公地公民をわかりやすく解説!なぜ制度は崩壊し武士が生まれたのか?

「公地公民」と聞くと、なんだか難しそうな漢字ばかりで苦手意識を持ってしまう方も多いのではないでしょうか? 「土地も人もすべて天皇のもの」という大原則は知っていても、なぜそんな制度が必要だったのか、そしてなぜ短期間で崩壊してしまったのか、その理由は意外と知られていません。

実はこの制度、当時の日本が海外の脅威から生き残るための必死の改革だったのです。
しかしその裏側には、想像を絶する税負担に苦しみ、生きるために逃亡を選んだ農民たちのリアルな姿がありました。

この記事では、公地公民制の誕生から、墾田永年私財法によって制度が崩れ去り、やがて「武士」の時代がやってくるまでの歴史の流れを、ストーリーのようにわかりやすく解説していきます。

この記事を読むとわかること

  • 豪族支配から天皇中心の国家へ変わった理由
  • 農民を苦しめた租庸調や運脚の過酷な実態
  • 墾田永年私財法によって制度が崩壊した原因
  • 公地公民の終わりと武士が誕生した歴史的背景
目次

公地公民の仕組みをわかりやすく解説:成立の背景

  • 豪族支配の私地私民から天皇中心の国家へ
  • 乙巳の変と改新の詔による政治構造の転換
  • 班田収授法と戸籍制度による厳格な管理体制
  • 租庸調の税負担と過酷な運脚・労役の実態
  • 中央集権を支えた駅伝制と防人の軍事インフラ

