日本史のできごと

本圀寺の変とは?足利義昭を守った戦いと信長の決断

本圀寺の変とは?足利義昭を守った戦いと信長の決断

本圀寺の変という言葉を、どこかで目にしたことはありませんか?

「聞いたことはあるけど、正直どんな事件なのかよくわからない」「永禄の変と何が違うの?」「明智光秀や三好三人衆がどう関わっているのか整理できない」――そんな疑問を持っている方、けっこう多いんじゃないかなと思います。
私もこの事件を深掘りする前は、名前だけ知ってるレベルでした。

でも調べてみると、本圀寺の変って実はすごく面白い事件なんです。
単に「将軍が襲われた」というだけじゃなく、三好三人衆の執念、明智光秀の鉄砲活躍、そして信長の神速の行軍と戦後処理まで、戦国時代のドラマが凝縮されています。

この記事では、本圀寺の変がどんな出来事だったのかをわかりやすく解説しながら、永禄の変との違い、主要人物の動き、さらに六条合戦とも呼ばれるこの戦いが後の歴史にどんな影響を与えたのかまで、丁寧にまとめています。
読み終わる頃には、この事件の全体像がスッと頭に入るはずです。

記事のポイント

  • 本圀寺の変の概要と、永禄の変との具体的な違い
  • 三好三人衆が足利義昭を狙った理由と、戦闘の流れ
  • 明智光秀や斎藤龍興など、主要人物それぞれの役割
  • 信長がこの事件後に断行した二条城築城と殿中御掟の意味

本圀寺の変とは何か?事件が起きた背景をわかりやすく解説

「本圀寺の変」という名前だけ見ると難しそうですが、基本を押さえてしまえばぐっと理解しやすくなります。
まずはこの事件が「なぜ起きたのか」という背景から整理していきましょう。
将軍暗殺という大事件の前史として、永禄の変から信長の上洛までの流れを知っておくと、本圀寺の変の「意味」がよりクリアに見えてきます。

永禄の変との違いを整理しよう

本圀寺の変を調べていると、必ずセットで出てくるのが「永禄の変」です。
この二つ、名前が似ているだけでなく、登場人物も一部重なっているので混同しやすいんですよね。
でも、性質はまったく異なります。

永禄の変(1565年)は、三好三人衆と松永久通らが第13代将軍・足利義輝を二条御所に攻め込んで殺害した事件です。
目的は「将軍を殺してしまうこと」であり、室町幕府の権威に対する真正面からのクーデターでした。
この結果、将軍という存在の権威は地に落ち、三人衆は代わりに足利義栄を14代将軍として担ぎ出して畿内の支配を固めようとします。

一方、本圀寺の変(1569年)は、三人衆が一度失った畿内の支配権を取り戻すための「逆襲戦」です。
目的は将軍義昭を殺害・追放し、信長の政治的基盤を崩すこと。
いわば、永禄の変に続く「第二幕」ともいえる事件なんです。

永禄の変と本圀寺の変の違いまとめ

項目永禄の変(1565年)本圀寺の変(1569年)
標的足利義輝(13代将軍)足利義昭(15代将軍)
目的将軍の殺害(クーデター)失った支配権の奪還(逆襲)
結果将軍殺害・成功将軍防衛・三好勢撤退
歴史的影響幕府権威の崩壊信長による統制強化

三好三人衆が足利義昭を狙った理由

三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は、なぜ義昭を狙ったのでしょうか。
その答えは、永禄11年(1568年)の出来事にあります。

この年、織田信長は足利義昭を奉じて大軍で京都に上洛します。
三好三人衆は信長の圧倒的な軍事力に勝てないと判断して京都を捨て、四国の阿波へと撤退しました。
義昭は無事15代将軍に就任しますが、三人衆にしてみれば「追い出された」も同然です。

彼らはあきらめていませんでした。
四国で着々と兵を集め、信長が美濃に帰ったタイミングを虎視眈々と待っていたのです。
そして永禄11年10月26日、信長が岐阜に戻ったことを確認すると、反撃の準備を始めます。

