道鏡は何をした人?孝謙天皇との関係は?簡単にわかりやすく解説

奈良時代の僧侶・道鏡は、孝謙天皇(称徳天皇)の信頼を得て権力を握り、太政大臣禅師や法王にまで上り詰めました。
しかし、宇佐八幡宮の神託事件をきっかけに失脚し、下野に左遷されて生涯を終えました。
一般的には権力欲に溺れた悪僧とされますが、近年では見直す動きもあります。
道鏡の生涯と孝謙天皇との関係、そして彼をめぐる歴史的評価について解説します。

この記事でわかること
  1. 道鏡と孝謙天皇の出会いと関係
  2. 道鏡の政治的な出世と影響力
  3. 宇佐八幡宮神託事件と道鏡の失脚
  4. 道鏡の歴史的評価と再考の動き
目次

道鏡は何をした?孝謙天皇との関係や宇佐八幡宮事件を解説

道鏡のプロフィール

道鏡は奈良時代の僧侶で、弓削氏の出身です。
若い頃から法相宗の僧侶として修行に励み、サンスクリット語(梵語)にも通じていたことから宮中の内道場に出入りすることを許されたほどの実力の持ち主でした。
762年、病に伏した孝謙上皇の看病に献身的に尽くしたことから、その信頼を得て側近となります。
やがて孝謙上皇が称徳天皇として再び即位すると、道鏡の権力はますます強くなっていきました。

道鏡と孝謙天皇の出会いと関係

孝謙天皇と道鏡の出会いは、761年に孝謙上皇が病に臥せっていた時のことです。
当時、道鏡は孝謙上皇に加持祈祷を行い、献身的に看病しました。
これが孝謙上皇の心に響き、深い信頼関係が生まれることとなります
その後、孝謙天皇は道鏡の出身地である弓削に行宮を設け、頻繁に滞在するほど親密な関係を築いていきました。
二人の関係は、僧侶と女性天皇という特異な例として知られています。

孝謙天皇の寵愛を受け出世した道鏡

孝謙天皇の信頼を得た道鏡は、めきめきと出世していきます。
764年には孝謙天皇が称徳天皇として再び即位すると、道鏡は僧侶でありながら太政大臣禅師に任命され、政治にも大きな影響力を持つようになりました
さらに翌年には法王という宗教界の最高位に就き、称徳天皇とともに仏教を中心とした政治を推し進めていきます。
道鏡の権力はピークに達し、藤原氏をはじめとする貴族たちの反発を買うようになります。

道鏡は本当に悪人だったのか?いい人説も

一般的に道鏡は、女帝をたぶらかして権力を握った悪人というイメージが強いですが、近年では道鏡を見直す動きも出てきています
道鏡は学識があり優れた僧侶であったとされ、称徳天皇の下で辺境の防備を固めるなど、国家の安泰のために尽力した面もあります。
また、百姓の小規模な開墾を許可するなど、一般民衆に配慮した政策も行っていました。
強権的な専制政治を行ったわけではなく、時代に翻弄された面もあるのではないかという見方もあるのです。

道鏡とラスプーチンの類似点

道鏡は、ロシアの僧ラスプーチンとよく比較されます。
ラスプーチンも皇后アレクサンドラの信頼を得て政治に介入し、道鏡と同じく「悪僧」と呼ばれたという共通点があるためです。
二人とも宗教者でありながら権力の中枢に近づき、政敵から反発を買ったことで破滅への道を歩むこととなりました。
また、皇后や皇太子の病気を治療したという逸話も共通しています。
ただし、道鏡とラスプーチンが生きた時代や文化的背景は大きく異なりますので、単純に同一視することはできません。

道鏡の生涯をわかりやすく解説!何をした人物なのか

道鏡と孝謙天皇に子供はいたのか

道鏡と孝謙天皇の間に子供がいたという説がありますが、これは歴史的な根拠に乏しく、後世の伝説や憶測である可能性が高いです
一部の説では英親王という子供がいたとされますが、信頼できる史料で裏付けられているわけではありません。
実際、孝謙天皇は生涯独身を貫いたとする記録もあります。
女性天皇ゆえに後継者問題に悩まされていたと考えられ、道鏡との間に子供をもうけるということは考えにくいでしょう。

