鑑真は何をした人?日本に来た理由は?簡単にわかりやすく解説

鑑真は、8世紀の日本仏教界に多大な影響を与えた中国の高僧です。
唐王朝時代に生まれ、律宗と天台宗で高い評価を得た鑑真は、聖武天皇の要請を受けて日本への渡航を決意しました。
幾多の困難に見舞われ、失明という大きな代償を払いながらも、6度目の挑戦でついに日本へ上陸を果たします。
日本で最初の戒律に基づく寺院である唐招提寺を建立し、正式な授戒を行うことで僧侶の質の向上に貢献しました。
鑑真の生涯と功績は、今なお私たちに多くのことを教えてくれています。

この記事を読むとわかること
  • 鑑真が日本の仏教界に与えた影響の大きさ
  • 鑑真が日本に来るまでの過程と困難
  • 鑑真が日本で行った具体的な活動と功績
  • 鑑真の生涯から学べる教訓や姿勢
目次

鑑真とは何した人なのか?生涯を解説

鑑真のプロフィールや生まれた時代

鑑真は688年、中国の唐王朝時代に揚州の名家に生まれました。
幼少期から優れた資質を示し、14歳で出家して仏門に入ります。
その後、律宗と天台宗について学び、特に律宗では高い評価を得ました。
鑑真が活躍したのは盛唐時代で、唐は政治・経済・文化のすべてが繁栄を極めていた時期です。
そのような時代背景の中で、鑑真は大いなる功績を残すことになるのです。

鑑真が日本に来た理由と背景

8世紀の日本では、僧侶の質の低下が問題となっていました。
そこで聖武天皇は、高僧を招くために遣唐使を派遣します。
鑑真はこれより以前に長屋王によって中国に伝えられていた「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」 (国は異なっているが同じ空を戴いているのだからこの贈り物によって縁を結びましょう)という言葉に感銘を受け、布教の使命感から日本行きを決意したのです。
当時の日本は戒律に基づく正式な授戒を必要としており、それを果たせる唯一の人物が鑑真だったのです。

鑑真の失明と困難に立ち向かう姿勢

しかし、日本への渡航は困難の連続でした。
度重なる失敗により、鑑真は失明してしまいます。
それでも諦めることなく6度目の挑戦で753年、66歳にして日本上陸を果たしたのです。
このことからも、鑑真の強い意志と使命感が伺えます。
困難に屈することなく、最後までやり遂げる姿勢は、現代を生きる私たちにも通じるものがあるでしょう。

鑑真が開いた唐招提寺の役割

鑑真は759年、奈良に唐招提寺を建立しました。
唐招提寺は、鑑真が日本で最初に開いた戒律に基づく寺院です。
鑑真はここで多くの弟子を育て、律宗を広めていきます。
唐招提寺は鑑真の拠点となり、日本仏教界に大きな影響を与えました。
現在でも唐招提寺は律宗の総本山として、その歴史を伝えています。

鑑真の死因と没年について

鑑真は763年6月25日、唐招提寺で76年の生涯を閉じました。
没年は天平宝字7年にあたります。
死因ははっきりとは分かっていませんが、76歳という高齢だったことを考えると、老衰だったのではないでしょうか。
あるいは、若い頃から続いた苦行や渡航の困難による体調不良が原因だったのかもしれません。
いずれにしても、最期まで仏教に生きた鑑真の生き様は、私たちに多くのことを教えてくれています。

鑑真に関するエピソード

鑑真が日本にもたらした影響と意義

鑑真が日本にもたらした影響は計り知れません。
まず第一に、日本に律宗を広めたことが挙げられます。
鑑真以前の日本仏教は、必ずしも戒律に基づいたものではありませんでした。
しかし、鑑真によって正式な授戒が行われるようになり、僧侶の質が向上したのです。
鑑真の功績により、日本の仏教は正しい方向に導かれたと言えるでしょう。

鑑真像 – 日本最古の彫刻肖像の価値

唐招提寺には鑑真の彫像が残っています。
これは弟子の忍基によって作られたもので、日本最古の彫刻肖像と言われています。
写実的な表現で知られるこの像は、鑑真の面影を今に伝えてくれる貴重な遺品です。
失明した鑑真の姿を表現しつつ、慈愛に満ちた表情からは、その篤い人柄がうかがえます。
私たちはこの像を通して、1200年以上前に生きた偉人の魂に触れることができるのです。

鑑真が導入した最先端の漢方医学

実は鑑真は、医学の知識も豊富だったのです。
唐王朝の医学は大変進んでいましたが、鑑真はその知識を日本にもたらしました。
そして、自ら施薬を行い、多くの病に苦しむ人々を救ったと伝えられています。
鑑真は単に仏教だけでなく、人々の健康や生活をも支えていたのですね。
この点からも、鑑真の博愛精神の高さがうかがえます。

鑑真を支えた栄叡と普照の献身と努力

けれども、鑑真の功績はひとりでなしえたものではありません。
鑑正を日本に招こうと尽力した栄叡と普照の存在を忘れてはなりません。
遣唐使として幾多の困難を乗り越え、鑑真を招くために奔走した2人の献身なくして、鑑真の来日は実現しなかったでしょう。
2人の努力がなかったら、日本の仏教史はまったく異なったものになっていたかもしれません。

鑑真は何をした人?日本に来た理由は?まとめと総括

鑑真は、8世紀の日本仏教界に多大な影響を与えた中国の高僧です。
唐王朝時代に生まれ、律宗と天台宗で高い評価を得た鑑真は、聖武天皇の要請を受けて日本への渡航を決意しました。
幾多の困難や失明という大きな代償を乗り越え、6度目の挑戦でついに日本へ上陸を果たします。
日本初の戒律に基づく寺院である唐招提寺を建立し、正式な授戒を行うことで僧侶の質の向上に貢献しました。
また、唐王朝の進んだ医学知識も日本にもたらしています。
鑑真の功績は、彼を支えた栄叡と普照の献身なくしては実現しなかったでしょう。
鑑真の生涯は、困難に立ち向かう強い意志と使命感、そして博愛の精神を私たちに教えてくれます。

この記事のポイント
  • 鑑真は日本の仏教界に大きな影響を与えた中国の高僧である
  • 唐王朝時代の688年に揚州の名家に生まれ、14歳で出家した
  • 律宗と天台宗を学び、特に律宗で高い評価を得た
  • 盛唐時代に活躍し、大いなる功績を残した
  • 8世紀の日本では僧侶の質の低下が問題となっていた
  • 聖武天皇が高僧を招くために遣唐使を派遣した
  • 「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という言葉に感銘を受け、日本行きを決意した
  • 当時の日本は戒律に基づく正式な授戒を必要としていた
  • 日本への渡航は困難の連続で、度重なる失敗により失明した
  • それでも諦めずに6度目の挑戦で753年、66歳で日本上陸を果たした
  • 759年に奈良に唐招提寺を建立し、律宗を広めた
  • 唐招提寺は鑑真の拠点となり、日本仏教界に大きな影響を与えた
  • 763年6月25日、唐招提寺で76年の生涯を閉じた
  • 鑑真によって正式な授戒が行われるようになり、僧侶の質が向上した
  • 唐招提寺には日本最古の彫刻肖像である鑑真像が残っている
  • 鑑真は唐王朝の進んだ医学の知識も日本にもたらした
  • 鑑真を日本に招こうと尽力した栄叡と普照の存在も重要である
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