豪族支配の私地私民から天皇中心の国家へ

日本の古代史を語るうえで欠かせないのが、国のかたちがどのように整えられてきたかという点です。

飛鳥時代よりも前の日本では、私たちがイメージするような「日本国」という一つのまとまった組織はまだ完成していませんでした。

当時はヤマト政権と呼ばれており、天皇(大王)はあくまで有力な豪族たちの中のリーダーという立ち位置に近かったのです。

この頃の社会構造を一言で表すと「私地私民(しちしみん)」という言葉がぴったり当てはまります。

これは、土地や人々が国家のものではなく、各地に勢力を持つ豪族たちの私有財産だった状態を指します。

豪族たちが持っていた独自の支配権

具体的にどのような仕組みだったのかを見ていきましょう。

有力な豪族たちは、自分たちの領地として「田荘(たどころ)」と呼ばれる土地を持っていました。

これは単なる田んぼではなく、彼らの屋敷や倉庫まで含めた経済活動の拠点です。

さらに、彼らは土地だけでなく人間も所有していました。

「部曲(かきべ)」と呼ばれる人々は、豪族の私有民として労働力を提供し、収穫物を納める義務を負っていました。

つまり、当時の人々にとっての支配者は、遠くにいる天皇ではなく、目の前にいる地元の豪族だったのです。

蘇我氏や物部氏といった名前を聞いたことがあるかもしれませんが、彼らはこうした独自の基盤を持っていたからこそ、時に天皇をも凌ぐほどの権力を振るうことができました。

しかし、このようなバラバラな支配体制には大きな欠点がありました。

豪族たちが勝手に土地や民を支配しているため、いざ国として何か大きなことをやろうとしても、命令が隅々まで行き渡らないのです。

税金を集めるにしても、兵士を集めるにしても、いちいち豪族たちの協力を仰がなければなりません。

これでは、効率的な国家運営など夢のまた夢です。

また、豪族同士の争いも絶えず、国内の情勢は常に不安定でした。

こうした状況を変え、天皇を中心とした強力なリーダーシップで国をまとめ上げなければならないという機運が高まっていったのです。

それは単なる権力争いではなく、これから日本が生き残っていくための必然的な選択でした。

乙巳の変と改新の詔による政治構造の転換

豪族たちが力を持っていた時代から、天皇中心の国へと生まれ変わる大きなきっかけとなったのが、645年に起きた乙巳の変(いっしのへん)です。

中大兄皇子中臣鎌足らが、当時絶大な権力を誇っていた蘇我入鹿を倒したこのクーデターは、政治の主導権を皇室に取り戻すための実力行使でした。

しかし、本当に重要なのは事件そのものよりも、その直後に出された新しい国の方針です。

翌年の646年、孝徳天皇によって「改新の詔(かいしんのみことのり)」が発布されました。

これこそが、公地公民制のスタートラインとなる歴史的な宣言です。

改新の詔には4つの条文がありますが、その第1条に衝撃的な内容が記されていました。

それは「これまでの天皇や豪族が持っていた土地や人民の私有を廃止する」というものです。

つまり、昨日まで「これは俺の土地だ」「あいつらは俺の部下だ」と言っていた豪族たちの権利を、法律によって一気に剥奪したのです。

すべての土地と人民は「公(おおやけ)」、すなわち天皇(国家)のものとする。

これが公地公民制の本質です。

これまで豪族たちがバラバラに支配していた日本列島を、天皇という一つの頂点の下に統合しようとしたのです。

なぜ急激な改革が必要だったのか

これほど急激な改革を断行した背景には、当時の緊迫した国際情勢がありました。

海の向こうの大陸では、強大な帝国である「唐」が勢力を拡大し、朝鮮半島でも新羅が台頭していました。

もし唐や新羅が日本に攻めてきたら、豪族ごとの寄せ集めの軍隊では到底太刀打ちできません。

日本が独立国として生き残るためには、国全体の資源や兵力を一つにまとめ上げ、強力な中央集権国家を作る必要があったのです。

改新の詔は、単なる国内の政治改革ではなく、国家存亡をかけた安全保障政策でもありました。

こうして、日本は唐の進んだ律令制度(法律に基づいた統治)をモデルにしつつ、天皇を中心とする新しい国づくりへと邁進していくことになります。

公地公民制は、まさにその土台となるシステムだったのです。

班田収授法と戸籍制度による厳格な管理体制

公地公民制という理念を、絵に描いた餅で終わらせずに現実のものとするために導入されたのが「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」です。