宇佐八幡宮神託事件と道鏡の皇位継承阻止

769年、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすべし」という神託が下ったことから、道鏡が皇位継承を狙ったとされる事件が起こります
しかし、和気清麻呂の活躍により、この神託は道鏡の側近が捏造したものであることが発覚し、道鏡の野望は阻止されました。
この事件により、道鏡は天皇家を脅かす大罪人として捉えられることとなり、失脚への道を歩むことになります。
結果的に、道鏡がなし崩し的に皇位に就くという異例の事態は避けられ、皇位継承の原則が確立されていくことにつながりました。

道鏡の左遷と下野薬師寺での最期

称徳天皇が崩御した770年、道鏡の権力は失墜します。
しかし、長年の功績から死罪は免れ、下野国の下野薬師寺別当に左遷されるという処分に留まりました。
道鏡はひっそりと下野の地で余生を過ごし、2年後の772年にその生涯を終えました。
道鏡が死罪にならずに済んだことについては、道鏡を処罰することで称徳天皇の治世そのものを否定することにつながりかねないという政治的な配慮があったのではないかとも推測されています。

道鏡は何をした人?孝謙天皇との関係は?まとめと総括

道鏡は奈良時代の僧侶で、孝謙天皇(称徳天皇)の信頼を得て政治的な権力を握りました。
僧でありながら太政大臣禅師や法王にまで上り詰め、仏教を中心とした政治を推し進めましたが、宇佐八幡宮の神託事件をきっかけに失脚し、下野に左遷されて生涯を終えました。
一般的には権力欲に溺れた悪僧とされてきましたが、近年では学識があり優れた僧侶であったとする見方や、民衆に配慮した政策を行ったといった評価も出てきています。
道鏡の生涯は、奈良時代の政治と仏教の関係性を考える上で重要な示唆を与えてくれます。
また、歴史上の人物評価が時代とともに変化していく様子を示す興味深い事例でもあるでしょう。

この記事のポイント
  • 道鏡は奈良時代の僧侶で、弓削氏の出身である
  • 若い頃から法相宗の僧侶として修行に励み、サンスクリット語にも通じていた
  • 762年、病に伏した孝謙上皇の看病に献身的に尽くしたことから、その信頼を得た
  • 孝謙天皇が称徳天皇として再び即位すると、道鏡の権力はますます強くなった
  • 761年、孝謙上皇の病を治療したことで、深い信頼関係が生まれた
  • 孝謙天皇は道鏡の出身地である弓削に行宮を設け、頻繁に滞在するほど親密な関係を築いた
  • 764年、道鏡は僧侶でありながら太政大臣禅師に任命され、政治にも大きな影響力を持つようになった
  • 翌年には法王という宗教界の最高位に就き、称徳天皇とともに仏教を中心とした政治を推し進めた
  • 近年では、道鏡を見直す動きも出てきている
  • 道鏡は学識があり優れた僧侶であったとされ、国家の安泰のために尽力した面もある
  • 百姓の小規模な開墾を許可するなど、一般民衆に配慮した政策も行っていた
  • ロシアの僧ラスプーチンと類似点が多い
  • 道鏡と孝謙天皇の間に子供がいたという説は、歴史的な根拠に乏しい
  • 769年、宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすべし」という神託が下り、道鏡が皇位継承を狙ったとされる事件が起こった
  • この事件により、道鏡は天皇家を脅かす大罪人として捉えられることとなり、失脚への道を歩むことになった
  • 称徳天皇が崩御した770年、道鏡の権力は失墜したが、長年の功績から死罪は免れ、下野国の下野薬師寺別当に左遷された
  • 道鏡は下野の地で余生を過ごし、772年にその生涯を終えた
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