弥生人の生活~弥生時代の暮らしと文化【日本史講座】

「弥生時代って、正直よくわからない…」そう思ったことはありませんか? 教科書で習った記憶はあるけど、具体的に何が起こった時代なのか、すっきりと説明できない。そんなモヤモヤを抱えている方も多いのではないでしょうか。

実は、弥生時代は日本の歴史の中でも特に重要な転換期なんです。稲作の始まりや金属器の登場など、現代の日本社会の基礎が形作られた時代なのです。

この記事を読めば、弥生時代の魅力にきっと引き込まれるはずです。あなたの中で眠っていた日本の歴史への興味が、目覚めるかもしれません。さあ、タイムスリップして弥生人の暮らしを覗いてみませんか?

この記事を読むと分かること
  • 弥生時代が日本の農耕社会の基礎を築いた重要な転換期であること
  • 技術革新(金属器の使用など)が社会構造や文化に大きな影響を与えたこと
  • 環濠集落の形成や墓制の変化が、当時の社会の複雑化を反映していること
  • 現代の日本文化や社会制度の多くが、弥生時代にルーツを持つこと
筆者
弥生時代は、私たち日本人のアイデンティティの源流とも言える時代です。この時代を知ることで、現代の日本をより深く理解できるはずです。さあ、一緒に弥生時代の世界を探検してみましょう。
目次

弥生時代とは

弥生時代は、日本の歴史において縄文時代と古墳時代の間に位置する重要な時期です。この時代は、私たちの国の文化や社会に大きな変化をもたらしました。

弥生時代の時期区分

弥生時代は、大きく4つの時期に分けられます。それぞれの時期には特徴があり、社会や文化の発展を見ることができます。

  1. 早期:紀元前5世紀中頃から
  2. 前期:紀元前3世紀頃から
  3. 中期:紀元前1世紀頃から
  4. 後期:1世紀中頃から3世紀中頃まで

この時期区分は、考古学的な発見や研究によって明らかになりました。例えば、土器の形や模様の変化、青銅器や鉄器の使用状況などから、各時期の特徴を知ることができます。

ただし、最近の研究では、弥生時代の始まりをもっと古く、紀元前10世紀頃とする説も出てきています。これは、新しい年代測定技術や遺跡の発見によるものです。このように、歴史の見方は新しい発見によって変わることがあるんですね。

縄文時代との違い

弥生時代は、それまでの縄文時代とは大きく異なる特徴を持っています。その違いは、私たちの祖先の生活スタイルを大きく変えました。

まず、最も大きな違いは農耕の始まりです。縄文時代の人々は主に狩猟や採集で食べ物を得ていましたが、弥生時代になると稲作を中心とした農耕が始まりました。これにより、食料の安定的な確保が可能になり、人口が増加しました。

また、道具の変化も重要です。縄文時代の土器は厚くて装飾が多いのに対し、弥生時代の土器は薄くて実用的になりました。さらに、金属器(青銅器や鉄器)の使用が始まり、より効率的な農具や武器が作られるようになりました。

そして、社会構造にも変化が見られます。縄文時代は比較的平等な社会でしたが、弥生時代になると階層化が進み、リーダーのような存在が現れ始めました。これは、農耕による余剰生産物の蓄積や、集落の大規模化によるものと考えられています。

このように、弥生時代は日本の歴史の中でも大きな転換点となった時代なのです。次の章では、弥生人の具体的な生活について見ていきましょう。

弥生人の住まい

弥生時代の人々は、どのような家に住んでいたのでしょうか。彼らの住まいは、その時代の生活や文化を反映しています。

竪穴住居の特徴

弥生時代の主な住居形態は竪穴住居でした。これは、地面を掘り下げて作られた半地下式の家です。竪穴住居には、いくつかの特徴があります。

まず、形状です。竪穴住居は主に円形や方形で作られていました。地域によって形が異なり、例えば東日本では円形が多く、西日本では方形が多かったとされています。

次に、構造についてです。地面を20〜30cm程度掘り下げ、その周りに柱を立てて屋根を作ります。屋根は茅葺きで、中央に煙を逃がす穴がありました。壁は木の枝を編んで粘土を塗り固めて作られていました。

