日本史人物解説

足利義昭は何をした人?室町幕府最後の将軍の生涯を解説

足利義昭は何をした人?室町幕府最後の将軍の生涯を解説

足利義昭という名前は聞いたことがあっても、「具体的に何をした人なの?」と聞かれると、意外と答えに詰まることはありませんか?
「信長に追い出された将軍」というイメージが先に立って、それ以上のことはよくわからない…という方も多いかなと思います。

でも実は、義昭はただ追い出されたわけじゃないんです。
室町幕府最後の将軍として、信長包囲網を張り巡らせ、京都を追われた後も将軍の座にしがみつき、鞆幕府という亡命政権まで作り上げた――そんな、かなりパワフルな人物だったりします。
室町幕府の滅亡はいつかという問いも、義昭の動きを追うと単純には答えられないことがわかってきます。

また、信長との関係や豊臣秀吉との関わり、京都追放の経緯、その後の死因や子孫についても、ひとつひとつ丁寧に整理していきます。
この記事では、足利義昭が何をした人なのかを、歴史が苦手な方にもわかりやすいように、時系列を追いながら解説していきますね。

記事のポイント

  • 足利義昭の出生から将軍就任までの経緯と、織田信長との関係
  • 信長包囲網の実態と、義昭が果たした外交的な役割
  • 京都追放後の鞆幕府とは何か、室町幕府の滅亡はいつなのか
  • 豊臣秀吉との関係、晩年の死因と子孫のその後

足利義昭とは何をした人なのか、その生涯を解説

足利義昭の人生は、一言で言えば「予期せぬ将軍への転身と、失ってからも諦めなかった権威へのこだわり」の物語です。
将軍家に生まれながら、幼いうちに僧侶として出家させられ、「自分が将軍になる」なんてことは夢にも思っていなかったはず。
それが兄の暗殺をきっかけに一気に運命が変わり、各地を転々としながら上洛の機会をうかがうことになります。
まずは義昭が「なぜ将軍になれたのか」「どうやって織田信長と組んだのか」という前半の流れを追ってみましょう。

僧侶から将軍候補へ、波乱の前半生

足利義昭は1537年(天文6年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として京都に生まれました。
将軍家には「嫡男以外の男子は出家させる」という慣習があったため、義昭はわずか6歳で奈良の興福寺一乗院に入れられ、覚慶(かくけい)という法名で僧侶としての人生を歩み始めます。

この時点では、義昭(覚慶)が将軍になるなんて誰も考えていなかったでしょう。
ところが、1565年(永禄8年)に歴史の歯車が大きく狂います。
兄・足利義輝(第13代将軍)が、三好三人衆と松永久秀の手によって御所で殺されてしまうのです。
これが「永禄の変」と呼ばれる事件で、義昭もまた一乗院で松永方に幽閉され、命の危険にさらされます。

永禄の変(1565年)とは?
三好三人衆と松永久秀が将軍御所を襲い、足利義輝を殺害した事件。室町幕府の権威が著しく傷ついた出来事として知られています。このとき、義輝の弟・覚慶(のちの義昭)も幽閉されることになります。

しかし、幽閉先から救い出してくれた人たちがいました。
義輝の側近だった細川藤孝・三淵藤英・和田惟政・一色藤長らの幕臣たちが命がけで覚慶を脱出させたのです。
この瞬間から、覚慶の運命は大きく変わります。
「兄の遺志を継ぎ、室町幕府を再興する」という重責を担う、唯一の将軍後継者として生きていくことになりました。

覚慶は還俗(出家をやめること)して足利義秋、のちに足利義昭と名を改め、自身を奉じて上洛してくれる有力大名を求めて近江・若狭・越前と各地を転々とします。
この「流浪公方(るろうくぼう)」と呼ばれた時代は、義昭にとって本当に苦しい時期だったと思います。
独自の軍事力もなく、頼れるのは「足利将軍家」という名前だけ。
それでも、持てる武器を最大限に使いながら、着実に次の一手を打ち続けていました。