「すべての土地は国のもの」と言っても、国が直接耕すわけにはいきません。

そこで、国が国民に土地(口分田)を貸し与え、その代わりとして税金を納めさせるという契約システムを作り上げました。

この制度を回すためには、どこに誰が住んでいて、家族は何人いるのかを正確に把握する必要があります。

そのために作られたのが、日本古代のマイナンバー制度とも言える「戸籍」です。

6年ごとの更新と男女の格差

班田収授法には非常に細かいルールが定められていました。

まず、戸籍は6年ごとに新しく作られます。

これを「六年一班」といい、戸籍が更新されるたびに、新しく6歳になった人へ田んぼが配られ、亡くなった人の田んぼは国へ返還されました。

ここで注目したいのは、配られる田んぼの広さが身分や性別によって厳格に決められていたことです。

以下の表に、一般的な良民(一般庶民)に与えられた面積をまとめました。

対象者支給される面積(段)現代の広さ(目安)
良民の男性2段約2,400平方メートル
良民の女性1段120歩(男性の2/3)約1,600平方メートル

男性には2段という広さが与えられましたが、女性はその3分の2でした。

また、奴隷身分である「奴婢(ぬひ)」にも口分田は支給されましたが、その面積はさらに少なくなります。

このように、生まれた瞬間から土地という資産の量で差がつけられていたのです。

さらに、この制度の重要な点は「土地はあくまで借り物」だということです。

死ねば国に返さなければならないため、子孫に土地そのものを相続させることはできません。

これは、土地の私有を許してしまうと、再び豪族のような勢力が現れるのを防ぐための知恵でした。

戸籍と班田収授法というセットによって、国は一人一人の国民を「公民」として登録し、土地を介して直接コントロールする体制を完成させたのです。

租庸調の税負担と過酷な運脚・労役の実態

国から口分田を貸し与えられた人々は、その対価として重い税金を納める義務を負いました。

これが歴史の授業で必ず習う「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」です。

一見すると、単にお米や布を納めるだけの制度のように思えますが、その実態は現代の感覚では想像を絶するほど過酷なものでした。

まず、基本となる「租」は、収穫した稲の約3%を納めるもので、これは地方の役所の財源となりました。

税率自体はそれほど高くありませんでしたが、問題はそれ以外の負担です。

「庸」は、本来なら都に行って労役(肉体労働)をする代わりとして布などを納める税です。

そして「調」は、それぞれの地方の特産品(絹、魚、塩など)を納める税でした。

これら「庸」と「調」は、都にいる天皇や貴族たちの生活を支えるための最も重要な収入源でした。

しかし、農民たちにとって本当の地獄は、これらを納めるプロセスにありました。

それが「運脚(うんきゃく)」と呼ばれる義務です。

なんと、地方で集められた税金は、農民たちが自らの足で都まで運ばなければならなかったのです。

命がけの税金納入ツアー

想像してみてください。

もしあなたが九州や東北に住んでいたとしても、重い荷物を背負って、奈良の都まで何十日もかけて歩いて行かなければなりません。

しかも、その往復にかかる食費や旅費はすべて「自己負担」でした。

国は宿泊施設などは用意してくれません。

そのため、多くの農民が都への道中で飢えや病気に倒れ、行き倒れになって命を落としました。

やっとの思いで都に税を納めても、帰りの食料が尽きて故郷に帰れない者も続出しました。

さらに、地元に残っている間も「雑徭(ぞうよう)」といって、年間60日を限度として地方の土木工事などに駆り出されました。

農作業が忙しい時期でも容赦なく呼び出されるため、田畑の手入れがおろそかになり、生活はますます苦しくなっていったのです。

山上憶良が『貧窮問答歌』で描いた悲惨な生活は、決して大げさな表現ではなく、当時の農民たちの偽らざる現実でした。

中央集権を支えた駅伝制と防人の軍事インフラ

公地公民制は、税金を集めるためだけのシステムではありません。

全国を一つの国として機能させるための、巨大な通信・軍事ネットワークの基盤でもありました。

広大な日本列島を統治するためには、中央の命令を地方へ迅速に伝え、地方の反乱や外敵の情報をすぐに都へ吸い上げる必要があります。

そのために整備されたのが「駅伝制(えきでんせい)」です。

都から地方へ伸びる主要な道路(七道)には、約16キロごとに「駅家(うまや)」という施設が置かれました。

ここには早馬が用意されており、緊急時には公務員が馬を乗り継いで、猛スピードで情報を伝達することができました。

これは現代で言うところの高速道路網やインターネット回線のような役割を果たしていたのです。

農民が支えた国防の最前線

また、軍事面においても公地公民制は重要な役割を果たしました。

当時の国際情勢は緊迫しており、唐や新羅からの侵攻に備える必要がありました。

そこで導入されたのが徴兵制です。

成人男性の約3人に1人が兵士として徴用されました。

都の警備にあたる「衛士(えじ)」も大変でしたが、さらに過酷だったのが「防人(さきもり)」です。

これは九州北部の沿岸防衛にあたる兵士のことで、主に関東地方の農民が指名されました。

彼らは家族と別れ、遥か遠くの九州まで自力で移動し、3年間も任務に就かなければなりませんでした。

防人の負担もまた、武器や食料の多くが自己負担(自弁)でした。

「海を行くときは水に漬かった死体となり、山を行くときは草生す死体となっても、大君(天皇)の辺りで死にたい」という有名な歌がありますが、これは愛国心だけでなく、逃れられない過酷な運命に対する悲痛な覚悟の表れとも読めます。