竪穴住居の利点は、冬は暖かく夏は涼しいことです。地面を掘り下げているため、外気の影響を受けにくいのです。また、台風などの強風にも強い構造でした。

一方で、デメリットもあります。雨季には湿気が多くなりやすく、床が腐りやすいという問題がありました。また、火事の危険性も高かったでしょう。

竪穴住居は、単なる住居としてだけでなく、工房や共同作業場としても使われていたと考えられています。このように、竪穴住居は弥生時代の人々の生活の中心だったのです。

高床倉庫の登場

弥生時代になると、新しい建物として高床倉庫が登場しました。これは、地面から離れた高い位置に床を設けた倉庫のことです。

高床倉庫の特徴は、床が地上から約2メートルの高さにあることです。これには重要な理由がありました。まず、湿気から穀物を守るためです。地面から離すことで、湿気による穀物の腐敗を防ぐことができました。

また、害獣から食料を守る目的もありました。高い位置に床があることで、ネズミなどの小動物が簡単に侵入できないようになっています。さらに、柱には「ネズミ返し」という円盤状の装置が取り付けられ、ネズミの侵入を防いでいました。

高床倉庫の構造は、主に木材を使って作られていました。床は板を敷き詰め、屋根は茅葺きでした。壁は必ずしも必要ではなく、空気の通りをよくするために開放的な構造のものもありました。

高床倉庫の登場は、弥生時代の農耕社会の発展を示しています。稲作が普及し、収穫物を長期保存する必要が出てきたからこそ、このような倉庫が作られるようになったのです。

例えば、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、多くの高床倉庫の跡が発見されています。これは、その地域が豊かな農業地帯だったことを示しています。

このように、高床倉庫は弥生時代の人々の知恵と工夫が詰まった建築物だったのです。次の章では、弥生時代の人々が何を食べ、どのように料理していたのかを見ていきましょう。

弥生時代の食生活

弥生時代の人々は、どのような食生活を送っていたのでしょうか。この時代は、日本の食文化に大きな変革をもたらした重要な時期です。

稲作の始まり

弥生時代の最も大きな特徴は、稲作の本格的な始まりです。稲作は日本の食文化を根本から変えた革命的な出来事でした。

稲作は、紀元前10世紀頃に中国大陸や朝鮮半島から伝わったと考えられています。最初は北部九州で始まり、そこから徐々に日本列島全体に広がっていきました。

稲作の始まりには、いくつかの重要な意義がありました:

  1. 安定した食料供給: 狩猟や採集に比べ、計画的に食料を確保できるようになりました。
  2. 人口増加: 食料が安定的に得られるようになったことで、人口が増加しました。
  3. 定住化の促進: 田んぼの管理のため、一か所に定住する必要が生まれました。
  4. 社会の変化: 余剰生産物の蓄積により、社会の階層化が進みました。

しかし、稲作の導入には課題もありました。例えば、水の管理や田んぼの造成など、新しい技術や労働力が必要でした。また、気候変動の影響を受けやすく、不作の年もあったでしょう。

それでも、稲作の導入は弥生時代の社会を大きく変え、その後の日本の歴史に大きな影響を与えることになったのです。

主な食べ物と調理方法

弥生時代の人々の食生活は、稲作の導入により大きく変化しました。しかし、米だけでなく、さまざまな食材を利用していました。

主な食べ物は以下のようなものでした:

  1. 穀物: 米が主食となりましたが、粟、稗、麦なども食べられていました。
  2. 野菜: 大豆、小豆、カボチャ、ゴボウなどが栽培されていました。
  3. : 鹿やイノシシなどの獣肉を食べていました。
  4. : 沿岸部では魚や貝類も重要な食料源でした。
  5. 果物: 栗や柿などの果物も食べられていました。

調理方法も多様でした:

  1. 煮る: 土器を使って穀物や野菜を煮ることが一般的でした。
  2. 焼く: 魚や肉は直接火で焼いて食べることもありました。
  3. 蒸す: 大型の土器を使って蒸し料理も行われていました。
  4. 発酵: 味噌や醤油の原型となる調味料の製造が始まったとも言われています。

例えば、炊いた米に野菜や肉を混ぜた「おこわ」のような料理や、魚を塩漬けにして保存する方法なども使われていたと考えられています。

ただし、現代のように調理器具が発達していなかったため、料理の種類は限られていたでしょう。また、調味料も塩が主で、現代のような複雑な味付けはまだなかったと考えられています。