織田信長と組んで室町幕府を再興

義昭がまず頼ったのは越前の朝倉義景でした。
しかし義景は、加賀一向一揆との戦いや内政を優先し、なかなか上洛に動こうとしません。
そんな中、1567年(永禄10年)に美濃を完全制圧した織田信長が、義昭にとって「これだ!」という人物として浮上してきます。

信長は義昭にとって最高の「剣」でした。
豊富な軍事力と財力、そして天下への野心。
一方の信長にとっても、将軍・義昭を奉じることには大きなメリットがありました。
将軍という権威があれば、自分の行動に大義名分が生まれ、敵対勢力を「逆賊」として討てるわけです。
明智光秀の仲介もあり、義昭は美濃の岐阜城に入り、信長と手を組むことになります。

1568年(永禄11年)9月、信長は義昭を奉じた上洛を開始。
途中で立ちふさがった近江の六角義賢を短期間で攻略し、同年10月18日、義昭はついに第15代征夷大将軍の宣下を受けます。
これで室町幕府の再興という第一の目標は達成されました。

「義昭と信長、それぞれの思惑」

義昭にとって信長は「幕府再興のための道具」でした。一方、信長にとって義昭は「自分の行動を正当化する権威の看板」。利害が一致していたからこそ組めたわけですが、それは同時に、いつか決裂する火種でもありました。

信長は義昭のために二条御所を建て、警護も自ら行いました。
表向きは「忠実な後援者」として振る舞っていたのです。
義昭も当初は信長を「御父(おんちち)」と呼んで厚く敬意を示していたとされています。

ただ、ふたりの理念の違いは最初から存在していました。
義昭は「将軍自らが政治を取り仕切る」という伝統的な室町幕府の体制を本気で復活させたかった。
でも信長が目指したのは、将軍を名目上の頂点に置きつつ、自分が実権を握る新しい秩序でした。
この根本的なズレが、やがて激しい対立へと発展していきます。

また、信長と義昭についてより詳しく知りたい方は、織田信長は何をした人か簡単に解説!もあわせてご覧ください。

信長との関係が悪化した理由

義昭と信長の関係が決定的にこじれたのは、1570年(永禄13年)1月に信長が突きつけた「殿中御掟(でんちゅうおきて)」からです。
これは全部で14か条にわたるルールで、要するに「将軍は勝手に動くな」という内容でした。

具体的には、義昭が独自に御内書(将軍から出す命令状のようなもの)を出すことを禁じ、あらゆる論功行賞に信長の承認を必要とする、というものです。
実質的に将軍を傀儡にしようとするこの条書に、義昭が反発したのは当然でしょう。
「自分は将軍だ。信長に口出しされる筋合いはない」という強い矜持がそこにはあったはずです。

さらに信長は1573年(元亀4年)、義昭に対して「十七ヶ条の異見書」を送りつけます。
これは義昭の行動を17項目にわたって痛烈に批判する文書で、「嘘をついている」「奢侈が過ぎる」「政務が滞っている」と徹底的に攻め立てるものでした。
信長はこれを通じて、義昭が「将軍にふさわしくない」という印象を世間に植え付けようとしたのだと思います。
政治的なネガティブキャンペーンですよね。

「十七ヶ条の異見書」の内容(抜粋)
・義昭が嘘をついて周囲を扇動しているという批判
・必要以上の贅沢をしていると指摘
・兄・義輝の代の不手際まで持ち出し足利家全体を侮辱
・幕府の政務が停滞していると主張

この文書は、単なる抗議ではなく「義昭の将軍としての正統性を世間に否定させる」ための政治的な文書でした。

義昭と信長の対立は、単なる個人的な感情のぶつかり合いではありませんでした。
「室町幕府の伝統的な秩序を守りたい義昭」vs「実力主義の新秩序を作りたい信長」という、根本的な政治哲学の衝突だったのです。

