大伴家持は、奈良時代を代表する歌人であり政治家です。
若くして才能を発揮し、官吏としても出世を重ねましたが、政争に翻弄される波乱万丈の人生を送りました。
しかし、その才能は和歌の世界で最も輝きを放ちます。
万葉集の編纂に尽力し、数多くの名歌を残した功績は、日本文学史に不滅の足跡を刻んでいます。
才知溢れる人間性、類まれな美的感性、そして激動の時代を生き抜いた強靭な精神力。
和歌と政治の両面において、大伴家持の残した功績とその生涯について解説します。
- 大伴家持が万葉集の編纂に尽力し、自らも多くの秀歌を残した歌人であること
- 官吏としても要職を歴任した政治家としての側面を持っていたこと
- 叙景歌や羈旅歌に秀でており、音数律や枕詞・序詞の活用など洗練された技巧が見られること
- 波乱に満ちた人生を送りながらも、日本文学史に大きな足跡を残した人物であること
大伴家持は何をした人?
大伴家持の生涯を簡単に紹介
大伴家持は、奈良時代に活躍した歌人で政治家でした。
名門・大伴氏の出身で、父・大伴旅人や叔母・坂上郎女も有名な歌人。
幼い頃から優れた才能を発揮し、早くから歌の世界で頭角を現しました。
一方、官吏としても次第に出世。
越中国司や因幡国司などを務めつつ、宮中でも要職を歴任しましたが、政争に巻き込まれ左遷などの憂き目にもあいました。
波乱に満ちた生涯を送った大伴家持ですが、万葉集の編纂に尽力し、自らも多くの秀歌を残したことが最大の功績と言えるでしょう。
万葉集の編纂に携わった大伴家持
万葉集は、現存する日本最古の和歌集です。
大伴家持は、この万葉集の編纂に深く関わったことで知られています。
万葉集全20巻のうち、巻十七から巻二十は家持の歌日記とも言うべきもの。
家持は自らの作品を多数収録したほか、地方に下向した折などに一般庶民の歌も数多く集めました。
また配列にも工夫を凝らすなど、単なる歌の収集だけでなく、集全体の構成にも心を砕いたようです。
こうした細部への配慮が、万葉集をより魅力的なものにしているのかもしれません。
大伴家持の和歌の特徴
大伴家持の和歌は、叙景歌や羈旅歌に秀でていると評されます。
越中国司や因幡国司として地方に赴任した際の作品などがそれにあたります。
雄大な自然の風景をダイナミックに歌い上げる一方、望郷の念や旅愁を繊細に表現。
時に滋味あふれる趣を湛えた歌風は、万葉集の中でもひときわ光彩を放っています。
また家持の歌には、音数律や枕詞・序詞の活用など、洗練された技巧も見られるとのこと。
当時の宮廷文化を背景とした、典雅で格調高い和歌の世界を築き上げたと言えるでしょう。
百人一首に選ばれた大伴家持
平安時代の歌人・藤原定家が選定した百人一首にも、大伴家持の歌は収められています。
「からさきの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」という一首です。
澄み切った冬の夜に降りた霜を詠んだ歌で、おそらく宮中での宿直の際に詠まれたのでしょう。
夜が更けゆく静謐な雰囲気と、霜の白さの美しさが絶妙に調和した佳作です。
百人一首に選ばれたことからも、家持の歌が後世に与えた影響の大きさがうかがえます。
大伴家持の性格は?