三人衆の狙いはシンプルで、信長の後ろ盾を失った将軍義昭を素早く打倒し、信長が援軍を送ってくる前に畿内の支配権を奪還することでした。
これは軍事的にも十分に合理的な発想です。
問題は、守備側がそれを上回る粘りを見せたことでした。

信長不在の京都で何が起きたのか

将軍就任後の義昭が仮御所として使っていたのが、京都下京の六条堀川にあった本圀寺(ほんこくじ)です。
日蓮宗の大寺院で境内は広かったのですが、もともと防御用の施設ではありません。
堀や石垣で固められた城郭とは程遠い、いわば「丸裸の御所」でした。

信長は畿内の状況を一定程度安定させた後、美濃に帰還しました。
京都に残された守備兵は少数で、三好三人衆にとってまさに千載一遇の好機でした。

永禄12年(1569年)1月4日、三人衆の軍勢は将軍地蔵山の営塁や東山周辺を焼き払い、義昭が逃げ出す退路を遮断します。
そして1月5日、推定1万以上ともいわれる大軍が洛中に突入し、本圀寺への総攻撃を開始しました。
この戦いは「六条合戦」とも呼ばれます。

なぜ「六条合戦」とも呼ぶの?
本圀寺が京都の六条に位置していたことから、この戦いを「六条合戦」「六条の戦い」と呼ぶこともあります。
「本圀寺の戦い」「本圀寺合戦」という呼び方もあり、同じ事件でも複数の名称があるのは歴史あるあるですね。

斎藤龍興はなぜ三好方に加わったのか

本圀寺の変の襲撃軍には、三好三人衆のほかにも興味深い人物が加わっていました。
その一人が斎藤龍興(さいとうたつおき)です。

龍興は、あの「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三の孫にあたる人物で、もともと美濃の国主でした。
しかし永禄10年(1567年)、信長に稲葉山城を奪われ国を追われてしまいます。
彼にとって信長は、自分から全てを奪った仇敵そのものです。

だから三好三人衆と組んで信長の政治的拠点(将軍義昭)を叩くという作戦は、龍興にとって渡りに船でした。
旧領奪還という夢を実現するための「賭け」だったのでしょう。
結果的にこの賭けは失敗し、龍興はその後も越前の朝倉氏を頼って反信長の戦いを続けますが、天正元年(1573年)の刀根坂の戦いで命を落とすことになります。

龍興の動きは、信長という強大な存在に抗い続けた「旧時代の遺物」の悲哀を象徴していると思います。
勝てない相手だとわかっていても、戦わずにいられない武将の意地みたいなものが感じられて、個人的には妙に刺さるんですよね。

足利義昭が仮御所を置いた六条合戦の舞台

本圀寺が将軍の仮御所に選ばれた理由は、その規模の大きさと、堀川という水路が防御にもある程度役立つと考えられたためです。
とはいえ、城ではありません。
高い石垣も深い堀もない、純粋な寺院です。

現在、本圀寺の本体は京都市山科区に移転しています。
かつての六条の地(現在の京都市下京区万寿寺通堀川通西入付近)には「本圀寺跡」の石碑が立っており、住宅街の中でひっそりと往時を伝えています。
旧地には16の塔頭(子院)が今も残っており、江戸時代には朝鮮通信使の定宿としても使われた場所です。

そんな歴史ある寺が、戦国時代の一夜には将軍の命運を賭けた戦場になった――
現地に行ったときに石碑を見つけたら、そんなことを想像してみるのも面白いかもしれません。

本圀寺の変とはその後の歴史も変えた事件だった

本圀寺の変は、将軍が無事だったことで「なんとか防ぎきった」という印象を持たれがちですが、実は事件の後に起きた変化のほうが歴史的には大きな意味を持っていました。
信長がどう動き、どんな仕組みを整えたのか。
ここからは、戦闘そのものの詳細と、事件後の政治的な変化を見ていきます。

明智光秀が初めて史料に登場した戦い

本圀寺の変には、後に歴史を大きく動かすことになる人物が登場します。
そう、明智光秀です。

実はこの事件は、光秀の名前が信頼できる史料である『信長公記』に初めて記録された、記念碑的な出来事でもあります。
当時の光秀は、義昭の近臣でありながら同時に信長の家臣としての立場も持ちつつあった、いわば「二足のわらじ」の状態でした。

