。後白河院は一時幽閉されるが、平清盛の助けで脱出。
1160年(永暦元年)33歳法住寺殿を造営し、熊野詣を開始。
1164年(長寛2年)37歳蓮華王院(三十三間堂)を造営。
1169年6月(嘉応元年)42歳出家し、法皇となる。
1176年(安元2年)49歳妻の平滋子が死去。
1180年(治承4年)53歳以仁王の挙兵が発生。平家との対立が激化。
1183年(寿永2年)56歳平家が都落ちし、後白河法皇は比叡山に脱出。
1185年(元暦2年)58歳壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
1192年4月26日(建久3年3月13日)66歳京都で死去。

後白河法皇はどんな人?生涯をざっくり紹介

それでは、後白河法皇の生涯を簡潔に紹介します。
後白河法皇は、どのような人物だったのでしょうか。

後白河法皇の生涯
  • 鳥羽天皇の子として京都に生まれる
  • 保元の乱で兄・崇徳上皇を破る
  • 平治の乱で一時幽閉されるも、平清盛の助けで脱出
  • 院政を開始し、文化活動に力を注ぐ
  • 熊野詣を繰り返し、仏教信仰を深める
  • 鹿ケ谷の陰謀で側近が処罰される
  • 平家滅亡後、源頼朝との関係を築く
  • 京都で死去

鳥羽天皇の子として京都に生まれる

後白河法皇は、1127年に鳥羽天皇の第四皇子として京都に生まれました。
母は藤原璋子(待賢門院)で、幼少期から宮廷で育ちました。
彼は幼い頃から「今様」という当時流行していた歌謡に夢中になり、「今様狂い」と呼ばれるほどでした。
このような文化的な興味は、後の彼の生涯にも大きな影響を与えました。

彼の幼少期は、平安時代末期の政治的な混乱の中で過ごされました。
父である鳥羽天皇の影響力の下で育ち、将来の天皇としての教育を受けました。
後白河法皇の生涯は、この時代の政治的な動きと密接に関連しており、彼の成長とともに日本の歴史も大きく動いていきました。

保元の乱で兄・崇徳上皇を破る

1156年、鳥羽法皇の死後、後白河天皇と兄の崇徳上皇の間で保元の乱が勃発しました。
この戦いは、後白河天皇側に平清盛や源義朝がつき、崇徳上皇側には藤原頼長や源為義がつくという、武士が本格的に政治に介入する初めての大規模な戦乱でした。
結果として、後白河天皇側が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流されました。

この勝利により、後白河天皇は権力を確立し、院政を開始する基盤を築きました。
保元の乱は、後白河法皇の政治的なキャリアの重要な転機となり、彼の治世における多くの出来事の前兆ともなりました。
この戦いを通じて、彼は武士の力を利用しつつ、自らの権力を強化する術を学びました。

平治の乱で一時幽閉されるも、平清盛の助けで脱出

1159年、平治の乱が勃発し、後白河上皇は藤原信頼と源義朝に幽閉されました。
この時、平清盛が帰京し、後白河上皇を救出しました。
この乱の結果、平清盛が権力を握り、源氏の勢力が衰退しました。
後白河法皇にとって、この出来事は彼の政治的な立場を再確認する機会となりました。

平治の乱は、後白河法皇と平清盛の関係を強化する契機となりました。
平清盛の助けを借りて脱出した後、後白河法皇は平氏との協力関係を築きました。
この協力関係は、後の院政においても重要な役割を果たし、彼の政治的な影響力を維持するための基盤となりました。

院政を開始し、文化活動に力を注ぐ

1158年、後白河天皇は二条天皇に譲位し、上皇として院政を開始しました。
院政期間中、彼は仏教信仰を深め、三十三間堂の建立や『梁塵秘抄』の編纂など、文化活動に力を注ぎました。
特に、仏教への深い信仰は、彼の治世における重要な特徴の一つです。

後白河法皇は、文化的な活動を通じて、自らの権威を高めるとともに、平安時代の文化を豊かにしました。
彼の治世における文化的な貢献は、後の時代にも大きな影響を与えました。
彼の院政は、政治的な駆け引きと文化的な活動が交錯する独特の時代を象徴しています。

