【詳細解説】藤原広嗣の乱とは?なぜ起きた?簡単にわかりやすく解説

藤原広嗣の乱は、奈良時代の740年に起こった内乱です。
大宰少弐であった藤原広嗣が、政権に不満を抱き、九州の大宰府で挙兵しました。
この反乱は、わずか2ヶ月足らずで官軍によって鎮圧されましたが、その原因と影響は複雑で多岐にわたります。
藤原広嗣と吉備真備の対立、橘諸兄による政治主導への不満、藤原氏の権力失墜への危機感など、様々な要因が絡み合っていたのです。
本記事では、藤原広嗣の乱が起きた理由とその経過、そして乱後の影響について詳しく解説していきます。

この記事のポイント
  • 藤原広嗣と吉備真備の対立など、乱の背景にある政治的な対立構造について理解できる
  • 藤原氏の権力失墜への危機感が、藤原広嗣を反乱に駆り立てた要因だと分かる
  • 藤原広嗣の乱の具体的な経過、官軍との戦いや平定までの流れが把握できる
  • 藤原広嗣の乱が、その後の聖武天皇の政策や藤原氏内部の権力構造に与えた影響について理解できる
目次

藤原広嗣の乱が起きた理由とは

藤原広嗣の乱とは

藤原広嗣の乱とは、奈良時代の740年に起こった内乱です。
大宰少弐であった藤原広嗣が、政権に不満を抱き、九州の大宰府で挙兵しました。
しかし、官軍によって鎮圧されたのです。

藤原広嗣と吉備真備の対立

藤原広嗣は、吉備真備と対立していました。
吉備真備は遣唐使として中国に渡り、帰国後は朝廷で重用されるようになったのです。
一方、藤原広嗣は大宰少弐に左遷され、不満を抱えていました。
このような両者の確執が、藤原広嗣の乱の遠因の一つと言えるでしょう。

橘諸兄による政治主導への不満

藤原広嗣は、橘諸兄が政治の実権を握っていることにも不満を感じていたようです。
橘諸兄は、吉備真備や玄昉を重用し、左大臣として実権を握り、藤原氏の影響力を排除しようとしました。
藤原広嗣は、これを自分たち藤原氏への挑戦と受け止め、藤原氏の立場が弱まることを恐れていたのかもしれません。

藤原氏の権力失墜への危機感

藤原四兄弟(藤原四子)の死後、藤原氏の勢力は急速に失墜していきました。
藤原広嗣はこのことにも強い危機感を抱いていました。
従来の藤原氏の政治的地位が脅かされる中で、何とか巻き返しを図ろうとしたのが、今回の反乱だったと考えられます。

玄昉と吉備真備の追放を求める

藤原広嗣は、玄昉と吉備真備の追放を朝廷に求める上奏文を送りました。
しかし、橘諸兄を中心とする政権はこれを謀反と捉えたのです。
藤原広嗣の要求は、橘諸兄への批判でもあり、聖武天皇もこれを認めることはできませんでした。

太宰府で兵を集め挙兵

こうして朝廷との対立が決定的になった藤原広嗣は、弟の藤原綱手とともに太宰府で兵を集め、ついに挙兵します。
藤原広嗣は、1万もの兵を率いて反乱軍を形成したと言われています。
当時の政権にとって、かなり脅威となる勢力だったことがうかがえます。

聖武天皇の詔勅に従わず反乱へ

当初、反乱はあくまで橘諸兄などに対するものでした。
反乱当初、聖武天皇は、藤原広嗣に対して召喚の詔勅を出しましたが、藤原広嗣はこれに従いませんでした。
これにより、藤原広嗣の乱が本格的に始まることとなりました。
橘諸兄政権だけではなく、聖武天皇にも敵対する形で反乱へと突き進んでいくのです。

藤原広嗣の乱の経過と影響

大野東人率いる官軍が鎮圧

反乱軍に対して、朝廷は大野東人を大将軍とする官軍を派遣しました。
激しい戦いの末、官軍が藤原広嗣軍を破ったのです。
大野東人の機敏な指揮と、官軍の兵力が勝利を決定づけたと言えるでしょう。

