歴史の教科書で必ず登場する「班田収授法」。
「名前は覚えているけれど、具体的にどんな仕組みだったっけ?」「なぜこの制度はなくなってしまったの?」と疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。
班田収授法とは、簡単に言えば「国が土地を管理し、国民に貸し与えることで税を確保するシステム」のことです。 この記事では、古代日本の根幹を支えたこの制度の目的や仕組み、そして過酷な税負担によって制度が崩壊し、荘園制へと移り変わっていくまでの歴史的な流れを、班田収授法についてわかりやすく解説します。
この記事を読むとわかること
- 班田収授法の仕組みと公地公民の目的
- 身分や性別による口分田の配分格差
- 農民を苦しめた厳しい税負担と逃亡の実態
- 墾田永年私財法から荘園制へ移行した理由
班田収授法とは?仕組みをわかりやすく解説

- そもそも班田収授法とは?公地公民を目指した土地制度
- 制度の目的は税収確保と戸籍による国民管理
- 誰にどれだけ配られた?口分田の受給資格と面積
- 男女や身分で格差があった?良民と奴婢の配分量の違い
- 土地をもらう代償としての厳しい税負担と労役義務
そもそも班田収授法とは?公地公民を目指した土地制度
歴史の教科書で必ずと言っていいほど登場する「班田収授法」。
名前だけは覚えているけれど、具体的にどのような仕組みだったのか、なぜ作られたのかまでは詳しく知らないという方も多いのではないでしょうか。
班田収授法とは、簡単に言えば「国が国民に農地を貸し与え、その代わりに税金を納めさせる制度」のことです。
この制度が本格的にスタートしたのは、今から約1300年前の飛鳥時代後期から奈良時代にかけてのことでした。
当時、日本は中国の唐という大帝国をお手本にして、天皇を中心とした新しい国づくりを進めていました。
その中で最も重要視されたのが、土地と人々を国が直接管理するという考え方です。
これには「公地公民(こうちこうみん)」という大きなスローガンが背景にあります。
それまでの日本は、各地の豪族たちが土地や人々を私有財産のように支配していました。
しかし、これでは国としての統一が取れませんし、天皇の命令も全国に行き届きません。
そこで国は、すべての土地と人々を「公(おおやけ)」のもの、つまり国のものと定めたのです。
これが公地公民制であり、その具体的な運用システムとして班田収授法が導入されました。
この制度の下では、私たちが現在持っているような「土地の所有権」という概念は農民にはありません。
あくまで国から「借りている」だけであり、死んでしまえばその土地は国に返さなければならないというルールでした。
言ってみれば、国全体が巨大なレンタル農園のような状態だったとイメージすると分かりやすいかもしれません。
実際、この仕組みは非常に画期的なものでした。
国がすべての農地を把握し、誰にどの土地を使わせるかをコントロールできるからです。
6年ごとに戸籍を作り直し、そのデータに基づいて土地の配分を見直すというサイクルが組まれました。
これを「六年一班(ろくねんいっぱん)」と呼びます。
6年に一度、国から派遣された役人がやってきて、「あなたは生きていますか」「家族は増えましたか」と確認し、それに応じて田んぼを与えたり没収したりするわけです。
このように、班田収授法は単なる土地の貸し借りではなく、律令国家という新しい日本の形を作るための根幹となるシステムでした。
制度の目的は税収確保と戸籍による国民管理
なぜ当時の政府は、これほど手間のかかる制度を導入したのでしょうか。
その最大の目的は、安定した税収を確保することにありました。
国を運営するには、当然ながら財源が必要です。
宮殿を建てたり、役人に給料を払ったり、軍隊を維持したりするためには、莫大な稲や布が必要になります。
しかし、豪族たちが勝手に土地や農民を支配している状態では、国は思うように税を集めることができません。
そこで政府は、国民一人一人を直接把握し、確実に税を取り立てる仕組みを作る必要に迫られました。
