桓武天皇は、平安時代初期に在位した第50代天皇です。
母が百済系渡来人であったため、皇位継承に苦難がありましたが、強力な後ろ盾を得て即位しました。
即位後は、律令制度の再建や平安京遷都など、数々の改革を断行しました。
東北地方の蝦夷征討にも尽力し、版図の拡大に貢献しました。
その一方で、同母弟の早良親王との確執や、怨霊に悩まされるなど、波乱に満ちた生涯を送りました。
本記事では、桓武天皇の人物像や治世について、詳しく解説していきます。
- 桓武天皇の生い立ちや即位までの経緯について理解できる
- 桓武天皇が行った律令制度の改革や平安京遷都の目的を把握できる
- 桓武天皇の東北地方の蝦夷征討や版図拡大への貢献を知ることができる
- 桓武天皇の人物像や性格、同母弟との確執などを理解できる
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桓武天皇のプロフィールと生涯
プロフィールと生涯
桓武天皇は、第50代天皇で在位期間は781年から806年までの25年間でした。
光仁天皇の第一皇子として生まれ、母は高野新笠でした。
幼少期は皇族ではなく官僚としての教育を受けました。
773年に皇太子に立てられ、781年に44歳で即位しました。
桓武天皇は、奈良時代から平安時代への転換期に天皇の座についた人物です。
平城京から長岡京、そして平安京への遷都を行ったことで知られています。
また、東北地方の蝦夷を征伐し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命したことでも有名でしょう。
桓武天皇の治世は、律令制度の立て直しや遷都など、日本の歴史に大きな影響を与えました。
母は高野新笠
桓武天皇の母である高野新笠は、百済系渡来人の血筋でした。
この出自のため、桓武天皇は皇位継承順位が低く、また立太子に際しても反対の声がありました。
しかし、藤原百川らの支持により皇太子の座を得ることができました。
桓武天皇は母の出自を逆手に取り、百済との関係を強調することで、皇統の正当性を主張しました。
弟・早良親王との確執
桓武天皇には早良親王という同母弟がおり、785年に起きた藤原種継暗殺事件に関与した疑いをかけられ、皇太子の座を廃されました。
早良親王は配流先で絶食の末に亡くなりましたが、その後も桓武天皇の周辺で不幸な出来事が相次ぎ、これが早良親王の祟りだと恐れられました。
桓武天皇は怨霊の鎮魂のために、さまざまな対策を講じました。
桓武天皇の性格と特徴
桓武天皇は、改革志向が強く、母方の血筋への強い自覚を持っていました。
また、威厳を重視し、平和を願う一方で、強い決断力の持ち主でした。
青年期に官僚としての教育を受けていたことから、政治手腕にも長けていました。
仏教が政治に介入することには反対しましたが、最澄らの新しい仏教を支持するなど、バランス感覚を持ち合わせていました。
桓武天皇が行った主要な政治改革
律令制度を再建
桓武天皇は、奈良時代末期に衰退しつつあった律令制度の立て直しに尽力しました。
農民の負担軽減のため、公出挙の利息引き下げや、雑徭の期間短縮などの改革を行いました。
また、地方の国司の不正を監視するために、勘解由使という役職を設置しました。
さらに、徴兵制度を改め、専門性の高い健児を重用することで、軍隊の質の向上を図りました。
桓武天皇の政治をわかりやすく解説
桓武天皇の政治の特徴は、天皇親政と律令制度の改革でした。
長岡京・平安京への遷都により、奈良仏教勢力の影響を抑え、政教分離を進めました。
また、東北地方の蝦夷討伐を積極的に行い、版図の拡大を図りました。
一方で、農民の負担軽減策を打ち出すなど、現状との矛盾を解消するための改革にも取り組みました。
桓武天皇の治世は、約400年続く平安時代の基礎を築いた重要な時期でした。
征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍
桓武天皇は、東北地方の平定のため、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命しました。
坂上田村麻呂は、801年の第3次蝦夷征討において、多くの蝦夷を降伏させ、胆沢城や志波城を築くなど、大きな成果を上げました。
坂上田村麻呂の活躍により、東北地方の支配体制が確立され、日本の版図が拡大しました。
しかし、805年に民衆の疲弊を理由に、桓武天皇は蝦夷討伐の中止を決めました。
桓武天皇と平安京遷都
都を平安京に移した理由