このように、弥生時代の食生活は、稲作を中心としながらも、さまざまな食材と調理方法を組み合わせた豊かなものだったのです。次の章では、弥生人たちがどのような服を着て、どんな装飾品を身につけていたのかを見ていきましょう。

弥生人の衣服と装飾品

弥生時代の人々は、どのような服を着て、どんな装飾品を身につけていたのでしょうか。彼らの衣服や装飾品は、その時代の技術や美意識を反映しています。

布製の衣服

弥生時代になると、衣服の材料や製作方法に大きな変化が起こりました。布製の衣服が主流になったのです。

弥生時代の衣服の特徴は以下のようなものでした:

  1. 材料: 主に麻が使われていました。麻は丈夫で、湿気に強い特性があります。
  2. 織り方: 平織りという単純な織り方が一般的でした。
  3. : 男性は「袈裟襷形」と呼ばれる、肩から斜めに布を掛ける形が多く、女性は「貫頭衣」という頭からかぶる形の服が主流でした。

衣服の製作過程は以下のようなものでした:

  1. 麻の茎から繊維を取り出す
  2. 繊維を糸にする
  3. 糸を織って布にする
  4. 布を裁断して縫い合わせる

この過程は非常に手間のかかるものでしたが、布製の衣服には多くの利点がありました。例えば、動きやすさ、保温性、耐久性などです。また、染色も可能になり、美しさも追求できるようになりました。

ただし、布製の衣服にはデメリットもありました。製作に時間と労力がかかるため、十分な衣服を持てない人もいたでしょう。また、洗濯や補修にも手間がかかったと考えられます。

このように、弥生時代の衣服は、技術の進歩と生活の変化を反映したものだったのです。

アクセサリーの種類

弥生時代の人々は、衣服だけでなく、さまざまな装飾品も身につけていました。これらのアクセサリーは、美しさを表現するだけでなく、社会的地位や宗教的な意味を持つこともありました。

弥生時代の主なアクセサリーの種類は以下のようなものでした:

  1. : ガラス製や石製の玉が首飾りなどに使われました。特に、「勾玉」と呼ばれる湾曲した形の玉が特徴的です。
  2. 腕輪: 貝殻を加工して作った腕輪が人気でした。
  3. 耳飾り: 石や金属で作られた耳飾りも使われていました。
  4. ペンダント: 動物の歯や骨を加工したペンダントも見られます。

これらのアクセサリーの特徴として、以下のようなことが挙げられます:

  • 材料の多様性: 石、貝、骨、金属など、さまざまな素材が使われていました。
  • 技術の進歩: 特に玉作りの技術が発達し、精巧な装飾品が作られるようになりました。
  • 地域性: 地域によって好まれるアクセサリーの種類や形が異なっていました。

アクセサリーには社会的な意味もありました。例えば、特に美しい玉や大量の装飾品を身につけることは、その人の社会的地位の高さを示していたと考えられています。また、一部のアクセサリーは交易品としても重要で、遠隔地との交流を示す証拠にもなっています。

しかし、これらのアクセサリーにも課題はありました。例えば、高価な材料や熟練の技術が必要なため、誰もが自由に身につけられるわけではありませんでした。また、日常の労働の際には邪魔になることもあったでしょう。

それでも、弥生時代の人々にとって、アクセサリーは単なる飾りではなく、自己表現や社会的コミュニケーションの手段として重要な役割を果たしていたのです。

このように、弥生時代の衣服と装飾品は、その時代の技術力や美意識、社会構造を反映した興味深いものでした。次の章では、弥生時代の人々がどのような道具を使い、どんな技術を持っていたのかを見ていきましょう。

弥生時代の道具と技術

弥生時代は、新しい道具や技術が次々と登場した時代です。これらの進歩は、人々の生活を大きく変え、社会の発展を促しました。

農具の発達

弥生時代の最も重要な特徴の一つは、農業の発展です。これに伴い、さまざまな農具が開発され、使用されるようになりました。

主な農具には以下のようなものがありました:

  1. 石包丁: 稲を刈り取るために使われました。
  2. 木製の鍬: 土を耕すのに使われました。
  3. 木製の鋤: 田んぼを整備するのに使われました。
  4. 木製の杵: 脱穀や精米に使われました。