信長包囲網を作り上げた外交術

信長への不満が高まる中、義昭は水面下で全国の諸大名や宗教勢力に対して信長討伐を求める御内書を次々と発信し始めます。
これが、いわゆる「信長包囲網」の形成です。

第一次(1570年〜)は、浅井長政・朝倉義景・石山本願寺・三好三人衆などが連動。
第二次(1572年〜)は、武田信玄の西上作戦と連携し、義昭自身も二条城で挙兵しました。
このときの信長は本当に窮地で、三方ヶ原の戦いで家康が信玄に大敗するなど、包囲網が最も機能した時期でもありました。

義昭のすごいところは、自分に軍事力がないのに、諸大名の利害を巧みに調整してそれぞれを動かしたことです。
「将軍」という権威を最大の武器に使いながら、いわば「信長を倒すための司令塔」の役割を果たしていました。
現代で言えば、資金力も兵力もないのに、コネと肩書きだけで業界全体を動かした、みたいな感じでしょうか。

信長包囲網の三段階

段階主な参加勢力結果
第1次(1570年)浅井・朝倉・石山本願寺・三好三人衆信長を各方面で足止め
第2次(1572年)武田信玄・浅井・朝倉・石山本願寺・松永久秀信長が絶体絶命の危機に
第3次(1576年〜)毛利氏・上杉謙信・石山本願寺・荒木村重手取川の戦いで信長軍敗北

この包囲網の構築は、単なる「反信長同盟」ではありませんでした。
義昭が目指したのは、室町幕府を頂点とする中世の秩序を守ること。
その大きな意味では、これは政治運動だったとも言えます。

京都追放後も諦めなかった将軍の執念

武田信玄の西上作戦に合わせ、1573年(元亀4年)に義昭は二条城、次いで宇治の槇島城で挙兵します。
しかし、ここで最大の誤算が生じました。
最大の頼みの綱だった武田信玄が、進軍の途中で病没してしまったのです。
信玄の死で武田軍が撤退すると、信長は全軍を義昭に向けることができるようになりました。

信長は7万の大軍で槇島城を包囲。
義昭は息子を人質に出して降伏し、京都を追放されます。
一般的にはこの1573年をもって室町幕府は「滅亡」したとされていますね。

でも、実は話はここで終わりません。
義昭は京都を追われた後も、征夷大将軍の職を辞していなかったのです。
将軍の権威を持ったまま、河内・紀伊・そして備後へと移りながら、再起を諦めませんでした。
教科書では「1573年に室町幕府滅亡」と書かれることが多いですが、義昭の行動から見れば、それは単純に言い切れないのです。

足利義昭が何をした人かを再評価する視点

「信長に負けた哀れな将軍」――そのイメージで義昭を終わらせてしまうのは、実はもったいないと私は思っています。
京都を追われた後も、義昭の物語は続きます。
鞆という西国の港町で「亡命政権」を立ち上げ、そこから全国の大名たちを動かし、信長を10年以上にわたって苦しめ続けた。
そして信長が本能寺で倒れた後、豊臣秀吉との関係の中でどう生き延びたか。
後半の義昭の姿を見ると、この人物の評価がガラリと変わるはずです。

鞆幕府とは何か、追放後の亡命政権

京都を追われた義昭が最終的に辿り着いたのは、備後国の鞆(とも)(現在の広島県福山市)でした。
1576年(天正4年)、中国地方の大名・毛利輝元を頼り、この地で義昭は「鞆幕府(ともばくふ)」と呼ばれる亡命政権を樹立します。

「亡命政権なんてハリボテでしょ?」と思う人もいるかもしれません。
でも、これがなかなかどうして、実態を伴った「生きた政権」だったのです。

義昭は依然として現職の征夷大将軍のまま(辞任していない!)でした。
そのため、鞆から全国に御内書を発信し続け、武士たちに官位を与えたり、紛争を調停したりと、将軍としての職能を行使し続けました。
毛利輝元は事実上の「副将軍」として義昭を支え、毛利氏側も「将軍を擁立している」という大義名分を得る形で、双方にとってwin-winの関係でした。