公地公民制によって国民一人一人を把握できたからこそ、国はこれほど大規模な兵員動員を行うことができました。

しかし、それは農民たちの多大な犠牲の上に成り立っていた、非常に重苦しいシステムでもあったのです。

公地公民の崩壊をわかりやすく整理:荘園と武士へ

  • 制度の限界と重税に抗う農民の逃亡や偽籍
  • 三世一身の法に見る土地不足解消への苦肉の策
  • 墾田永年私財法による土地私有化への決定的転換
  • 初期荘園の拡大と公地公民原則の実質的終焉
  • 律令制の瓦解と武士が台頭する中世社会の幕開け

制度の限界と重税に抗う農民の逃亡や偽籍

ここまで見てきたように、公地公民制は理論上は完璧なシステムに見えましたが、それを支える農民たちの体力には限界がありました。

重すぎる税負担、終わりのない労役、そして命の危険さえある運脚や兵役。

これらに耐えかねた農民たちは、生き残るために国へ抵抗を始めます。

といっても、武器を持って反乱を起こすわけではありません。

彼らが選んだのは「逃げる」ことと「嘘をつく」ことでした。

多くの農民が、配られた口分田を捨てて、戸籍に登録された土地から姿を消しました。

これを「逃亡」と呼びます。

彼らは行方不明になるだけでなく、税の取り立てが緩い地域へ移り住んだり、力のある貴族や寺院の私有地に逃げ込んで、そこで小作人のように働いたりしました。

土地を捨てて逃げる人が増えれば、当然ながら田んぼは荒れ果て、国に入ってくる税収は激減します。

国としては、戸籍に基づいて税を計算しているのに、その住所に行ってみたら誰もいないという状況が多発したのです。

女性ばかりの村の謎

また、もう一つの抵抗手段として「偽籍(ぎせき)」が横行しました。

当時の税制では、租庸調のうち「庸」と「調」、そして兵役は、主に成人男性(正丁)に課せられていました。

女性にはこれらの重い負担がありませんでした。

そこに目をつけた農民たちは、戸籍を登録する際に、本当は男性である家族を「女性」だと偽って申告したのです。

実際に残っている当時の戸籍記録を見ると、ある村では住民のほとんどが女性になっているという、生物学的にあり得ない現象が起きています。

これは明らかに、税逃れのための集団的な虚偽申告でした。

このように、農民たちの必死の抵抗によって、公地公民制の根幹である戸籍データへの信頼性は失われ、制度は内部から崩れ始めていったのです。

三世一身の法に見る土地不足解消への苦肉の策

農民の逃亡によって田畑が荒廃する一方で、皮肉なことに社会が安定したことで人口は増加傾向にありました。

すると、今度は「新しく生まれた人に配るための口分田が足りない」という問題が発生しました。

これを「班田不足」と言います。

国としては、税収を確保するためにも、荒れた土地を回復させ、さらに新しい田んぼを開墾しなければなりません。

しかし、国主導の開墾事業には限界がありました。

そこで723年、朝廷はついに公地公民の原則を緩める大きな決断を下します。

それが「三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」です。

前述の通り、公地公民制では「土地は国のもの」であり、私有は認められていませんでした。

しかし、この新しい法律では「新しく灌漑施設(溝や池)を作って開墾した土地なら、本人・子・孫の3代に限って自分のものにしていいよ」と認めたのです。

(古い施設を直して使った場合は本人1代限り)。

これは、土地の私有という「アメ」をぶら下げることで、民間の力を使って耕地を増やそうという狙いがありました。

「自分の土地になるなら頑張ろう」と、一時的には開墾が進みました。

期限付き所有の落とし穴