これらの農具の特徴は以下の通りです:

  • 材料: 主に木や石が使われていましたが、後期には一部で鉄製の農具も使われ始めました。
  • 形状: 用途に応じて様々な形状がありました。例えば、鍬は土を掘り起こすのに適した形状でした。
  • 効率性: これらの道具の登場により、農作業の効率が大幅に向上しました。

農具の発達にはメリットがたくさんありました。例えば、作業効率が上がったことで、より多くの収穫が得られるようになりました。また、余剰生産物ができることで、社会の階層化や専業化が進みました。

一方で、デメリットもありました。新しい農具の製作には専門的な技術が必要で、誰もが簡単に作れるわけではありませんでした。また、鉄製の農具は高価で、一般の人々には手に入れづらかったでしょう。

それでも、農具の発達は弥生時代の社会を大きく変え、その後の日本の農業の基礎を築いたのです。

青銅器と鉄器の使用

弥生時代のもう一つの大きな特徴は、金属器の使用です。特に、青銅器と鉄器の登場は、社会に大きな変革をもたらしました。

青銅器鉄器の特徴は以下の通りです:

  1. 青銅器:
  • 主に儀式用の道具(銅鐸など)や武器として使われました。
  • 鋳造技術で作られ、複雑な形状のものも作れました。
  • 色や光沢が美しく、権威の象徴としても重宝されました。
  1. 鉄器:
  • 主に実用的な道具(農具や工具)として使われました。
  • 鍛造技術で作られ、強度が高く、耐久性に優れていました。
  • 青銅器よりも硬く、より効率的な道具が作れました。

金属器の使用には多くのメリットがありました:

  • 道具の耐久性が大幅に向上しました。
  • より効率的な農作業や工作が可能になりました。
  • 新しい技術や文化が生まれる契機となりました。

しかし、デメリットもありました:

  • 金属の採掘や精錬、加工には高度な技術が必要でした。
  • 金属器は高価で、一般の人々には手に入れづらかったでしょう。
  • 金属器の所有が権力の象徴となり、社会の格差を生む一因にもなりました。

例えば、島根県の荒神谷遺跡では、大量の銅剣や銅鐸が発見されています。これは、当時の金属器が宗教的・政治的に重要な意味を持っていたことを示しています。

このように、青銅器と鉄器の使用は、弥生時代の技術革新を象徴する出来事でした。これらの新しい道具と技術は、社会の構造や人々の生活を大きく変えていったのです。次の章では、こうした変化によって形成された弥生時代の社会構造について見ていきましょう。

弥生時代の社会構造

弥生時代は、日本の社会構造が大きく変化した時期です。農耕の発展や金属器の使用により、人々の生活様式や社会のあり方が大きく変わりました。

ムラの形成と環濠集落

弥生時代になると、人々は定住生活を送るようになり、ムラと呼ばれる集落を形成するようになりました。特に注目すべきは、環濠集落の出現です。

環濠集落の特徴は以下の通りです:

  1. 構造: 集落の周りを深い溝(環濠)で囲んでいます。
  2. 規模: 小さなものから数百人規模の大きなものまでありました。
  3. 機能: 防御、排水、境界線の役割を果たしていました。

環濠集落のメリットには以下のようなものがありました:

  • 外敵からの防御が容易になりました。
  • 集落内の結束が強まりました。
  • 農耕に必要な水の管理がしやすくなりました。

一方で、デメリットもありました:

  • 環濠の建設と維持に多くの労力が必要でした。
  • 集落の拡大が制限されました。
  • 他の集落との交流が制限される可能性がありました。

例えば、大阪府の池上曽根遺跡は、大規模な環濠集落の代表的な例です。この遺跡からは、当時の人々の生活や社会構造を知る多くの手がかりが発見されています。

環濠集落の出現は、弥生時代の社会が次第に複雑化し、組織化されていったことを示しています。これは、次に説明する社会の階層化とも深く関連しています。

身分の差の出現

弥生時代になると、社会の中に階層化の兆しが見え始めます。これは、それまでの比較的平等だった縄文時代の社会構造とは大きく異なる点です。

身分の差が生まれた主な要因は以下のようなものです:

  1. 農業の発展: 余剰生産物の蓄積が可能になりました。
  2. 金属器の登場: 希少で高価な道具の所有が権力の象徴となりました。
  3. 交易の発展: 遠隔地との交易を管理する人々が現れました。

身分の差は、以下のようなで表れていました:

  • 墓制の違い: 副葬品の量や質に差が見られるようになりました。
  • 住居の違い: 一部の人々はより大きな住居に住むようになりました。
  • 儀式の執行: 特定の人々が重要な儀式を執り行うようになりました。

社会の階層化にはメリットもありました:

  • 社会の組織化が進み、大規模な事業(例:環濠の建設)が可能になりました。
  • 専門的な技術や知識を持つ人々が現れ、社会全体の発展につながりました。

しかし、デメリットも存在しました:

  • 社会的な格差が生まれ、機会の不平等が生じました。
  • 権力の集中により、一部の人々の意思で社会が動くようになりました。
  • 階層間の対立や争いが起こる可能性が高まりました。

例えば、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、大型の墓や特別な副葬品を持つ墓が発見されています。これは、当時の社会に既に明確な階層差が存在していたことを示しています。

このように、弥生時代の社会構造は、それまでの日本社会とは大きく異なるものでした。環濠集落の形成や身分の差の出現は、その後の古墳時代へとつながる重要な変化だったのです。次の章では、こうした社会の中で行われていた祭りや信仰について見ていきましょう。

弥生時代の祭りと信仰

弥生時代の人々は、どのような祭りを行い、何を信仰していたのでしょうか。この時代の祭りや信仰は、農耕社会の発展や社会の階層化と深く結びついていました。

青銅器を使った祭り

弥生時代の特徴的な祭りとして、青銅器を使った祭りがあります。これらの祭りは、農耕の豊穣を祈ったり、共同体の結束を強めたりする重要な役割を果たしていました。

青銅器を使った祭りの主な特徴は以下の通りです:

  1. 使用される青銅器: 主に銅鐸(どうたく)や銅剣、銅矛などが使われました。
  2. 場所: 特別な祭祀場や高台で行われることが多かったようです。
  3. 参加者: 祭りを執り行う特別な人物(祭司のような存在)がいたと考えられています。

これらの祭りには、いくつかの重要な意味がありました:

  • 農耕儀礼: 豊作を祈願したり、収穫を感謝したりする意味がありました。
  • 共同体の結束: 祭りを通じて、集落の人々の絆を深めることができました。
  • 権威の象徴: 貴重な青銅器を所有し、祭りを主催することは、権力の象徴でもありました。

例えば、島根県の加茂岩倉遺跡では、358個もの銅鐸が一括で出土しています。これは、当時の祭りがいかに大規模で重要なものだったかを示しています。

しかし、これらの祭りには課題もありました:

  • 青銅器の製作には多大な労力と資源が必要でした。
  • 祭りの執行が特定の人々に限られ、社会の階層化を促進した可能性があります。
  • 時代が下るにつれ、祭りの本来の意味が形骸化していった可能性もあります。

このように、青銅器を使った祭りは、弥生時代の社会や信仰を反映した重要な文化的要素だったのです。

墓制の変化

弥生時代には、それまでの縄文時代とは異なる新しい墓制が登場しました。この変化は、当時の人々の死生観や社会構造の変化を反映しています。

弥生時代の墓制の主な特徴は以下の通りです:

  1. 方形周溝墓: 四角形の溝で囲まれた墓で、中央に埋葬施設があります。
  2. 木棺墓: 木で作られた棺を使用した墓です。
  3. 甕棺墓: 大きな甕(かめ)を棺として使用した墓で、主に西日本で見られます。
  4. 集団墓: 同じ場所に多くの人を埋葬する墓地が作られるようになりました。

これらの新しい墓制には、いくつかの重要な意味がありました:

  • 社会の階層化: 墓の大きさや副葬品の違いから、社会の階層差が読み取れます。
  • 農耕社会の定着: 特定の場所に墓地を作ることは、定住生活の証拠となります。
  • 死生観の変化: 丁寧な埋葬や副葬品の存在は、死後の世界への信仰を示唆しています。

例えば、奈良県の唐古・鍵遺跡では、多数の方形周溝墓が発見されています。これらの墓の規模や副葬品の違いから、当時の社会構造や信仰の一端を知ることができます。

しかし、新しい墓制には課題もありました:

  • 大規模な墓の建設には多くの労力が必要でした。
  • 墓の違いが社会的格差を強調する結果となった可能性があります。
  • 土地の利用に制限が生じ、集落の拡大や農地の確保に影響を与えたかもしれません。

このように、弥生時代の墓制の変化は、単なる埋葬方法の変更ではなく、社会全体の変化を反映したものだったのです。

弥生時代の祭りと信仰は、農耕社会の発展や社会の階層化と密接に結びついていました。青銅器を使った祭りは、農耕儀礼としての役割だけでなく、共同体の結束や権威の象徴としても機能しました。一方、墓制の変化は、死生観の変化や社会構造の変化を如実に表しています。

これらの変化は、その後の古墳時代へとつながっていきます。例えば、方形周溝墓は後の前方後円墳の原型となったと考えられています。また、青銅器を使った祭りの伝統は、古墳時代の埋葬儀礼にも影響を与えました。

弥生時代の祭りと信仰を学ぶことで、私たちは当時の人々の精神世界や社会のあり方をより深く理解することができます。それは同時に、現代の日本文化や社会のルーツを探ることにもつながるのです。

弥生人の生活│まとめ

項目主な特徴
時期紀元前10世紀頃~紀元後3世紀頃
主な変化稲作の普及、金属器の使用開始
住居竪穴住居、高床倉庫の登場
社会環濠集落の形成、階層化の進行
祭りと信仰青銅器を使用した祭り、新しい墓制

弥生時代は、日本の歴史における重要な転換期でした。稲作を中心とした農耕社会が確立し、青銅器や鉄器の使用が始まりました。社会構造も大きく変化し、環濠集落の形成や身分の差の出現が見られました。

住居は竪穴住居が主流で、高床倉庫も登場しました。祭りと信仰の面では、青銅器を使った祭りや新しい墓制が生まれました。これらの変化は相互に関連し、その後の日本社会の基礎を形作ることになりました。

弥生時代を学ぶことで、私たちは日本の農耕社会の起源や現代文化のルーツを理解し、技術発展が社会に与える影響を考察することができます。この時代は、現代の日本を理解する上で欠かせない重要な時期なのです。

この記事のポイント
  • 弥生時代は紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃まで続いた
  • 稲作を中心とした農耕社会が確立された時期
  • 青銅器や鉄器の使用が始まり、技術革新が起こった
  • 竪穴住居が主流で、高床倉庫も登場した
  • 環濠集落が形成され、集落の防御性が高まった
  • 社会の階層化が進み、身分の差が出現した
  • 青銅器を使った祭りが行われ、農耕儀礼として機能した
  • 新しい墓制(方形周溝墓、木棺墓、甕棺墓など)が登場した
  • 余剰生産物の蓄積が可能になり、社会構造が変化した
  • 交易の発展により、遠隔地との文化交流が活発になった
  • 石包丁や木製の鍬など、専門的な農具が開発された
  • 機織り技術が発達し、布製の衣服が主流になった
  • ガラス製や貝製のアクセサリーが装飾品として使われた
  • 銅鐸や銅剣などの祭祀用具が重要な役割を果たした
  • 集団墓の出現により、共同体意識が強まった
  • 弥生土器は薄手で実用的な形状が特徴的
  • 吉野ヶ里遺跡や登呂遺跡など、大規模な集落跡が発見されている
  • 縄文時代と比べ、人口が大幅に増加した
  • 中国の史書に「倭人」として記録される時代となった
筆者
弥生時代を研究すればするほど、私たちの祖先の知恵と創意工夫に感動します。彼らは新しい技術や文化を積極的に取り入れ、それを日本の風土に合わせて発展させていきました。この柔軟な姿勢こそ、日本文化の特徴の一つだと私は考えています。
現代を生きる私たちも、弥生人のように新しいものを恐れず、しかし自分たちの伝統も大切にする姿勢を持つべきではないでしょうか。技術は進歩しても、人と人とのつながりや自然との共生を大切にする心は、弥生時代から脈々と受け継がれているのです。
弥生時代を学ぶことは、単なる歴史の勉強ではなく、私たち自身のルーツを探る旅でもあるのです。
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