熊野詣を繰り返し、仏教信仰を深める

後白河法皇は生涯で33回もしくは34回の熊野詣を行いました。
熊野詣は仏教信仰の一環として行われ、熊野三山を阿弥陀如来や千手観音と重ねて信仰しました。
彼の熊野詣は、単なる宗教行事にとどまらず、政治的な意図も含まれていました。

熊野詣の際には、今様を歌い、仏教信仰を深めました。
彼の熊野詣は、後白河法皇の信仰心の深さを示すとともに、彼の治世における宗教的な側面を強調しています。
彼の熊野詣は、平安時代の宗教的な風潮を反映しており、彼の治世における重要な要素の一つです。

鹿ケ谷の陰謀で側近が処罰される

1177年、後白河法皇の側近たちが平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀が発覚しました。
平清盛が陰謀を察知し、藤原成親や西光らが処罰されました。
この事件により、後白河法皇と平清盛の関係がさらに悪化しました。

鹿ケ谷の陰謀は、後白河法皇の治世における重要な転機となりました。
この事件を通じて、彼の政治的な立場は一時的に揺らぎましたが、最終的には彼の権力を再確認する機会となりました。
この事件は、後白河法皇の治世における政治的な駆け引きの一端を示しています。

平家滅亡後、源頼朝との関係を築く

1181年、平清盛の死後、後白河法皇は院政を再開しました。
1183年には、源頼朝に東国支配権を認める「寿永二年十月宣旨」を発布しました。
これにより、源頼朝との関係を築き、彼の政治的な影響力を維持しました。

前述の通り、義経と頼朝の対立を利用しつつ、頼朝との政治的駆け引きを続けました。
1192年、後白河法皇の死後、頼朝は征夷大将軍に任命されました。
彼の治世における政治的な駆け引きは、後の鎌倉幕府の成立に大きな影響を与えました。

京都で死去

1192年、後白河法皇は京都で死去しました。享年66歳でした。
彼の死後、法住寺陵に葬られました。
彼の治世は、平安時代末期の激動の時代を象徴するものであり、多くの政治的な駆け引きや文化的な貢献がありました。

後白河法皇の死は、一つの時代の終わりを意味しました。
彼の治世における多くの出来事は、後の日本の歴史に大きな影響を与えました。
彼の生涯を通じて、日本の政治と文化に多大な貢献をしたことは、後世に語り継がれています。

後白河法皇のエピソードや逸話

ここでは、後白河法皇のエピソードや逸話を紹介します。

後白河法皇のエピソード
  • 今様狂い
  • 保元の乱
  • 平治の乱
  • 熊野詣
  • 鹿ケ谷の陰謀

今様狂い

後白河法皇は「今様」という当時流行していた歌謡に夢中になり、「今様狂い」とまで呼ばれました。
昼夜を問わず、老若男女と一緒に今様を歌い楽しんでいたと伝えられています。

保元の乱

1156年、後白河天皇と崇徳上皇の間で保元の乱が発生。
後白河天皇は平清盛や源義朝の助けを借りて勝利し、崇徳上皇を讃岐国に配流しました。

平治の乱

1159年、平治の乱が発生。
後白河法皇は一時幽閉されましたが、平清盛の助けで脱出。
これにより平氏の勢力が強化されました。

熊野詣

後白河法皇は熊野詣を34回も行い、歴代天皇の中で最多の訪問回数を誇ります。
熊野信仰を深く信じ、仏教への信仰心が強かったことが伺えます。

鹿ケ谷の陰謀

1177年、後白河法皇の側近たちが平氏打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀が発覚。
これにより平氏との関係が悪化し、後白河法皇は一時幽閉されました。

後白河法皇にゆかりの地

ここでは、後白河法皇にゆかりの地や史跡を紹介します。
興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。

平清盛にゆかりの地
  • 法住寺
  • 三十三間堂
  • 法住寺陵

法住寺

法住寺は、後白河法皇が院政を行った場所であり、当時は「法住寺殿」と呼ばれていました。
ここでは多くの権謀術数が繰り広げられ、後白河法皇の政治活動の中心地でした。
現在もその跡地には法住寺があり、歴史を感じることができます。

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