ところが、この制度には致命的な欠陥がありました。

「3代まで」という期限があることです。

期限が近づいてくると、せっかく開墾した土地もやがて国に没収されてしまいます。

すると農民たちは「どうせ取り上げられるなら、もう頑張って耕しても意味がない」と考え、耕作を放棄してしまうようになったのです。

結果として、土地は再び荒れ果ててしまいました。

三世一身の法は、土地不足を解消するための苦肉の策でしたが、期限付きという中途半端な条件だったために、根本的な解決には至らなかったのです。

これは、理想としての公地公民制と、現実の経済活動との間で揺れ動く朝廷の迷いを象徴するような出来事でした。

墾田永年私財法による土地私有化への決定的転換

三世一身の法の失敗を受けて、朝廷はさらに踏み込んだ決断を迫られました。

聖武天皇の時代、大仏建立などの国家事業でお金が必要だったこともあり、なりふり構っていられなくなったのです。

そして743年、ついに歴史を大きく変える法律が制定されました。

それが「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。

この法律の内容は非常にシンプルかつ強力なものでした。

「新しく開墾した土地は、期限なしで永久にあなたのものにして良い」と認めたのです。

これまでの「土地はすべて公(天皇)のもの」という公地公民の大原則が、ここで事実上崩壊しました。

国は、土地の公有という理念を捨ててでも、「私有地でもいいから田んぼを増やして、そこから税金を取りたい」という実利を選んだわけです。

もちろん、開墾した土地の広さに応じた制限などはありましたが、一度私有地として認められれば、それを子孫代々受け継ぐことができるようになりました。

これによって、人々の土地に対する考え方は劇的に変わりました。

「借りている土地」から「自分の資産としての土地」へ。

これはもう、後戻りのできない変化でした。

貴族や寺院の暴走

この法律を最も喜んだのは、実は一般の農民ではなく、資金力のある中央の貴族や大寺院でした。

彼らは豊富な資金を使って人を雇い、大規模な開墾事業を行いました。

そして、広大な土地を自分たちの私有地として囲い込んでいったのです。

本来、公地公民制によって抑え込まれていたはずの「私的な土地支配」が、国の法律によって公然と認められる皮肉な結果となりました。

墾田永年私財法は、日本の土地制度を律令制から、次の時代のシステムへと移行させる決定的なスイッチとなったのです。

初期荘園の拡大と公地公民原則の実質的終焉

墾田永年私財法によって、貴族や寺院による土地の私有化に歯止めが利かなくなりました。

こうして生まれた大規模な私有地のことを「荘園(しょうえん)」と呼びます。

特にこの時期に成立したものは、まだ国司(地方官)の管理下にあり税も納めていたため「初期荘園」として区別されますが、その実態は公地公民制を骨抜きにするものでした。

荘園を経営する貴族や寺院は、自分たちの土地を耕す労働力を確保するために、周辺の農民や逃亡してきた人々を積極的に受け入れました。

農民にとっても、重税や労役に苦しめられる国の口分田(公田)で働くより、有力者の保護下にある荘園で働く方が生活が楽になる場合があったのです。

こうして、本来なら国の財産であるはずの労働力(公民)が、私有地である荘園へと吸い取られていきました。

公地(国の土地)が減り、公民(国の民)も減る。

これでは公地公民制など成り立つはずがありません。

国の力が届かない場所へ

さらに時代が進むと、有力な荘園領主たちは、朝廷に働きかけて「自分の荘園には税金をかけないでくれ(不輸の権)」とか「国の役人を立ち入らせないでくれ(不入の権)」といった特権を得るようになります。