ここで重要な役割を果たしたのが「戸籍」です。
班田収授法を行うためには、どこに誰が住んでいて、その家に何人の働き手がいるのかを正確に知らなければなりません。
そのため、政府は全国規模で非常に細かい住民調査を行いました。
これは現代で言うところのマイナンバー制度や国勢調査に近いものです。
作成された戸籍には、家族全員の名前や年齢、性別はもちろん、身体的な特徴まで記録されていたと言われています。
この戸籍というデータベースがあったからこそ、政府は「あなたには土地を貸す資格がある」「あなたはこれだけの税を払わなければならない」と個別に管理することが可能になりました。
こう考えると、班田収授法は土地を与えるための制度というよりも、国民を管理するためのシステムだったと言えます。
土地を与えるというのは、あくまで「税金を払わせるための手段」に過ぎません。
農民に土地を与えなければ、彼らはお米を作ることができず、結果として税金を納めることもできないからです。
つまり、「土地を使わせてあげるから、そこで収穫したお米の一部を税金として納めなさい」というのが、この制度の本質的な狙いでした。
また、戸籍によって人々を土地に縛り付ける効果もありました。
勝手に引っ越しをしたり、行方不明になったりされては税金が取れなくなってしまいます。
そのため、戸籍と土地をセットにすることで、農民がその場所から動けないようにし、安定した労働力と納税者を確保しようとしたのです。
このように、班田収授法は国家財政の安定と治安維持の両面において、極めて合理的な統治システムとして設計されていました。
誰にどれだけ配られた?口分田の受給資格と面積
それでは、具体的に誰にどれだけの土地が配られたのでしょうか。
班田収授法で配られる田んぼのことを「口分田(くぶんでん)」と呼びます。
「口(くち)」つまり食べる人数に応じて「分」け与える「田」んぼという意味です。
この口分田をもらえる資格は、生まれたばかりの赤ちゃんではなく、6歳以上の男女すべてにありました。
6歳になれば戸籍に登録され、一人前の人間としてカウントされ、土地をもらう権利が発生したのです。
そして、その人が死ぬまで耕作する権利が認められ、死亡するとその土地は国に返還(収公)され、また別の誰かに配られるというサイクルでした。
配られる面積についても、明確な基準が法律で決まっていました。
当時の単位で「段(たん)」という広さが基準になります。
1段は360歩(ぶ)で、現在の面積に換算すると約12アール、およそ1200平方メートル弱になります。
学校の25メートルプールで例えると、だいたい4つ分くらいの広さです。
これが一人分の基準となる広さですが、全員が同じ面積をもらえたわけではありません。
身分や性別によって、明確な差がつけられていました。
ここで、当時の一般的な「良民(一般の農民)」の男性を基準に見てみましょう。
良民の男性には「2段」の口分田が与えられました。
これは先ほどのプールの例で言えば8つ分くらいの広さになり、当時の農業技術で一人が耕作して食べていくには十分な広さだったと考えられています。
一方で、女性や身分の低い人々には、これよりも少ない面積しか与えられませんでした。
この配分量の違いについては次の見出しで詳しく解説しますが、基本的には「労働力としての能力」や「社会的な立場」によって、国から与えられるリソースに差がつけられていたのです。
とはいえ、6歳以上の子供やお年寄りにも土地が配られていたという点は注目に値します。
家族が多ければ多いほど、その家全体として受け取れる農地の総面積は増えることになります。
大家族であればあるほど、たくさんの田んぼを耕すことができ、一見すると豊かになれるチャンスがあるようにも思えます。
しかし、土地をたくさんもらうということは、それだけ多くの税金を払わなければならないということでもありました。
単純に「土地がもらえてラッキー」というわけにはいかないのが、この制度の難しいところです。
男女や身分で格差があった?良民と奴婢の配分量の違い