敗走した藤原広嗣は捕らえられ平定

戦いに敗れた藤原広嗣は、敗走しますが、捕らえられてしまいます。
藤原広嗣の乱は、わずか2ヶ月足らずで平定されたのでした。
藤原広嗣は処刑され、反乱の終息は比較的早かったと言えますが、その影響は大きなものでした。

聖武天皇は恭仁京や難波京など都を移動

藤原広嗣の乱をきっかけに、聖武天皇は都を恭仁京や難波京など各地に移しました。
この「聖武天皇の落ち着かない動き」は、反乱の影響の大きさを物語っています。
乱の影響で、政情が不安定になったのかもしれません。

仏教による鎮護国家思想を推進

藤原広嗣の乱後、聖武天皇は仏教による国家安泰を目指す、鎮護国家思想を推進しました。
国家の安泰を祈るため、仏教の力を借りようとしたのです。
反乱を契機に、仏教の政治的役割がより重視されるようになったと言えるでしょう。

藤原広嗣の乱が国分寺建立の契機に

前述の通り、藤原広嗣の乱を受けて、聖武天皇は鎮護国家思想を推進しました。
その一環として、国分寺の建立を推し進めました。
各地に寺院を建て、僧侶を配置することで、仏教による国家鎮護を図ったのです。
藤原広嗣の乱は、奈良時代の仏教政策の転換点となったと言えます。

藤原式家の衰退と南家の台頭

藤原広嗣の乱の影響は、藤原氏内部の権力構造にも及びました。
乱の首謀者である藤原式家が衰退し、代わって藤原南家が台頭してきたのです。
式家に変わり、南家の藤原仲麻呂が、次第に権力を握っていくことになります。
藤原広嗣の乱は、藤原氏の盛衰を分ける重要な事件だったと言えるでしょう。

藤原広嗣の乱とは?なぜ起きた?まとめと総括

藤原広嗣の乱は、奈良時代の740年に起こった内乱です。
大宰少弐の藤原広嗣が、吉備真備との対立や橘諸兄による政治主導への不満、藤原氏の権力失墜への危機感から、九州の大宰府で挙兵しました。
藤原広嗣は1万もの兵を率いて反乱軍を形成しましたが、朝廷は大野東人を大将軍とする官軍を派遣し、わずか2ヶ月足らずで乱を平定しました。
この乱は、聖武天皇に大きな影響を与え、都の移動や仏教による鎮護国家思想の推進、国分寺建立などにつながりました。
また、藤原氏内部でも、藤原式家が衰退し、南家が台頭するなど、権力構造に変化をもたらしました。
藤原広嗣の乱は、奈良時代の政治や文化に大きな転換点となった出来事だったのです。

この記事のまとめ
  • 藤原広嗣の乱は、奈良時代の740年に起こった内乱である
  • 大宰少弐の藤原広嗣が、政権への不満から九州の大宰府で挙兵した
  • 藤原広嗣と吉備真備の対立が、乱の遠因の一つとなっている
  • 吉備真備は遣唐使として活躍し、帰国後は朝廷で重用された
  • 藤原広嗣は大宰少弐に左遷され、不満を抱えていた
  • 橘諸兄が政治の実権を握り、藤原氏の影響力を排除しようとしたことに、藤原広嗣は反発した
  • 藤原氏の立場が弱まることを恐れた藤原広嗣は、反乱を決意した
  • 藤原四兄弟の死後、藤原氏の勢力が急速に失墜していることに、藤原広嗣は危機感を抱いた
  • 藤原広嗣は、玄昉と吉備真備の追放を求める上奏文を朝廷に送ったが、受け入れられなかった
  • 朝廷との対立が決定的になった藤原広嗣は、弟の藤原綱手とともに太宰府で兵を集め挙兵した
  • 藤原広嗣は1万もの兵を率いて反乱軍を形成したとされる
  • 聖武天皇は藤原広嗣に召喚の詔勅を出したが、藤原広嗣はこれに従わず反乱へと突き進んだ
  • 朝廷は大野東人を大将軍とする官軍を派遣し、藤原広嗣軍を破った
  • 藤原広嗣の乱は、わずか2ヶ月足らずで平定された
  • 敗走した藤原広嗣は捕らえられ、処刑された
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