こうなると、荘園は日本国内にありながら、国の支配が及ばない独立国のような存在になっていきました。

天皇を中心として、すべての土地と民を支配するという大化の改新以来の理想は、荘園の拡大とともに完全に形骸化していったのです。

地図の上では日本という国があっても、その中身は再びパッチワークのように、権力者たちの私有地で埋め尽くされていきました。

律令制の瓦解と武士が台頭する中世社会の幕開け

荘園が各地に広がり、公地公民制が崩壊したことは、日本の社会構造そのものを根本から変えることになりました。

土地が「国のもの」ではなく「個人のもの」になると、今度はその土地を誰が守るのかという問題が発生します。

公地公民の時代には、国が警察や軍事の役割を担っていましたが、国の力が弱まると、治安が悪化し、盗賊が出たり、隣の領主と土地争いが起きたりするようになりました。

自分の土地は自分で守るしかない。

そのような状況の中で、地方の有力農民や、任期を終えても現地に居座った元貴族たちは、武装して自衛するようになります。

彼らは、弓矢や馬術を磨き、一族や仲間と結束して武力集団を作りました。

これが「武士」の始まりです。

最初は荘園の用心棒のような存在でしたが、やがて彼らは実力をつけ、貴族に代わって政治の表舞台に登場するようになります。

平将門の乱などの反乱を経て、最終的には平清盛や源頼朝といった武士の棟梁が政権を握る時代がやってきます。

公地公民制の崩壊は、天皇や貴族が支配する「古代」という時代の終わりを告げるものでした。

そして、土地を媒介とした主従関係が社会の基本となる「中世(封建社会)」への扉を開いたのです。

私たちがよく知る、武士が活躍する鎌倉時代や戦国時代は、公地公民という理想が破れ、土地の私有をめぐる争いが日常化した結果として生まれた時代だったと言えるでしょう。

そう考えると、公地公民制の歴史は、単なる昔の制度の話ではなく、日本がどのようにして武士の国へと変わっていったのかを知るための、極めて重要なストーリーなのです。

最後に公地公民の流れをわかりやすく総まとめ

ここまで、古代日本の大きな転換点となった公地公民制について、その成立から崩壊までを詳しく見てきました。
少し複雑な歴史の流れでしたが、最後に要点を整理して、全体のストーリーを振り返ってみましょう。
当時の人々が何を思い、どのように時代が変わっていったのか、以下の15のポイントで流れを追ってみてください。

  • もともと日本は、豪族たちが土地や人民をバラバラに支配する「私地私民」の状態でした。
  • しかし、海外(唐など)からの脅威に対抗するため、国を一つにまとめる必要が出てきました。
  • そこで起きたのが乙巳の変であり、続く「改新の詔」で新しい国の方針が示されました。
  • ここで初めて、すべての土地と人民を天皇(公)のものとする「公地公民」が宣言されます。
  • 国は「戸籍」を作って国民一人一人を登録し、厳格に管理するようになりました。
  • 「班田収授法」により、国民には生きるための土地(口分田)が貸し与えられました。
  • その代わりとして、お米や特産品を納める「租・庸・調」という税金が課されました。
  • 特に、税を都まで自力で運ぶ「運脚」や、無償の土木工事などの負担は過酷なものでした。
  • さらに、九州を守る「防人」として徴兵されるなど、軍事面での負担も重くのしかかりました。
  • こうした重圧に耐えかねた農民たちは、土地を捨てて逃げ出す「逃亡」を選び始めます。
  • また、男性を女性と偽って戸籍に登録する「偽籍」など、税逃れも横行しました。
  • 土地が荒れて税収が減った国は、開墾を進めるために「三世一身の法」で期限付きの私有を認めます。
  • それでも解決せず、ついに「墾田永年私財法」で土地の永久私有を認めてしまいました。
  • これにより貴族や寺院の私有地である「荘園」が拡大し、公地公民の原則は崩れ去りました。
  • そして、自分の土地を自分で守るために武装した人々が、やがて「武士」となって次の時代を切り開くことになります。

このように振り返ると、公地公民制とは、理想的な国家を目指した壮大なチャレンジであったと同時に、現実とのギャップに苦しんだ試行錯誤の歴史でもあったことがわかりますね。
この制度が崩れたからこそ、私たちがよく知る武士の世の中へとつながっていったのです。

参考サイト

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