前述の通り、口分田の配分には厳密なルールがあり、そこには現代の感覚からすると驚くような格差が存在していました。
当時の社会は、大きく「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」という二つの階級に分かれていました。
良民とは一般の公民のことで、賤民とは奴婢(ぬひ)と呼ばれる奴隷階級の人々のことです。
さらに、同じ階級の中でも男女によって支給される面積が異なっていました。
以下の表に、それぞれの立場ごとの口分田の支給面積をまとめました。
| 身分区分 | 性別 | 支給面積(段) | 良民男子との比較 |
| 良民 | 男性 | 2段 | 基準(100%) |
| 良民 | 女性 | 1段120歩 | 男性の3分の2 |
| 官戸・公奴婢 (国の奴隷) | 男女 | 良民と同じ | 男子は100% 女子は66% |
| 家人・私奴婢 (個人の奴隷) | 男女 | 良民の3分の1 | 男子は33% 女子は22% |
この表を見ると、いくつかの興味深い事実が浮かび上がってきます。
まず、良民の女性は男性の「3分の2」の面積しか与えられていませんでした。
これは当時の農業において、男性の労働力の方がより重い作業を担えると考えられていたためでしょう。
しかし、女性にも土地が与えられていたということは、女性もまた独立した納税者として国から認識されていたことを意味します。
当時の女性は家事だけでなく、田植えや稲刈りなどの農作業においても重要な戦力だったのです。
さらに複雑なのが、奴隷階級である奴婢への扱いです。
奴婢には、国が所有する「公奴婢(くぬひ)」と、個人(豪族など)が所有する「私奴婢(しぬひ)」がいました。
驚くべきことに、国の所有物である公奴婢には、良民と全く同じ面積の口分田が支給されています。
これは、彼らが自給自足をして国の負担を減らすためだったと考えられています。
一方で、個人の持ち物である私奴婢に対しては、良民の「3分の1」しか与えられませんでした。
なぜでしょうか。
もし私奴婢にも満額の土地を与えてしまうと、たくさんの奴隷を持っているお金持ちの豪族が、その分だけ大量の土地を実質的に支配することになってしまうからです。
国としては、特定の豪族が力を持ちすぎるのを防ぐ必要がありました。
そのため、私有の奴隷に対する支給量をあえて少なく設定し、豪族による土地の囲い込みを制限しようとしたのです。
このように、口分田の配分ルール一つをとっても、当時の身分制度や政治的な駆け引きが色濃く反映されていることが分かります。
土地をもらう代償としての厳しい税負担と労役義務
ここまで口分田をもらえる仕組みについて見てきましたが、土地をもらうことは決してタダではありませんでした。
国民には、土地を使用する対価として、国に対して税金を納める義務が課せられていたのです。
この税負担は「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」と呼ばれる税制が基本となっていました。
それぞれ何を納めるのか、どれくらいの負担だったのかを見ていきましょう。
主要な3つの税
- 租(そ):口分田から収穫された稲(お米)を納める税です。税率は収穫量の約3%程度とされており、数字だけ見ればそれほど重くないように思えます。しかし、これはあくまで「豊作であれば」の話です。天候不順や災害で不作になったとしても、規定の量を納めなければならない場合もあり、農民にとっては決して軽い負担ではありませんでした。
- 庸(よう):都に行って労役(肉体労働)をする代わりに、布などを納める税です。本来は都での工事や警備などの労働を提供することが義務でしたが、遠くに住んでいる人は物理的に通うのが難しいため、布で代納することが認められていました。これは成年男子(21歳〜60歳)にのみ課せられた負担です。
- 調(ちょう):各地の特産品を納める税です。絹や糸、布、塩、海産物など、その土地で採れる貴重な品物を都まで運んで納めなければなりませんでした。これも成年男子に対する課税でした。