鞆幕府の外交範囲
義昭が鞆から連絡を取った勢力は、毛利氏はもちろん、上杉謙信、石山本願寺、荒木村重、さらに九州の島津氏にまで及びました。鞆は海上交通の要衝だったため、全国との連絡に適した場所でもありました。

特に注目したいのが、上杉謙信が信長軍を破った手取川の戦い(1577年)の背景には、義昭の積極的な外交工作があったとされているところです。
表舞台には出てこないけれど、見えないところで信長を追い詰める動きをしていたわけです。

鞆幕府の存在は、当時の日本に「京都の織田政権」と「西国の足利幕府」という、二つの権力が並立する状況を作り出していました。
義昭は1582年(天正10年)に信長が本能寺で倒れるまで、10年以上も「打倒信長」の最高責任者として活動し続けたのです。

室町幕府の滅亡はいつが本当なのか

「室町幕府の滅亡は1573年」――これは教科書でよく見かける記述です。
でも、先ほど見てきた通り、義昭はこの後も将軍職を辞していません。
では、室町幕府はいつ滅んだのか?これは実は歴史学でも議論のあるところです。

有力な説をいくつか挙げてみましょう。

①1573年説(義昭の京都追放)

最も一般的な説。将軍が京都を失ったことで、事実上の機能を停止したという考え方です。
室町幕府は京都に本拠を置く政権であり、そこを失えば「幕府」としての実体が失われたとも言えます。

②1588年説(義昭の将軍辞任)

義昭が正式に征夷大将軍を辞し、出家して「昌山道休(しょうざんどうきゅう)」と名乗った1588年(天正16年)こそが、名実ともに幕府が終わった年だという説です。
義昭自身が将軍職にこだわり続けた事実から考えると、こちらの方が実態に近いとも言えます。

どちらの説をとるにせよ、義昭が「簡単には諦めなかった」ことは確かです。
その執念こそが、室町幕府の終わりを複雑なものにしているとも言えますね。

豊臣秀吉との関係と晩年の穏やかな余生

1582年(天正10年)、本能寺の変で信長が倒れたとき、義昭は毛利氏や羽柴(豊臣)秀吉に対して、幕府再興と入京を求める書状を精力的に送り続けました。
でも、秀吉は義昭の「将軍」という肩書きを利用しながらも、室町幕府そのものを復活させる気はありませんでした。
秀吉が天下人になるためには、足利将軍家は「利用できる権威」ではあっても、「復活させるべき政権」ではなかったのです。

それでも義昭は柔軟でした。
秀吉が九州の島津氏を攻める際、義昭は島津氏に対して秀吉との和睦を勧めるなど、豊臣政権の安定に協力する姿勢を見せます。
この対応が功を奏し、1587年(天正15年)、義昭はついに京都への帰還を果たします。
約14年ぶりの帰京でした。

翌1588年(天正16年)、義昭は征夷大将軍を辞し、出家して昌山道休と号しました。
これにより、室町幕府は名実ともに幕を閉じます。

しかし秀吉は、前将軍・義昭を決して粗末に扱いませんでした。
皇后・皇太后に次ぐ高い地位である「准三后(じゅさんぐう)」に処遇し、山城国槇島に1万石の領地も与えます。
さらに秀吉の側近・御伽衆(おとぎしゅう)の一人として、政治や武家の礼儀作法についての相談相手に迎えられました。

義昭は秀吉にとって「室町文化の生き字引」のような存在として、晩年は穏やかに過ごしたようです。
将棋を深く愛し、死の直前まで象牙の駒を発注していたという記録が残っているのが、なんとも人間らしくて好きなエピソードです。

義昭の好物はカズノコ?
足利義昭の好物はカズノコだったと伝えられています。将棋好きで、カズノコ好きのおじいちゃん将軍――歴史の教科書には載らない、こういう人間味のあるエピソードがたまらないですよね。