大伴家持は、聡明で教養豊かな人物だったようです。
若くして官吏となり、順調に出世したのもその才覚によるものでしょう。
また家持の和歌からは、美的感覚の鋭さと深い人間理解の力を見て取ることができます。
一方で筆まめな性格の持ち主でもあり、旅先からも多くの手紙を書き送っていたそうです。
政治的には藤原氏と対立する立場にありましたが、その中にあってもしたたかに生き抜く処世術も持ち合わせていたのかもしれません。
多彩な才能を発揮しつつ、激動の時代を生き抜いた稀有の人物と言えるでしょう。
大伴家持が生きた時代と果たした役割
大伴家持の官人としての経歴
大伴家持は、奈良時代を代表する高級官吏の一人でした。
20歳ごろに内舎人として仕官し、その後は様々な役職を歴任します。
29歳の時には宮内少輔となり、翌年には越中守に任命。
その後は因幡守、信部大輔、衛門督など、中央と地方を往復する形で昇進を重ねました。
政争によって左遷されることもありましたが、最終的には中納言にまで上り詰めます。
律令制下で重きをなした大伴氏の棟梁として、時の政権とも深く関わりながら、官人としての責務を全うしたのでしょう。
歌人としての大伴家持の功績
大伴家持は、万葉集の編者の一人として、日本文学史に大きな足跡を残しました。
万葉集の約1割にあたる400首以上の歌を詠んでおり、中でも越中国に在任中の歌が秀逸とされます。
配流の地とはいえ、雄大な越中の自然が家持の感性を大いに刺激したのでしょう。
家持は地方の民謡なども数多く集めており、庶民の生活に根ざした歌を万葉集に取り入れることで、和歌の世界に新風を吹き込んだとも評されます。
その功績は後世の歌人たちにも受け継がれ、平安朝和歌隆盛の礎となったのです。
大伴家持の死因に関する諸説
大伴家持の死因については諸説あり、定かではありません。
785年8月、陸奥国で没したことは確かですが、同年9月には藤原種継の暗殺事件が起こっており、家持もその首謀者の一人とされたのです。
死後、謀反の疑いをかけられ一時は官位を追奪されるなど、家持の死をめぐっては不可解な点が多々あります。
病死説が有力とされる一方、政敵に暗殺された可能性も捨てきれません。
ただ、家持の死から20年以上経った806年、桓武天皇の勅により官位が復されています。
政争に巻き込まれた家持の名誉が、ようやく回復された瞬間だったのかもしれません。
大伴家持のエピソード「海ゆかば」
「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かえり見はせじ」。
あまりにも有名な歌ですが、これは大伴家持作とされています。
もとは、東大寺大仏の完成を喜び、聖武天皇への忠誠を示すために詠んだ長歌の一節だったとか。
ただしこの歌には諸説あり、本来の意図とは異なる解釈で広まったきらいもあるようです。
「みゆき」は「みゆか」とも訓むべきとの指摘もあります。
いずれにせよ、力強い言葉のリズムは多くの人の心に染み渡り、戦時中には愛国歌としても歌われました。
家持の歌が、時代を超えて人々を魅了し続ける所以と言えるでしょう。
大伴家持は何をした人?どんな人?死因の謎や性格についてまとめと総括
大伴家持は、奈良時代に活躍した歌人であり政治家です。
若くして才能を発揮し、官吏としても出世を重ねましたが、政争に翻弄される波乱の人生を送りました。
しかし、その才能は和歌の世界で最も輝きを放ちました。
万葉集の編纂に尽力し、自らも叙景歌や羈旅歌など多くの名歌を残しました。
その歌には音数律や枕詞・序詞の活用など洗練された技巧が見られ、日本文学史に不滅の足跡を刻んでいます。
また、大伴家持は聡明で教養豊かな人物であり、美的感覚の鋭さと深い人間理解の力を持ち合わせていました。
律令制下で重きをなした大伴氏の棟梁として、時の政権とも深く関わりながら官人としての責務を全うした、類まれな存在だったのです。
- 大伴家持は奈良時代に活躍した歌人であり政治家である
- 名門・大伴氏の出身で、父・大伴旅人や叔母・坂上郎女も有名な歌人である
- 幼い頃から優れた才能を発揮し、早くから歌の世界で頭角を現した
- 官吏としても出世し、越中国司や因幡国司などを務めた
- 宮中でも要職を歴任したが、政争に巻き込まれ左遷などの憂き目にもあった
- 万葉集の編纂に尽力し、自らも多くの秀歌を残したことが最大の功績である
- 万葉集全20巻のうち、巻十七から巻二十は家持の歌日記とも言うべきものである
- 自らの作品を多数収録したほか、一般庶民の歌も数多く集めた
- 万葉集の配列にも工夫を凝らし、集全体の構成にも心を砕いた
- 大伴家持の和歌は、叙景歌や羈旅歌に秀でていると評される
- 越中国司や因幡国司として地方に赴任した際の作品が特に優れている
- 家持の歌には音数律や枕詞・序詞の活用など、洗練された技巧も見られる
- 百人一首にも大伴家持の歌が収められている
- 聡明で教養豊かな人物であり、美的感覚の鋭さと深い人間理解の力を持っていた
- 律令制下で重きをなした大伴氏の棟梁として、時の政権とも深く関わりながら官人としての責務を全うした
- 万葉集の約1割にあたる400首以上の歌を詠んでおり、特に越中国に在任中の歌が秀逸である
- 地方の民謡なども数多く集め、庶民の生活に根ざした歌を万葉集に取り入れることで和歌の世界に新風を吹き込んだ
- 死因については諸説あるが、785年に陸奥国で没したことは確かである
- 藤原種継の暗殺事件に関与したとされ、一時は官位を追奪されたが、のちに名誉回復された
- 「海行かば」の歌は本来、聖武天皇への忠誠を示すために詠んだ長歌の一節である