さらなる重荷:雑徭と兵役
これら3つの税に加えて、さらに農民を苦しめたのが「雑徭(ぞうよう)」と「兵役」です。
雑徭は、地元の国司(地方官)の命令で、年間60日を限度として土木工事などの奉仕活動を行う義務です。
道路や橋の建設、役所の修繕などに駆り出されるため、その間は自分の畑仕事をすることができません。
さらに、兵役の義務もありました。
一部の成年男子は兵士として徴兵され、食料や武器を自前(!)で用意して各地の警備に当たらなければなりませんでした。
特に九州の防衛にあたる「防人(さきもり)」に選ばれてしまうと、数年は家に帰ることができず、残された家族の生活は困窮を極めました。
このように、班田収授法とセットになっていた税負担は、農民の生活をギリギリまで圧迫するものでした。
土地をもらえることのメリットよりも、それに付随する税や労役のデメリットの方が大きかったと言えるかもしれません。
いくら土地があっても、働き手である男性が都の工事や兵役で長期間不在になれば、田んぼは荒れ放題になってしまいます。
この構造的な矛盾が、やがて制度そのものを崩壊へと導いていくことになるのです。
班田収授法の崩壊とその後をわかりやすく解説

- 制度が機能しなくなった理由とは?重税と農民の逃亡
- 土地不足の深刻化と開墾奨励策への転換
- 三世一身の法とは?期限付きの私有を認めた妥協策
- 墾田永年私財法の登場で公地公民制が実質的に崩壊
- 律令国家から荘園制へ!土地の私有化が進んだ歴史的背景
制度が機能しなくなった理由とは?重税と農民の逃亡
当初は理想的なシステムとして始まった班田収授法ですが、奈良時代の後半になると、徐々にその機能が麻痺し始めました。
その最大の理由は、前述したような重すぎる税負担に農民たちが耐えきれなくなったことにあります。
真面目に戸籍に登録されて土地をもらうと、租庸調だけでなく、過酷な雑徭や兵役まで課せられてしまいます。
「こんなに苦しいなら、土地なんていらないから逃げてしまいたい」と考える人が出てくるのは当然のことでした。
そこで農民たちがとった行動が「浮浪(ふろう)」や「逃亡」です。
浮浪とは、本籍地を離れて別の場所をさまようこと、逃亡とは完全に行方をくらませてしまうことです。
彼らは戸籍の管理から外れることで、税金から逃れようとしました。
逃げ出した農民の多くは、私有地拡大を狙う有力な貴族や寺院の元へ身を寄せ、そこで小作人のように働くことになります。
国としては、戸籍に登録されている人がいなくなれば、税金が入ってこなくなるわけですから大問題です。
また、税逃れのためのテクニックとして「偽籍(ぎせき)」という不正も横行しました。
これは、戸籍の申告内容を偽ることです。
例えば、男性は税負担が重いため、家族の中に男性がいても「この子は女性です」と嘘の申告をして戸籍に登録するケースが増えました。
当時の記録には、ある村の住民のほとんどが女性として登録されているという、生物学的にあり得ない異常な事態も残されています。
これを「女ばかりの戸籍」と呼ぶこともあります。
こうなると、戸籍上は人がいるのに、税金(特に庸や調)を納めるべき成年男子がほとんどいないという状況になります。
正確なデータがなければ、班田収授法は機能しません。
戸籍制度の信頼性が崩れたことで、公平な土地の配分も、確実な徴税も不可能になっていったのです。
土地不足の深刻化と開墾奨励策への転換
制度が崩壊に向かったもう一つの大きな要因は、物理的な土地不足です。
平和な時代が続いたことや、農業技術が少しずつ進歩したことにより、奈良時代を通じて日本の人口は増加傾向にありました。
人口が増えれば、当然ながら口分田として配るための田んぼも増やさなければなりません。
しかし、新しく田んぼを開墾するスピードが、人口の増加スピードに追いつかなくなってしまったのです。
これを「田不足」と言います。
なぜ田んぼが増えなかったのでしょうか。
その原因は、班田収授法の「土地は国のもの」という原則そのものにありました。