文禄の役(朝鮮出兵)に際しては、老齢ながら軍勢を率いて肥前名護屋城まで出陣したというエピソードも残っています。
最後の最後まで「将軍家の当主としての矜持」を見せ続けた人だったと思います。

死因と子孫、足利家の血脈のその後

足利義昭は1597年(慶長2年)10月9日、大坂において波乱に満ちた生涯を終えます。
享年61歳。室町幕府の将軍の中では一番の長寿だったとされています。
死因は明確な記録が残っていませんが、老衰に近い自然死だったと考えられています。

義昭の後、足利将軍家の正統な系譜はどうなったのでしょうか。

嫡男・足利義尋(よしひろ)

義昭が京都を追放された際、息子・義尋は信長に人質として預けられました。
その後、秀吉から領地を得て、最終的には出家しています。
義尋には子がいたものの、彼らも僧籍に入ったため、公式な「足利将軍家」としての系統はここで途絶えました。

各地に伝わる子孫の伝承

一方で、義昭の庶子とされる人物の子孫が各地に伝わっています。
たとえば薩摩藩士・永山氏は義昭の子の系譜とされ、鹿児島にその末裔が続いているという伝承があります。
また会津藩士の坂本氏も、義昭の近臣・一色藤長に育てられた一色義喬を先祖とする伝承があります。

これらの系譜の多くは客観的な証拠を欠く部分もありますが、「足利ブランド」がいかに地方の大名や武士にとって価値あるものであったかを物語っていますね。
滅んだ後も、その名が大切にされ続けた――それはひとつの歴史の証明だと思います。

足利将軍家の流れについては、足利義満は何をした人?もあわせて読むと、室町幕府全体の流れがよりよくわかりますよ。

足利義昭は何をした人か、結論とまとめ

さて、この記事を通じて見えてきた足利義昭という人物を、最後に整理してみましょう。

足利義昭は何をした人か、ひとことで言うなら――「将軍の権威というソフトパワーを武器に、武力なきまま戦国の世を渡り歩いた、不屈の政治家」だと思います。

彼が成し遂げたことを振り返ると、こんな姿が見えてきます。

  • 僧侶から一転、室町幕府最後の将軍へと転身した
  • 織田信長と組んで室町幕府を再興したが、その信長と真っ向から対立した
  • 信長包囲網を形成し、10年以上にわたって信長を最大の敵として追い詰め続けた
  • 京都追放後も将軍職を辞さず、鞆幕府という亡命政権を作り上げた
  • 最後は豊臣秀吉のもとで准三后という高い地位を得て、室町文化の伝承者として晩年を穏やかに過ごした

「信長に一方的に滅ぼされた敗北者」というイメージは、義昭の半面しか見ていません。
確かに軍事力では信長に敵わなかった。でも、「将軍」という権威を最大限に使いながら、信長の天下統一を10年以上遅らせたという事実は、決して小さくない。

義昭の生涯が面白いのは、「持てるものが何もなくても、工夫次第でここまでやれる」という点だと私は思っています。
独自の軍事力も領地も持たなかった彼が、名前と権威だけを武器に戦国時代を生き抜いた――その生き様は、現代にも通じる何かを教えてくれる気がします。

もし足利将軍家の全体の流れに興味が出てきたら、足利尊氏は何をした人?から読むと、室町幕府の最初から最後まで一気に追うことができますよ。
歴史は「つながり」で読むとぐっと面白くなりますからね。

  • この記事を書いた人

たーやん

こんにちは!「日本史・世界史のススメ」管理人のたーやんです。
京都の大学で歴史(文献史学)を専攻した、歴史大好きな30代のビジネスマンです。
学生時代にハマった歴史ゲームや司馬遼太郎作品のワクワク感を胸に、歴史の「なぜ?」をITビジネスマンならではの視点で、超わかりやすく解説します!

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