この戦いで光秀が見せた活躍は、単なる奮戦ではありませんでした。
防衛機能のほぼない寺院を「守れる場所」として機能させるための現場指揮を担い、得意の鉄砲を最大限に活用して三好勢の突撃をことごとく阻んだのです。

光秀は鉄砲の扱いに長けており、敵の騎馬武者30騎余りを射倒したとも記録されています。
寺の境内という限られたスペースの中で、数で圧倒的に劣る守備側がこれほど粘れたのは、光秀の判断力と鉄砲運用の巧みさが大きかったと思います。

この功績が信長に高く評価され、後に光秀は「京都奉行」という要職に抜擢されます。
本圀寺の変は、明智光秀という人物が歴史の表舞台に登場した最初の舞台だったのです。

光秀と鉄砲のエピソード
光秀はかつて越前の朝倉家に仕えようとした際、45メートル先の的を6割の確率で射抜く腕前を披露して採用された、という逸話が伝わっています。
そんな達人が防衛戦の現場指揮を執ったわけですから、守備側がこれほど粘れたのも納得ですよね。

1万の敵を前に守り抜いた籠城戦の詳細

1月5日、三好三人衆の先鋒を務めた薬師寺貞春(薬師寺九郎左衛門)が本圀寺の門前を焼き払い、総攻撃が始まりました。
対する守備側には、義昭を中心に明智光秀・細川藤賢・若狭武田氏の兵らが立てこもっていました。

守備軍は城ではなく寺院で戦っています。
建物を盾に組織的な抵抗を続け、三好勢の突入をたびたび撃退しました。
特に若狭衆の山県源内と宇野弥七の二人は、数で劣るにもかかわらず敵陣に斬り込み、多大な損害を与えながらも力尽きて討ち死にしています。

こうした捨て身の防衛もあって、守備隊はなんと1日間もちこたえることができました。
圧倒的な数的不利の中での1日は、非常に長い時間です。

桂川の戦いで三好勢が撤退した経緯

事態が転換したのは1月6日のことです。

将軍の窮地を知った親信長・親幕府勢力の武将たちが、救援に駆けつけます。
三好義継・細川藤孝・伊丹親興・池田勝正らの援軍が京都へ急行し、桂川のあたりで三好三人衆の軍勢と衝突しました。

三人衆は本圀寺を落とす前に、後方から援軍に挟み撃ちにされる危険を感じ取ります。
将軍殺害という目的を果たすことなく、阿波への撤退を決断せざるを得ませんでした。

こうして本圀寺の変は、守備側の勝利で幕を閉じます。
足利義昭の命は守られ、三好三人衆は再び四国へと退きました。

信長が大雪の中を2日で駆けつけた理由

信長自身は本圀寺の戦闘には間に合いませんでした。
ただ、彼が報せを受けてからの行動は、当時の人々の常識を完全に超えるものでした。

1月6日に岐阜城で第一報を受けた信長は、大雪という最悪の条件の中、わずかな供回りだけを連れて京都へ向けて出発しました。
通常であれば3日はかかる岐阜〜京都間(約130km)を、わずか2日で走破したのです。

この「神速の行軍」は、畿内の諸勢力に信長の即応能力を見せつける結果となりました。
「信長は遠くにいるから大丈夫」という計算は、完全に崩れ去ったわけです。

信長がなぜそこまで急いだかというと、義昭を守るという大義名分はもちろんですが、将軍を失うことで自分の政治的立場が根底から崩れるという危機感があったからでしょう。
義昭は信長にとって、天下への道を正当化するための「看板」でもあったのです。

この事件での信長の行動について詳しくは、織田信長は何をした人か?生涯の流れと主要な功績まとめも参考にしてみてください。

二条城築城と殿中御掟が生まれたわけ

京都に到着した信長は、将軍の無事を確認するとすぐに「二度とこんな事態を招かない」ための対策に着手します。
その柱が、二条城(旧二条御所)の築城と、殿中御掟の制定です。