当時のルールでは、苦労して荒れ地を開墾して新しい田んぼを作っても、その土地は最終的に国のもの(公田)として扱われ、いずれ収公されてしまう可能性が高かったのです。
これでは、誰も汗水流して新しい田んぼを作ろうとは思いません。
「どうせ取り上げられるなら、今の土地だけでいいや」となってしまい、耕地面積が頭打ちになってしまったのです。
土地が足りなければ、新しく成人した人に配る口分田が確保できません。
配る土地がないのに税金だけ取るわけにはいきませんから、制度全体が行き詰まってしまいます。
政府はこの状況に強い危機感を抱きました。
「なんとかして田んぼを増やさなければならない」
そう考えた政府は、これまでの方針を大きく転換し、人々にやる気を出させるための新しい法律を作ることにしました。
それが「アメとムチ」の「アメ」を与える政策、つまり開墾奨励策の始まりです。
三世一身の法とは?期限付きの私有を認めた妥協策
土地不足を解消し、食料生産を増やすために政府が打ち出した最初の大きな妥協策が、723年に制定された「三世一身の法(さんぜいっしんのほう)」です。
この法律の画期的な点は、「条件付きで土地の私有を認めた」ということに尽きます。
それまでは「土地はすべて国のもの」が大原則でしたが、そう言っていては誰も開墾しないため、ご褒美を与えることにしたのです。
具体的には以下のようなルールでした。
新しく灌漑施設(水路や池)を作ってから開墾した場合は、本人、子、孫の「三代(三世)」にわたってその土地の私有を認める。
一方で、すでにある古い水路を使って開墾した場合は、本人一代限りの私有を認める、というものです。
「頑張って新しい田んぼを作れば、あなただけでなく、孫の代まで自分のものとして使っていいですよ」というインセンティブを与えたわけです。
これによって、民間の力を利用して耕地面積を増やそうとしました。
しかし、この法律には致命的な欠点がありました。
それは「期限がある」ということです。
いくら三代まで認められるといっても、孫の代が終われば、その土地は結局国に返さなければなりません。
期限が近づいてくると、どうなるでしょうか。
「あと数年で国に取られる土地を、わざわざ手入れする必要があるか?」
そう考えた農民や土地所有者は、耕作を放棄したり、手入れを怠ったりするようになりました。
その結果、せっかく開墾された土地が再び荒れ地に戻ってしまうという現象が起きたのです。
期限付きの所有権では、永続的な土地開発のモチベーションを維持するには不十分だったのです。
墾田永年私財法の登場で公地公民制が実質的に崩壊
三世一身の法でも十分な効果が得られなかった政府は、743年、ついに決定的な法律を制定します。
それが「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」です。
この法律の内容は、その名前の通り非常にシンプルで強力なものでした。
「新しく開墾した田んぼ(墾田)は、永久(永年)に、あなたの私有財産(私財)にしてよい」と認めたのです。
期限は一切ありません。
一度開墾すれば、それは永遠に自分の一族のものとなり、国に返す必要はなくなったのです。
これは、律令国家が掲げてきた「公地公民」という理想を、国自らが否定するような政策転換でした。
「土地は国のもの」という原則を崩してでも、背に腹は代えられないほど食料増産と耕地拡大が急務だったとも言えます。
この法律の効果は劇的でした。
「自分のものになるなら」と、資金力のある大寺院や中央の有力貴族、地方の豪族たちがこぞって大規模な開墾事業に乗り出したのです。
彼らは貧しい農民や浮浪人を雇って広大な未開地を切り開き、私有地をどんどん拡大していきました。
こうして、日本全国に「私有地」が爆発的に増えていきました。
一方で、国が管理する「公田」の割合は相対的に減少し、班田収授法を行うための原資となる土地はますます確保しにくくなります。
墾田永年私財法の施行は、経済活性化策としては成功したかもしれませんが、公地公民制を土台とする律令制度にとっては、終わりの始まりを意味していたのです。