桓武天皇が都を平安京に移した理由は、大きく分けて3つあります。
1つ目は、奈良仏教勢力の影響力を抑えるためです。
当時、仏教寺院は政治に大きな影響力を持っていましたが、桓武天皇はこれを快く思っていませんでした。
2つ目は、藤原種継暗殺事件や早良親王の怨霊など、長岡京での不吉な出来事から逃れるためです。
3つ目は、桓武天皇独自の皇統を打ち立てるためです。
平安京は、桓武天皇の理想とする新しい都だったのです。
遷都を決断した背景
桓武天皇が遷都を決断した背景には、長岡京での相次ぐ不幸な出来事がありました。
藤原種継暗殺事件で皇太子だった早良親王が関与を疑われ、廃太子となり配流先で亡くなると、その怨霊による災いが相次ぎました。
桓武天皇の母や皇后が相次いで亡くなり、新たな皇太子の病気も重なりました。
こうした状況を打開し、新たな時代を切り開くために、桓武天皇は平安京への遷都を決断したのです。
平安京遷都の真の目的とは
平安京遷都の真の目的は、桓武天皇による新しい皇統の樹立でした。
桓武天皇は、自らの出自への強い自覚から、天智天皇の血筋を強調し、奈良時代とは異なる新しい皇統を打ち立てようとしました。
また、政治と仏教の分離を進め、天皇親政を実現することで、律令制度の立て直しを図ろうとしました。
平安京は、桓武天皇の理想とする新しい時代の象徴だったのです。
桓武天皇にまつわる興味深いエピソード
桓武天皇と百済の関係
桓武天皇は、母方の血筋が百済系渡来人であることを強く意識していました。
即位後、母を皇太后とし、和氏の祖先が百済王族の子孫であるとして、「天高知日之子姫尊」の諡号を贈りました。
また、「百済王氏は朕の外戚である」と宣言し、百済王氏の地位を高めました。
さらに、後宮に百済王氏の女性を多く迎え入れるなど、百済との関係を重視する姿勢を示しました。
桓武天皇がやったことは何?都を移した理由は?まとめと総括
桓武天皇は、平安時代初期に在位した第50代天皇であり、母が百済系渡来人であったことから皇位継承に困難を抱えながらも、強力な後ろ盾を得て即位しました。
即位後は、律令制度の再建や平安京遷都など、数々の改革を断行し、東北地方の蝦夷征討にも尽力して版図の拡大に貢献しました。
その一方で、同母弟の早良親王との確執や怨霊に悩まされるなど、波乱に満ちた生涯を送りました。
桓武天皇は、改革志向が強く、母方の血筋への強い自覚を持ち、威厳を重視しつつも平和を願う決断力のある人物でした。
政治と仏教の分離を進め、天皇親政を実現することで律令制度の立て直しを図り、新しい皇統の樹立を目指した桓武天皇の治世は、平安時代の基礎を築いた重要な時期であったと言えます。
- 桓武天皇は第50代天皇であり、在位期間は781年から806年までの25年間である
- 光仁天皇の第一皇子として生まれ、母は百済系渡来人の高野新笠である
- 幼少期は皇族ではなく官僚としての教育を受けた
- 773年に皇太子に立てられ、781年に44歳で即位した
- 母の出自が百済系渡来人であったため、立太子に際して反対の声があった
- 藤原百川らの支持により皇太子の座を得ることができた
- 母の出自を逆手に取り、百済との関係を強調することで皇統の正当性を主張した
- 同母弟の早良親王が藤原種継暗殺事件に関与した疑いをかけられ、皇太子の座を廃された
- 早良親王の死後、桓武天皇の周辺で不幸な出来事が相次ぎ、早良親王の祟りだと恐れられた
- 改革志向が強く、母方の血筋への強い自覚を持っていた
- 威厳を重視し、平和を願う一方で、強い決断力の持ち主であった
- 奈良時代末期に衰退しつつあった律令制度の立て直しに尽力した
- 農民の負担軽減のため、公出挙の利息引き下げや雑徭の期間短縮などの改革を行った
- 地方の国司の不正を監視するために、勘解由使という役職を設置した
- 徴兵制度を改め、専門性の高い健児を重用することで軍隊の質の向上を図った
- 長岡京・平安京への遷都により、奈良仏教勢力の影響を抑え、政教分離を進めた
- 東北地方の蝦夷討伐を積極的に行い、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した
- 平安京遷都の目的は、桓武天皇による新しい皇統の樹立であった
- 政治と仏教の分離を進め、天皇親政を実現することで律令制度の立て直しを図った
- 母方の血筋が百済系渡来人であることを強く意識し、百済との関係を重視した
平安時代の二人の天才、最澄と空海にスポットを当てた物語。
桓武天皇を中心とした政治面の描写も濃厚です。