二条城の築城:わずか70日で完成した要塞

永禄12年2月27日、信長は新たな将軍御所の建設に着手します。
堀や石垣を張り巡らせた、当時としては最新鋭の防衛力を持つ城郭です。
驚くべきはその工期で、わずか70日足らずで完成しています。
工事を急ぐあまり、近隣の寺院から石仏まで徴用したと伝わるほど、信長が本気だったことがわかります。

4月14日、義昭はこの壮麗な二条御所へと移り住みました。
信長はこの城を義昭に「提供」する形を取ることで、「忠実な守護者」というイメージを演出しつつ、京都の中心部に自らの軍事拠点を確保することに成功しました。

殿中御掟:法の名のもとに将軍を縛る

同年1月14日と16日、信長は義昭に対して「殿中御掟」と呼ばれるルールを提示します。
全16か条からなるこの掟は、将軍の政治的自由を実質的に制限するものでした。

殿中御掟の主な内容

  • 将軍が直接訴えを聞くことを禁じ、奉行衆を通すよう義務化(将軍独自の政治判断を封じる)
  • 医師・陰陽師・僧侶などの殿中への出入りを厳しく制限(外部からの調略を防ぐ)
  • 最終的な裁決権は信長にあることを明記(信長が将軍の上位にあることを法的に規定)

これにより義昭は、名目上の将軍であっても実際の政務や軍事権は信長が握るという体制が、法律の形で明文化されてしまいました。
これが後の義昭と信長の対立、そして1573年の室町幕府滅亡へと続く伏線となっていくのです。

本圀寺の変とは信長と義昭の関係を変えた転換点

本圀寺の変とは、単なる「将軍が守られた事件」ではありませんでした。
この事件を境に、義昭と信長の関係は質的に変わっていきます。

それまでの二人は、ある意味「共生」の関係でした。
義昭は信長の軍事力を借り、信長は義昭の将軍権威を借りる、持ちつ持たれつの関係です。

しかし本圀寺の変で「信長なしでは将軍は守れない」ことが証明されてしまいました。
信長は義昭を守るという「恩義」を最大限に活用し、殿中御掟で義昭の権限を骨抜きにします。
義昭から見れば、守ってもらいながら縛られるという屈辱的な状況が始まったわけです。

義昭はこの過度な介入に不満を募らせ、やがて武田信玄・上杉謙信・朝倉義景らを糾合した「信長包囲網」の形成へと動いていきます。
そして1573年、信長に京都から追放され、室町幕府は実質的に終わりを告げました。

本圀寺の変は、義昭と信長の蜜月時代の終わりを告げる号砲であり、中世の室町幕府が解体され、近世的な信長政権が確立されていく過程の、決定的な転換点だったと言えるかもしれません。

本圀寺の変がもたらした変化まとめ

  • 軍事面:二条城の築城により、将軍御所が「守れる城郭」へと生まれ変わった
  • 政治面:殿中御掟で義昭の権限が制限され、実権が信長に集中した
  • 人物面:明智光秀が信長に評価され、歴史の表舞台に登場した
  • 関係面:義昭と信長の「共生」が「従属」へと変わり始めた

本圀寺の変とはどんな事件だったのか、その背景から戦闘の詳細、そして事件後の大きな変化まで、一通り見てきました。

永禄の変との違いや、三好三人衆・明智光秀・斎藤龍興それぞれの立場と動き、六条合戦とも呼ばれるこの戦いが信長の政治的決断を引き出した経緯――どれも、当時の時代の流れを理解する上で欠かせないピースです。

一つ一つの出来事がつながって、戦国時代という激動の歴史が形作られているんだなと改めて感じます。
この記事が、あなたの歴史への興味を少しでも深めるきっかけになれば嬉しいです。

  • この記事を書いた人

たーやん

こんにちは!「日本史・世界史のススメ」管理人のたーやんです。
京都の大学で歴史(文献史学)を専攻した、歴史大好きな30代のビジネスマンです。
学生時代にハマった歴史ゲームや司馬遼太郎作品のワクワク感を胸に、歴史の「なぜ?」をITビジネスマンならではの視点で、超わかりやすく解説します!

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