もはや、すべての土地を国が管理するという建前は、事実上崩れ去ってしまいました。
律令国家から荘園制へ!土地の私有化が進んだ歴史的背景
墾田永年私財法によって土地の永久私有が認められたことで、日本の土地制度は「荘園制(しょうえんせい)」という新しい時代へと突入します。
荘園とは、貴族や寺社などの有力者が所有する私有地のことです。
有力者たちは、開墾によって手に入れた土地を自分の領地として囲い込み、そこから上がる収益を独占するようになりました。
これが初期の荘園です。
さらに時代が進むと、地方で力を持っていた豪族や開発領主たちが、自らの土地を守るためにある工夫を始めます。
地方では国司(県知事のような役人)が強い権限を持っており、重い税を課したり、難癖をつけて土地を奪おうとしたりすることがありました。
そこで開発領主たちは、自分たちの土地の名義を中央の有力な貴族(藤原氏など)や大寺院に「寄進(きしん)」することにしたのです。
形式上は「この土地は偉い〇〇様のものです」とすることで、国司の不当な介入を防ぎ、その代わりにお礼として収穫の一部を貴族に送るという契約を結びました。
これを「寄進地系荘園」と呼びます。
有力貴族にとっても、何もしなくても地方から収入が入ってくるので、喜んで名前を貸しました。
こうして、土地はもはや国のものではなく、私的な主従関係や契約によって管理されるものへと変質していきました。
この流れの中で、班田収授法は完全に形骸化し、平安時代の初期にはほとんど行われなくなりました。
かつて「公地」だった場所も次々と荘園に飲み込まれていき、天皇や政府が直接支配できる土地や人民は激減しました。
こうなると、中央集権的な律令国家としての体裁を保つことは不可能です。
土地を守るために武装した人々がやがて「武士」となり、貴族に代わって歴史の表舞台に登場する準備が整っていきます。
班田収授法の崩壊と荘園制の成立は、古代の天皇中心の政治から、中世の武家社会へと日本が移り変わるための、決定的なターニングポイントだったと言えるでしょう。
班田収授法の歴史とポイントをわかりやすく総括
ここまで解説してきた班田収授法の仕組みや、その後の歴史的な流れについて、最後に要点を整理しておきましょう。
この制度は単なる昔の法律というだけでなく、日本がどのように国のかたちを変えていったかを知るための重要な手がかりとなります。
全体の流れを振り返ると、以下のようになります。
- 班田収授法とは、国が国民に農地を貸し与えて税を納めさせる制度のこと
- 当時のお手本は中国(唐)の律令制度で、天皇中心の国づくりを目指した
- 「公地公民」をスローガンに掲げ、土地も人々もすべて国のものと定めた
- 運用の鍵となるのは戸籍で、6年に1度作り直して土地の配分を決めた
- 土地(口分田)をもらえる権利は、6歳以上のすべての男女にあった
- 配られる土地の面積は、身分や性別によって明確な格差があった
- 土地をもらう代償として、稲を納める「租」や特産品を納める「調」などの税を負担した
- 税金だけでなく、都での労役や兵役といった肉体的な負担も重かった
- 重すぎる負担に耐えきれず、土地を捨てて逃亡する農民が急増した
- 人口が増える一方で新しい田んぼが増えず、配る土地が不足するようになった
- 政府は土地を増やすため、期限付きで私有を認める「三世一身の法」を作った
- しかし期限が来ると土地が荒れるため、効果は限定的だった
- 最終的に「墾田永年私財法」を制定し、土地の永久私有を認めることになった
- これにより「公地公民」の原則が崩れ、貴族や寺社の私有地(荘園)が拡大した
- 土地の支配権が国から個人の有力者へと移り、武士が登場するきっかけとなった
このように見ていくと、班田収授法は「理想的な管理システム」として始まりながらも、現実の厳しさや人間の欲望(土地を自分のものにしたいという思い)によって、徐々に形を変えざるを得なかったことがわかります。
この制度の崩壊は、日本が古代から中世という新しい時代へ進むための、避けられないプロセスだったと言えるでしょう。
参考サイト

